九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

横山党の鎌倉時代 と 九里氏の関り 大江を仲介役として

2022-07-17 | 横山氏

wikipediaより

平安時代

 

鎌倉時代

+++*****+++*****+++

     私が気になる点を色つけと黒太文字にしてみた。

 

横山党本拠地「横山荘」が大江広元の所領となった点が気になる。

さらに、1214年「横山党の始祖横山義孝を祀った横山神社八幡八雲神社の境内に創建した。」とあり、益々、横山党と大江氏のつながりが気にかかる。

 

近江国にも【横山】という場所が東近江にあるのだが、そこに【櫟神社】があり、和邇と櫟、櫟と横山が繋がる。

横山氏は祖が小野氏である。和邇氏は小野氏と同じ一族でもある。

つまり、私の頭の中では

和邇=櫟=小野=横山=大江 とつながっていく。

 

大江広元はさらに、近江国高嶋郡横山郷の地頭職をも領有していたそうである。

 

其の大江氏と横山党の主であった「小野氏」の関係と、

大江広元の実の従兄弟(義兄弟となる)親厳が東寺長者・京都小野随心院初代門跡・東大寺別当であった事とがつながってくる鍵の穴のように感じる。

 

九里のあった本郷に【小野隋心院門跡領】がある。

大江に養子として入った親厳は隋心門院の大僧正となっていた。

和田の乱で衰退した小野・横山氏の所領を大江広元が領有していた他の事例を見ていて、近江八幡の【小野隋心門院領】も、大江広元が領有したものを、親厳が譲り受け門跡領として守ったのではないだろうか?

 

この仮定があっていれば、元は近江八幡の九里の場所には小野氏(和邇氏)が住んでいた場所であったのかもしれない。もちろん櫟・一井・市井・井氏であった可能性もある。

 

そのため、姓氏家系大辞典の中にある《九里がこと

 功力(櫟)三郎衛門 也》という事になったのではないだろうか。

         ☟功力三郎衛門 也

 

 

 

コメント (3)
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横山康玄 妻が高山右近の娘であった。

2022-07-12 | 横山氏

横山康玄(やすはる)の室(ルチア)はキリシタン大名で有名な高山右近の娘で、

横山康玄は岳父右近から茶道などを学んだという。

康玄は、キリシタンではあるが信仰を秘していると書状に附記しているそうである。

 

横山氏は加賀藩老臣八家のひとつに数えられ、江戸時代を通じて大老あるいは家老を務めて加賀藩政に重きをなした。

 

googlebooks「武蔵」より 横山党の祖 従四位下 横山義隆 横山の住す。 建暦三年(1213年)家絶ゆ。

 

 

横山家譜(東京大学DBより)

横山、元は小野なり。

武蔵守義隆 初めて江州伊香郡横山に住し、横山と号す。

 

 

 

 

 

近江国 伊香郡に横山神社が残っているので、ココにヒントをいただこう。

http://engishiki.org/oumi/bun/oum221115-03.html

滋賀県長浜市木之本町

http://engishiki.org/oumi/bun/oum221115-01.html

 

武蔵の横山が先か、近江の横山が先か‥‥2つの説あるのだろうか?

この横山義隆は、小野義孝のことで横山義孝である、と思う。

 

伊香具神社の立派な系図が載っていた。

https://ikagu-jinjya.com/family-tree/

この系図の細かな註が読めると良いのだが、残念ながら細かな部分は文字が潰れてしまう。残念過ぎる!!

 

 

 

コメント (2)
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横山氏(6)つづき 小野湖山

2016-11-26 | 横山氏
wikipediaよりのコピー

小野 湖山(おの こざん、1814年3月3日(文化11年1月12日) - 1910年(明治43年)4月10日は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。


1814年3月3日(文化11年1月12日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師横山玄篤(東湖)の長子として生まれた[1][2]。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。

当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、1826年(文政9年)父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。1830年(天保元年)九州への漫遊の途上彦根に立ち寄った梁川星巌に会し入門を許され、翌年江戸に向かい、尾藤水竹・藤森弘庵・林大学頭に師事し、梁川星巌が起こした玉池吟社の社友となり頭角を現した。

江戸において生地の領主である松平信古の求めに応じ三河吉田藩儒者となり藩政に関与、後に正式に藩士(60石取り)に取り立てられた。1839年(天保9年)水戸に出遊し、藤田東湖・武田耕雲斎と交友し徳川斉昭と面閲を得て、勤皇の念を篤くし、師梁川星巌・頼三樹三郎・藤森天山・勝野台山等と共に国事に奔走していたところ、安政の大獄が起こり吉田藩は湖山の身を守るため敢えて吉田城内に幽閉した。

