秦野市史
建長二年十二月に、将軍頼嗣の近習の結番が定められ、番当たり一六名ずつで六番からなり、
一番に出雲五郎宣時、三番に出雲次郎時光、四番に波多野小次郎宣経、五番に波多野五郎秀頼らが任命される。
該当する箇所(東京大学DBより)建長二年(1250年)
昨日・今日と長い散歩をしてきた。
桜を満喫! 梅も満喫!
オシドリにも遭遇!
久々に楽しい散歩でした! やっと色彩が戻ってきた感じ。
秦野市史
建長二年十二月に、将軍頼嗣の近習の結番が定められ、番当たり一六名ずつで六番からなり、
一番に出雲五郎宣時、三番に出雲次郎時光、四番に波多野小次郎宣経、五番に波多野五郎秀頼らが任命される。
該当する箇所(東京大学DBより)建長二年(1250年)
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波多野出雲五郎左衛門宣時
以下は、googlebooksで集めた情報である。
祇園社の南、五条橋に通ずる道路に面して北六波羅探題が存在し、付近に波多野宣時の館があった。出雲五郎左衛門尉
波多野五郎秀賴
佐治重家・宣時・佐分親清等は、出自や辿ってきた道はそれ異なるが、建長頃には大きく見れば似通った立場に属する人々である 。
彼は「波多野出雲氏」とも呼称される波多野氏で、普通は「宣時」と表記される、波多野五郎左衛門尉宣時のことである。
出雲五郎左衛門入道名は宣時、波多野義重の子で、のち、出家して道覚と号した。義重の子宣茂(重)、孫宣通は、ともに六波羅評定衆として在京している。波多野氏の本貫は相模国大住郡南波多野荘。京都に在住した武士で、浄阿弥陀佛の有力な樓越。
義重は当時の六波羅探題、即重時の被官であったことが解るのだが、のみならず重時の女を妻にしており、その間に宣時と弟時光が生まれる。更に佐治重家と同じように、六波羅探題への訴訟取次ぎ等の役等に ...
*****
佐治重家・波多野宣時・佐分親清
この佐分親清という名、聞いたことがある。
「高島郡と若狭・越前の関係は深く、平安末期には本佐々木氏の船木時家が高島郡船木から若狭に進出して佐分氏を名乗り、若狭国御家人となっている(のち佐分氏には桓武平氏高棟流の加賀守親清が養子に入り、六波羅探題北条重時の若狭守護代になっている)。また高島七頭のうち田中氏と山崎氏は越前に進出している。」朽木氏の系譜 より (佐々木哲学校)
http://blog.sasakitoru.com/201011/article_1.html
佐治重家:重時の側近としての活動は1233年から見られる。重時の守護国である和泉国の守護代を務め、重時の子長時、時茂が六波羅探題に在任していた時期には奉行人として彼らの業務を支えた。
建長3年(1251年)には閑院内裏の作所奉行人を担当。朝廷との交渉でも手腕を振るった。
波多野宣時:六波羅探題の評定衆
佐分親清:加賀守(本佐々木の船木氏に養子として入る)若狭守護代
googlebooksで、波多野宣時に関する情報を集めてみた。
調べようと思ったきっかけは「六波羅探題の研究」森幸夫著作の註に『佐治重家と 波多野信(宣)時は幕府が造営した閑院内裏の作所奉行人である。』とあったためである。
波多野宣時は波多野義重(1258年歿)の息であり、忠綱(経)の孫に当たり、波多野義通の曾孫である。
九里氏に当てはめると、
中原久経の母が義通(1107年生-1167年歿)の妹か義妹とすると、久経(1145年以降生ー)と忠綱が従兄弟、義重(1258年歿)と経任が同世代、九里の祖の経久と宣時が同世代となりそうである。
・・・とすると、相対的な関係からすると、1175年生まれの片岡経久は年代的に見て九里太郎経久ではないことになる。
