九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

土岐氏と千葉氏の接点  富木常忍の父は土岐氏・母は千葉氏であったと仮定する。

2024-01-16 | 小山氏
徳山氏史伝



此の『土岐播磨守胤継』も違うという意見もあり、微妙である。
五郎である、三郎である、、等々も様々である。

富木常忍が生きていた時代の播磨守(wikipediaより)は以下の如くであり、
生きている間になったとすると、かなり短い期間…となりそうであるが、私は播磨守にはなっていなかったと思う。
千葉氏の執事的存在であったはずなので、この説は違うと思う。

  • 下河辺行平:文治元年(1185年) 〜 ?
  • 梶原景時:? 〜 正治2年(1200年)
  • 小山朝政:正治2年(1200年) 〜 建保2年(1214年)頃?
  • 後藤基清:? 建保2年(1214年) 〜 承久3年(1221年)
  • 小山氏:承久3年(1221年) 〜 建治2年(1276年)頃?[注 1]
  • 北条氏家督(得宗):? 建治2年(1276年) 〜 弘安4年(1281年)
姓氏家系大辞典の中にも、土岐氏の條に「下総の土岐氏」として富木常忍が登場している。


土岐氏と因幡国は大きな関係はないのではないかと思う。
関係があったとすると、大江氏・中原氏であろうと思う。

つまり、富木常忍が土岐氏と千葉氏の息であるならば、
蓮忍入道=叔父は元因幡守であった大江氏(含む中原氏)・藤原秀郷流周辺氏・大中臣氏など、あるいは国衙関係者であろうと思う。

後藤基清が承久の乱で幕府側にいた息基綱に処刑され、【安保実員】が播磨守となり、安保氏を経て小山氏にバトンが渡されたそうだ。(栃木県史 通史編3)
安保実員のwikipediaに「承久の乱の恩賞として播磨国の守護に任じられる 。」ともある。

播磨守となった小山朝政
その弟結城朝光の妻が千葉成胤と聖光尼の娘播磨局となる。
(結城朝光が播磨守だったことがあるのではないかと疑問が残る箇所)

さらにその朝光の息である結城朝広の妻が安保実光である。
実光の息が安保実員で、播磨守となるのだ。

播磨守の流れを系図風にすると・・・

小山朝政 ー 後藤基清 ー 安保実員


結城朝光の母は寒河尼(源頼朝の乳母)であり、八田宗綱=中原宗綱である。

氏で見ると、千葉氏・結城氏(小山氏・秀郷流)・中原氏・安保氏(秩父氏)…というつながりである。

安保氏は秩父綱房(元、丹綱房、のちの新里恒房)の次男である安保実光が氏祖でありる。

千葉胤政の母は秩父重弘の娘 だが、
網房は同じ系ではないのか秩父氏のwikipediaの系図には見えなかった。

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日光山 弁覚法師 (memo)

2022-09-05 | 小山氏

 https://www.zuisousha.co.jp/tochigi/zuitnikkore.html

 

また日光は、源頼朝をはじめとする源氏の信仰を早くから得ていることに見られるように、中世において既に、関東における護(まもり)としての位置を築いていたようである。それは、日光山別当が、鎌倉の源氏にとって特別な意味のあった勝長寿院の別当と兼務していた時代が二百年に及んでいたという事実を見ても明らかである。 

 

小山氏と熊野修験…

この熊野修験を取り入れることとなったきっかけは小山氏だったのではないだろうか?

それとも、逆か? 小山氏が日光山に関わった事で熊野との縁ができたのか?

ともかく小山氏は熊野に進出しており、何かしらつながりがあると思う。

 

弁覚法師とは?

https://日光東照宮-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/category/%E6%97%A5%E5%85%89%E5%B1%B1%E5%86%85%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%A9%E3%81%93%E3%82%8D/%E5%9B%9B%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E5%AF%BA-%E4%B8%89%E9%87%8D%E5%A1%94

 

 

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波多野義通の妻の妹 そして中原久経と中原経久

2019-10-23 | 小山氏

本来ならば「宇都宮氏」「中原バラバラ」のカテゴリーだが、今まで「小山氏」のカテゴリーに入れているのでそのまま続ける。

波多野義通の妹が源義朝の妻。

この「妹」には妻の妹も含まれると思う。
宇都宮宗綱の娘でかんがえてみると、何人姉妹かは不明であるが、系図には二人記載があった。
源朝長の母も波多野義通の妻の妹(宇都宮宗綱娘)とすると、

