九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

多賀家物語の中 の 気になる点 (1)改訂

2020-04-22 | 多賀氏

紫色が「多賀家物語」の本からいただいた文である。

中原成行の兄弟経行の系が九里氏につながる。成行の方が長野氏・多賀氏につながっている。

1028年 中原成行は平直方、次いで源頼信に従って出陣

一方、敵であった平忠常は…
長元4年(1031年)春に平忠常は出家して常安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。

中原成行も同じく源頼信の家人であったそうである。

平忠常の息常将の妻は「天女」と言われており、江州中原氏の女である可能性も高いとみている。
天女伝説は近江国の余呉にもあり、千葉(上総・下総?)にもあるためである。

源頼信の母が、藤原南家の元方の娘か、その息の藤原致忠の娘と言われている。
その藤原家は黒麻呂の直系である。

其の黒麻呂がいた場所が「藻原」である。

===*===

万寿元年(1024年)平常長(常将と中原女との息)は
前九年の役・後三年の役で源頼義・義家父子に従って戦功を立てたとされる。戦後は上総国大椎に館を構え、さらに下総国千葉郷に進出して千葉大夫と号したとされる。

江州中原仲行、源頼義・義家に従って従軍している。

さらに、1156年保元の乱では、千葉介周辺の動きはわからないが、佐々木秀義方についていた多賀景定は敗れて蟄居している。
其の蟄居先が佐々木秀義と共に「東国」であったとも考えられるのではないか。
員弁郡周辺への蟄居は承久の乱あたりかもしれない。

===*===

1242年 佐々木家の分裂 六角・京極
長野家は京極に属す。
とある。

その時には江州中原経行の系からは「九里」が出ていて、六角についたことがわかっている。
和歌山の九里系図には六角氏頼に仕えていることが書かれており、京極の名は和歌山系図にはなかった。

しかし、京極にも九里がいた可能性はゼロではなく、その後の様子を見ると、居た可能性の方が大きい。
(和歌山の系図には「小堀氏」の名の記載もある。)

それは、京極・六角に分かれたその時に九里も分かれたのではなかったのかもしれない。
しばらくしてから、であったかもしれないと思う。

私は京極の中にも九里がいて、その九里が近江水茎城でのことで「九里」を名乗ることを嫌がり、「久徳」と名を変えたのではないかと思っているのだが、どなたか詳しい方がいらしたらご教示いただきたい。

それとも「久徳氏」はもっと以前から其の名前を名乗っていたのだろうか?










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多賀氏の前は「長野氏」という。長野氏?

2020-04-19 | 多賀氏

長野氏、藤原南家から出た長野氏もアヤシイが、その他にも「長野氏」は存在している。

建武三年から五年にかけての『足利尊氏感状写』などに、長野助豊の名がみえる。この助豊は建武五年の軍忠状には豊前国長野左衛門三郎助豊と自称し、別の軍忠状には中原助豊と署名している。これらのことから長野助豊は、治承五年(1181)に長野荘の地頭として現われる中原助光の子孫と思われる。そして、助豊は豊前守護少弐頼尚にしたがって各地を転戦したことが知られる。

 一方、桓武平氏という長野氏は『長野系図』によれば、豊前守基盛の弟三郎義広が多々良浜の合戦において尊氏軍に属して戦死している。ついで基盛の子秀盛と孫久盛が、尊氏に味方して九州の所々において戦功があったと記されている。

南北朝時代のはじめにおいて、清原氏系、中原氏系、桓武平氏系の三つの長野氏があらわれるが、いずれも長野荘ないし規矩郡の武士たちである。これらの長野氏をどう整理し、いかに説明するか、『北九州市』では「大変な難問で回答に苦しむ」ところであると記されている。まことにその通りで、長野氏の解明には多くの障壁が横たわっているのである。

===*===

以前書いた記事に「中原助光」がいる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ebae03e428e9f24f21121ad970af79a8

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/0f4c6db8fdf39c45c1eb84e64ec71fda

豊前国  企救郡  長野庄は宇佐八幡領でもある。

この長野氏が一番アヤシイのではないだろうか?

