九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

源行真申詞記に関しての考察(3) 意外な事実? 真野氏から三浦氏(佐原氏)へ、そして新宮氏へ

2016-04-24 | 功力と櫟

まずは九里の祖の一代前を、直感で櫟井氏・真野氏にしましたが・・・

直感が、あたると嬉しいのですが・・・

接点としては、前出ですが、崇徳院の領地である荘園に仕えていたこと。

足利義晴を預けた赤松も和邇氏族であること。

浄椿が大乗院に「豊浦庄の代官になりたい」旨を伝えに行っている事。(豊浦庄は、その昔は櫟井氏の所領だったのではないかと・・)

~~~*~~~

『賀茂六郎』も怪しいのだが、亡くなったのが1156年保元の乱のようなので、別人のよう。…と判断したのだが・・・下記読んでいただきたい。


~~~*~~~

ところが意外な事実が判明してしまいました。

姓氏家系大辞典を繙き、初めて「真野」「間野」を見てみました。


真野の15.桓武平氏三浦氏族

間野條参照。

三浦系図に「佐原義連ー太郎兵衛條景連ー時連(真野次郎左衛門尉)と載せたる者にて、・・・

江戸の幕臣に此れの裔と云うもの、一は「義連の三代真野五郎胤連の後、金右衛門重政(尾張富塚の人、信長に仕ふ)―同重吉(元亀二年卒)―同重家(寛政に孫三郎重政、家康に仕ふ―惣右衛門重則(近江二百四十石)。家紋〇に抱き茗荷 藤巴」と云い、

又寛政系図、藤原の部に「金右衛門重吉―同重家―惣右衛門勝重(実は稲田義政男)。家紋下藤の丸」と同流ならん。

猶ほ、藤原の部に「重次(野尻六蔵、信長、秀吉に仕ふ)―重勝(庄九郎、外家の後を継ぎ、真野に改む)―正友」とあるを、・・・

19・橘姓 家紋〇に鳩酸草、隅四目結

20.鴨縣主姓 山城の名族にして、河合神職系図に「河合禰宜祐房―祐勝(社司真野将監)と載せたり。

23.伊予の真野氏 用明天皇の朝、真野長者あり、温泉群護持太山寺を建立す」と伝ふ。


~~~*~~~

以前、藤原実明の曾孫娘が佐原盛連女となっている記事を書いたが、ココで、真野と繋がったようである。景連の兄弟が盛連である。
(以前書いた記事は間違っているかもしれないと思い、今は出していない。→後で、まとめて出そうと思う。)

┣ 藤原 実明 ┳ 公雅 ┳ 実任 ┳ 公名(従四位下左中将。
          母遠江守平〔佐原〕盛連女)


webコトバンクによると、佐原盛連は、?-1233 鎌倉時代の武士。

三浦義連の子。母は武田信光の娘。悪遠江守(あくとおとうみのかみ)とよばれる。

嘉禄(かろく)2年京都で酒によって乱暴をはたらき,天福元年5月悪事犯として幕府に殺された。

6人の子は三浦氏の乱で幕府方にくわわった。

盛連の息子は、
蘆名光盛、佐原経連、比田広盛、藤倉盛義、猪苗代経連、盛時、会津時連 そして、異父兄として北条時氏である。


新宮氏であるが、

『新宮氏は、佐原義連の子・盛連の六男・時連を祖としている。』とweb情報にあるのだ。


…ということは、佐原義連~佐原盛連~六男:佐原時連(新宮氏)となる。

しかし、姓氏家系大辞典には、三浦系図に「佐原義連ー太郎兵衛條景連ー時連(真野次郎左衛門尉)・・・」と書いてある。

時連は、真野氏であり、新宮氏となり、同一人物らしいのである。

…ということは、あの源為義の十男である【新宮十郎】と何等か関係があるのではないだろうか?


【源行真申詞記】では、はじめ道澄とその母を殺し、次に自分と母と兄弟が殺された、その人の名は【新六郎友員】であった。

もしも、この人物が真野氏であり、三浦氏であり、新宮六郎であり、源為宗であり、賀茂六郎であったなら、

『保元の乱では為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として参戦。一度は平清盛・兄義朝らを退却させるが、義朝の火攻めにより敗北し、父とともに兄義朝のもとに降参する。義朝によって助命嘆願されるも叶わず、義朝の手によって船岡山(京都市北区)において、父や兄弟たちとともに斬られた。』

・・・というwikipediaの情報は誤りになる。

賀茂六郎というのは、母親が賀茂氏だからと思う。

弟の爲成は、源為義の七男。母は賀茂神社の神主・賀茂成宗の娘。通称は八幡七郎、また賀茂七郎…と書かれている。


wikipediaでは、賀茂六郎の母は、源基実女・・となっている。近衛基実であろうか?

頭の中、整理しないと混乱。。


