九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

土岐光衡ー光基ー光行ー光定ー【蜂屋定親】ー【原師親】  土岐氏とつながっている【原氏】                      

2021-02-02 | 土岐氏















蜂屋氏
清和源氏頼光流蜂屋氏
いわゆる美濃源氏の一族で、源頼光の7代孫にあたる山県三郎頼経の子の頼俊が美濃国加茂郡蜂屋に居住し蜂屋冠者を称したことに始まる。下って鎌倉時代後期の頼親(頼俊の子)の代に嗣子がなく、同族の土岐光定の子であった定親が養子となって名跡を継いだことから以降土岐氏の庶流となり、定親の次男・師親の系統からは後の江戸崎氏(常陸土岐氏)、万喜氏(上総土岐氏)へと繋がる原氏(土岐原氏)を輩出した。また系図上の繋がりは未詳であるが美濃出身である事や同じく土岐支族である金森氏の金森長近と同時期に織田信長に通じた事から蜂屋頼隆もこの一族であると見られている。徳川家康の家臣蜂屋貞次(半之丞)もこの系統と見られる。

この蜂屋荘を千葉常胤が欲しがったという事は、孫娘の婿の土地であったのではないだろうか?
其の婿が歿したのちに、まだ孫も小さく常胤が預かりたかったのではないだろうか?

万喜氏
万喜頼元 : 万喜氏(上総源氏)の当主の万喜時政の玄孫、光頼の曾孫、頼銀の孫、頼為の子。嗣子がなく、同族の原頼元により、土岐惣領家から、頼房を養子に迎えた。
原頼元 : 土岐光貞(光定)の甥で、美濃原氏の祖の原師親(蜂屋定親(貞親)の次子)の後裔光胤の子、頼胤の父。上記のように土岐惣領家から、頼房を万喜頼元の養子に迎えさせた。

原彦四郎師親
この人物は土岐光定の四男であり、蜂屋氏に養子に入り、「原氏」となったようである。
光定(養父:蜂屋定親)ー師親ー…光胤ー万喜頼元ー頼房ー頼胤
で、合っているだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E5%B1%8B%E8%8D%98

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/akechi2.htm
『原紀伊守光広
 「宮城家系図」には、光秀の叔父、兵庫頭光安の弟に原光広が見える。』とある。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/hara.html

常陸土岐氏・恵那郡・信濃信太荘・宮城家系図…皆バラバラな様ではあるが、何処か繋がっているのではないか?

そしてその始まりは、土岐光衡・光基・光行と、尾張国二宮の「原高成・高春・その弟四人高義・高長・高弘」と接点があるためではないだろうか。

まだまだわからないことだらけではあるが、「原氏」も注視していきたい。

コメント (9)
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土岐光基の養子であった「光衡」と「弟の光行」 そして、伊賀氏との関係 + 浅小井氏と大仏氏

2021-01-23 | 土岐氏

光基には頼基という息がいた。
いたのだが、平清盛に何事かあって誅されてしまった。

そこで、養子にとったのが「光衡」であった。光基の弟光長の息であった。(光長1184年に歿している。)
では、頼基と共にいたはずの兄の「光行」はどうしたのであろうか。


光行「伊賀判官」
頼基「伊賀蔵人・後白河院蔵人」



年代は、兄弟の光衡と似たような年代と仮定すると、
光衡は平治元年(1159年)生ー元久3年3月25日(1206年5月4日)没である。享年38歳


何故、土岐光基は頼基亡きあとに、光行を跡取りにせずに「光衡」を養子に入れたのだろうか。
光衡が優秀であった事にもよるのかもしれないが、ヒントはこの光行の「伊賀判官」にあるのでは…と思ったのである。

伊賀光季は伊賀判官とよばれていた。
私には、この土岐光行(光基の息の方)が伊賀光季(光末)となったように思えてならない。

===*===

上記のことに加え、【稲葉山城】と関係があるように思える。

稲葉山城 wikipediaによると、
「1201年(建仁元年) - 二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。
続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が砦の主となり支配。
二階堂行藤の死後、廃城となる。15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。」

以上のように、その始まりには深く関係している。

「稲葉山城」のことを調べてみると、光資が光季の跡を継ぎ、稲葉山城に居城している。


https://books.google.co.jp/books?id=NDaUDK9kS_8C&pg=PP599&dq=%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E3%80%80%E5%9C%9F%E5%B2%90&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjr5fqhmrHuAhWxIaYKHWALDrEQ6AEwA3oECAQQAg#v=onepage&q=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%89%E8%B3%87&f=false



