九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

四条家隆は【四条家】だったのだろうか? 藤原隆房の間違えではないのか?

2024-01-14 | 千葉氏



ここにも書かれてはいるのだが、調べていてちょっと違和感を感じ始め【四条家】を調べてみると、藤原家隆は四条天皇には仕えていたのだが…
(詳しくは知らない私が言うのもなんだが、、)家隆は四条家ではないのでは?

*****

webの新しい市史がデジタルがあったので、見ると…

四条隆房になっている!!!

四条隆房という名前がわかったので、その名で検索してみると、もっと詳しく出てきた。



文治二年 1186年である。
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東胤頼 と 千葉成胤 は同じ1155年うまれ! そして下総国海上郡三崎荘、藤原定家

2024-01-11 | 千葉氏

片岡常春の所領であった「三崎荘」と、おなじく下総国海上郡にあった東荘(橘庄)を調べているうちに、東胤頼と富木常忍の祖父にあたる千葉成胤がともに1155年生まれであることがわかった。叔父と甥の関係であるが同じ年である。
つまり、胤頼の娘も、成胤の娘も同世代であり、共に土岐氏に嫁いだ可能性もあったという事になる。

*****自分の間違いが、また見つかってしまった*****
此処に書きとどめておこうと思う。
海上荘が三崎荘で、
東荘がもと橘荘であり、
私は勘違いしていたようである。スミマセン。

つまり中原経任の橘次の【橘】は東荘のもう一つの名であった【橘荘】からであったかもしれないことになる。千葉氏も橘氏を称し…と読んだことがある。

ヤレヤレ😥

東胤頼は上西門院に仕えていた時代があった。
統子内親王のことで後白河天皇の同母姉である。
コトバンクには「源頼朝の父義朝は上西門院の女房の妹を妻とし,頼朝自身も上西門院に仕えてその蔵人となり,右兵衛権佐となるなど,義朝・頼朝父子の立身にはこの女院の存在が大きかった。」とある。

東荘を調べてみる。三崎荘の隣…


須賀山城

桜井城





さて、三崎荘が後に九条家の家司であった藤原定家が所職を得ているのだそうだ。(1199年)
しかし遠隔の地であり経営困難という事で返却(1202年)され、千葉氏(東氏)の所領となったという経緯があったようである。
因みに東胤頼の和歌の師匠が定家である。

「玉寄する三崎」考 鴨長明集 左注歌をめぐって 兼築信行 著 より

この三崎荘は海上荘ともよばれる。

とすると、wikipediaによると上記の定家の返却時期が違うが、以下のように書かれている。

治承4年(1180年)5月11日の皇嘉門院惣処分状に九条家領と見え、皇嘉門院から猶子九条兼実の長男良通に伝領されている。
文治2年(1186年)の関東知行国乃貢未済荘々注文(『吾妻鏡』文治2年3月12日条)には殿下御領(近衛家領)と見えるが、
建長2年(1250年)11月の九条道家惣処分状、建長8年(1256年)8月25日付九条家重書目録などに当荘が見え、元久元年(1204年)4月23日付宜穐門院宛の九条兼実置文には藤原忠通の時に最勝金剛院に寄付された院領の1つと見える。また、この間の正治元年(1199年)には、藤原定家が預所職とみられる下級所職を与えられ、正治2年(1200年)に当所職を辞退・返還したことが明月記に見える。
在地領主は平安時代末期には片岡氏であったが、『吾妻鏡』文治元年(1185年)10月28日条によれば、片岡常春は舅の佐竹義政に同心して源頼朝に謀反を企てたかどで当荘を収公され、代わって千葉常胤に与えられ、その後は千葉氏一族が領有した。建保6年(1218年)11月、東胤頼の孫胤行は当荘に下向したまま鎌倉に帰参せず、源実朝は和歌を詠じて参上を催促したという(『吾妻鏡』建保6年11月27日条)。その後当荘を領したのは胤行の弟胤方の系統で海上氏を称した。

この辺りが、どうも中原富木蓮忍(九里太郎)・富木常忍を考えるに関係がありそう、と思う。

web上には、以下のようにもあった。

文治元(1185)年10月、常胤から海上郡三崎庄五十五郷が譲られて、椿海(旭市)に面した桜井(旭市桜井)に館を構えたと伝えられている(『千葉大系図』)。 下総国東庄を与えられて東六郎大夫を称す。 