~~~*~~~

ココで、ひと休憩。

戦国時代に飛ぶ。

九里備前守(信隆)の時だと思うのだが、水茎岡山城で足利義澄を匿った。

その時に、蘆名盛高の女が(義澄に)水茎岡山城で仕えていた。その女の息子が天海という説もある。

~~~*~~~










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源行真申詞記に関しての考察(2)

2016-04-23 | 功力と櫟

九里とどう関わってくるのか。


まず、キーワードになると思われる『新六郎』友員の『新』にこだわってみる。

櫟氏の櫟神から新と替えて出てきたか。

神職であった可能性もあるので、その神・信じる・・・などからきた発想かもしれない。

櫟井氏とは、もとは和邇臣の祖 日触使主(姉妹)の系なのだそうだ。

日牟礼八幡宮の社伝によれば、131年、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、現在のこの地に大嶋大神(地主神)を祀られたのが、社の鎮座の始めとされています。

社伝を続けると、
 
應神天皇6(275)年、天皇が近江に行幸されました。

その際奥津島神社に参詣され、還幸の折に宇津野々辺(社の近辺と見られる)にて御少憩になり、当地に御座所が設けられました。

年を経た後、その御仮屋跡に日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられました。

持統天皇5(691)年には藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められた旨も伝えられています。


そもそも日牟禮社の社名は、日觸の転とする説があり、和珥・日觸使主に由来します。

日觸使主を始めとする和珥氏は、應神天皇に深い縁故を有し、同族の櫟井氏とともに江州(=現在の滋賀県地方)土着の氏族です。

古来わが国の各地に分布していた氏族の多くは、その祖神あるいは紙祇を奉祀していました。

この一般例に鑑みると、当社は同族の人びとがその祖神を祀る斎場に、縁故深い八幡大神を合祀したものと考えられます。

・・・とある。

武内宿祢が依頼されて大嶋大神(地主神)和邇氏の祖神を祀ってくれたということは、「武内」は「紀氏」でもあるので、あながち無関係でもなさそうである。


さて、その奥津島神社文書に『櫟井爲延』の名前が残っている。

昔の地図を見ると、今とは全く形が違っており驚くばかりだが、今の八幡であろうと思われる辺りには確かに神社があり、多賀村や舩木村が見える。


源行真の友員が殺された事件は1142年であり、九里の祖が生まれたのは1200年代なので、開きがあるのでこの事件とは直接は関係ないかもしれない。

しかし、永原氏が何かがあってずっと佐々木氏庶流であることを正式に表に出せないことと同じように、一族の中での殺傷事件は禍根を残すこともあって、その氏を一族の系に入れないことが一番なのではないだろうか。

そこで友員が先に手を出したための事件ということで、その氏が明らかにされていないのだと思う。

真野氏には佐々木から荘を任されて真野になった人と、近江に奈良あたりから移り住んできた真野氏がいたと思うのだが、その『新』が、もしも櫟井氏とつながる真野氏であったとして、真野氏が中原氏に入るとは公式には言えぬため橘氏となっていたのではないだろうか。

一度橘氏になってから「九里」になったのではないだろうか。(真野氏を橘氏と名乗らせて。)

さて、櫟井氏は高宮氏に通じるという。中原系の多賀氏にも通じ、高宮の系からは山内氏も出ている。


~~~*~~~


もう一つ、中原氏の成行の系に(九里は経行の系)新宮氏が養子に入ってきている。(愛智郡である)中原季仲である。(新で、思い出した)