もしかすると富木常忍の母(1185年に90歳)の弟あたりの年代か、同母の息子で常忍の兄か‥‥が妥当となってくる。
*****
波多野上野前司宣通とはどなたのことなのだろうか? ↓
web情報によると、
http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/ha.html#nobumiti
相模国・波多野(秦野)を拠点とした波多野一族の武士。左近将監となった波多野宣茂の子で、六波羅探題の評定衆をつとめていた。
元徳3年(元弘元、1331)8月末に後醍醐天皇が宮中を脱出して倒幕の兵を挙げると、六波羅探題は当初後醍醐が向かったとされた比叡山延暦寺を攻撃、このとき東坂本(琵琶湖西岸)に出陣した武将の中に「波多野上野前司宣通」の名がある(「太平記」「光明寺残篇」)。『太平記』によればこの戦闘で波多野の郎党十三騎が戦死している。
笠置山が陥落して後醍醐一派が捕えられると、三条公明・洞院実世の身柄を佐々木時信と共に一時預かっている。
波多野義重ー宣時―宣茂ー宣通 という系図になるようである。
この元弘元年と思うのだが、唐崎合戦で九里彦八郎が討死している。
佐々木時信・目賀田氏・伊庭氏らと共に九里も参加していたと思われる。
https://santalab.exblog.jp/20768914/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%B8%AB%E8%B3%A2
「故頼家の子善哉、「公暁」、鶴岡八幡宮別当尊暁の弟子となり、是日、入室す、」という記述を見つけた。
公暁は1200年生まれであるから、5歳の時(元久2年12月2日・1205年)に鶴岡八幡宮別当尊暁に預けられている。
とある。
更に実朝と8歳しか違わないにもかかわらず、これまた政子の意により実朝猶子とさせられてしまう。
義典の記載のある松田系図を見ると、承久のときにまで生きていたことになる。
承久元年は建保七年と同じ年である。
建保七年(1219年)2月21日
白河左衛門尉義典が悪別当(公暁のこと)の使者として伊勢神宮に参詣した件について、
(鎌倉に戻る)途中で自殺を遂げてもその罪は償えず、遺領を没収して新たな地頭を補任した。
吾妻鑑にも記載があるそうなので、ココは系図には不名誉なことの詳細は書かなかったことになる。
.
和田合戦でダメージを受けていた秀郷流波多野氏のみならず、松田氏(荒木田氏)も所領没収となる。
しかし、それだけで済んだのはおかしくないだろうか?
時の将軍の首を取ってしまうという「公暁の手伝い」をしたとすると、その家族が重たい責任を取ることはなく,では済まないと思う。全滅させられてしまった比企の乱や宝治合戦のように。
北条義時がいるはずの場所に、交代してもらった源仲章がいたこと(仲章は殺される)、
大江広元がその日に涙が出て止まらず、また、実朝に腹巻をするように進言していた、ということ。アヤシクないだろうか?
それに離れた場所で自害していたにもかかわらず、なぜ白河義典の自害が公暁とかかわりのある事であったことがわかったのか。
そこもアヤシイ。やはり、三河にいて自害したのは公暁だったのではなかろうか。
其のドキリとする所行が他の参列していた人々に公暁であると認識されたのは「親の敵はかく討つぞ」と叫んでいたためと思われるが、皆に即座にそれが公暁だとわかるものだろうか。
義時にはわかっていたのではないだろうか。
誰がどのような行動に出るのかを。だからこそ、義時は避けることもできのではないだろうか。
あらかじめ選ばれた白河義典が公暁役をして「親の仇…」を言いながら暴れまわることを知っていたのではないだろうか?