平貞盛からはじまる系図の平清盛の従兄弟に当たる「平康盛」という人物、コトバンクによると、
「?-1191 平安後期-鎌倉時代の武士。
源義経の娘婿源有綱の家人(けにん)。頼朝と義経の対立の際に頼朝の命で有綱を殺した北条時定を討とうとしたが,梶原景時に捕らえられ,建久2年12月6日処刑された。」という源義経・源有綱と関係がある人物だったのである。







https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063482.pdf
この長野氏系図の漢文の意味は、「元暦2(1185)年、長野長盛とその弟たち3人は、源氏に降参けいずした。しかし、頼朝は、この3人を許そうとはしなかった。そこで、源範頼が、何度も許してあげるよう、頼朝にお願いしたので、長盛が42歳の時に、規矩郡の地頭職になることができた。」

===*===
武家家伝 豊前長野氏



系図の名前を見ても、知らない名前ばかりなので単なる妄想に過ぎないかもしれない。
宇佐八幡宮と石清水八幡宮の関係、源義経と有綱の娘のこと(乾氏)、系図の中に藻原七郎義通と藻原が付いている事、

富来氏が国東半島にいた事とも符合する。

単なる、偶然なのだろうか?
私は、九里から全く離れてしまっているのだろうか??
自分でも全く分からないままの状態である。

この長野氏が中原氏でもあった事。
平康盛が源有綱の家人であった事、は確かなので、ココから繙いていくことができるのではないだろうか?

長野=中原=多賀・九里・富木(冨城・富来)

さらに斎藤氏が絡んできて、清原・野本・大中臣とつながってくるのではないか。

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大和国宇陀の秋山城 多賀(堀)秀種

2020-04-18 | 多賀氏

多賀氏、その後(武家家伝 多賀氏より)

 高忠ののち、多賀氏は高家、高房と続き、高房は京極政経・材宗父子に仕え在京していたことが『蔭涼軒日録』の文明十八年(1486)七月の条にみえる。そして、嶋記録から高房のあとは豊後守貞隆(貞澄)が継ぎ、ついで貞能へと続いた。しかし、その間の多賀氏の動向はようとして分からない。

 十六世紀の半ばになると、尾張から興った織田信長がにわかに勢力を拡大した。永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて上洛軍を発した信長は、江南の戦国大名六角氏に協力を求めた、しかし、六角氏はこれを拒絶したため、信長軍の攻撃にさらされ没落した。六角氏の麾下にあった蒲生氏ら多くの武士は信長に属するようになり、多賀氏も信長に仕えたようだ。そして、貞澄の子貞能は明智光秀ついで豊臣秀吉に仕えたという。
 男子のなかった貞能は堀秀政の弟秀家(秀種)を養子に迎え、秀家は出雲守を称して兄秀政に仕えた。しかし、天正十八年(1590)の小田原陣において秀政が陣没、秀家は大和大納言豊臣秀長に仕えた。ところが、秀長も病没したことで豊臣秀吉に直仕し、文禄元年(1592)、大和国宇陀郡において二万石を与えられ秋山城に入った
 かくして、多賀氏は秀吉政権下の大名に出世したが、慶長五年(1600)に起こった関ヶ原の合戦に際して石田三成方に味方したことで没落の運命となる。合戦に際して秀家は旧主筋にあたる京極高次が籠る大津城攻めに加わり、戦後、所領を没収され越後国に追放処分となったのであった。かくして、多賀氏は歴史の荒波に呑み込まれてしまった。江戸時代、徳川家旗本に中原氏流を称する多賀氏が見えるが、中世を生きた多賀氏との系譜関係は不明である。

===*===

太字は私が重要と思い、変えたものである。
この堀秀家=多賀秀種が大和国宇陀郡に赴き、城を改築した。

2016年の古い自分の記事で恐縮だが、ココとつながってくる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/19a3da4c0b885d848b4d3e368ff4a19b

九里政直は、私の先祖の宇陀松山藩の初代で、始めは岡田政直と岡田を名乗っていた。
(宇陀崩れ後は丹波国柏原藩に移封)

この下の資料、面白い!! 史跡宇陀松山城跡出土 資料展 宇陀市教育委員会
https://www.city.uda.nara.jp/kankou/rekishi/shiryoukan/documents/kimenhyakusou-panf.pdf

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多賀氏は多賀郷地頭職の野本氏の代官?(2)

2020-04-18 | 多賀氏

多賀郷というからには、地頭職も多賀氏となっていても良さそうなのだが、野本氏である。
どこかで、多賀氏が弱体化したのだろうか?