一番上の姉が(この人が波多野義通の妻の可能性ありヵ)、小山田有重に嫁いでいる。(小山田有重の父は秩父重弘・兄弟 畠山重能・千葉常胤室
次の妹は源義朝に嫁ぎ、吉光女と源朝長を産み、その後は中原某氏に嫁いでいるヵ。

下の妹は寒河尼であろう。どなたかに嫁ぎ、後に小山政光の妻となる。結城朝光の母。

二人ではなく、三人以上の姉たちがいたとすると、宇都宮宗綱の娘が源義朝妻であった可能性が出てくる。
寒河尼の7歳の時に源朝長が誕生している。という事は、7・8歳以上年上の姉が二人いたはずと思うのだ。


しかし、その朝長の母が宇都宮氏の娘と限られているわけではなく、波多野義通にも他の妻があり、その波多野の兄弟にも妻がいて、義理の妹という条件に当てはまる女性はたくさんいる可能性も高い。本当の義通の妹もいたかもしれない。

また、義朝は多婚であり、其の外には大江広元の娘も、中原範兼の娘も義朝に嫁いでいて、中原範兼の娘は朝長を産んでいると言われている。
が、松田に住んでいたと言われているために、やはり波多野氏との関係が深いと思う。

さらに想像を膨らませると、その朝長の母が中原範兼の娘であるが波多野氏の養女となっていたのならばなど…と可能性は広がってしまい、わからなくなる。


ただ可能性として、寒河尼が乳母として頼朝を支えていたからには、絶対に裏切らない女性である安心感と接点があったはずである。それが、姉が義朝の妻であったことならば、非常に合点がいくと思う。

下記の著作に関しては、中原久経が1142年の頃40~50歳という年齢の決め方が間違っているのではないだろうか。
確かに「吾妻鑑」に「久經者、故左典厩の御時、殊に功有り。又、文筆に携ると云々。」とあり、義朝の右筆的存在であった。

ここからも全くの想像だが、

源義朝と同じくらいの年代であったか、年下であったような気がする。久経は1124年以降の生まれではないだろうか。

著作の中の、中原氏から中原氏へと養女縁組し、源義朝に嫁ぐ理由はなんであったのか。それとも幼い時分に養女となっていたのであろうか。
格が下の場合は、養女となって格を上げてから結婚する場合もあろうと思うが、この場合は範兼の方が年も上であり?である。

ここは、いったんおいて、進める。

その吉光女の母は、朝長を産み、松田に住んでいたようである。(波多野の姉を頼って住んだのだろうか?)
其の後義朝と朝長(16歳)が亡くなって、中原某に嫁いだのである。

今までの説は、①義朝妻は波多野義通の妹であり、吉光女・朝長の母であったが、中原某に嫁ぎ「中原久経」を産み…
②義朝に嫁いだ女性の養父は中原久経であった。

私がもう一つ追加したい説は、(当たっていないかもしれないが…)
③義朝の妻が、吉光女と朝長を産み、朝長十六歳の時、義朝と朝長が没し、その後「中原久経」に嫁ぎ「経任」を産んだか、養子としてもらった。
吉光女・朝長の義理の兄弟となるのが「中原経任」。その経任の息が「経久」。
つまり、「経久」は義朝の元妻と中原久経の孫である

これも確証はない。
ただ、久経と経久が、時代をつなぐように文書に登場しているからである。
この時代、どこから出てきたのかわからない中原経久が、突然幕府の中心人物たちと肩を並べることはないと思う。
祖父や父の人脈があってこそと思う。とすれば「中原久経」がいてこそだったような気がするのである。

久経は義朝の右筆という事は1156年から1160年に、義朝が院に出入りしていた時に久経と知り合ったのではないだろうか。
1144年あたりは、義朝は鎌倉周辺にいたはずである。なんせ義朝は坂東育ちの「上総曹司」である。
1158年に波多野義通と源義朝の仲が悪くなった際に、波多野義通の妹(吉光女と朝長の母)も松田に移ったのかもしれないし、元からずっと松田にいたのかもしれない。

この松田に関しては後で述べる。

つまり、それまでは中原久経は朝長の母となった女性とは面識がなかった可能性もあるし、1156年から1158年の間に会った可能性もある。
とくに朝長が松田殿と呼ばれていることを考えても、義朝妻は東国にいたと思われるのである。
但し、中原親能の母が波多野氏であったことを考えても、中原氏と波多野氏はつながりはある。
私はこのつながりは江州中原氏と大きく関係しているとみている。

話を戻すと、
義朝と朝長が没し、不憫に思った右筆の久経が救いの手を差し伸べたかとも思う。(③の説の追記)