桜田門外の変後、幽閉を解かれた湖山は吉田に留まり藩政に関与し、後に京二条家より招かれると藩主と共に上京、朝廷より国事掛に命じられ、幕末より勤皇の士として巌谷一六等と奔走した。明治維新後は従五位に叙せられ、新政府の総裁局権参事・記録局主任となったが、1871年(明治4年)廃藩置県の後、家督を子息に譲り、東京で詩酒自適の生活を送った。その間、政府の再要請を固辞し、詩壇の重鎮として詩作を続けた。1883年(明治16年)明治天皇より硯を賜り、感激して書斎を賜硯楼と名付けた。1910年(明治43年)4月10日、太東岬の別宅において老衰により死去。湖山は少壮より経世の志し有り詩を以って家名の有ることを欲せず。詩は豪胆淡雅・格調が高いと評されている。

~~~*~~~

次に、国立国会図書館のデジタル図書より(抜粋)

【小野湖山翁小傳】 豊橋市教育會編
生立及家系

舊名 横山仙助
滋賀県 近江国東浅井郡田根大字高畑なる横山玄篤(東湖)の長子として生まれる。

父 玄篤は醫を業とし農を兼ね、妻を磯氏といった。

浅井郡は面積三十一方里、之を東西に分ち、東は美濃、西は琵琶湖、北は越前及び若狭に接し。
田根村は田根郷と呼び、中世種川と謂ひ…東鑑に「建久元年近江国田根庄は、按察使大納言朝房の領する所なり。地頭は佐々木左衛門定綱なり」と見ゆ。

~~~+~~~
ココでストップである。この大納言朝房は、他の本(中世久我家と久我家領荘園 岡野 友彦著 続群書類従完成会)には、朝方の間違い…と出ており、大納言朝方が正しいようである。



~~~+~~~

続きを書く。
翁の家名は参議小野篁より出で、石川県金沢の藩老横山家(一萬石)と同族である。
故に翁はもと横山姓を称し、名を仙助といった。
第十二世の祖横山掃部頭家盛が、京極高次に仕へ戦功あり。感状が家に傳へられている。高次は近江の人、織田・豊臣・徳川の三氏に仕へ、大津城主となった。その妻は淀君の妹なるを以って、慶長の役に石田三成及び淀君より西軍に味方せんことを勧誘せられたが應ぜず。家康の東征中に西軍に苦しめられ、一時高野山に遁避したことあり。
横山家盛は高次臣下の驍将で高畑に館し、城州に戦死し。一弟が帰農して世々館趾を守り。今も二百余年を経た建物が存し…

其祖小野篁の古墳は紫野にあり。翁後年金沢の同族横山多門政和(蘭州と号し詩文を能くす)と謀り墓碑修め、碑面の五大字を書し、息正弘の撰文なる「古墳之記」を石に刻して建てた。



~~~+~~~
以上が、九里とかかわりのありそうな箇所であると思う。

この小野篁の系図は、次回に載せたい。
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横山氏(6) 小野湖山 

2016-11-25 | 横山氏


湖山に関しては、明日書く予定であるが、先行してご紹介。下記の本の中に、わたしにとって重要な情報があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B9%96%E5%B1%B1

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209441 (コマ17)

湖北の観音様文化って、すごい! 時代も古い!
http://guide.travel.co.jp/article/4886/
http://butsuzoworld.com/osusume/takatsuki.html
http://kitabiwako.jp/kannon/


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高月町横山の横山神社

2016-11-24 | 横山氏

11月8日から~2か月間
http://www.nagahama-kannon-house.jp/NEWS/128.html

http://www.jisyameguri.com/chiiki/shiga/yokoyama-jinja/

神社の場所は、もっと奥であるようだが、情報がいろいろで、よくわからない。
〒529-0402 滋賀県長浜市木之本町杉野
〒529-0201 滋賀県長浜市高月町横山297-1

どちらが、本当なのだろうか。

">

http://letuce.at.webry.info/201508/article_9.html

http://www.kokouan.net/htm01/midokoro.html

もしも、この横山氏とつながっているとなると、私の系は井口中原の系図の九里とつながっているのだと思う。


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横山氏(5) 近江の中の「横山」の地図

2016-11-24 | 横山氏
(4)の記事の中に出てきた「横山」の場所を確認してみた。
湖西 武曽横山



伊香郡横山荘は高月横山ではないだろうか。
この地図の中には、磯野・井口・雨森・富永・物部・赤尾と九里と九里の前身の中原と関係のありそうな地名が入っている。
この中の横山荘は、調べがいがありそうである。