(略)胤頼には東荘33郷(今の東庄町とその近隣)が与えられ東氏を名乗りました…ともある。

つまり、東胤頼は、海上郡の三崎荘と東荘ともに譲られていたのだ。
八十八ごうもあったのなら、何処か中原経任が任されていた郷があった可能性もあるか?とも思う。

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粟飯原清胤 と 千葉氏 頼胤ー貞胤・粟飯原氏光 周辺

2022-12-07 | 千葉氏

室町幕府政所執事を調べていると、千葉氏から分かれた粟飯原氏が執事としていたことがわかり、その周辺を調べることとした。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E9%A3%AF%E5%8E%9F%E6%B0%8F

 

http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk003/kk3b-enjoji-sadamasa.html

金田氏に関するHPでは、以下のように記載があった。

『千葉大系図によれば、粟飯原氏光の子孫である下総国小見川城主粟飯原但馬守胤行は、娘を上総国勝見城主金田左衛門大夫信吉に嫁がせ金田正信・正興兄弟を生んだ。

三河金田氏の祖である金田正興の母が粟飯原氏出身であることを考えると、粟飯原氏光に親しみを感じざるを得ない。』

 

粟飯原氏

http://chibasi.net/aihara2.htm

 

足利尊氏・直義の被官でもあった粟飯原氏。

そして近くに千葉氏・金田氏もいたことになる。

 

九里の祖である江州中原氏から分かれた富木常忍が千葉頼胤に仕えていたこと、日蓮の支援者として仲の良かった曽谷教信・大田乗明。

その曽谷教信の娘 妙林院日貞が頼胤の孫である胤貞の妻であることを知るにつけ、ますます近くにいたことを感じる。

 

頼胤ー 次男宗胤 ー 胤貞 → 妻が曽谷教信の娘

 

 

室町幕府奉行人在職考証稿(2)
―貞和元年(1345)~文和元年(1352)
付奉行人氏族研究(安富氏)       田中 誠 著 

 

この論文の中に 粟飯原清胤が87件も。 

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/653/653PDF/Tanaka.pdf

 

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aihara_k.html

 

 

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飯高胤員と椎名胤員 共に匝瑳にいた人物 ・ 多古町の富木常忍の像のある日本寺

2022-10-06 | 千葉氏

匝瑳南条(中世)

鎌倉期から見える地名下総国のうち「和名抄」の匝瑳郡が平安末期に分割・再編されて成立した国衙領の単位と考えられるが,はやく紀伊熊野山領として荘園化して匝瑳南荘・南条荘とも呼ばれた

文治2年2月日付の関東知行国乃貢未済荘々注文に「下総国……熊野領匝瑳南庄」とある(吾妻鏡文治2年3月12日条)

また,建久8年の香取神宮遷宮用途注進状に「南条庄百石 進済了」と見え,香取社式年遷宮の作料米を負担しているが,これ以降の遷宮では課役をつとめた形跡がない(旧大禰宜家文書/県史料香取)

文永9年12月20日付関東下知状案によれば,暦仁年間,領家熊野山は「熊野山領下総国匝瑳南条東方」の新田を検注しようとしたが,これに反対する地頭椎名六郎胤高・小太郎胤義父子との間で相論となり,暦仁元年12月17日,鎌倉幕府の裁許によって,東方については検注を止め,胤高父宝蓮(椎名五郎胤光か)地頭在任中の年貢の倍額を領家に納入することとなった文永8年には南条西方の検注が領家によって企図されたが,地頭胤員らの訴えによって,東方と同じ条件で検地は中止されている(金沢文庫文書/県史料県外)

同文書からは,匝瑳南条が東方・西方に分かれ複数の地頭が補任されていたことがうかがわれる

当地は元来,上総氏に従う匝瑳氏の所領であったが,寿永2年,上総介広常が滅ぼされるに及んで,千葉氏の支配下に入ったものと思われる

鎌倉期の地頭椎名氏は千葉常胤の弟五郎胤光を祖とする千葉氏庶流で,当地の地頭に補任され,一族は野手(現野栄【のさか】町),松山・山桑・飯倉・福岡(以上,現八日市場市)などの地に蟠踞した(神代本千葉系図・千葉大系図/房総叢書)

