佐治重家は探題北条重時の被官である(佐藤進一氏『増訂鎌倉幕府守護制度の研究」東京大学出版会
河内国高連御牧関連文書 (宮内庁の資料紹介)
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo061a082.pdf
佐治重家…北条重時、長時の使者として公武間の連絡担当、幕府側の窓口とある。
中原友景…朝廷側の窓口、西園寺実氏の後見と目される人物。
高連御牧…今出河尼御前(西園寺公相の娘)の本所
今出河尼御前…亀山上皇の中宮・今出河院西園寺嬉子(西園寺公相の娘)
嬉子の母は中原師朝の娘八十前
八十前の生母は琵琶西流の藤原孝道の娘・讃岐局
【亀山の母で今出河院を猶子とした大宮院西園寺姑子(西園寺実氏の娘)】
中原友景の周辺の情報
↓
母は中原友景女‥‥中原師益(=師孝)
中原師益(母・中原友景女) 佐渡守(=師孝)
中原師孝(=師益) 弟・僧安楽(法然弟子)=遵西 … = 中原師秀の息
中原師秀 ↓
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E7%A7%80
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%B8%AB%E7%A7%80%E8%AA%AC%E8%8D%89
中原師朝(妻・尾張守藤原孝道女-七条院女房讃岐局)
女・西園寺公相妻、室町実藤妻、今出川院嬉子(亀山院中宮、西園寺公相養女)
だんだんと、九里氏に近づいている佐治氏。
中原友景が佐治重家に進上している書状が残っている。
中原友景といえば、コトバンクによると ↓
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E6%99%AF-1136289
鎌倉時代中期の官人。建保5(1217)年に修明門院の下北面(院に仕える侍),嘉禄2(1226)年に使宣旨を受け,その後10年ほどにわたって検非違使として活動の所見がある。西園寺実氏の後見といわれており,武家との申次 をつとめるなど,同家において重要な立場にあったらしい。後嵯峨院の下でも,下北面の所司・御厩案主に任じられている。西園寺家の興隆を下から支えた人物のひとりといえよう。
(本郷恵子)
西園寺実氏の母は、一条能保の娘全子であり、一条家には中原政経が家司として仕えていたことがわかっている。
更に友景は前石見守として登場しているので、それは清原出身の有安の系が混じっていると思われる。
中原有安(有康)・中原景安(景康)…と云う事は、景安の兄弟あたりの年代かも知れない。
九里氏の祖となる中原氏と石見国関係の久利氏の祖となる清原氏の接点となる人物、それが中原有安とその息たちなのではないだろうか。
そう思えば、石見国の清原系の中原友景(鎌倉と京を行き来)が近江へやってきて九里氏と名乗っても、おかしなことでもない。
その中原友景が、佐治重家に書状を出している。
この中原友景は、一通の書状では中原友重ともなっており、同一人物のようである。(息かもしれないとも思うが、北条重時から一字を賜わってのことかもしれない。)
さて、佐治重家とは、どのような人物だったのだろうか?
調べてみると因幡国の佐治重貞の息子であった!
北条重時の側近である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B2%BB%E9%87%8D%E5%AE%B6
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82-132148
中原友景は大中臣姓も名乗っていたことがあったはず?(memo)
光氏と兄弟だった・・・と自分のブログ内検索で調べると出ていた。(笑)忘れていた。
二人友景がいた…とその時は判断したが、今は違うような気もしている。
知多郡の大野城と岡田村は徒歩圏である。
この岡田村にいたのが大和宇陀松山藩と柏原藩にいた岡田氏のいた場所となりそうである。
つまり、佐治氏の隣に岡田氏がいたことになる。
岡田氏となる以前には山田氏で、尾張国山田郡菱野村(瀬戸)という場所にいた。それが以下の場所となる。
web 情報によると、
http://www.oshiro-tabi-nikki.com/hisino.htm
菱野城は、平安時代末期に山田重定によって築かれた。文治年間に至り同族山田重忠は、山田庄の長となり、重忠の曾孫山田泰親は上菱野、その弟山田親氏は下菱野の地頭職に任じられた。
上段 ↑ 泰親 山田三郎 ・下段に重政(岡田村に移ってきた人物)
重頼が岡田與九郎(与九郎)であり、織田信秀に仕えていたという。つまり佐治信方と同時代を生きた人物である。