中原範兼の娘との件も挙がっている。1142年康治元年には左近将監中原範兼となっており、義朝と接点はあったかもしれない。
こちらはこれから調べてみようと思う。

松田に関しては、昨夜論文を読んでいて「中原久経為子」というのが、波多野義通の妹ではなく、波多野有常(波多野義常息=松田氏の祖)にかかっているような印象を受けた。つまり、有常を養子としたのかもしれない可能性がある、とみた。
大庭氏にあずかられていた有常。

大庭と言えば、義朝が大暴れした地である。しかもそれは1144年。朝長が誕生した年である。

室町時代の松田数秀↓ あまり関係ないかもしれないが、松田との接点。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/e360bad5da2dde4b4a7cd6fc8e608161













そして、娘吉光女は日野氏に嫁ぎ、親鸞を産む。につながっていく。(すると九里の日野氏とのつながりも説明がつく。)

「現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進日野有範の長男として誕生する。
母については同時代の一次資料がなく、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。「吉光女」(きっこうにょ)とも」という親鸞の伝承につながる。

この吉光女に関しては「親鸞は源頼朝の甥」に詳しく載っている。

この③の説が合っているとすると、富木常忍は中原久経の曾孫となるかも。
寒河尼の甥が中原経任となる。
其の経任の息が経久。
そして経久の息が富木常忍となる。

以上はあくまでも想像である。

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寒河尼~ 宇都宮氏 小山氏 中原氏そして源義朝とのつながりも!

2019-10-18 | 小山氏

宇都宮氏で小山氏で且つ中原氏…という人物は、と考えると「寒河尼」ではないかと思う。


http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-27.html


宗円(1043-1112)
元々近江国石山寺の座主であった。
前九年の役の時源頼義・源義家に与し、宇都宮に下り宇都宮の二荒山神社で賊徒平定を祈った。
その功により初めて宇都宮社務となり、既存の神主らの上位についた。下野国守護職・下野国一宮別当職・宇都宮座主。

宗円は毛野氏・中原氏と藤原摂関家との間での落胤との説あり。
宇都宮城を築城したとも言われている。

宇都宮宗綱(1083-1159)
父:藤原宗円?藤原兼仲説、藤原顕綱説 母:益子権守紀正隆女
子供:朝綱、八田知家?、寒河尼(小山政光妻)別名:八田宗綱、中原宗綱
宇都宮氏2代当主。血縁関係が不明な部分多い。
宇都宮二荒山神社社務と日光山別当兼務。

宇都宮朝綱(1122-1204)
父:宗綱 母:常陸大掾平棟幹女
子供:成綱
京都で平清盛に仕えた。源頼朝挙兵により、これに従った。
伊賀国壬生郷地頭。3代当主
頼朝の御家人となり、宇都宮検校と称し、日光二荒山神社の別当も兼帯した。
1189年奥州藤原氏討伐参加。その後公田横領の罪により土佐に流罪。


寒河尼(1138-1228)
源頼朝の乳母。
小山政光妻:子供:小山朝政・結城朝光(鎌倉幕府の重要人物)

この寒河尼は「後室で三男・朝光の母である。」と説明書きにあった。
という事は、政光に嫁ぐ以前にどなたかと結婚し、その後で政光と結婚したという意味なのか、
政光に妻がおり、亡くなった後に入ったという意味なのか。

コトバンクによると「身分のある人の未亡人のこと。」とあるので、
やはり寒河尼は未亡人であって、その後に政光に嫁いできた女性と思う。

「義雲禅師研究」鏡島元隆著 他に以下のような記述を見ることができた。
伊自良氏、稲津重由の父波多野忠綱の母は、宇都宮宗綱の女

つまりは、波多野義通の妻=宇都宮宗綱の娘なのである。

この忠綱は忠経ともいわれているそうで、波多野義通の息となる。
その義通の妹の一人は、義朝の側室であったと言われている。

源朝長をもうけた女性の養父が中原久経という説もあるが、 しかし、波多野義通の妹の方が年代が合っているように思える。
平家が滅亡する直前の元暦2年(1185年)2月には頼朝の代官として中原久経と近藤国平が上洛し、混乱に乗じて非法狼藉を働く畿内近国の武士の平定にあたったほか、鎮西にも下向し同様の任務に就いた。

このようなスピードが大切な任務、しかも長距離の移動を要する任務に85歳周辺の者を補任することはないのではないだろうか。(同じくらいのお年の方がいらしたら、ごめんなさい!)重源もいるにはいるが。。。
せいぜい健康な40歳代くらいまでと思うが、上記の養父説では85歳周辺の久経という事になってしまう。

