九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

高向利春(小野美材の息)

2020-05-18 | 小野氏

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/3315daad0a00ee2214d1aabe3b81c63a





高向利春は「武蔵守」になっている。 藤原利仁や藤原秀郷も同じ職についているが、それよりも高向利春の方が前の事のようである。(918年)

小野美材は、小野篁の孫である。
小野牧という国家が直営する勅旨牧があったので、その周辺と関係が深い。
詳しいHPがあったのでご紹介したい。

https://yogidempseyalotofthings.blogspot.com/2018/11/3.html

昨年、叔父の最後に間に合うようにバスに乗っていた際に通っていたあたりになると思う。
車窓から「小野神社」の案内板を見たように記憶している。さて、二つあるので、どちらの小野神社だったのだろう?
一宮とあったように思うが…
羽田からの高速バスで、多摩センターに行く途中のことである。

===*===

さて、前回の「渕名氏」と「小野氏」の地理的距離が近い事が気になっている。
そんな時に、このHPがとても助けになる!


https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7%E6%B5%81%E4%BD%90%E8%B2%AB%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6


上記のページには、重要なことが書かれている。
『秀郷の子孫(秀郷流藤原氏)は、11世紀前半の頼行行範兄弟まで中央軍事貴族・摂関家賢して活動し、千常・ 文脩・兼光・頼行は次々にに鎮守府将軍に起用ざれた。』
『清和源氏が摂関家家人・中央軍事貴族として台頭する中、十一世紀後半には秀郷流藤原氏でも頼行の子兼行行尊は在地領主化を指向するようになったと考えられる。』
   
『兼行は「渕名大夫」の呼名から上野国佐位郡渕名(伊勢崎市境上渕名・下渕名)に土着し、行尊(頼行の甥行高と同人か)は「太田大夫」の呼び名から武蔵国太田荘に土着したと考えられている。』

===*===

という事は、小山氏の行尊ですね。この行尊は武蔵国太田荘であったことがわかり、少しすっきり!
源頼政と関係のある世羅ではなかったことになるのか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E6%B0%8F


太田氏の行尊!
しかも行高とも。中原行高もいる。(中原の時代は治安三年1023年から万寿四年1027年あたりに記述があり活動期である・・・合わないかも。。?)

そして【行範】これは、佐々木氏の系図に出てくる行範かもしれないだろうか?

気になっているmemo
藤原秀郷の母は大宮司鹿嶋氏。妻は秦氏

コメント (2)
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小野氏と高向氏 を調べているうちに「ホツマツタヱ」の世界に入ってしまった。

2020-05-16 | 小野氏

近江国御家人井口中原氏の系図の始りの方に、高向利男の娘が登場する。
弘宗王の妻である。
弘宗王の父は豊前王、母は佐伯君足の娘である。その息に系図には書かれていなかったが清原真人当仁という人物がいる。
もしかすると同時代に居た「紀当仁」かも知れないが、別人かも知れない。
山梨郡石未郷 清原真人当仁宅で「禾三茎五十穂、また一不二茎四十六穂の嘉禾が生えたと甲斐国から届けがあった。」とある。

そして、葛原親王のページにhttps://chibasi.net/souke2.htm

天長2(825)年3月24日、親王は「臣之男女、一皆賜姓平朝臣」と、子の高棟王ら子王一皆に「平朝臣」の姓を賜るよう上表するが許されず、7月6日、再び上表してようやく許可された(『日本紀略』天長2(825)年3月24日条、7月6日条)。親王は平朝臣姓を賜るよう願った初の人物であるが、王の身分ではその後の生活が制限されることを見越しての上表か、皇室の負担を減らす意味での臣籍降下かは不明であるが、おそらく後者であろう。

 天長5(828)年、学問に優れていた清原真人有雄天武天皇五代の孫)を、皇族の文書管理を司る正親司に推挙し、有雄は正親佑に任じられた

…とある。豊前王も天武天皇の三代目なので、何かしらつながりがあると思う。

===*===

その後、弘宗王の妻で長谷の母には「高向利男」とある。
小野氏も高向氏とはつながりがある。

高向利春である。養父は小野氏となっている。
小野氏から養子に入ったと書かれている場合もあり、詳しくは不明である。

小野氏と高向氏を調べていると、下記のページが出てきて、
【 ~ホツマツタエ16文~

ほつまくに をさまるのちに

ふつぬしの かとりのみちお

ことことく こやねにさつけ

かくれます かしまのみちの

おくもみな こやねにさづく

かすがとの たまかえしなす

おくのりも こやねにさつく

このゆえに よものまつりも

おのづから ひとりにつけり

かしまみち…。 】

という、詞が載っていた。

https://www.sekihotu.com/entry/2019/04/27/210435

ホツマは穂積のことだろうか?