息の重能もまた織田信秀・信長・信雄に仕えたという事から、佐治一成と同時代となろうと思う。
しかも、この重能(重善・直教)から尾張の星崎城に居城していた。(天正十一年3月26日歿)
尾張群書系図と柏原織田家臣系譜では系図が違うので、何が本当かはよくわからないが、
上記に貼った尾張群書系図では重能(重善)の息直孝が天正十二年3月3日に誅されている。
柏原の系図では、重善が直孝(重孝)と同一人物となっている。しかも、重頼を入れて6代目に信長に生害された重善と記載されている。
尾張系図の方は重頼の孫に信長に生害された直孝、となっている。
どちらも間違いかもしれないし、ココでは佐治氏のことなので、これ以上は踏み込まない。
今回は、いかに岡田氏近いところに佐治氏がいたのかがわかったことが収穫であった。
尾張国の佐治氏。
知多郡にある大野城の佐治氏のことになろうと思うが、尾張氏が祖という説もある佐治氏なので、それ以前にも尾張国にいたことがあったのかもしれない。
姓氏・姓氏研究の決定版 丹羽基二 著
『子孫に熱田神宮の社家、氏人の一族がある。
広畠、橿園、望月、篁岡、... 主なものは、荒木田姓(伊勢内宮祠官)、藤原南家真作流(美濃)、清和源氏斯波氏族(美濃)、織田氏族(美濃)、桓武平氏佐治流(尾張)、清和源氏多田氏族(摂津)、三善族(石見)など。』とある。
知多郡は『熱田神宮領』の多いところとのことが関係するのかもしれない。
さて、佐治一成の周辺を調べていこうと思う。
この佐治氏は柏原藩の『柏原織田家臣系譜』の中に名が挙がっていた。
また、尾張群書系図部集には佐治氏がかなり載っていた。
下は、徳川諸家系譜より
尾張国大野城主佐治為景の嫡男が佐治信方で妻が信長の妹お犬の方=大野殿または大野姫である。
信方21歳で討死している。
お犬の方は二人(佐治一成・中川秀休)を産み、信方没した後に実家にいったん戻る。
信方没して三年後に山城槙島城主細川昭元に再嫁。
信方の息であった佐治一成の妻は浅井長政の娘お江で、後に離縁し、
織田信長の娘於振(お鍋の方の娘)が嫁いでくる。
この於振は、初婚は水野忠胤で三人の子どもがいた。(水野勝信と南條宣政室・丹羽氏信室)その後佐治一成に再嫁し、為成を産んだか、または、養子として取ったかである。
(為成が、秀休の息となっている系図があったので。)
この、佐治一成は織田信雄の家臣であったという。
そして、その後 岡田重考 に加担して、信雄に追われたそうである。
しかし、佐治一成は、織田信包(のぶかね)の家臣として初代藩主の信包について丹波柏原藩に入っているはずである。
(その頃、我が系の九里(岡田)氏は、まだ大和宇陀松山藩にいた。)
知多市史 本文編 によると、
佐治氏は南北朝のころは丹波国に住し、のち近江国甲賀郡佐治郷に移って佐治を称するようになった。
甲賀郡の飯道山の岩本寺に居たこともあり、飯道山の修験道から身を立てたものともいわれる。
(飯道山の岩本寺…九里が鎌倉時代後期~紀伊熊野に移る前までいた場所でもある。)
佐倉市史
康平五年近江国甲賀郡小佐治郷に補任し佐治殿と称されたと伝う(佐治氏由緒書)。以来、江州甲賀郡の古士三十一人衆の中に列した。
佐治氏の本質は近江国甲賀郡佐治之郷
佐治城は、甲賀衆の佐治氏の城とされる。
康平5年(1063)に平業国が伊豆から移り佐治城を築いて佐治氏を名乗ったという。
尾張國諸家系図によると、
佐治氏系図尾州知多郡大野村(現常滑市大野町)宮山城主。『尾州諸家系図集』所収近江国甲賀郡佐治庄発祥は桓武平氏国香流北条氏族。佐治宗貞駿河守。大野村宮山城主。「享禄三年九月七日卒、法名前駿州大守斎年寿山大居士。」佐治爲貞杉王丸。
因幡国の佐治氏に関して調べてみた。
長田氏は高草郡高庭庄の開発領主として発展した。高庭庄は奈良時代に発生。たかばながた遺文』)」に、「因幡国御家人佐治四郎重貞申、佐治郷司地頭等職事」(系図研究の基礎知識 第二巻 近藤安太郎著)とあるそうで、長田氏の文書の中に此の佐治氏が登場している。
また、「建暦三年(一二一三)の「関東御教書案」 (『鎌倉遺文』)に「因幡国御家人佐治四郎重貞申、佐治郷司地頭職事」(歴史と文化を探る日本地名ルーツ辞典)
因幡国佐治谷の開発領主佐治氏の所領支配についての研究もある(仲村研「中世地域史の研究」高科書店)
鳥取県史第2巻第一章にも、佐治氏に言及されており、佐治重貞の父は道貞、重貞の兄は安貞であり、この兄は『曳田大夫康貞』であるそうだ。
曳田氏が、疋田氏と同じであるならば、斉藤氏・大江氏と関係があると思ったのだが、、、、
実は因幡国八頭郡の八上村の曳田郷からきた名字だそうだ。
上記から『長田氏』とつながりがあったとすれば、九里の祖、近江国の中原氏から九里氏となった者たちとも近いところにいたにちがいない!