因みに国平は詳細は分からないが、大友能直(1172年生まれ)の従兄弟という事なので、そこから前に20年位までとして、
つまり1152年~1162年位に生まれた国平ではないだろうか。
つまり1185年には20歳代~30歳代ではなかろうか。

源義朝1123年生まれ。寒河尼1138年生まれ。中原親能が1143年生まれ。源朝長1143年生まれ。源頼朝1147年生まれ。


鍵はココにある様なのだ。

忠綱は義通の息。
忠綱の母=義通の妻=宇都宮宗綱の娘
但し、宇都宮宗綱の娘が何人いたのか、系図では宗綱の妹に寒河尼となっている物もある。





義朝の息に八田知家(1142年)となっている系図もある。



源頼朝12歳の時に、母の由良御前が没した(1159年)。その後、義朝もすぐに没した(1160年)。
その後の頼朝を支えた女性であった可能性が大である寒河尼。京にいたというので、近い存在であったと思う。
寒河尼22歳。

突然、母や父を失った子どもたちが近くにいたのだから、誰かがサポートをしていたと思う。
それが寒河尼やその姉妹であった可能性があると思う。

寒河尼は1168年に結城朝光が生まれているので、それ以前に東国へやって来た事は確かである。中原親能に勧められて…と書いている本もあった。中原親能の母親は波多野経家の娘であり、義通と経家は兄弟である。

1160年3月に頼朝は伊豆へ配流。
12歳の頼朝が一人で伊豆へ行くとなると、ついて行ってお世話をすることになったとしても、自然な流れのようにも思える。

そのあたりに鍵があるのだと思う。

さらに、1168年に典膳大夫となっていた中原久経の母は、波多野義通の妹という。
久経の母は、吉光女(1142年あたり生)の母でもある。そして吉光女は親鸞の母ではないかといわれている女性である。

何方になるのだろうか。妹か義妹。
義理の妹も含めると、以下の兄弟の妻も入るのではないだろうか。



さて、八田局も宇都宮氏に関係している。

web情報によると
「母八田局を小野成任の女とする。
はじめ近衛院に仕え兵衛局と称し、後八田局と改称したとする。」とある。

近衛院、確か寒河尼は近衛天皇に仕えていた女房であった。

「中条家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだ女性で、頼朝の乳母の一人としても知られる近衛局であった。
家長は父成尋が僧であったことから八田知家の猶子となった。」
中条家長1156年生まれ。

八田局が知家の母とし、近衛局であったとすれば、寒河尼の母親もまたこの八田局だったのではないかと思われる。
寒河尼もまた近衛院に出入りをしていたのである。
八田局が娘を連れて仕事に(近衛院)行ったためではないだろうか。

宇都宮知家と源頼朝はともに伊豆で八田局のもとで育ち、寒河尼が姉のような母のような役割を担っていたのではないだろうか。


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小山荘

2019-09-14 | 小山氏

小山荘(中世)web Logos より

鎌倉期~戦国期に見える荘園名都賀郡のうち思川流域に立地する小山荘は,古代の小山郷を中心にその北側一帯,南は寒川郡のうち真木郷・奴宜郷にあたる地域から成り立っていた。

このうち,寒川郡の奴宜郷など思川東岸の部分は寒河御厨として発足したが,鎌倉中期には小山氏相伝所領である小山郷と一体化して,寒河御厨は小山荘と称された。
すなわち,これは御厨と荘園が複合したもので,足利荘と簗田御厨の場合と類似している。

小山荘は中央を思川が南北に貫流し,その流域やその他の水系の流域に発達した多くの郷村を含む下野国内でも有数の肥沃地帯を占めている。
東は結城領と,西は中世の寒川郡と境を接し,下野国衙の在庁官人から成長した小山氏の経済的基盤であった寛喜2年2月20日に小山朝政が孫の長村に譲渡した所領の最初に「権大介軄 寒河御厨〈号小山庄,重代屋敷也〉」と見える(小山文書/県史中世1)。

寒河御厨は,平安末期に寒川郡のうち奴宜郷など思川東岸の部分が後白河院に寄進され,さらに長日御幣を供進するため永万2年伊勢神宮の内宮・外宮に院庁下文によって寄進され成立した(神宮文庫所蔵文書/県史中世4)。

南北朝期の延文5年に成立したといわれる荒木田氏経本「神凰鈔」には具体的に,180町の水田分として御幣紙360帖を納め,鎌倉中期の建暦3年に院庁下文により「一向(一円)神領」となったと記されている(群書1)。
おそらくこの時期が,寒河御厨と小山荘が完全に一体化し,御厨の部分が小山荘の部分に拡大,均質化していった時期であろう。
それぞれ別に出発した寒河御厨と小山荘が,この時期には混然一体のものとなり,伊勢神宮への上分物が全体の郷に割り当てられる仕組となっていたのであろう。