さらに、公暁(公暁の替え玉であった義典自身)は義時がいては、誰がやったことなのかがバレルであろうという懸念があった。
義時に指示されていたとしても、そのまま逃げおおせれば、、、と思っていたのかもしれない。
つまり、計画をすべて知っていた人物は北条義時であったのではなかろうか?(あるいは計画を練った人物であったか。)
但し、雪が降ることは想定外で、足跡が残ることも想定外であったであろう。
その足跡が残る事、が、義時に指示されて一時の匿い先となった三浦としては嫌な事だったのだろうと思う。
巻き込まれる可能性が大と踏んだのであろうと思う。雪がその計画を台無しにしてしまったのかもしれない。
という事は、公暁はもしかすると首謀者ではなく、「三河」に匿われて、知らぬうちに事が進められ、汚名を着せられた…とも考えられるのではないだろうか?
何も知らぬうら若き白河義典がはめられて公暁のためを思って行動していたはずが、まんまと政略的な渦に巻き込まれて、
大江広元・北条義時の計画に使われたのではあるまいか。
とすると、策謀者に政子も入っているか。
まさか、まさか、の連続なのだが、本日はそのように思ってしまった一日であった。
公暁と白川義典は被害者であったかもしれない。
公暁は義時を仲間と勘違いし、白河義典は公暁の身代わりになることでお役に立ちたいと思い、、、と。
薄暗い雪の日の妄想であり、矢代さんの本を読んでいると、やはりどこかに吾妻鑑の嘘があって、何処かに義時の影が見えるような気がするのである。ドラマの爽やか系の義時ではなく申し訳ないのであるが…義時56歳の時の出来事である。
1219年 建保七年 1月27日
この事件のことはwikipediaで確認できる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D
googlebooksの情報を集めていくと
「白河義典、公暁の死を聞き自殺す
義典は公暁の家人であったらしい」とある。
この白河は、宇治次郎刑部丞義定(俊職)の息であり、宇治には「白川」という地名があるのでそこから来ているのかもしれない。號白川と「河」ではなく、「川」となっている。
この白川義典は、矢代仁「公暁 鎌倉殿になり損ねた男」にもある様に、乳母子であった可能性があると思う。
中原俊職となったとすると、中原俊兼が義父であったろう。
中原氏には乳母夫が多い。
公暁も将軍頼家の息であるからには乳母がついていたであろう。
それが中原俊兼の娘であり、義定の妻であったと仮定し、公暁と共に育ったのが義典となる。
つまり、それが乳母子となる。
義典は公暁と兄弟のように育ちながらも、公暁の為にはいつでも命を捨てることのできる育てられ方をしていたかもしれない。
そして、公暁と共に「実朝が父を死に追いやった」と勝手に思い込み、誰かにそそのかされもし、仇討ちを決行する計画を立てたであろうと思われる。
公暁は何歳の時に僧門に入ったのであろう。
wikipediaよりその部分を拝借しよう。公暁1200年生まれである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81
「父である将軍頼家は建仁3年(1203年)9月の比企能員の変によって鎌倉を追放され、翌年善哉(=公暁のこと)が5歳の時に北条氏の刺客によって暗殺された。
建永元年(1206年)6月16日、7歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母である尼御台北条政子の邸に渡り、着袴の儀式を行う。
10月22日、乳母夫である三浦義村に付き添われ、政子の計らいによって叔父の3代将軍源実朝の猶子となった。
建暦元年(1211年)9月15日に12歳で鶴岡八幡宮寺別当定暁[2]の下で出家し公暁の法名を受け、翌日には受戒のため上洛する。
園城寺において公胤の門弟として入室し、貞暁の受法の弟子となる。
建保5年(1217年)6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任した。
同年10月11日からは裏山で千日参篭をおこなう。
翌年建保6年(1218年)12月5日、公暁が鶴岡に参籠して退出しないままいくつかの祈誓を行っているが、一向に髪を下ろす事もしないので人はこれを怪しんだという。
また伊勢太神宮や諸社に奉幣する使節を送った事が将軍御所で披露されている。
===*===
まず、18歳で鎌倉に戻っていて、鶴岡八幡宮寺別当となっているにもかかわらず、北条義時の顔も知らずに、間違って源仲章を切るだろうか。
さらに、矢代仁さんの著作のなかに「阿闍梨の面を見奉らず」という章がある。
此処を一部引用させていただくと、暗殺当日の『吾妻鑑』には、北条氏が公暁の顔を知らないことを意味する記載がある。
長尾定景が公暁の首を持ち帰り、三浦義村が北条義時邸に持参した。義時が出てきてその首を見た。」
その際の義時の言葉は「正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。猶疑貽有り」だったそうだ。貽は残すという意味だそう。
つまりは公暁ではなく他の首である疑いがある。
北条義時は今まで何百もの首を見てきたであろうと思う。その人が疑いありと‥‥
さらに、公暁は他の者たちにも顔を見られぬようにか、鶴岡八幡宮に千日籠っていて、その間に替え玉となった白川義典にすり替わっていたのではないだろうか。
だいたいにおいて、僧兵というカテゴリーはあるものの、公暁という個人がはじめて人の首を切る際に誤らずに切れるものだろうか?