なお,中世に当地に属したことの明らかな郷村として飯倉郷谷中村・福岡郷(以上現八日市場市)があり,また,天正19年の検地帳では椿村(現八日市場市椿)・富谷村(同市大字ロ)を南条荘内とする(八日市場市史上)当地域は現在の八日市場市南部および旭市・野栄町の一部を含む地域に比定される

***

上記の飯高胤員は、加地実秀と連署(富木常忍への書状か?・1287年)をしていた人物かもしれない。が、椎名氏にも胤員がいたことがわかった。どちらだろう。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%9D%E7%91%B3%E9%83%A1

 

匝瑳郡(wikipedia)

平安時代末には当郡を分割して、匝瑳北条荘匝瑳南条荘千田荘玉造荘が立荘され、北部の匝瑳北条荘や千田荘は為光流藤原氏が、南部の匝瑳南条荘は上総氏系の匝瑳氏がそれぞれ勢力を有した。

しかし治承4年(1180年)の結城浜の戦い皇嘉門院判官代藤原親政源頼朝に呼応した千葉常胤に敗れたため相次いで没落、千田荘には千田氏匝瑳北条荘には飯高氏匝瑳南条荘には椎名氏など千葉氏一族が蟠踞した[

 

正東山日本寺しょうとうざんにちほんじ
 元応元年 (1319) に中山法華経寺の初祖常修院日常が開基、3世浄行院日祐が開山した北総一円の日蓮宗布教の拠点となる寺です。晩年の日常の隠棲寺であり、日蓮宗の本山寺院です。

慶長4年 (1599) ~明治8年 (1875) までの間、学僧の学びの場である「中村檀林」がありました。270年余に亘り、延べ10万人もの僧侶たちが巣立って行ったといわれています。

https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018012900346/

 

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1234705100/1234705100200020/mitagai/

因みに、私が調べたところ 富木常忍は1299年に歿しているので、1319年以前にこの像を作らせてここに置いたのだと思う。 

 

巡り巡って助さんも滞留したことがあるそうで、偶然とは思えない!

 

 

緑の矢印が日本寺、 四角がたくさんは飯高付近

 

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千葉氏の中の【原氏】(5) 前期・原氏の中に【胤】のついた人はいない。

2020-05-29 | 千葉氏

原氏の前期の「胤」ではなく、藤原南家等他の系の「原氏」であろうと思われる結果となった。
前期の原氏の中で「胤」が付くのは、私が見つけた中では「氏胤」の四代裔「胤重」なので、もう1400年代に入っている。
因みに千葉氏の中の原氏の後期には「胤」が付く。

この永田胤信の「胤」は原氏によるものではなく佐々木信綱の妻となった千葉胤綱の娘に由来しているのだろうと、私なりの結論に達した。

千葉胤綱は、千葉胤正の孫にあたる。
つまり、佐々木信綱の妻となった人物は胤正の曾孫である。
高島高信の母親となったのは、胤綱の娘となるのではないだろうか。
ならば、孫に千葉氏の「胤」をつけた可能性も充分あるのではないだろうか?

(訂正)佐々木信綱の妻ではなく、信綱の娘が千葉胤綱に嫁いでいた!! (スミマセン)

そのことと、「原殿」の「原」とは、セパレートして考えた方が良いのかもしれない。
この原は千葉氏の中と考えず(長綱という名前でもあるし)、別の「原」に由来していると。

すごく遠回りをしてしまった。。。

===*===

永田氏の周辺を、もっと古くの荘園のことから見ていこうと思う。
永田氏の本貫地であった高嶋郡音羽庄永田で、高嶋郡の最南端である。
『戦国期室町幕府と在地領主』 著者: 西島太郎 によると、
「その領有関係は、長禄三年(1001年)に平惟仲が白川寺喜多院(後の寂楽寺)に施入したことに始まる」そうである。

これに合わせて、以前書いた記事の部分を合わせると、
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/309f63253e5b98bfe8ae1e510df2d41a

