平武綱 息・娘 ↓
秩父重綱、渋谷重家、児玉経行室、武時 |
この武綱は、源頼義から「奧先陣譜代ノ勇士」に選ばれ、白旗を賜った人物でもあるそうだ。(wikipedia記事より)
曾孫であった畠山重忠が源頼朝に先陣を任されたわけが、ここで分かる。
けしてドラマのように「見栄えが良い」という理由からではない!
「平家は一旦の恩、源氏は重代の恩」と述べて武綱の白旗・白弓袋を差し上げて頼朝の陣営に赴き、秩父一族の参陣を許した頼朝は、先祖の故事にならって重忠に先陣を命じている。(wikipedia)
この武綱は秩父武綱のことで、息の秩父重綱とその妻小野(横山党)も気になる人物である。
この重綱が「武蔵国留守所総検校職」を任され、代々続いて
それが重忠の時代に北条時政に脅かされそうになり、結局その職を守るがために畠山氏が戦う羽目になったようである。
九里(その当時は中原氏)は、どこと接点があるのだろう。
まず、中原経久の息経重は九里となり、また一名(息か甥で、共に因幡国にいた。)は富木となった。
畠山重忠の娘と富木常忍の母とは縁戚である。(説…下記に詳細あり)
秩父重弘の娘が千葉常胤の室になり、息胤正を産んでいる。
その胤正の娘が富木常忍の母という説がある。
秩父重弘の兄弟江戸重継の母が関政家の娘であり、秀郷流太田氏一族となっている。
姉妹に太田行光の室がいる。
その富木常忍の一人目の妻は太田乗明の姉である。この秀郷流の太田氏とも関係があるのだろうか。
それとも三善氏系の太田氏であろうか。
また、秩父重綱の周辺人と中原富木九里とはいろいろと接点が見つかる。
小山氏も、児玉氏(有道氏)も しかりである。
秩父重綱ー重弘ー重能ー重忠(1164年生)
重忠の息 重秀(母は足立遠元娘)23歳没 1183年生
重忠の息 重保(母は北条時政娘)…と云う事は、時政の孫!
中原経久(蓮忍入道・九里氏の祖)が1257年に83歳で歿している片岡経久本人とすると、1174年生まれであり、畠山重忠より10歳年下となる。
富木常忍の母も同じ年か、1175年生まれと思う。
千葉胤正と畠山重忠が従兄弟となると、胤正の娘と重忠の娘はいとこ同士のこどもである。(年は20歳ほど違うが。)
その重忠の娘が日蓮の母となる梅菊という説がある。↓
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho42-16.pdf&type=G&prt=1078
このような関係があって、常忍は船の上で出会った日蓮の支援者となったのかもしれない。(1250年前後)
梅菊は1194年に生まれたとして、畠山重忠が1164年生まれなので30歳の時の子どもとなる。
そして、梅菊の義理の母となりそうな「ぬきなの局」という方と、常忍の母(千葉胤正娘)も旧知の間柄であったようなのだ。
そこは、こちら ↓ 私もまだすべてに理解したわけではないのであるが、比企氏とも関係を感じるので、そうかもしれないと思う。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index289.html
貫名氏が井伊氏、元の井氏とすれば、中原氏と同じく近江国にいた人であったかもしれない。
しかし、貫名氏と結婚する以前かもしれないが。
義純の父は足利義兼で、義兼の妻は北条時政の娘時子である。
が、wikipediaによると以下の如くである。
「義兼の庶長子であるが、遊女の子であったとも伝えられ、大伯父の新田義重に新田荘で養育されたという。畠山重忠が元久2年(1205年)6月の畠山重忠の乱で北条氏の手により滅ぼされると、義純は重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻し、重忠の旧領と畠山の名跡を継承した。
異説として時政女を所生とする畠山重忠の娘と婚姻したとも考えられている。
義純は元々従兄弟の新田義兼の娘来王姫と結婚しており、子時兼・時朝らを儲けていたが 、妻子と義絶しての継承であった。 」
ともかく、ここで足利氏と畠山氏が一体となった。
さらに
