これも忘れそうなのでwebに出しておきます。web情報をあちらこちらからいただいております。
津守経国は大友親秀の娘を妻とし、国平の父である。
親秀の父は「大友能直」であり、氏族:近藤氏(古庄氏)大友氏祖(本姓:藤原氏、中原氏)とある。
親秀の父:近藤能成、
母:利根局(波多野氏)
養父:中原親能
兄弟 能直、重能、田村仲教、親実
妻 深妙
子 親秀(親季)、詫摩能秀、時直、元吉有直、親直、禅能、朝直、一萬田時景(景直)、鷲尾秀直、志賀能郷、豊前能基、田原泰広、
女(北条朝時室)
大友氏と竹中氏と土岐氏
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/takenaka1.htm
★大友氏系図
藤原秀郷-千常-文脩-脩行(近藤)-行景-景親-貞成(景頼武者所)-能成-大友能直●(母は波多野(大友)四郎経家娘、祖父の所領・相模大友郷継ぐ、称大友氏、一時、中原親能猶子になる。豊後、筑後守護職など、鎮西奉行職を代々世襲、●豊後の大友祖、大友初代)-親秀-*大友頼泰(蒙古襲来鎮西下向)--つづく。
★大友氏系図∴大友能直●(母・波多野四郎経家女)-親秀(母・畠山(高山)四郎重範入道女)-頼泰(母・三浦肥前守平家連女、蒙古襲来豊後下向、豊後守護職兼鎮西奉行)-親時(左近将監、蔵人)-・・・大友義鎮(21代、宗麟、左衛門督、豊前
豊後筑前筑後肥前肥後守護日向伊予半国守護職、九州探題職。)
●波多野氏(相模国余綾郡(のちの大里郡)波多野(秦野)に起こるものは、藤原
秀郷末。秦野とも互用。異流が多い。姓名順位2878位。)
★大友氏
大友初代能直は、源頼朝の庶子ともいうが、また別に、藤原(相模国愛甲郡の古庄郷司の近藤(太郎、太)能成の長男で母(波多野<大友>四郎経家の娘)は中原親能の
妻と姉妹で、親能の妻が頼朝の子・三幡(夭折)の乳母であったことから、能直は
大友氏を名乗り、(中原)親能の養子となって、(源)頼朝に寵仁されたといわれる
。その後、(大友)能直は筑後、豊後、肥後の守護職に任ぜられた。
能直の庶子は能直が妻・深妙に預けた遺領の豊後大野庄を分割相続した。庶子は早く
からこの地に移住し、深妙は京都に在って後見している。嫡子親秀には本領の相模大友郷が与えられたが、三代・大友頼泰に至って初めて豊後に下向した。(蒙古襲来により)
守護大名としての大友氏の発展は、六代貞宗の頃からであり冷静に時勢の推移を洞察し、足利尊氏を武家政権の受け皿として、その軍勢催促に応じ鎮西探題・北条英時を壊滅させた。そして家督を継いだ貞宗七男の氏時は足利尊氏の子・義詮の信頼を受け、北条(鎮西)探題館で大友、少弐氏により憤死させられた菊池武時の子・武光(南朝方)との宿命的な戦いを展開し、九州において北朝勢力(武家方)の孤塁を死守したのである。(戦国大名出自事典から抜粋・・・。日本女子大・西村圭子著)
三浦義継は一人娘を西相模一帯に勢力を持っていた波多野党(義朝との関わりも深かった)の一族・大友経家(大住郡大友郷)に嫁がせ、波多野氏との結びつきを強めた。
●波多野(大友)四郎経家は三浦義継の一人娘を妻とし実子・実秀がいたが子がなかったので、外孫の能直に本領の相模大友郷を相伝させた。
中原親能はその甥の能直を養子にしたのである。母方の相模国で成人した親能は、頼朝のもとで政所別当を勤めた大江広元と兄弟で、幕府の創業期に大きな働きをした。能直の祖先・則明は源頼義の郎従で前九年の役で活躍した。
以下は佐々木哲氏のメルマガよりである。
紀伊有田郡竹中氏系譜研究3
~豊後竹中氏と土岐氏
美濃国には竹中氏の名字の地はない。そのため竹中氏の系譜伝承は錯綜している。竹中という地名は京都市伏見区竹中町、大分市竹中などがある。この中では大分市竹中が、大友氏族竹中氏の名字の地である。
大友―族の竹中氏は、豊後大友氏の祖大友能直の次男戸次重秀に始まり、大友能直―親秀―戸次重秀―竹中掃部頭頼尚―重実と続く。もともと戸次氏は豊後大神氏(臼杵氏)の一族であり、惟澄のとき男子がなく、大友能直に所領を譲渡した。そして能直の孫重秀が戸次氏を名乗り、大友氏族になった。戸次氏の名字の地は豊後国大分郡戸次庄であり、臼杵・戸次両庄は九条家領であり、豊後灘に注ぐ大野川中流域戸次、竹中、判田、松岡を中心に吉野・東稙田にまたがる大分市の東南部地域である。豊後國志によれば、三十七村あったという。豊後国図伝帳によれば、戸次氏の所領は戸次庄九十町をはじめ、大神庄藤原井手村、大神庄真奈井野木、乃井村、速見郡由布院、安岐郷守江浦三町、稙田荘福重名大野荘中村、国領柴山村など三百七十五町にもなり、主家大友氏に準じた。これは戸次氏が豊後大神氏を継承したからであろう。