その新宮氏は二つの系がある。

ひとつめは、鎌倉時代~室町時代初期にかけて陸奥国(後の岩代国)耶麻郡新宮荘(福島県喜多方市)を支配した氏族。本姓は平氏。佐原義連の子・盛連の六男・時連を祖としている。

ふたつめは、清和源氏の一族である新宮氏は、源為義の子の行家(新宮十郎)を祖とする。



~~~*~~~

そこで、先ほどの『源行真申詞記』に戻る。

はじめはこの新六郎友員の新は新宮かと思ったのだが、真野の真であると思う。


佐々木経方の六男行範が祖となる乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。こちらが佐々木系の真野氏。両真野は時に連れて同化したと思われる。

…ということは、もう一つの謎であった水茎岡山城の最後の城主か…と思われていた「乾甲斐守」の解明にもつながってくる。

~~~*~~~


そして私は、偶然とはいえ、友員の仕事を調べていて驚愕の事実を知ってしまったのだ。

友員の仕事とは、前回の記事に書いたように『崇徳院に仕え、成勝寺領伊庭庄の下司を勤めていた。』のである。

その崇徳院との関係を探っているうちに、下記の事実が判明した。


�崇徳天皇の母親は藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年) - 久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)である。

�藤原 璋子の実の父親は藤原公実である。

�公実の三男は西園寺通季(1090-1128) - 西園寺家祖である。

�通季の兄弟に、三条実行・璋子、そして源有仁室がいるのである。有仁は前出の行真の次男の勤め先である。

�通季の息が公通である。

�公通の次男が、なんと九里と関わりがあるとずっと調べて来ていた『藤原実明』だったのである。


先に道正の母と弟を殺した友員。その友員の出自が真野氏か櫟井氏である。…というのが、今回の私の予想である。


≪ありがとうございます。≫→ 宇宙全体へのお礼です。


今まで、迷いに迷ってきた道が九里の祖まではつながったように思えるのです。

祖の続きに、はたして私につながる九里が見つかるでしょうか。これから頑張ります!








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源行真申詞記に関しての考察(1)

2016-04-22 | 功力と櫟

櫟井(いちい)氏は近い場所にはいても永田氏ではなかったらしい。残念。

一井・市井氏、そして櫟、櫟井氏、どれも「いちい」である。

和邇氏であり、櫟井氏となっている。ある事件が関連するのではないかと思いだした。繙く鍵になるかもしれない。


~~~*~~~


『源行真申詞記』について。永治二年(1142年)四月三日に書かれた文書である。

原文は、東京大学史料編纂所で見ることができるが、虫食いが多い。

データベースから人物と簡単な説明を書いてみようと思う。(web情報:佐々木哲氏・保立道久氏)




散位 源行真申詞

右行真申云殺害字新六郎友員之・・・から始まる。


新六郎友員が殺された。「源行真」が申し云うには、河内源爲義の郎等源七郎道正が怪しいと。


その理由として「友員」と「道正」とは共兄弟之子である。

はじめに友員が道正の母と弟道澄を殺した。

その仕返しとして友員と母親と兄友房を殺害に及んだ。

友員と道正はともに行真の甥にあたる。

道正の妹の夫もその殺害の同意者であろう。(愛智家次のこと)


行真本人の子息は4人で、長男は先年死亡。

次男は左大臣殿御領(源有仁)下司である。・・・(有仁とは、後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子である。)

三男は佐渡国司の許(前関白藤原忠実(1162没))に仕え、(忠実63歳で、1140年には出家している。)

四男は陸奥判官 源爲義 郎等である。・・・(あの六条判官と言われた、爲義である。)

行真の娘婿道澄と三男行正共に爲義の郎等である。(道澄、行真の娘婿であった。)



行真の持っていた情報としては、

事件の夜に友員の従者伊波源太と申す男が疵を被り、

成勝寺領伊庭庄内の清追捕使安貞の許に逃げ込んだと伝え聞いた。

(伊庭氏は友員の従者であり、清追捕使安貞は、近江国の警察権を握る近江追捕使を勤めた人だそうだ。)

�成勝寺は崇徳院の御願寺であり、友員は崇徳院に仕え、成勝寺領伊庭庄の下司を勤めていた。