1300年に野本氏は忽然と姿を消したと言われている。しかも津波の為。(金沢文庫周辺に住んでいたようで‥)
そのため、急遽多賀氏が地頭職代官となって務めたのかもしれない、とも思う。
(まだ多賀を名乗っていなかった??)

===*===

自分の記事で恐縮だが、総合出版社「暦研」のブックレットより
「多賀家物語 わが家系 千四百年の旅」を表にしたものを載せてある。
其の一番下に、
多賀氏の祖秀貞 後醍醐天皇方に属し、犬上郡多賀庄を加増、これより多賀姓、とある。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ad03d58a8e1412a3b58252ae998c2d38

下記の記事と合わせると、多賀氏が二つに分裂したのでは、と思う。
御醍醐天皇方と足利尊氏方に分かれてしまったのではないだろうか?

そして、それが上司であった「千葉貞胤」と「千葉胤貞」が分かれたことによるものなのかもしれない。

富木氏とも共通する部分があると思われるので、少々富木氏に触れてから先に進む。

両者とも江州中原から出ている。
そして周辺事情が、今まで調べてきた事と符合する。

富木常忍は因幡国から下総国にやって来て「千葉頼胤」の執事役となる。
八幡庄の中の私領で日蓮を匿い、その場所で説法してもらう事となる。

頼胤の孫が胤貞で、その妻は、常忍と共に日蓮を支援していた曾谷教信の娘である。胤貞は肥前国小城郡で生まれ、下総国千田庄・八幡庄に常住していた。


一方、貞胤は頼胤の二男の系で、曽谷教信の姪を妻としている。
この胤貞と貞胤は、戦うことになってしまっている。

wikipediaの千葉貞胤より
北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を受けて貞胤と名乗る。

正和元年(1312年)、家督を継いで当主となり、伊賀や下総の守護職を継承した。元弘元年/元徳3年(1331年)9月、後醍醐天皇挙兵討伐のため在京元弘の乱では鎌倉幕府方の北条貞直軍に属して楠木正成が守る河内下赤坂城攻めで功を挙げたが、元弘3年/正慶2年(1333年)新田義貞が幕府に反旗を翻して鎌倉を攻めると義貞に与し、武蔵国鶴見川付近で鎌倉街道下道を北上する北条貞将(貞胤の従弟にあたる)を破った

建武政権成立後は宮方につき、北朝方についた嫡流の従兄・胤貞と千葉氏の家督を争った。建武2年(1335年)には胤貞と相馬親胤に本拠の千葉荘を攻められるが、胤貞と親胤は同年11月足利尊氏の檄文に拠って上洛したため、下総での戦いは貞胤有利となり胤貞の本拠千田荘の土橋城を攻め落とす

その後も貞胤は新田義貞の軍に属し足利軍と戦うが、建武3年(1336年)1月16日には丹波国志賀郷にて嫡男の一胤を足利軍の細川定禅に討ち取られる。さらに、義貞軍は一時は足利軍を九州に追いやるものの、再起を果たし反撃した足利軍に攻め込まれ貞胤も恒良親王を擁しての北国落ちに従う

そして、延元元年/建武3年(1336年)10月に吹雪の越前国木芽峠で義貞軍とはぐれて道に迷い、やむなく足利方(斯波高経)に降伏した。だが、その直後11月19日に従兄の胤貞が急死したため貞胤は北朝方に寝返って下総守護を安堵された。その後は北朝方につき京と下総を往復するが、上洛していた正平3年/貞和4年(1348年)8月には、四條畷で楠木正成・楠木正行と戦い戦功を挙げた。

正平6年/観応2年(1351年)1月1日、61歳で京にて死去。次男の氏胤が家督を継いだ。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E6%B0%8F

===*===

こんなに目まぐるしく変わると、どちらが味方で、どちらが敵かわからなくなりそうであるが、貞胤は見事生き抜く。

===*===

富木氏は頼胤・宗胤・胤貞の方である。

多賀氏は…両者に分かれて付き、一方が上総系多賀氏となり、一方が犬上郡の多賀氏となったように思える。

まだよくは調べていない、が、、、
大きな意味で、中原の分裂でもあり、佐々木氏が京極・六角に分かれた時期もこの辺りだったのではないだろうか?