最後に蒲生郡の横山である。



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横山氏(4) 姓氏家系大辞典 26.に飛ぶ。

2016-11-22 | 横山氏
横山氏の姓氏家系大辞典、どうもぴんとこず、4~25は飛ばして、26番に進む。
26.佐々木氏族
近江の豪族高島氏の族にして、尊卑分脈に「佐々木信綱ー高島隠岐守高信ー出羽守頼綱ー河内守頼信(横山三郎 従五下、左衛門)阿波守頼有(同五郎)」と載せ、又佐々木系図に「頼信ー頼有(横山五郎左衛門尉)ー頼冬(左衛門尉)」と見え、又、「高信ー泰信ー泰氏ー師頼?順?〈漢字が潰れている)-下坂次郎左衛門重秀ー豊前守高重ー高兼(横山養子)」とあり、また中興系図に「横山・佐々木定綱末、高島高信の孫頼綱長男三郎頼信・之を称す」と。

高島郡横山村より起りしにて、織田信長のために亡さる。或は曰く此の横山氏は佐渡守高長也と、又興地誌略に
「武曾城(武曽村)は横山下野守が居城跡也。下野は佐々木の庶流、高島七頭の一員也。佐渡守高永といへるは、此の下野守がことにして、武曽横山を領す」と。

之より前、文安年中御番帳に「佐々木横山」を載せ、また平居系図等に見え、又浅井三代記、京極家臣に横山掃部頭家盛を挙ぐ。


27.近江 前項参照。
また、浅井郡(伊香郡)にも横山荘あり、興地誌略に「元暦元年、源頼朝・當庄を園城寺に寄付のこと、寺門記に見えたり。所在詳ならず。」と。また東鑑にみゆ。

又蒲生郡にも横山村在りて、横山喜内は蒲生家に仕ふ。これより前、横山太郎左衛門・応仁の初、御陣甲賀山の記に出づとぞ。
喜内は氏郷に従いて、奥州□川城(□は潰れていて見えず)壱萬三千石を領し、蒲生喜内と云へり。後蒲生備中真令と云ひて、石田三成に仕ふ。その男大膳・ともに関ケ原に死す。