二階堂氏と土岐氏は足利尊氏が出てきた時代にも関係は続いていたのではないかと思う。特に、夢窓疎石を師と仰いでいた人たちの中に二階堂氏・土岐氏がいたと思うのだ。

更にその夢窓疎石の出自として佐々木氏・乾氏・北条氏が関係し、更に浅小井の乾五郎朝房がその近くにいたように思えるのである。

乾五郎朝房の兄であった公宣の息が北条師方であったのだが、其の妻は「大仏宣時の娘」であった。
宣時の兄に北条朝房がいる。まさか…と思うのだが、この浅小井氏がイコール北条氏だったのだろうか?
【大仏朝房 妙性】と【乾五郎朝房】 乾五郎は佐々木定高の養子に入っていた。定高は土佐に配流となった。
その後に何かあったのだろうか?

いや、別人でしょう。。。という声も聞こえはするのだが、
では、なぜ浅小井師方之妻に大仏宣時の娘が入ってきたのだろう。

何故、ココで北条氏とがっちりとつながりができたのか。



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伊賀蔵人光基・三男の源頼基

2021-01-18 | 土岐氏


伊賀氏

群書類従では

頼光四世孫土岐光信
光基(蔵人 従五位下伊賀守伊豆守 使左衛門叙留 保元の乱候内裏)
頼基(伊賀蔵人と号す。清盛公の為誅せらる。)
光朝(陽明門院蔵人)
光胤(號伊賀彌五郎)
光秀(伊賀四郎)・弟伊賀又五郎國光

光朝の息 光胤・光長・光忠 











===*===

伊賀光季(太郎・兵衛尉・左衛門尉・大夫判官) この人物は藤原秀郷流の伊賀氏である。
清和源氏の伊賀氏とつなっがという事だろうか。
光季の母親は「源邦業の娘」である。
邦業は、鎌倉幕府初期に活躍している人物で、中原経久と共に文書に出てくる。

伊賀光季子息四人

この伊賀光季の父は朝光(結城氏ではないが、娘が結城朝光に嫁いでいる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%9C%9D%E5%85%89

源邦業
















源邦業は下総守であった。 
上記治承三年正月にある「中原朝臣頼基」こそが、源光基の息「源伊賀守頼基」だったのではないだろうか?
気になっている。

他に近江と関係する人物に「丹波康頼の後裔に頼重」がいるそうである。

「大中臣頼基」も存在するが、時代が古すぎると思う。
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土岐氏の一族「美原様」のページ  五之里の「原」氏からの出という。

2021-01-18 | 土岐氏


https://miharake.exblog.jp/15619191/

このページに、今まで知らなかった事も出ていて、非常に興味深く読ませていただいた。

美濃国の原様という事のように読めた。

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源員定 九里氏ヵ?といわれている人物である。 読みは「かずさだ」と思う。

2021-01-17 | 土岐氏

源員定という「保」の商業に関わっていた人物がいる。1398年


日本通信辞典では、
舟木頼重 : 別称は頼直/頼真、通称は高松八郎。上記の土岐光定の子、国時・高田衡国・教国・笠毛光教(光時)・国胤・蜂屋定親(貞親)・頼定(頼貞)の弟、頼春(頼玄/頼員)・光賢の父、頼夏の祖父、頼尚の曾祖父、政尚の高祖父、政頼の6世の祖、光俊の7世の祖。妻は叔父の土岐光員の娘。戦国時代の南光坊天海(随風/舟木秀光)は、その後裔にあたる。讃岐国守護となった

この妻は光員に注目。
光員の「」の字。
「かず」と読むのだと思う。

定「かずさだ」

次に、息にも舟木頼「よりかず」(頼春と同一人物となっている系図、別の系図も…)

== 何か関係(通字)があるのかどうかをみたいと思う。==


この系図によると「光貞」ー「貞親」ー「貞経」ー「孫太郎頼


こちらの系図では、「光定」ー「定親」(隠岐孫太郎)
其の光定の兄弟に「光員」


頼遠の跡を継いで左近将監となったのが頼春である。
頼重の息も頼春である。ともに同じ「孫三郎」を名乗っているので、親子の関係と思われる。

系図では、貞親の孫が頼員となっている。しかも正中の変とは別人と記載がある。

その貞親の母と同じ母から頼重、なので、実の兄弟貞親・頼重となる。(母は平貞時)