「堀川院の遺構よりピンクの火山灰がでており、ピンク火山灰は滋賀県高島市朽木の「白土谷」でも採取される。
朽木と京都との関連を示す史料は、長保三年(1001)六月二十六日の「平惟仲の施入状案」で、平惟仲の造営した白川寺喜多院(寂楽寺、北白川仕伏町付近にあったが所在不明)に「高島郡朽木庄壱所」とある荘園が寄進されたことを記した史料に遡る。平惟仲は藤原兼家の家司として重用され、道隆、道長に仕えた。近江権守を歴任し、中納言まで登った人物である。

平安時代後期の資料をみると、朽木の荘園・杣には「子田上杣・河上荘」「朽木荘・杣」「針幡荘」「三尾杣」などが知られる。
田上杣・河上荘は、治暦四年(1068)には平等院領であり、藤原頼通の領地であった。
朽木荘・杣の針幡杣(荘)は寛弘八年(1011)に尚侍殿藤原 子(後の三条天皇中宮)に寄進されたが、康和五年(1103)には朽木荘と針幡荘の間に抗争があったことが知られる。
久多・針幡・大見荘は平治元年(1159)には法成寺領であった。」

とある。

この平惟仲とは?コトバンクより

944-1005 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天慶(てんぎょう)7年生まれ。藤原兼家に重用されて参議,中納言にすすみ,長保3年大宰権帥(だざいのごんのそち)。5年従二位にのぼるが,宇佐八幡宮宝殿に封をしたため宇佐宮にうったえられ,寛弘(かんこう)元年権帥を解任された。寛弘2年3月14日死去。62歳。


朝日日本歴史人物事典の解説
没年:寛弘2.3.14(1005.4.25)
生年:天慶7(944)
平安中期の公卿。美作介珍材と備中国(讃岐国とも)の郡司の娘の子。24歳で文章生となり大学頭,蔵人頭を経て49歳で参議。長徳4(998)年,中納言に進む。俊才であったが藤原公任から「故実を知らず」といわれたことがある。摂政藤原兼家の家司となり藤原有国と共に「左右の眼」といわれ重用された。左京の三条高倉にあった邸宅で,一条天皇の中宮定子は長女の脩子内親王を出産,清少納言も滞在した。一条天皇の生母東三条院(詮子)も惟仲邸を御所とし,ここで死去した。一条天皇の乳母藤原繁子(右大臣師輔の娘)を妻としたが,晩年に大宰府(太宰府市)の長官となって下向したときも,この妻を伴っている。任地での3年目,宇佐神宮の宝殿を封じたことで訴えられ解任された。厠で倒れ腰を悪くし大宰府で死去。宇佐宮の祟りと噂された。遺骨は弟の生昌によって京へ運ばれた。(朧谷寿)

===*===
永田の場所には、以下のような神社がある。

「大溝町」

日吉神社 ─大溝町大字勝野字見張。嘉祥2(849)年長寳寺の鎮守。永正2(1505)年高島玄蕃允が長寳寺山に城郭を築き、産土神として崇敬し社殿補修。境内末社内宮神社、下宮神社、八幡神社、春日神社、熊野神社、山神神社、猿田彦神社、稲荷神社、大国主神社、天満神社。

日吉神社 ─字村内。境内社金刀比羅社、大国神社。

愛宕神社 ─字見張。

稲荷神社 ─字見張。

稲荷神社 ─字湊通称本丸。

日吉神社 ─村社。大溝町大字勝野字権田。長寳寺鎮守。高島郡司高島高信本社を崇敬し修築。海津信濃守政義社参して社殿を修補。天文9(1540)年佐々木義賢白鬚社改造の時、摂社によってともに改造。元亀3(1572)年織田信長大溝城攻撃時に、長寳寺ととも焼亡。境内神社は神明社、打下村の産土神。