『系図算要』には「以赤橋重時縁坐服近北条氏」とあり、重秀が北条重時の縁者であったことがわかる。続群書類従所収大友系図(巻百五十)には重秀の後室が中村禅尼玲阿とあるが、この中村禅尼が重時女であろう。そうであれば、重秀の嫡子時親が執権北条時宗を烏帽子親に元服して一字書出を給わり、北条氏に近かったことも理解できる。重秀は長男時親(太郎左衛門尉)、二男重頼(松岡左近将監)三男頼親(利根次郎)、四男頼尚(竹中四郎掃部頭)に分割した。竹中氏は重秀の四男頼尚の子孫である。
鎌倉幕府により九州に鎮西探題がおかれたときの関東御教書案によれば、時親の子貞直は永仁七年(一二九九)正月二十七日相模守北条貞時より鎮西評定衆に任じられている。このとき評定衆に加えられたのは越後九郎、豊前前司、渋谷河内権守重郷、伊勢民部大夫、戸次左衛門尉であった。また鎮西引付記によれば永仁七年四月十四日条に、三番引付頭人は大友左近蔵人(貞親)で、戸次太郎左衛門尉(貞直)の名もある。北条随時のときには一番引付は戸次貞直、主家の大友貞宗(近江守)は三番引付であったので、幕府の戸次貞直に対する信頼が厚いとわかる。北条英時のときには、一番引付戸次左近蔵人入道とあり、これは重頼と推定されている。さらに、嘉暦二年(一三二七)の鎮西評定衆には、大友貞宗とともに、戸次豊前(貞直)、戸次左近蔵人入道(重頼)とあり、それぞれ貞直、重頼と見られる。この時期戸次氏は主家大友氏と並ぶ活躍をしたことが覗える。戸次重頼(重秀次男、松岡左近将監)は松岡に、長興禅寺を創建し要翁玄綱が開山した。竹中氏はこの戸次氏の一族であり、北条氏との関係も深かった。
ところで土岐氏も美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。尊卑分脈や続群書類従所収土岐系図で、光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎・孫三郎と称した。系図では頼貞母(光定妻)を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。しかし頼貞母(光定妻)は北条貞時女では年代が合わない。時定女の誤りだろう。系図ではよくある錯誤である。光定が時定の女婿であれば、両者の諱字が共通することも理解できる。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」では光定妻(頼貞母)を北条経時女とする。たしかに経時であれば年代も合うが、比較的信用できる尊卑分脈などで貞時女とするならば、時定女の錯誤と考える方が自然であろう。時定が経時・時頼の同母弟であることから、「明智氏一族宮城家相伝系図書」は時定女を経時女と誤まったのであろう。
時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国阿蘇社領を管理して阿蘇氏を名乗り、元寇では肥前守護・鎮西探題に補任されている。孫太郎定親の名乗りは外祖父北条時定に由来すると考えられる。また頼貞妻の父北条宗頼(相模修理亮)は、得宗北条時宗の異母弟であり、豊後守護大友頼泰女を妻とし、元寇に際して周防・長門守護を兼帯して長門探題に補任されている。頼貞の名乗りは摂津源氏の通字「頼」ではなく、北条宗頼に由来すると考えられる。
このように土岐氏は北条氏と重縁を結んでおり、とくに頼貞の舅北条宗頼は、豊後守護大友頼泰の女婿であり、大友氏の一族である豊後竹中氏が女佐の臣として美濃に居住したことは十分に考えられる。それが美濃竹中氏であろう。そこに半兵衛重治の父岩手遠江守重元が養子に入って竹中氏を称したと考えられる。
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津守氏は、大友氏 近藤氏 中原氏 波多野氏 三浦氏とつながる事となる。