一方,小山氏は下野国権大介という在地国司の最高位者として国務を執行していた。
小山氏は下野国司の職を先祖の藤成以来,小山長村(朝政の孫)まで16代,下野国の検断権(押領使)は,豊沢から始め,藤原秀郷からでも小山朝政まで13代相伝してきたと豪語している(吾妻鏡)くらい,下野の国衙機構と密着して在地に根をおろしてきた

国衙の縁辺にも所領を持ち,また東に位置し,小山荘の中心となる広域の小山郷は小山氏が国司として与えられた所領であったと思われる。

小山氏は小山郷を基盤として寒川郡の東半部に開発などを行い勢力を浸透させ,この地を院に寄進し寒河荘としたさらに院の寄進によって寒河荘は寒川御厨に転化していった。
そして,鎌倉中期に寒河御厨の部分が小山荘の部分に拡大することによって,小山荘全体が伊勢神領化していった小山荘を構成する。

郷村名は,建武4年7月9日の茂木知政軍忠状に,「小山庄内乙妻・真々田両郷」(茂木文書/県史中世2),元中7年11月28日の鎌倉公方足利基氏御判御教書に「小山庄小薬郷」(皆川文書/県史中世1),応永12年12月27日の彦八願文に,「小山庄嶋田郷・来本郷」(米良文書/県史中世4),文明9年8月20日の法華経奥書に「小山庄村崎」(下野古文書集解/大日料8-10),明応3年4月11日の小山成長安堵状に,「小山庄野田郷」(青木文書/県史中世1)などが見える。

下って,戦国期の天文5年に作成された伊勢役銭算用状(佐八文書/県史中世3)によると,寒河御厨(小山荘)の村々は,上郷分北部・下郷分・上郷分南部に三分されている上郷分北部は思川の両岸で,北は老沼・紫,東は鉢形・萱橋,南は立木,西は福富・卒島などの範囲で,小山(祇園)城の北側の部分である下郷分は西岸に萩島・塩沢・上間中・下間中などあるが,ほとんどは東岸地域で,小山城の南に位置し,東は中久喜・横倉,南は間々田・野田に至る中心に鷲城や安房神社,小山氏のものと推定され,神鳥谷の「曲輪」といわれる約2町4方の巨大館跡がある。おそらくこの上郷分北部と下郷分は,旧来の小山郷の部分と想定される。
これに対して上郷分南部は,寒川郡の御厨となった部分と考えられ,すべて思川の東岸地域で,北は乙女,南は野木・上大堤・下大堤,東は武井にわたる。
なぜこの地域が上郷分とされているか不明だが,何らかの支配関係の歴史的経過によるものと思われる。

寒河御厨・小山荘は,南北朝末期の小山義政の乱により一時的滅亡はあったが,鎌倉期~戦国期までの中世を通じて小山氏の根本所領としてその政治的・経済的な基盤となった思川の河岸段丘上には,北から祇園城・長沼城・鷲城の城郭群,東の中久喜城などが築かれている現在の小山市・国分寺町・野木町のほぼ全域に比定される。


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紀州に赴いた小山氏とその系図(1)

2019-06-30 | 小山氏

紀州小山氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ks_koyam.html

自分が書いた記事で申し訳ないが、以下とつながってくる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%BD%AE%E5%B4%8E

やはり、加地氏とのつながりである。
加地貞綱で、佐々木加地氏綱―景綱―貞綱―宗綱のこの貞綱である。

さらに、頼んであった「紀州小山家文書」をパラパラとみていると「亀井六郎重清」の名前が。


以下は蛇足だが、

千葉氏と小山氏と婚姻関係があった者がいたような気がする、と思って調べると
【千葉尼聖光】とその娘【播磨局了阿】に出会った。

千葉胤正の息成胤の妻【千葉尼聖光】は、小山政光の息である【結城朝光】の妻となった【播磨局了阿】の母親であったのだそうだ。
↓は千葉介成胤のページより 
http://chibasi.net/souke10.htm

『結城系図』には、結城朝光の子、寒河時光・山川重光の母親は「千葉介業胤女」とあり、さらに東持寺に伝わる山川結城氏の系譜によれば「長山尼 蓮妙」の次に「千葉尼 聖光」なる人物が書かれている。そして、その聖光の娘に「了阿」という人物がおり、了阿は別の系譜によれば「播磨尼 了阿」とされ、結城朝光の妻になり重光を生んだ。つまり、千葉尼聖光は千葉介業胤(成胤)の妻で播磨尼了阿の母であることがわかる。





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