髪も伸びていたというが、それこそ千日の籠っていた間にすり替わった白川義典と分からなくするための工作であったのではないだろうか。
さらに、公暁が亡くなったとの知らせの後に白河義典が自害しているのだが、
白川義典と思われていた人物のそちらが本物の公暁であったのではないだろうか?
替え玉であった白川義典が証拠として公暁に見せるために首を離さずにずっと持っていたのではないだろうか?
実朝の首は秦野へ持ち帰り波多野忠綱が埋葬したという首塚伝説があるそうである。
いずれにせよ、波多野氏に関係がなければ、そのようなことをしたかどうか‥‥
私の個人的な説、白河義典が替え玉として「公暁」となっていた!でした。
まだまだ思う処はあるが、とりあえずココまで。
昨夜読み返してますます面白いと感じた本です。
波多野義通(1107年生)の妹は源義朝妻であった。そして朝長を産む。(1143年)
其の朝長は【松田殿】と呼ばれている。
何故【松田冠者】【松田殿】であったのだろう、と考えているうちに、義通の妹というのは実の妹では何代が合わないように感じ、しかも松田に居住できる条件もある事が関係するのではないかと思った。
義通とその妹は少なくとも20歳は離れているのではないだろうか?
義朝の妻となった際にすでに30歳以上とは思えないので、17歳くらいと考えると1126年。すると義通とは19歳差となる。
ありえなくもないが、、、義通の妻の妹の方が妥当である。(条件1)
次に【松田冠者・松田殿】と呼ばれるからには、そこで生まれ、過ごした時間があるはずである。
松田の義常の母は中河辺清兼娘であり(義通の妻)であるが、そこで出産し、育てるとなると、やはり姉妹であろうと思うのだ。(条件2)
たった二つの条件だが、当てはまり、清兼の娘のほうが当てはまると思う。
さらに、再嫁ぎ先の中原は、何処かというと政経の晩年の職が「近江国伊香郡の召次 案主職」であったことも含めると、
近江国中原氏となる。
その可能性は賢清の父「経賢」が久経の母の嫁ぎ先として有力候補と思われる。
そして中原太郎賢清が「中原久経」のことで、その息が景経・経任(橘次)、政経、ではないだろうか。
政経の系は、三左衛門事件のために記載がないのではないだろうか。
年代は殆どアバウトなのだが
1143年 朝長 生
1145年 久経 生
1167年 政経 生(久経22歳)
1181年 政経 所司見参
1246年 政経 鎌倉幕府 家人 伊香郡案主 (政経 79歳 ありえない? まぁ、ありえそう?)
