紫色が「多賀家物語」の本からいただいた文である。
中原成行の兄弟経行の系が九里氏につながる。成行の方が長野氏・多賀氏につながっている。
1028年 中原成行は平直方、次いで源頼信に従って出陣
一方、敵であった平忠常は…
長元4年(1031年)春に平忠常は出家して常安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。
中原成行も同じく源頼信の家人であったそうである。
平忠常の息常将の妻は「天女」と言われており、江州中原氏の女である可能性も高いとみている。
天女伝説は近江国の余呉にもあり、千葉(上総・下総?)にもあるためである。
源頼信の母が、藤原南家の元方の娘か、その息の藤原致忠の娘と言われている。
その藤原家は黒麻呂の直系である。
其の黒麻呂がいた場所が「藻原」である。
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万寿元年(1024年)平常長(常将と中原女との息)は
前九年の役・後三年の役で源頼義・義家父子に従って戦功を立てたとされる。戦後は上総国大椎に館を構え、さらに下総国千葉郷に進出して千葉大夫と号したとされる。
江州中原仲行、源頼義・義家に従って従軍している。
さらに、1156年保元の乱では、千葉介周辺の動きはわからないが、佐々木秀義方についていた多賀景定は敗れて蟄居している。
其の蟄居先が佐々木秀義と共に「東国」であったとも考えられるのではないか。
員弁郡周辺への蟄居は承久の乱あたりかもしれない。
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1242年 佐々木家の分裂 六角・京極
長野家は京極に属す。とある。
その時には江州中原経行の系からは「九里」が出ていて、六角についたことがわかっている。
和歌山の九里系図には六角氏頼に仕えていることが書かれており、京極の名は和歌山系図にはなかった。
しかし、京極にも九里がいた可能性はゼロではなく、その後の様子を見ると、居た可能性の方が大きい。
(和歌山の系図には「小堀氏」の名の記載もある。)
それは、京極・六角に分かれたその時に九里も分かれたのではなかったのかもしれない。
しばらくしてから、であったかもしれないと思う。
私は京極の中にも九里がいて、その九里が近江水茎城でのことで「九里」を名乗ることを嫌がり、「久徳」と名を変えたのではないかと思っているのだが、どなたか詳しい方がいらしたらご教示いただきたい。
それとも「久徳氏」はもっと以前から其の名前を名乗っていたのだろうか?