又、伊香郡横山村に横山大明神あり、私考に「横山和泉の氏神、神主横山氏(和泉守と別系)」と載せ、また當国に「丸に剣かたばみ」を家紋とするあり。

~~~*~~~

以上が、近江関係の「横山氏」であった。

横山氏と小野氏との関係も大変興味深いものがあるが、あまりに手ごわそうなので、あきらめ、近江国内から起こった「横山氏」を書きだしてみた。が、心の中では、武蔵七党の横山党と関係があるのではないか…と思っている。

宇津木氏が武蔵七党と関係し、佐々木哲氏のブログ内に

「東国御家人宇津木氏は、実は武蔵七党横山党(小野姓)の一族であり、宇津木三郎が源頼朝の上洛に随いました。
横山党は縁戚関係にあった和田義盛の乱で滅び、武蔵国横山庄地頭には大江広元が補任されましたが、
宇津幾十郎が承久の乱で戦功を上げます。

・・・とあり、また、別のweb情報でも、

「宇津木氏_武蔵七党_横山党_小野氏
 横山家光の後裔である三郎某が南多摩の小宮村大字宇津幾を本拠とし宇津木を名乗ったことから始まる。この宇津木三郎は建久元(1190)年に源 頼朝の上洛に供奉した。後に、名字の地を離れ、上杉管領家を経て後北条氏に仕える。小田原城落城の後は彦根の井伊家に仕えた。」

・・・とあり、またほかの情報には、

「慶長六年(一六〇一)井伊家が近江国佐和山(後に彦根)へ転封に伴って宇津木氏も近江に移った。」とあった。

この宇津木氏も祖は小野篁となっているため、横山氏と同じである。



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横山氏(3)のつづき

2016-11-20 | 横山氏
横山氏 姓氏家系大辞典より書き出している。

3.武蔵国造族説
文字がつぶれていたり、薄くて判読できないところもある。
『横山猪股□党は、小野系図に拠るも、七党系図より云ふも、小野姓であって、敏達天皇の皇子春日親王後裔、小野朝臣篁より出ずとなっている。

小野氏を春日皇子の後裔とするの非なるは、従来屡々(しばしば)述べたところであって、今更論ずるまでもないが、篁の後裔とすることも果たして事実であろうか。

之を説明する前に、横山党の祖義隆の祖時資の父なる孝泰に至る系図を載せると次の如くである。

篁ー保衡ー忠範ー義村ー忠時…(前記事の2、と同じである。)」

時代が篁から八代子孫であるはずの孝泰なのだが、その時代には小野郷も既にあり、小野神社もある。孝泰が武蔵守となり、初めて此の地に来たために、小野氏が此の地に出来たとは云えないと思う。~との見解が示されている。
また、小野神社の祭神も本社祭神を「武蔵国造祖兄武日命祖神」としている。
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横山氏(3) 姓氏家系大辞典より

2016-11-16 | 横山氏
横山
延喜式、加賀国に横山駅を収む、和名抄に加賀郡駅家郷とある地と云ふ。
其の外和泉、武蔵、近江等に横山庄、又遠江、駿河、上総、近江、陸前、陸中、羽前、越前、丹波、周防、薩摩、大隅等にこの地名存す。

1、小野姓 武蔵の大族にして、南多摩郡横山庄より起る。この地は東鑑、建暦三年五月七日條に「横山庄・大膳大夫」と載せ、新編風土記に「此の横山の名は古き唱へなり。七党系図、横山党の祖従四位下武蔵権守義隆・初めて横山に住してより、子孫横山氏を称し、数代此の地を傳領せしが、横山右馬允時兼が代に、建暦三年五月、和田乱に討死し、家絶えけるよし東鑑にみゆ。


2.出自 小野氏系図に拠れば、此の氏は小野篁の後也と云い「篁(参議)-保衡(阿波守)-忠範(出羽守)-義村(二位中将)-忠時(常陸介)-
時仲(上総守)-時季(治部大輔、相模介、従四位下)-隆泰(孝康、従四位下、武蔵守)-義隆(武蔵権介、義孝、號武蔵大夫、初めて横山に住し、横山大夫、野大夫と號す。)-資孝(野別当、助高、あるいは助孝、又資孝、號野三別当。八幡殿源陸奥守・長元元年戌辰十月、相模国柳下に生れ給ふ時、□・御引目の生悪に仕え、鳴絃の役を兼ぬ。…

この辺でひと休憩。45まである。
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横山氏(2)

2016-11-13 | 横山氏
東京大学史料編纂所DBより



…とある。

この横山荘を今度は、歴博DBで調べてみると。
1 近江 蒲生 横山
2 近江 坂田 春近
3 近江 伊香 伊香庄 黒田郷・古橋郷・石作郷・田井郷・椙野郷
4 近江 伊香 中庄 椙野郷
5 近江 伊香 富永庄 雨森郷・落川郷・高野郷・高月郷・唐川郷・野村郷

横山荘は蒲生郡だが、他に横山という地名がある場所を見ると、中原景経・経任の居住していたりで、領主を務めていた『伊香』に三か所となっている。
これは、詳しく見ていく必要があると思う。

蒲生郡横山荘を見ると、
【国名】 近江
【郡名】 蒲生
【荘園名】 横山
【フリガナ】 ヨコヤマ
【参考市町村】 蒲生郡蒲生町
【明治村字名】 横山
【領家・本家】 園城寺領(千僧供領)・日吉社領・山門領
【初見年和暦】 元暦元年
【初見年西暦】 1184
【出典】 寺門高僧記・日吉社領注進記(元応元)・古簡雑纂1
【遺文番号】 カ27012
【記録類】 『東鑑』元暦元,12,1(横山)
【地名辞典】  荘園志料=東鑑に文治1頼朝、園城寺千僧供領とす・角川地名=庄号なし→横山郷=現蒲生町横山付近と同一とする
【備考】  東鑑にも庄号なし・三井寺と日吉社(延暦寺)の対立関係よりして、横山と横山郷は同一物でないかもしれない

見解が分かれている。1184年当時の三井寺と日吉社の対立関係がどのようなものであったのか…はわからないが、ともかく頼朝が直接に下した文書に「園城寺千僧供領」とすることが残されている。


それでは、近江国に於いて、どのような荘園が千僧供領になっていたのであろうか。
1 近江 高島 木津庄
2 近江 蒲生 佐佐木庄
3 近江 蒲生 馬淵庄 北方
4 近江 蒲生 横山
5 近江 神崎 栗見庄 品田・本庄
6 近江 坂田 富永庄

一つ一つ見ていくと、
1.木津庄 
【領家・本家】 鳥羽院領・皇室領・延暦寺領(千僧供料所)・山門領
【初見年和暦】 保延四年
【初見年西暦】 1138
【出典】 延暦寺文書・華頂要略・伺事記録・天台座主記・井口日吉神社文書・蒲生郡誌・饗場文書・朽木文書・日吉社室町殿御社参記・牒状類聚

2.佐佐木庄
【領家・本家】 延暦寺領(千僧供料所)・山門領・源有仁領
【初見年和暦】 永治二年
【初見年西暦】 1142
【出典】 愚昧記裏文書・玉葉・東鑑・天台座主記・常楽寺文書・水原小三郎所蔵文書・華頂要略・牒状類集・平家物語巻9・源平盛衰記巻30

3、馬淵庄 北方
【領家・本家】 道覚法親王領
【初見年和暦】 承久三年
【初見年西暦】 1221
【出典】 華頂要略・河野氏文書(永享12,8,9)・蒲生郡志・黒川文書・黄薇古簡集

4.横山
【領家・本家】 園城寺領(千僧供領)・日吉社領・山門領
【初見年和暦】 元暦元年
【初見年西暦】 1184
【出典】 寺門高僧記・日吉社領注進記(元応元)・古簡雑纂1

5.栗見庄
【領家・本家】 延暦寺千僧供料所・妙法院門跡領・山門領
【初見年和暦】 保元元年?
【初見年西暦】 1156
【出典】 陽明文庫所蔵兵範記裏文書・源平盛衰記・室町家内書案・康正段銭引付・丹波系図・華頂要略・大鳥、奥津島文書・日吉社室町殿御社参記・井口日吉神社文書

6、富永庄
【領家・本家】 筑摩社領・大成就院領・金剛勝院領・青蓮院門跡領・山門領
【初見年和暦】 寿永二年
【初見年西暦】 1183
【出典】 華頂要略・都久麻社文書・天台座主記・島記録・牒状類聚・康正段銭引付
金剛勝院領→寿永2延暦寺千僧供料所=天福2山門大成就院領=建武1尊氏、筑摩社領に →2109046「富永保」参照・カ31483元徳3延暦寺衆徒申状=或は伊香郡富永庄か康正段銭引付=富永庄江州山門領(段銭)・伊香郡にも富永庄あり


千僧供領と近江国の関係ありそうな情報としては、

近江国守護・佐々木氏の地盤である佐々木荘は、同国内で強大な勢力を誇る延暦寺の千僧供荘だった。

佐々木氏は延暦寺に千僧供料を貢納する義務を負っていたが、建久2年は前年の水害による不作で未進が生じており、3月下旬に延暦寺の傘下にある日吉社の宮仕数十人が、未進催促のため神鏡を奉じて荘園に押し寄せた。 定綱は在京して不在だったが、宮仕は定綱邸に乱入して家中の男女に暴行を加え放火に及んだ。