長田神社 ─村社。大溝町大字永田。永田の氏神。境内社内宮神社、猿田彦神社。

稲荷神社 ─同町大字勝野字大芹。

分部神社 ─大溝町大字勝野字湊分部氏の旧邸趾。

高竃神社 ─大溝町大字永田(旧鯰川)。旧貴船大明神。文明3(1471)年の勧請。

天満宮 ─大溝町大字永田(旧鯰川)。

猿田彦神社 ─大溝町大字永田。。

大炊神社 ─大溝町大字音羽。村社。音羽村の産土神長寳寺の支配。境内末社内宮神社、八幡神社、日吉神社、三尾神社、春日神社、白山神社。

長宝寺
http://www.biwakobunkakan.jp/shuzo/shuzo_04/shuzo_04_003.html

===*===

この音羽庄は、ずいぶんと不安定な時代が続いたようで、1179年までは山城禅林寺、
建久年間は近江石山寺へと領有権が移っていたそうで、さらに、桜井宮門跡領、ふたたび石山寺領、、、、と目まぐるしく変わっている。

===*===

永田氏はもともと長田氏と名のっていたそうであるが、私には以下の小さな情報が関係しているように思える。



そして、案外九里氏も、この辺りと関係しているように思う。
同じ因幡国、平家寄りであったこと、在庁官人、、、

すぐ忘れるので、覚書! ↑







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千葉氏の中の【原氏】(4) 千葉満胤の息兼胤の【原四郎胤高】と 氏満の息【原次郎】(追記)

2020-05-28 | 千葉氏

千葉県印旛郡誌: 前編, 第 1 巻より  


満胤(1360-1426年)原氏につながる
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)…原氏ではなく、千葉氏
https://www.zojoji.or.jp/info/history.html

武家家伝 下総 原氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/c_hara_k.html

満胤から兼胤  園城寺 牛尾 高城 の祖、と印旛郡の本にはある。
満胤から原四郎胤高…兼胤の後見人とある。
満氏から原次郎常光

私には、まだちょっとわからない部分の多い複雑な原氏である。


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千葉氏の中の【原氏】(3) 常長の弟常兼の息【原三郎頼常】常長の孫【原四郎常金】(常房息)

2020-05-28 | 千葉氏

千葉県印旛郡誌: 前編, 第 1 巻より



千葉氏の中に居た! この場所は常長が(1024?-1108?)という事なので、だいたいの年代がわかる。
☆原三郎頼常
☆原四郎の方は鴨根常房の息「原常宗」となるのだろう。
千葉氏のHPにもあった。
「下総国香取郡千田庄原郷(千葉県香取郡多古町染井付近)に入って「原」を称した。・・・
下総国香取郡原郷 香取郡多古町染井」
https://chibasi.net/hara.htm

千葉氏の中の【原氏】のミナモトはここからのようである。


千田氏配下の原氏は建武からで、千葉氏HPによると
「前期原氏は鎌倉期を通じて千葉宗家の上級被官として続いたと思われるが、室町時代に入るとこの原氏の地位をそのまま継承した後期原氏が登場する事になる。後期原氏は千葉介氏胤の子・孫四郎胤高を祖とする宗家の血を引く一族で、室町時代末期には千葉宗家を凌駕する勢力を持つにいたった。 」とある。

===*===

では、白井氏・臼井氏 其々の中の原氏とは?


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千葉氏の中の【原氏】(2)

2020-05-27 | 千葉氏

忘れていたことがあった。
白井氏、そこから今回の永田氏の中の原氏につながったので、ココも書いておかなくては。

淡海温故録のなかに書かれていた「白井氏」


「白井氏は元下総国の住人、千葉介常胤の後裔白井小太郎胤宗 承久の乱宇治川先陣の賞として当国高島郡に領を賜わり居住し代々相続すと云
将監澄胤は義澄将軍より諱の一字を下され若狭の内をも加領に玉ふ その息長門守胤定 その息民部少輔胤時 豊後守時秀代に武功在り 胤時は信長へ出て働あり 信長記にいつ亦 白井備後守は関白秀次の近習出頭大身に」

これを読むと、この白井氏は高島郡を領している。しかも代々相続…とある。

千葉県印旛郡誌前編に系図があった。


===*===

しかし、実情は違うのかもしれない。



家督の論起きて、牢々の身…とある。

また、坂田郡大原氏から出た「白井氏」もあり、佐々木哲学校の大原氏の記事にある。
http://blog.sasakitoru.com/201211/article_1.html