佐々木六角氏頼についた中原秀方。
佐々木京極道誉についた中原秀貞。(長野秀定、多賀孫三郎)

其の中原(長野)秀貞が多賀庄を加増され、犬上郡の多賀氏と成長したように思う。

一方中原秀方は、佐々木氏頼と共に高野山に行ったのかもしれない。
中原秀方の方は、それよりも4代前に「九里の祖」経久がいる。

秀方、住熊野と系図にある。高野山ではなかったが、きっかけは随行して行って…だったのかもしれない。この系が和歌山の九里系図に出てくるのだと思う。



この系図の中の景経の系が前回の浅井氏とつながる「井口氏」となる。

参考となったページ

http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu04.htm



http://www2.harimaya.com/sengoku/html/taga_k.html





近江国御家人井口中原系図より






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多賀氏は多賀郷地頭職の野本氏の代官? (1)改訂

2020-04-16 | 多賀氏

多賀氏
千葉一族【た】より
http://chibasi.net/ichizoku6.htm

 千葉一族か。名字地は下総国神崎庄多賀郷(成田市高岡?)。おそらく神崎千葉氏の一族であろうと思われる。

 鎌倉時代末期には、多賀氏は多賀郷地頭職であった野本氏の代官となっていたようである。

建武4(1337)年、野本朝行(能登四郎)は足利尊氏に味方し、後醍醐天皇方の「千葉下総守(千葉介貞胤)一族等」が神崎庄多賀郷に攻め入ったとき、
「千葉余三清胤、朝行代官等」が足利方として連日合戦して功績を挙げた。ここに見える「千葉余三清胤」もおそらく神崎千葉氏の一族であろうと思われるが、系譜などが伝わらないため、不明である。

 また、多賀郷代官である「多賀七郎行胤、小栗左衛門次郎重高、多賀七郎三郎」らは尊氏党である「千葉大隈守(千田胤貞のこと)」の留守を守るため、千田庄多古の大嶋城に入っていたようである(『熊谷家文書』「野本朝行子息鶴寿丸軍忠状」)。

===*===

「余三」は「余呉の三男」の「余」なのではないだろうか?
しかも「多賀郷地頭職であった野本氏の代官」とある。野本氏は斎藤氏と思っていたが、、、神崎千葉氏でもあるのだろうか?
しかも「清」も付いているところを見ると、清原氏とも関係があるのかもしれない。

===*===

多賀という地名がどこにあるのか?
下総国に「多賀」は見つからず「神崎」は見つかった。
海上郡 香取の近くであった。(千葉氏の中の海上氏に地図あり)
http://chibasi.net/unakami2.htm
片岡氏がいた場所かもしれない。
近くに川瀬という地名もあり、多賀氏の流れの「河瀬氏」につながるか?

===*===

近江国犬上郡の多賀神社の他に、(もとは神崎郡だったのか?)

近江八幡の中にも多賀はある。 





===?===

下総国神崎庄の多賀郷
近江国犬上郡の多賀神社

そしてどちらにも河瀬(川瀬)氏

近江国の神崎郡と犬上郡の間は「愛智郡」だが、多賀氏の祖の直系の中原成任が住んでいた所である。




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多賀氏 と 九里氏・小堀氏・後藤庄三郎 そして 明智光秀?

2020-02-15 | 多賀氏

近江国六角氏の家臣に後藤氏がいて、九里氏は直接ではないが誅殺されているのだが、その後藤氏とはまた別の「後藤庄三郎」。
この人物は大江親広の末裔とあったが【大江能範】の末裔なのではないだろうか?
とすれば、基綱ー基政の裔となる。母方なので、大江は名乗っていないが裔である。

しかし一方で、長井氏という。この長井氏が祖父という。
この長井というのが、松波庄五郎(別名:斎藤道三の父 長井新左衛門尉)という。
この庄五郎には別に、峰丸、法蓮房、松波庄五郎、西村勘九郎、長井新左衛門尉、松波庄九郎、山崎屋、西村正利…という名前がある。
もう一方で、たしか後藤氏には斎藤氏とのつながりがあった。

この斎藤利治(道三の末子)が後藤庄三郎の父というのである。

後藤庄三郎は小堀氏とも懇意である。
この小判を作った男と言われる「後藤庄三郎」がいて、両替商の九里庄三郎につながるとすれば、面白いなぁ・・・と思う。
でも、後藤氏を名乗った形跡は、九里氏にはない。
後藤氏からの娘も入ってきてはいないようである。
但し、初期の中原氏時代には後藤氏とは関係がある!と思っているこの頃である。



http://3-gin.net/d-mituhide-kouza05.html


そのあたりをすぐ上のアドレスの明智光秀が佐目に住んでいたこと等の記事をからめて読むとめちゃくちゃ面白い!!