美濃明細記 、 美濃雑事記の系図 
https://books.google.co.jp/books?id=Lm9zQ7WygjkC&pg=PA69&dq=%E5%9C%9F%E5%B2%90%E3%80%80%E5%85%AD%E9%83%8E%E5%85%89%E8%B2%9E%E3%80%80%E4%B8%83%E9%83%8E%E5%85%89%E5%AE%B6&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjBg8zk76HuAhWOP3AKHX2jDDMQ6AEwAnoECAQQAg#v=onepage&q=%E5%9C%9F%E5%B2%90%E3%80%80%E5%85%AD%E9%83%8E%E5%85%89%E8%B2%9E%E3%80%80%E4%B8%83%E9%83%8E%E5%85%89%E5%AE%B6&f=false

↓では「光員」が「光貞」となっている。六郎光員(貞)と七郎光家である。


↓では、「光定」と「平貞時の娘」との子に「定親・頼員・頼重」となり頼員は厚見郡高田城・可児郡金山城にいた事になっている。


===*===

土岐六郎光員から、婿である頼重の裔に通字名「員」をいただき、「源員定」が九里氏にその後つながった‥‥などのように思えるのだが、
なんせ、頼重の落城後、本領江州舟木庄に潜んでいた頼重の息たちである。そこと、九里氏とが繋がったとしてもなんら不思議はない。
不思議はないどころか、以前調べていた「富城・富木蓮忍・常忍」が「土岐氏」と関連が出てくるのではないか?とも思っている。

年代としては、ちょうど土岐光定・光員・光家と同年代の「富木常忍」なのである。没したのも光定とほぼ同じ。
光員が九里氏と関係があった人物かもしれない。

しかし、光員・光家の情報はあまり出てこない。
wikipediaの土岐光定の註に「 両人(光員・舟木頼重の二人のこと)とも頼員(舟木頼春)の父とする説がある。」

頼員は、正中の変のことがあって、頼春に改名したのだろうか。
で、もう一人定親・頼重の兄弟にも頼員がいた…という事になってしまうのだが‥

決め手となるものはなかったが、九里氏は土岐氏(舟木氏)と何等か関係がありそうな気がしてきた。
始まりは中原、藤原、木村、長田、佐々木、その後 土岐(舟木)・千葉…と関係を築いてきたのかもしれない。そして、松田氏との関係も松田某を養育し‥‥とどこかに書かれていたので、そのあたりからかも…と思う。

これは土岐船木氏と森氏の関係


同じ本に、乾氏も何カ所か出ている。





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本巣郡 船木庄 (3)船木四郎頼衡 

2021-01-16 | 土岐氏




この系図には頼衡という名が出てくる。土岐頼貞の息で乾氏の祖と成る道謙の兄弟である。
船木庄(十七条)に居住していた人物、左衛門蔵人、船木四郎とある。


頼春が1352年まで、近江国の船木庄に潜んでいたのは、なぜなのか。

「観応の擾乱」が原因だったのではないだろうか?
1351年12月、足利直義軍は敗北し、1352年1月になると直義は遂に降伏。
足利直義の方についていたのか?

もう一度群書類従を読んでみよう。








頼重落城の後…頼重落城とはいつの事だろうか?

頼重ー頼春ー頼夏・頼尚ー正尚ー正頼…

その頼重の息である頼春と頼重の孫の頼夏が不在の間、頼衡が美濃国の船木庄を守っていたという事になるのかもしれない?
そこで、近江国舟木庄から美濃国へ還る際には「土岐庄」へ、となったのかもしれないな?…と思っているのだが。

さらに混乱するのだが、舟木頼胤(土岐頼員の弟?船木頼重と同一人物とも言われる)…ともある。

諸説ありすぎて、とても付いていけない。。。
パン殿様の「土岐章」氏がまとめた系図があるそうで、それが一番真実に近いのでは‥‥という話である。



===*===


では、土岐庄には、もともと誰がいたのだろうか?
不在の地であったのだろうか?