「この備中守前司父子は時重・仲親父子であり、この戦傷がもとで大原氏家督が仲親から時親に移ったと考えられる。
 時親は、『園太暦』貞和五年(1349)三月二十五日条「除目」に「備中守源時親」と見え、大原時親が仲親の後に大原氏家督になり、備中守を受領したことが確認できる。
 この時親の次世代には義信と親胤がある。大原氏の惣領は義信で、次男親胤が白井氏の祖となる。」
とある。

こちらの白井氏は大原氏の後裔という事となるのだと思う。

===*===

題名に「原氏」と書いたのに、原氏につながらなかった「白井氏」の話になりました。変だなぁ。

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千葉氏の中の【原氏】 【藤原南家 原氏】

2020-05-27 | 千葉氏

いつもそうなのだが、私自身全く知らないことを調べつつ書いているので、間違いも満載。
そして、常に意見がコロコロと変わっている。
一番新しい記事が今の頭の状態であって、古い記事もその当時の頭の中の状態なのである。しかも、いつもカオス状態。。。

しかし、留めておかないと誰かにも届かない。
その誰かが「九里氏」を調べてみよう!という気になって、
歴史本における「不詳」の多い九里氏の調査に繋がっていくと、とてもうれしい!!

===*===

いま、気になっているのが「永田氏の中の原殿」
その原氏は、千葉氏の中の原氏なのではないか‥‥と思っていた。
が、良く調べてみると白井原氏も臼井原氏も1250年あたりにはまだ「原氏」を名乗っていなかったかもしれない可能性がある。
とすると、尾張二宮の「原氏」かもしれない。浪合記に出てくる「原高春」の系である。
一見関係なさそうなのであるが、、、


「永田胤信」
それ以前のこととなるが1250年あたりから1300年位(?)、息の長綱が「原殿」と呼ばれている。
「殿」が付くには、敬う気持ちがある人の養子となった…という意味も含まれているのではないだろうか?あるいは、烏帽子親がそうであった等もあるかもしれない。


結論から述べると、【藤原南家の系】の原氏かな?と思っている。
源頼朝の母は藤原南家貞嗣流の藤原季範の娘(由良御前)である。
その【貞嗣流】を見てみると【藤原巨勢麻呂】の十男である。
藻原の開拓者であった「黒麻呂」も貞嗣の兄にあたる。

浪合記の「原氏」と久野氏は繋がっているので、藤原南家とつながる事となる。
藤原南家工藤氏流の久野氏は、遠江国発祥といわれる氏族。とwikipediaにもある。

===*===

掛川市本郷にある【高藤城】
http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/chuen/takafuji.j/takafuji.j.html

鎌倉時代、原氏の始祖出羽守師清が原谷(原殿神廟)に足を踏み入れて


…とある。この出羽守師清とは?を調べると、

武家家伝 遠江 原氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tot_hara.html

「原氏は平安の末頃、出羽前司師清が遠江国原谷庄に来住して以来、土豪として鎌倉初期から地頭・領主の地位を戦国期まで相伝した。原師清は藤原南家藤原木工介為憲の流れで、工藤氏の一族である。為憲六世の孫がすなわち師清である。原師清の後裔は橋爪・原田・久野・孕石・小沢などの諸氏が知られる。」

===*===

実は、工藤氏は佐々木高信の娘二人が「二階堂氏」に嫁いでいることからも、佐々木氏とごく近かったと思われるのである。

佐々木哲学校の「高島高信」の記事より
http://blog.sasakitoru.com/200504/article_11.html

『高信の娘は2人あって、2人とも有力吏僚系御家人の二階堂氏に嫁いでいます。1人は出羽家の二階堂義賢に嫁ぎました。義賢は左衛門尉・民部少丞を経て叙爵され、引付衆に列するとともに、伊賀守に補任されて受領となっています。またもう1人の娘は和泉家の二階堂行員(大宰少弐)に嫁いでいます。行員の祖母(父行章の母)は佐々木信綱娘で、しかも行員の妹は六角頼綱に嫁いで頼明を生んでおり、和泉流二階堂氏は佐々木氏との間に重縁を結んでいたことが分かります。高島佐々木氏は庶流とはいえ、有力御家人との間に閨閥を築きました。』

===*===

以上のことから、永田氏に最も近い「原氏」は藤原南家に存在する「原氏」となるように思えるのである。

という事は、永田氏は、黒麻呂の裔かもしれない「富木氏」と同じ流れをくむことになる。

しかも、富木常忍の母は千葉氏と言われている。
永田胤信の母も千葉氏であったのではないだろうか?