***
橘次の経任は1165年生まれとし、九里太郎経久が1185年前後生まれとなり、(そうなると片岡経久ではなくなる…彼は1175年生まれ)
五郎常忍(富木)の母は1185年生まれなので合う。
五郎の為、母が31歳の時の息となる。
上記の中河辺は、秋田に中河辺郡、岐阜にも中河辺、たまにも中河辺などあり、地名から来た名前と思われる。
比叡荘中河辺というのもある。佐藤氏の中に「河辺太郎高経」もいる。
「中」は「中原氏の意味」かもしれない。大中臣の「那珂氏の意味」も考えられる。
中原の河辺清兼。 那珂の河辺清兼。
河辺のみを検索すると
中原俊兼と中原久経、同時代に生き、共に源頼朝の近くに出仕していた。
そしてともに秀郷流の中にいる京からやってきた者たちなのだ。
俊兼も、久経もきらびやかな衣装をまとっていたらしく、服飾の本にも記載があった。
時折、お相撲の行司さんの派手な色遣いに驚いている私だが、
日本の平安・鎌倉前期にはこのようなきらびやかな色を男性も纏っていたという事であろうと思う。
そこが東国の武士たちから見ると、浮いた存在と見えたのかもしれない。
吾妻鑑にもある様に、頼朝は中原俊兼の小袖を刀でちょんと切り、贅沢を慎むようにと諭している。
京から来た文官たちは皆ドキリとしていたようである。
笠俊兼 (1178年、1181年)
中原俊兼 建久五年~七年 六位史 (1194-1196年)
波多野次郎朝定(朝貞、義定の子、弥次郎、中嶋太郎義泰の兄弟)
義定の姉の母は伊勢神宮外宮の神人荒木田盛長の娘とある。
大中臣氏とこの荒木田氏は同じ伊勢神宮と関係がある様で、ちかしい関係のようだ。
和歌の世界で活躍している人を輩出している。
そして義通の母が藤原師輔であったことのつながりが、ココには影響しているのかもしれない。
この朝定なのだが、藤原朝方という人物がいて、その息が朝定。
朝方の妻は、なんと義通の母と姉妹なのだ。
遠義の妻と朝方の妻が‥‥という事で、上記の系図と合わせて考えてみると、
「義職」の註に遠義為子とある。
その息義定の妻が俊兼の娘、
其の義定の息朝定で、藤原朝方の息と同名の男子:藤原朝定(1165-1183)とあるのだ。
偶然に同じ名前の人物がいただけなのだろうか?
更に竹泉筑後守俊通とあり、この俊通は誰なのだろう?
前回秀郷流の中での義通ー俊通の俊通としたが、他にも居そうなのである。
下記の人物だろうか?橘俊基は市川市史にも出ている。
その俊基の孫が俊通となり、義定が養子として入ったとし、義定の妻が藤原俊兼の娘である。
こちらの人物は筑後守ではないが、1178年迄は確実に生きている。
藤原俊通
没年:没年不詳(没年不詳)
生年:大治3(1128)
平安末期の公卿。太政大臣宗輔と橘俊基の娘の子。平治1(1159)年参議,応保1(1161)年権中納言になるが,翌年には不仕により恐懼している。その後正三位となり,後白河院庁の別当,民部卿,兵部卿などを務める。承安3(1173)年病により官職を辞し,治承2(1178)年出家した。
藤原宗輔
没年:応保2.1.30(1162.2.15)
生年:承暦1(1077)
平安時代の公卿。号は京極太政大臣。権大納言宗俊と源俊房の娘の子。近衛中将・蔵人頭を経て保安3(1122)年参議。次いで中納言,権大納言。久安5(1149)年大納言,藤原氏として初めて淳和院別当となる。右大臣に続き保元2(1157)年太政大臣。永暦1(1160)年辞す。父から伝授された音楽の名手として知られ,鳥羽天皇の笛の師であった。蜂を飼うことを好み,それぞれに名を付けて呼び,出仕の際についてきた蜂を車にとまらせるなどしたため蜂飼大臣と呼ばれた。<参考文献>戸田芳美『中右記』
難しすぎて、混乱してきた。
嘉陽門院越前 wikipediaでは大中臣の血が入っておりました!!
母が俊兼の娘、父は義定のはずなのに??
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E9%99%BD%E9%96%80%E9%99%A2%E8%B6%8A%E5%89%8D