多賀氏のお膝元にいて、もちろん久徳氏(きゅうとく)もいて、きっと九里も隠れて混じっていて…である。
この関連記事を読めば読むほど、そのように思え、しかも深尾氏の隠れていた「いなべ」とも近いので、なおさら親近感が。

京極高次も明智光秀を応援していたようなので、更に! 
京極高次の分限帳には「九里次郎左衛門」が載っているのである。



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多賀氏の系図の中の「片岡常春」そして 千葉氏と片岡氏・原氏

2019-12-30 | 多賀氏

片岡常春の四代孫が多賀豊後守高忠というのはありえないが、(常春と経春が別人の場合はあり得る?)ひょっとすると片岡氏の系が繋がって多賀氏に至るとすると、それは江州中原につながっていることになる。

千葉氏の中のどこから「片岡氏」が出て、どこから「原氏」が出てきたのかを調べてみよう。

http://chibasi.net/hara.htm#harakeizu

平常長より(常長の妻は、中原氏女と言われている)

海上常衡(実常兼子) 与一 下総国海上郡 海上郡

鴨根常房 三郎 上総国夷隅郡鴨根村 いすみ市岬町鴨根
原 常宗 四郎 下総国香取郡原郷 香取郡多古町染井


海上氏の「実常兼子」という意味は、「常兼」=常長の息である。
千葉氏のHPによれば、http://chibasi.net/unakami1.htm

『常衡は、常兼の長男であったと思われる。しかし、常兼の長男でありながら、祖父・千葉大夫常長の十一男に擬されており(実常兼子)、父・常兼亡き後、いまだ生存していた祖父常長の養子とされ、常兼に次いで下総権介を継承した可能性があろう。また、「与一平」ともあることから、兵衛尉任官の経歴もうかがえる。』とある。

『その海上常衡の孫に「片岡常晴」がおり、その妻は佐竹忠義娘とされ、
これを理由に常晴は源頼朝に佐竹氏への内通を疑われ、常衡流海上氏は所領を没収された。』
・・・となる。

この常晴=片岡常春
さらに弟の片岡弘経=為春
為春の息と思われる「経久」北条泰時の時代である。

1224年以降の事と思われるが、泰時に召されて一万石を賜わっている。
83歳まで生き、1257年に没している経久。(1174-1257年)


そして、ずっと時代は進み、江戸寛政時代に岡田元繁(茂)が先祖の系図を見るために「宗徳寺」を訪れ、「中原氏の一族 岡田元繁」と記載が残っているのである。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bc7e5f204e67ed115779e33fba15f855

さらにだが、柏原藩の九里政直が始めは「岡田」を名乗り、後に改九里とあり、九里を名乗ることとなっているのも、この辺りとリンクしているようにも思えてならない。

始まりは平常長の妻が中原氏の娘であったこと。
つぎに片岡経久が海上氏であったが、領地は没収されたこと。
想像だが、片岡氏は原氏と合流したのではないだろうか?

さて、今度はその原氏だが、尾張国からやってきた「原高成」や「原高春」との関係はなかったのだろうか?

経久=蓮忍入道が地頭となって因幡国に居住していた場所「冨城郷(富木・富来)」のすぐそばにある「岡益の石碑」や「安徳天皇陵」「平家の落人の墓」を守っていたようにも思えてならない。

そうすると「平貞能」とつながり、浪合記の「大橋家伝」とつながり、「原高春」「平忠度」とつながってくるのである。

平貞能は平胤正の時代と重なるようである。
そして、片岡為春の時代ともなると思う。

===*===

中原経久の父が橘次となったのも、原高春の良峯姓と関係があるのではないだろうか?と思ってしまうのだ。(椋橋ー良峯ー橘

さらに千葉氏の中にも橘姓がいたという情報もある。

富木常忍の母は、千葉氏であったというweb情報が、実は千葉氏の一族「原氏」の事であるかもしれない。

しかし、経任が「経春(常春)」だったのだろうか?
早くに亡くなって、片岡家の養子となったのであろうか?

もともと片岡家は私の考えでは「近江国湖北の片岡」なのだが、系図のように大和国から下総国に行ったのだろうか?
わからないことだらけである。(ココで今年は終了してしまうのだが…こんな中途半端で…)


今年も一年、こんなに拙い「九里を探して…」にお付き合いいただき、
また
お読みいただきましてありがとうございます。

感謝いたします!!