「胤」が通字の氏族。
きっと千葉氏の中に佐々木高信の妻となった女性がいる!
そこを今度は掘ってみたい。









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千葉氏の【中沢氏】

2020-01-17 | 千葉氏

いろいろな中沢氏が歴史上に存在していて、下総国の八幡荘中沢郷の「中沢」の代官はどのような人たちだったのかかを少し探ってみようと思う。

まず、鎌倉時代八幡荘は千葉氏(千田氏)の所領であったようなので、千葉氏と中沢氏で調べると、
http://chibasi.net/ichizoku7.htm

中沢氏がいたのである! この中沢氏が八幡荘の「中沢郷」と関係があるのではないだろうか?
しかも「千葉介胤正の嫡子・千葉介成胤の二男・千田泰胤(次郎)の末裔と伝わる。」とあり、ぴったりである。
この「中沢氏」が八幡荘の中沢郷の中沢の管理・居住していた人として、因幡国とも関係があったのだろうか?
つまり、富城氏(富木氏)と何等か関係がある氏なのだろうか?

やはり、久下氏とつながっている方の中沢氏につながりがある様に思えてしまう。
丹波国の河守庄の蓮忍・那珂氏の経久…
しかし、まだまだ調べ始めたばかりである。

室町幕府の奉行人であった「中沢氏」↓

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/651/651PDF/tanaka.pdf
室町幕府奉行人在職考証稿(1)―元弘3年(1333)~康永3年(1344)―田 中 誠 氏  より

1333年に「中沢性忍」が石清水造営奉行として「石清水八幡宮御修理造営之記・ 建武回禄之記石清水文書」に二度ほど名前が挙がっている。
この人物は、どこの中沢氏から室町幕府奉行人となったのだろうか。



中沢信綱〈定阿〉掃部允源信綱 小除目聞書案 園太暦(貞和4.8.11)纂集
中沢信綱〈定阿〉中沢掃部允信綱 足利直義下知状(貞和4.10.17)長門三浦家文書

いろいろなところから情報を集めてみると、

中沢三郎入道(性忍)
中沢又次郎
中沢信綱(定阿・掃部充・掃部大夫)(次郎左衛門尉)行靖とも(東大寺百合文書)
中沢(定阿・掃部大夫入道)

http://syurihanndoku.hatenablog.com/entry/2019/01/27/200026
中沢 性忍 三郎入道

中沢 又四郎(又次郎)

中沢信綱 定阿 掃部允・掃部大夫・掃部大夫入道

中沢氏綱 行清・行称・行靖 次郎右衛門尉・次郎左衛門尉・備前守・備前入道・越前入道

中沢季総(季綱カ) 次郎左衛門尉

中沢之綱 掃部允・掃部大夫・備前守

中沢 孫四郎

中沢光俊 浄永 掃部助・備前守

中沢 新三郎

中沢 玄蕃允

コトバンクによると「中沢氏」
中世武家。信濃国の豪族諏訪氏一族で,同国伊那郡中沢郷に拠ったものが著名。諏訪系図に真重(中沢神太)がみえる。《吾妻鏡》に中沢成綱など一族の名がみえ,南北朝初期以来,室町幕府奉行人として中沢性忍・信綱・定阿・氏綱・秀綱・之綱などがいる。彼らは御前奉行となり,有力社寺の担当奉行となった。室町後期,中沢氏の所領は丹波国(広瀬・久富荘)や洛中(烏丸・錦小路西頰屋地)などに分布している。鎌倉期以来出雲国にみえる中沢氏もこの一族。

「大山荘」
 鎌倉時代,承久の乱(1221)後に中沢基政が地頭として入部して以来,東寺と中沢氏は所務をめぐる争いをくり返した。1241年(仁治2)に始まる地頭請でも年貢抑留が続き,東寺の訴えにより94年(永仁2)下地中分が決定,翌年池尻村内一井谷・賀茂茎谷・西田井村の田25町,畠5町と山林が東寺分と定められた。




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