~~~*~~~

『延暦寺の傘下にある日吉社』とある。

もう一つ、井口氏

『井口氏は延暦寺千僧供領であった近江国富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。』と武家家伝のwebにある。

富永庄のほかに木津庄・栗見庄とも井口日吉神社文書に記載があることからも、井口氏と何等か関係があるとみえる。


・・・井口の祖は中原である。中原景経と経任の兄弟の景経の系が井口である。経任の方が九里である。

そして、井口氏は湖北のみならず、湖西にも井ノ口と名が残っていることから見ても、時期は異なるかもしれないが、両方に領地があったのではないだろうか。


越中、朽木、田中、能登、横山、永田、山崎、平井、皆そのような(湖東と湖西に領地がある)可能性があるのかもしれないが、この田中・横山・山崎・永田・井口などは、私から見ると、同時期ではないかも知れないが、湖東にも、湖西にも勢力を及ぼしていた場所があったのではないだろうか、と思われるのである。

そして、清水山城城下の集落には、またしても【安養寺】という名前も出てくるのである。蒲生郡の鏡村の近くにも安養寺。湖北にも安養寺、そして湖西にも、である。

横山氏から離れてしまったが、ともかく鎌倉時代に『横山館跡』のあるあたりと思われるが、蒲生郡に横山荘があったのだと思う。
そして、湖西にも横山氏がいたのである。


湖西には小野氏もいて、武蔵国の横山党との関係は?など、私にとってはどれも難しすぎる問なのだが、まずは調べてみよう。



















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