皆様、どうぞ良い新年をお迎えください~~**


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久徳氏 江州中原氏の出であるようだ。

2019-11-06 | 多賀氏

多賀氏は江州中原氏から出ている。
久徳氏もそうであることが書かれていた。



本には、加賀藩前田氏の妻として何人もの女性が嫁いでいた。
これも、九里氏との縁を感じさせる。








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本阿弥妙秀尼  ほんあみ-みょうしゅうに

2018-09-16 | 多賀氏

多賀大社を書いた後に、たまたま図書館から借りてきていた「小堀遠州茶友録」に本阿弥光悦のことがでていた。熊倉功夫 中公文庫
私は芸術一般が好きなので、この本もとても好き!

その中でも光悦の母「妙秀尼」のエピソードが面白かった。まずはコトバンクで妙秀尼のことを。

1529-1618 戦国-江戸時代前期,本阿弥光悦の母。
享禄(きょうろく)2年生まれ。本阿弥光心の娘で,片岡家から光二を婿にむかえ,光悦ら2男2女を生む。才知にあふれ,名家をよくおさめた。その逸話は本阿弥家の家記「本阿弥行状記」にしるされている。元和(げんな)4年死去。90歳。京都出身。

この光二が多賀高忠の孫にあたると思う。
以下の系図の箇所は以前書いたものであるが、
「本阿弥光悦は多賀高忠の曾孫で、多賀高忠―次男宗春(片岡次大夫)―次男本阿弥光二(光心養子)―長男本阿弥光悦 となるようです。」

母妙秀尼の思い出(光悦の書いたもの)
『人殺しをした男が血刀をさげたまま捕手の者に追われて妙秀の家に逃げ込んだ。男は妙秀を人質にとろうとしたが、妙秀はこちらへと男を案内して納戸へ隠す。そこへ捕手がきて妙秀に尋ねると、妙秀は裏の方へ逃げていったようだと顔色一つ変えずに答えたものだから、捕手はすっかり信用して近所を探して空しく帰ってしまった。夜になって妙秀は男に新しいかたびらを着せ替え、編笠と旅金を与えて、そっと逃がしてやった。妙秀は、人の善悪に関わらず、困っている者を助けなければならないと教えたのである。」
また、こんなことも妙秀は教えた。
「親子、兄弟近くに住居する事は宜しからぬこと也。遠きは花の香といふ。又住居近ければ、下々度々来り、飽きことをいはず。又若火事にあふ事ありとも、兄弟の家あれば其の方へ立ち退て、差かかりて事にかかず。」

(熊倉氏の文↓)
なるほど、現代でも生かせる教訓である。遠くにいれば懐かしくなる。遠きの花の香であろう。近くの親戚ではもし火事が大きくて延焼してしまったのでは、双方が困る。一方が災難をこうむっても一方は助かるような距離が必要である。これは単なる火事のことばかりではなかった。戦国乱世に生きる町衆の智恵である。

~~~*~~~

肝っ玉が据わっていて賢い。これぞ、母親ですね。
もう遅いかもしれないけれど、見習いたい光悦の母妙秀尼でした。



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多賀高忠 と 多賀高朗氏による「多賀家物語」

2018-03-20 | 多賀氏

多賀氏について『白石紳書』に「多賀氏は中原也、高忠、近江人、豊後守、従五位下、所司代、応仁文明の人、熊野本宮和田氏家蔵判物あり」と記され、また『多賀家中原考』には「家説多賀豊後守高忠実は京極加賀守高員(数)が男なりけれども、多賀豊後守高長の養子と成給ふ故、中原氏多賀の称名を用ける也」とあり、多賀氏は佐々木氏からの分かれではなく中原氏であったことが記されている。

もう一つ、総合出版社「暦研」のブックレットより
「多賀家物語 わが家系 千四百年の旅」に同じく中原氏の庶流である「九里」にとっても有益な情報があった。

九里の祖の周辺の年代がこの方によって大まかではあるが、明らかになったのである。

多賀氏となった成行と九里氏となった経行は兄弟である。同じように行動したかどうかは不明であるが、その可能性もあると思う。
表にしてみた。緑の文字が多賀家物語からのものである。
このヒントにより、経久がだいたい1220年には活動期であったろう事が想像される。





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