~~~*~~~


・・・と云うのが、『源行真申詞記』に書いてあったことと、少々の補足である。


とても遠い古代からの話にも通じてしまうが、書いてみようと思う。全く違っていたらごめんなさい。
今思っている事なので、ただそれだけなので、ご了承願いたい。


まず、私はその友員の苗字が櫟井や、また櫟と関係のある苗字なのではないかと思っている。

(永原氏も、事情があって佐々木氏の庶流とは語れないのではと言われているので可能性はあると思うが、わからない。)

というのは、「新」(神・真野の真・深尾の深・秦)という音。どの人かはわからないが、関係がある人がいるのではないだろうか。


『古代氏族系譜集成』系図を見ていると

友員が「新六郎」、不思議なことに道正の子どもが「新五郎」である。友員と道政は従兄弟同士である。

従兄弟とは言っても、年が離れていて、道正の子どもの方が先に生まれている可能性もあるか?とも思う。

もしくは、新六郎の本当の父親は道政だったのだろうか?

この道正、またを道政と書き、祖母の姓を称して「紀の道政」ともいうそうである。(神々の間奏曲 小林茂美 桜楓社)


~~~*~~~


そうして、これと九里、がどうかかわっているのかを書いてみたい。

まず、九里は中原であったが、九里となる以前に橘氏となっている。

この橘氏は誰なのかは不明である。

しかし、橘氏という隠れ蓑をかぶっていたのだと思う。はっきりと苗字を語れず、隠しているのだと思う。

それが、櫟井氏・真野氏・深尾氏とすると、和邇族である。そして、日本の苗字七千傑【橘氏】のなかに真野氏は含まれている。

日本の苗字七千傑さんでは、真野氏から新村氏、そして深尾氏と繋がっている。

深尾氏は同じ日本の苗字七千傑さんの「大外記中原氏」の中で、清原氏から中原氏に養子に入った人物だが、その系に『深尾職久』が一名書いてある。


この清原祐安は、頼業の弟で、造酒正等を歴任し中山忠親等の家司も勤めた。
それが大外記中原師元の養子となり中原姓を称したという。この祐安の子が職国である。と『中世公家と地下官人』中原俊章著には書いてあった。
江州中原ではないが、父親や兄の頼業はこの源行真申詞記と同時代を生きていた人である。



その真野氏・新村氏・深尾氏、どれも『新』(しん)という字と関わっていて、イミシンである。

(長くなるので、続きは(2)となります。)



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功力三郎左衛門は、永田氏系の人物なのではないか? 

2016-04-20 | 功力と櫟

埼玉県の苗字のサイトを見ますと、「功力」は「くぬぎ」ではなく、「くのき」と読むそうです。
普通の読みは「くぬぎ」だと思います。が、もしも「くのき」だったなら・・・

「我こそは、くのりさぶろうざえもん也~」と叫ぶのが「我こそは、くのきさぶろうざえもん也~」と聞こえた人がいたのかもしれません。

・・・とも思ってみたりしましたが、やはり考えたことは書いておこうと思います。


「くぬぎ」と音で聞いたのを漢字に置き換える時に「功力」の漢字をあてはめてしまったか、
若しくは「櫟」(イチイ・・の意味で書いていた)と書かれていたのを「くぬぎ」と思って、そこから「功力」になってしまったか。。。(どちらにも読める漢字ですので、可能性はあると思います。)

通常は「九里村の九里」でも「九里村のクヌギ(クノキ)」でも、どちらでも何の支障もないため、訂正もしていなかったのか。。。わかりませんが、

クヌギ→イチイ説 でした。詳細↓

功力氏→櫟(くぬぎ)→櫟(いちい)→櫟井・一井・市井氏への変身で、功力=櫟井氏
(功力三郎左衛門とも云う…と書かれていた謎の箇所についての考察)




さて、今度は永田氏と九里氏の濃密な関係です。


永田刑部少輔景弘が九里三郎左衛門と【信長文書】に出ている部分が、東京大学史料編纂所のデータベースにあります。

 元亀1年5月17日 (1570年)

  近江永田景弘宛朱印状写

  舎 兄 九 里 三 郎 左 衛 門 跡 与 力 ・ 家 来 、 寺 庵 (を永田にあてがう・・・私の記憶追記)