しかも御家人とある。さらに本姓は尾張氏という。
1213年(建暦三年)弁官補任裏文書にある内容は、wikipediaにもあるように
「佐治郷を継承した弟・佐治重貞は当時幼少であったため、康貞が長らく佐治郷司職の代行をしていたが、弟の成人後も所職を返還せず、実子・重久に譲渡してしまったために鎌倉幕府に訴えられた。建暦3年(1213年)11月、争っていた重貞が和田合戦で功を為したのが後押しとなり、訴訟に敗れ所職を返還した。」
重貞と兄安貞の父とは佐治道貞のことである。
道貞は「本姓を尾張氏といい、八上郡司の尾張氏の一族であり、佐治郷司を務めていた。」とある。
佐治郷周辺 同地図に冨城郷(地頭冨城中太蓮忍)・岡益の碑・若桜城付近(矢部暉種あきたねの城周辺)も載っている。
出羽中条家文書に何故因幡国の地頭職の文書があるのか。
なぜ出羽中条家文書に『因幡佐治郷北方地頭職和与状案』とあるのだろうか?
謎である。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E4%BD%90%E6%B2%BB
これに新しい情報を追加。
織田信長の妹『於犬の方』が佐治信方(大野城主)の妻であったこと。そして佐治一成・中川秀休・細川元勝の母親であったこと。
その佐治一成は、正室は浅井長政の娘 江 継室は織田信長とお鍋の方の娘 於振 であった。
於犬の方は、面長の美人であったことがわかる画が残っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%8A%AC%E3%81%AE%E6%96%B9
佐治氏の文書の中に、小堀遠州の文書がかなり残されており、その関係を調べていた。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784434060748
佐治一成nowikipediaには、海賊衆「佐治水軍」を率いていた、とあり、興味深い。
小堀氏と九里氏との通字は「助」となっている。
小堀氏と九里氏と別れた後を見るに、小堀氏の通字は「光」である。
この下記の系図の小堀三代目は兼光で、左近将監とある。
もう一つの近江の小堀氏の系図のはじまり、小堀光道の註を見ると「左近将監」とある。
和歌山系図にある『兼光』から近江国の『光道』へとのつながりがあるような気がしている。
小堀正次の肖像
https://www.alamy.com/f2000-001-000-213-00000001jpg-17-unknown-771-kobori-masatsugu-2-image185707955.html
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小堀政尹(こぼりまさただ)一六二五ー一六九四年。江戸時代初期の茶匠。小堀遠州の子、通称権十郎。蓬雪と号した。江戸幕府の旗本として千石を領す。父遠州に茶湯および書法を学び、その道具目利きで知られ、多くの箱書を遺している。
美術人名辞典の解説
小堀権十郎
江戸前期の茶人。徳川幕府の旗本。名は政尹、号は篷雪。小堀遠州の三男。はじめ母方の姓浅井氏を名乗るが、のち小堀氏となる。父の後を承け、千石を領した。茶道・書道を父に学び、また画・狂歌にも秀でた。元禄7年(1694)歿、70才。
神尾元勝と親しかったこと。其の神尾元勝は岡田元次からの養子であったことも興味深い。
小堀政一は黒田如水(考高)とも顔見知りであり、そこにも養子で岡田長門守重孝の息がいたとすると、何かありそうな気もするが、まだよくわからない。
そもそも、岡田竹右衛門元次はどの流れの岡田氏になるのだろうか。
五味氏と岡田元直(元次息)も兄弟である。
この小堀氏と九里氏は鎌倉時代の兄弟から分かれている系と思っていたが、
小堀遠州の父方の祖父がwikipediaでは、【垣見正房】という。???
正次は1540年生―1304年歿
政一 1579年生―1647年歿
確かに、垣見氏と小堀氏の屋敷はすぐ近くにあると「テクノクラート 小堀遠州」の地図よりわかる。
1437年永享九年平四郎右衛門から土地を購入している小堀新殿がいることがわかっている。
1447年文安四年には小堀池下入道善光からその土地が手放され総持寺へ寄進することとなったため、総持寺文書に収められているそうだ。
この新殿と善光は、同一人物のようである。
さて、ここに小堀家の系図があるが、垣見氏については書かれていない。
九里政道の娘は浅井尹政(後に復姓の小堀氏カ?)の妻となっている。(柏原織田家臣系譜)
和歌山県の系図 鎌倉時代 (小堀氏と九里氏に分かれる箇所)
全く時代は違うが、たまたま今見つけた情報(memo)この4月に公開になった情報もある。
旧ソ連邦抑留中死亡者の中にも九里がいた。九里小左衛門 滋賀県出身 ハバロフスク
https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/50onjun/h03/html/ku.html