土岐庄は「土岐氏の本居なり」とある。
始まりは「鶴が城」、そして、後に「大富館」??に移り、
その後、「長森城、革手城」と移り変わっていったと思われるので、かなり初期の頃に土岐庄が存在していたのかもしれない。





===*===memo

他に気になった事。
土岐頼清の母は佐々木頼綱の女

世保康政(弟国康、弟満康[子に持康〔船木光俊養子〕]、女子[土岐詮直室])
─持頼(船木持康の子)
─政頼。

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若しくは「モシクハ」問題は、解決!

2021-01-16 | 土岐氏

「若しくは」なので、どちらかだ!という意味とすれば、別に同一人物でなくともよい。

両人とも同じような立ち位置で働いていたという事かもしれない。

頼春は左近蔵人
頼遠は左近将監

…という事は、頼春は「正中の変」の後も、そのまま働いていたことになる。

しかも、尊卑分脉系図には頼春も「左近将監」とある。(建武二年)1335年

1342年に狼藉で誅されているはずの頼遠なので、其の跡を頼春が継いだという事のようである。

解決した!

其の頼春は、1324年のあと1335.1336年位までは文書があり、確認できる。





建武三年の文書は頼遠ではなく、頼春のものであろうと思う。






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突如、迷路に入ってしまった。 頼春・頼遠・頼員 の問題。

2021-01-16 | 土岐氏



土岐頼遠若クハ頼春ナルベシ

この時代一人がいくつもの名前を持っていても不思議ではない。
また、土岐氏は人数が多いため、同名の者もいるかもしれない。

頼遠=頼春、と成るならば、頼春=頼員であるとの「正中の変」の人物はどうなるのだろうか?

頼遠は頼貞の息で、酒に酔ってではあるが、駕籠の中の天皇に不遜な言葉を投げかけた「婆娑羅」な人物と思う。この人が、若いころは「頼春」であった…?

もしくは、同じ名前が嫌で、途中で変更したなどとも考えられる。

先の「正中の変」の土岐頼〇は、頼員で、読みが「よりはる」なので、「頼春」かもしれない、と誰かが考えたのかもしれない。

それとも、頼員=頼春=頼遠と、同一人物という事もあり得るのだろうか?

系図は様々で、どれも少しずつ違うので、私には判断ができない状態である。


===*===

東京大学の史料編纂所DBでわかった事は、

頼遠と道謙、ともに行動していること。


web情報でわかった事は、

頼遠の息子たちは厚見郡の隣の本巣郡に移り土着したと伝わる。

一方、1352年頃の頼夏たちは近江国舟木庄に隠れ住み、その後「土岐庄」に移り住んだこと。
(群書類従)‥‥美濃国の船木庄ではなく「土岐庄」!!


尾張国の前野氏と近くなる。(私のつぶやき)

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本巣郡 船木庄 (2)十七条城主 船木三郎頼胤 続報その2.武藤次郎頼実(母方)

2021-01-15 | 土岐氏

(其々の本で頼胤が誰の息なのか、がバラバラである。そこは、あまり深く考えず載せている。)
十七条城主であったという土岐船木頼胤の息は、母方の姓である「武藤」を名乗り「武藤次郎頼実」なった。家臣松田何某を養育し、、と美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記: 全にはあるので、松田氏の血も入っているのかもしれない。 
 
武蔵次郎頼実は、近江塩津合戦で討死したようである。













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本巣郡 船木庄 (2)船木三郎頼胤 続報

2021-01-15 | 土岐氏

この船木頼胤は「土岐頼員」の息とある。





この頼員が「よりはる」と読み「頼春」ならば、正中の変(1324年)の原因ともなる「妻にポロっと言ってしまった」人物である。

この人物の息であるならば、頼夏と同じく、近江国船木庄(本領)に逃げ込んできた中にいたのではないだろうか?

そう、近江国が本領となっていたのである。

「土岐頼重の息に頼夏の腹違いの弟頼尚がいて、母親は高階氏という。」
この二人と共に居たのではないだろうか?

と成ると、1338年暦応元年に歿してしまっている「頼胤」も共に二年後に美濃国船木庄に戻っていることになる。ならば、美江寺過去帳にその名があっても納得である。

ただ、海上の船木氏と関係があるかどうかは、これからの課題としておこうと思う。
こちらは、片岡氏が地頭であったが源頼朝に没収されて、その後に入った海上氏であろうと思う。

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