そこから、ホツマツタヱの世界に入り込んでしまい、すごい充実のページを見つけてしまった。
https://gejirin.com/index.html

特に、このページ!!
https://gejirin.com/mitinoku.html

じっくりと、読まなくては申し訳ないほどのページである。

次に、その中の詞にヒントを得た結果「こやね」は天児屋命だと思った次第。
【天児屋命】(読み)アマノコヤネノミコト

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%85%90%E5%B1%8B%E5%91%BD


この方も、登場していた。↓
【天足彦国命】<人名>
オシキネの斎名。春日県を和し治める者。

「あめ(和む)」+「たらし(足らす)」+「ひこくに(平地・平国)」
「ひこくに」は「調和して治まる地」の意の地名で、「わにくに(和爾地)」「かすか(春日)」「そふ(添)」の言い換え。

おしきね  オシキネ  osikine
アメタラシヒコクニの斎名。
「おし(上す・熟す)」+「きね(熟・木根)」

多賀氏は確か、タガネツキであったはず。
杵をつく、杵を上げる、杵をおす…

===*===

天児屋命(読み)アマノコヤネノミコト

デジタル大辞泉の解説
日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に隠れたとき、祝詞(のりと)を奏した神。天孫降臨に従った五伴緒神(いつとものおのかみ)の一。中臣(なかとみ)氏・藤原氏の祖神。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディアの解説
日本神話の神。中臣(なかとみ)・藤原氏の遠祖。天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき,祝詞(のりと)を奏してその出現を請うた。これより中臣氏は,斎部(いんべ)氏とともに朝廷の祭祀(さいし)職を世襲した。枚岡(ひらおか)神社,春日(かすが)大社の主祭神。

日本神話にみえる神の名。記紀神話に登場する。中臣(なかとみ)氏の祖神。天(あま)の岩屋戸の神話では,うるわしき称辞を読み上げて天照大神(あまてらすおおかみ)を引き出すことに成功し,天孫降臨神話では天孫に随行した。名義については〈言綾根(ことあやね)〉の意とする一説がある。美しい言葉すなわち祝詞の奏上が役目だからである。そこには宮廷祭祀を主掌した中臣氏の職掌の反映がある。後には藤原氏の祖神として,枚岡(ひらおか),春日(かすが),大原野の諸神社に祭られた。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/north/s_kasima.html

なんかバラバラだが、私の中では繋がりそうなのである。
コメント (1)
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小野氏(1) 小野神社

2016-11-30 | 小野氏
2つのweb情報をコピーし抜粋し、まとめると以下のようになる。

小野神社

小野神社(おのじんじゃ)
御祭神 天ノ下春命〔あめのしたはるのみこと〕
瀬織津姫命〔せおりつひめのみこと〕
稲倉魂大神〔いなくらたまのおおかみ〕
伊弉冉尊〔いざなみのみこと〕
素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕
大己貴大神〔おおなむちのおおかみ〕
瓊々杵尊〔ににぎのみこと〕
彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕

東京都多摩市一ノ宮一丁目18-8 

創建年代 安寧天皇18年(紀元前532)


宝亀三年(772)の太政官符には、「多磨郡□野社」の記述があり、これがおそらく多摩の小野神社の事で、史料としては初見であろう。
正史である「日本三代実録」には、元慶八年(884)に従五位上から正五位上に昇格との記載がある。

延長五年(927)に編纂された「延喜式神名帳」では、小社に列格する「武蔵国多磨郡 小野神社」と記載されており、これが当社とされている。

但し、当社の他に府中市にある「小野神社(小野宮)」も比定社(論社)となっている。

両社の関係は、かつては同じ神社であり、多摩川の氾濫に伴う水害によって遷座が行われた結果二社に分けられたとも、どちらかが本社でもう一方は分祠であるとも云われている。
個人的には、創建時は府中市の「小野神社(小野宮)」にあったものの、水害の影響もあり後に当地に遷座してきたものと推測している。

~~~*~~~

横山氏の系図を見ると、その始祖は【横山野大夫小野朝臣経兼】という人物であり、本貫地は【武蔵國多摩郡横山庄】とある。
小野朝臣経兼は、八幡太郎義家に従ひて功あり、武蔵國多摩郡横山庄並びに相模國下足柄郡を賜ふ。 而して武蔵國多摩郡横山庄に住して、氏を横山と称せり。

小野朝臣経兼=横山経兼が出てくるまでは、小野氏である。
小野氏をずっと遡っていくと、敏達天皇となる。
敏達天皇(538-585)の息が 難波皇子で、橘氏の祖となる。(後には楠木氏につながる)
もう一人の祖が春日皇子(560-615)(=小野氏祖)である。

「横山神社」(所在 東京都八王子市元横山2丁目15番27号)

また、もう一つ「小野神社」で気になったのが、神奈川県厚木市小野428 にある神社である。
そこの由緒に『阿羅波婆枳(あらはばき)神』という名前が載っており、気にかかるので、調べてみた。

http://omesh.sakura.ne.jp/jinja/kanagawa/atugi/37-02/01.htm


この中の「愛甲三郎」の本家は横山氏と出ていた。ますます関係がありそうである。
愛甲三郎とは、愛甲季隆のことのようである。

次回はアラハバキ神について、またまた古代へ戻ってしまうが、書いてみたいと思う。
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