  永田刑部少輔 殿 右 九 里 ハ 、 江 州 野 州 郡 入 日 岡 城 主 也 、・・・



右は・・・ということは、右の永田刑部少輔殿を指していると思われますので、永田=九里となります。

舎兄九里三郎左衛門の(スパイ容疑で)、与力・家来・寺庵が没収されて、永田氏(=九里)へ宛がわれるという文書だと思います。



野洲郡 入日岡城主也…と書いてあります。近江の城郭探訪様のページに様子が出ております。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/6903d1a0d860054a4140ee7e32ab5618

信長に壊されているかもしれないそうです・・・



ただし、永田刑部少輔はこの後も信長の家臣として感状をもらったりしているので・・・永田氏が誅殺されたり、襲われたり…ではないのではと思います。

それと不思議なことが・・・九里甚左衛門という加賀前田家の家臣になった人物がおりますが、その「九里」が前田家に入る以前に、信長と共に墨俣川を渡り案内しております。

その人の名は、九里甚左衛門正貞。永田刑部少輔も本名は正貞なのだそうです。

どうしても同一人物のように、思えます。(思い込みが激しいだけかもしれません。)…別人であることの文書が出て来てしまった。。。がっかりです。。。


 武家雲箋  東京史料編纂所 データベースより



  元亀1年5月17日

   織田信長、近江の永田正貞に所領を安堵せしむ、

   織田信長,永田正貞
  
    近江

    安堵


そして、偶然なのかもしれませんが、江戸時代に九里と同じ藩に景弘とは別の系ではありますが、永田氏がおります。そして婚姻関係も結んでおります。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393

九里は湖西にも湖東にも通じている部分があって、永田氏や田中氏他とのつながりはどうだったのかを調べることで、その理由がわかってきそうです。

明日はもう少し掘り下げたいと思っております。
ともかく、せっかくのすごいアイディアが消えないうちに、書いておきたいです。

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九里三郎左衛門が功力三郎左衛門につながる・・・か。

2016-04-15 | 功力と櫟

御家人井口中原系図の経任の横には【改橘氏】と追記されており、次に九里太郎蓮忍入道となる。(九里の祖)

その系図は天武天皇から始まっている。

しかし、その天武天皇妃は新田部皇女であり、天智天皇の娘となる。


天智天皇・天武天皇の母親が皇極天皇として、天智天皇か天武天皇のどちらかの父親は高向王となると思う。

高向王は用明天皇の孫である。

用明天皇の又の名前は『橘豊日命』であり【橘】がついている。


用明天皇の三番目の息子が麿子皇子である。又の名前を当麻皇子という。

麿子皇子から先は、『日本の苗字七千傑【当麻氏】』を見ていただきたい。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01238.htm

榎井を入れず18代目が【功力】の祖である。



宝賀寿男先生の『古代氏族系譜集成』を図書館で見たが、

鶴五郎康祖(八嶋の合戦戦死)~(功力祖=) 大二郎 ~ 四郎・・・となっており、三郎が不在である。
1185年八嶋(屋島)の合戦で鶴五郎康祖が亡くなっている。

・・30歳くらいで討ち死にしたと仮定し、四郎は1200年前後生まれくらいと思われる。

その頃から戦国時代に戦っていた『九里三郎左衛門』にまで、つながるのであろうか。

1200年代と言えば、九里の祖が御家人井口中原系図に書かれた時代と同時代である。

そして、九里の祖である蓮忍と「丹波国 河守荘の地頭」(丹後国河守荘でもある。途中で分かれている。)として文書が残っている沙弥蓮忍とが、この「功力」の登場でつながるのかどうか。。。


功力は遡っていくと当麻真人である榎井につながり、麿子皇子につながっている。

麿子皇子の伝説の場所がその丹後国の河守なのである。(九里太郎蓮忍が地頭職に補任されていた場所)