(義純) - (泰国) - (時国) - 貞国 - 家国 - 国清 - 義深(能登守)- 満慶(この時能登畠山初代当主となる)
能登畠山
満慶 - 義忠 - 義統 - 義元 - 慶致 - 義元 - 義総 - 義続 - 義綱
めだった事は、
国清は、室町幕府関東管領、評定奉行であり、和泉・紀伊・河内・伊豆・武蔵守護となる。
満慶は、幕府の室町幕府相伴衆、越中・紀伊・河内・能登守護を務める。
===*===
この能登国に久能利氏がいて、日野氏の所領である若山荘を預かっていたようである。
久能利氏は、能登国へいった九里氏であったのか? 日野氏とのつながりがあるところを見ると、近江国の九里氏とはつながっていると思うのだが‥‥
さらに畠山氏とのつながりで見ると、鎌倉初期からのつながりであると思うのだ。
畠山重忠とその息たちは亡びたのだが、そのあたりを「武家家伝 能登畠山」よりご紹介。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/h_noto_k.html
「残された畠山重忠の妻は北条時政の娘だった関係から、重忠死後に足利義兼の子義純と再婚し、義純は畠山氏の名跡を絶やさないために畠山氏を名乗ることになった。もちろん畠山重忠の旧領は義純に与えられた。以後、畠山氏は清和源氏の一族となったのである。以来、鎌倉末までそのまま続き、建武の争乱には足利尊氏に従って軍功を挙げ、室町幕府の重臣となったのである。」
そのことと、前回の記事の「大田乗明」と関係があるので書いてみたいと思う。
大田乗明とごく親しい間柄であった「曽谷教信」のことである。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/search?q=%E7%95%A0%E5%B1%B1創価教学研究室 (Tommyのブログ)
「曾谷教信は清原皇后宮大進三位清原真人行清の裔の大野政清の子であるとしている。しかも、大野政清は大聖人の御母の兄にあたるとしているから。この説に従えば、教信は大聖人と従兄弟という関係になる。
ちなみに、大聖人の御母の係累については「産湯相承事に「悲母梅菊女童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御座す云云」(0878-01)と述べられており、「本化別頭仏祖統記」などは畠山政清は畠山氏の一族であるとしている。」
この大聖人とは日蓮のことである。
畠山重忠が1205年に亡くなっているので、この曽谷と関係のありそうな畠山氏はもしかすると足利義純の系かもしれない。義純の弟泰国の法名が「空蓮」もしくは「空連」だそうで、日蓮と関係があるかもしれない。
そして、この人物も関係がありそうである。(コトバンクより)
清原教隆(読み)きよはらの のりたか
清原教隆 きよはらの-のりたか
1199-1265 鎌倉時代の儒者。
正治(しょうじ)元年生まれ。清原頼業(よりなり)の孫。家学の明経(みょうぎょう)道をつぐ。鎌倉幕府につかえ,将軍九条頼嗣(よりつぐ),宗尊(むねたか)親王の侍講となる。金沢実時(さねとき)をみちびき,実時が金沢文庫を創設するうえで影響をあたえた。晩年京都にかえり,大外記(だいげき)となる。文永2年7月18日死去。67歳。初名は仲光。
1208年に三善善信(康信)の名越家が焼失。山側に文庫があったそうで、将軍家の文書や大中臣倫兼の日記などを焼いてしまった。
このことが金沢文庫が造られたきっかけであったかもしれない。1275年創設。
清原教隆は清原頼業の孫である。
そして、富木・大田・曽谷は昔から(日蓮と出会う以前から)親しい間柄であったそうである。
この三人、中原・大中臣・清原と言い換えることもできるのかもしれない。
そして、もしも畠山氏とも関係があるのならば、そこから能登畠山氏の配下になった可能性も充分にあると思う。
で、今日の題にもしたのだが、畠山政長の妻が京極佐々木氏であったこと、また、畠山義続・義綱がともに六角佐々木氏とつながっている事、こう考えると、一本の線になってくるように思えるのだ。