「功力」であれば、系図上問題なくつながる。


しかし、御家人井口中原系図の中は「九里」である。



【九里三郎左衛門で、功力三郎左衛門とも云う・・・】と言われた人物は、天正時代だという。(姓氏家系大辞典・クノリ)

たぶん、信長にスパイ容疑をかけられた、あの九里三郎左衛門の事だと思う。
彼は【浅井】に兄弟か親戚がいて、そこに出入りしていたのだと思う。浅井日記にも登場している。

永田景弘の舎兄となる人物である。
永田七郎右衛門の記載のある過去帳に「又称 九里氏」と書かれており、永田氏が九里の養子になっていた可能性もある。又は婿養子かもしれない。
反対に九里が永田に養子に入って、永田七郎右衛門を名乗り、実は九里なのだという意味かもしれない。




九里は私の考えでは、大津宮からちょうど36Km(九里)ほどで九里村、二里前にはちゃんと七里村もあるため、距離の単位でつけられた名前ではないかと思う。
そこに地頭か何かで入ってきた功力氏が在名として九里と名乗ったのかもしれない。…と思う。


中原氏から橘氏となり功力氏に変わったのではないだろうか。何かの役職に就くために…など、何らかの都合で橘氏になってすぐに功力氏になったのではないだろうか。



下記のような突飛な発想で申し訳ないのだが、考えていることを書いておく!というのがこのブログの目的の一つでもあるので、ご了承願いたい。


 功力くぬぎ → 櫟くぬぎ → 櫟いちい → 市井氏・一井氏・櫟井氏  となったか? 

市井氏は目加田(比牟礼八幡宮 )と関係が深い。九里も目加田と兄弟関係になっていたこともある。

一井氏は伊庭氏と関係があり、これまた伊庭氏の被官であり、共に戦った仲間でもある。

櫟井氏はweb情報によると、真野氏と関係があって和珥氏族であって、蒲生郡に属した近江八幡市辺りには和珥氏族の櫟井臣氏が居て、比牟礼八幡宮の神主家につながるとみられる。

市井という地名も比牟礼八幡の近隣にあり、氏子地域になっていますし、浅井郡の櫟井氏は『明匠略伝』相応和尚の伝で知られます(『姓氏家系大辞典』イチヒヰ条)。

なので、浅井郡・近江八幡という場所が九里と一致している。

 

比牟礼八幡宮を調べると、またまたweb情報だが、

もとは延喜式内社の大島神社(大島郷)と奥津島神社(奥島村)を併せた形。
これに船木郷の比布礼社が加わる形となっており、比布礼社は大島神社と合わさったときに比牟礼社になり、それがさらに比牟礼八幡となりますが、日触八幡という別称もありました。

「比布礼・日触」というのは、近江の和珥氏族の祖のヒフレのオミ、すなわち「和珥臣の祖・日触の使主(『書紀』応神段)、丸邇の比布礼の意富美(『古事記』応神段)」のことであり(志賀剛著『式内社の研究』第七巻)、真野臣や櫟井臣はその一族の後裔とされます。

とあった。

荘園関係で、歴博のデータベースで日牟礼庄を検索すると【源重定】がでてきた。またの名を【山田築後守源重定】という。

角川地名=嘉元4歓喜光院領=承久3源重定を代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か
 比牟礼神社あり・嘉元4昭慶門院領目録=歓喜光院領=近江国比牟禮庄=洞院前右府、大納言局(藤原為世女)



舟木庄の代官であった九里である。おまけに奥津島の在地の人々にお金まで貸して返してもらっている証文が残っている。

甘櫟前神社という神社が、近江国伊香郡の中原景経が関わっていた富永庄よりも長浜に近い所にある。


【くぬぎ】から【いちい】へはあまりに飛躍が大きいかもしれないが、接点も多々あるとおもう。

九里は江戸時代入る直前か入ってすぐに【岡田】と改名している。

岡田との接点を探ると出てくるのが、八嶋冠者であり、岡田であり、山田であり、浦野なのである。


書くには書いたが、頭の中は混乱している。





東京大学史料編纂所データベースの櫟木文書。

相馬御厨の荒木田・度会の出てくる櫟木文書の「くぬぎ」も関係があるかもかもしれない。(下賀茂神社関係)












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