wikipediaより
平安時代
- 924年(延長2年)、小野氏が武蔵守として着任した際、石清水八幡宮を勧請して、八幡八雲神社を建立した。
- 1113年(天永4年)、愛甲内記太郎の殺害事件により追討を受ける。源為義に服属する。
- 1156年(保元元年)の保元の乱および1159年(平治元年)の平治の乱では、源義朝麾下(畠山氏に従属との説もあり)に従軍し活躍した。
鎌倉時代
- 『平家物語』によると、治承・寿永の乱でも活躍し、小野成綱は尾張守護に補任された。
- 源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広は軍功により横山荘の所領を安堵された。
- 1213年(建暦3年)和田合戦で、姻戚関係にあった和田義盛に加勢したが和田氏と共に敗れ横山時兼とその一党は、その後横山党としては歴史の表舞台から消える。横山党本拠地であった横山荘は大江広元に与えられた。なお、横山氏末裔として、横山氏居館のあった八王子市八幡八雲神社に並ぶ妙薬寺(みょうやくじ)には、 横山将監小野秀綱の供養塔がある(妙薬寺縁起)。この宝篋印塔は永禄3年(1560年)に造立されたもので、東京都指定旧跡となっている。
- 1214年(建保2年)、大江広元は横山党の始祖横山義孝を祀った横山神社を八幡八雲神社の境内に創建した。
- 1221年(承久3年)、承久の乱で院側についた小野成綱の子尾張守護小野盛綱は、乱後逃亡し守護職を没収された。
- 小野盛綱逐電後、跡職に中条家長が就いたといい、1225年評定衆に抜擢される。中条氏繁栄の礎を築いた。
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私が気になる点を色つけと黒太文字にしてみた。
横山党本拠地「横山荘」が大江広元の所領となった点が気になる。
さらに、1214年「横山党の始祖横山義孝を祀った横山神社を八幡八雲神社の境内に創建した。」とあり、益々、横山党と大江氏のつながりが気にかかる。
近江国にも【横山】という場所が東近江にあるのだが、そこに【櫟神社】があり、和邇と櫟、櫟と横山が繋がる。
横山氏は祖が小野氏である。和邇氏は小野氏と同じ一族でもある。
つまり、私の頭の中では
和邇=櫟=小野=横山=大江 とつながっていく。
大江広元はさらに、近江国高嶋郡横山郷の地頭職をも領有していたそうである。
其の大江氏と横山党の主であった「小野氏」の関係と、
大江広元の実の従兄弟(義兄弟となる)親厳が東寺長者・京都小野随心院初代門跡・東大寺別当であった事とがつながってくる鍵の穴のように感じる。
九里のあった本郷に【小野隋心院門跡領】がある。
大江に養子として入った親厳は隋心門院の大僧正となっていた。
和田の乱で衰退した小野・横山氏の所領を大江広元が領有していた他の事例を見ていて、近江八幡の【小野隋心門院領】も、大江広元が領有したものを、親厳が譲り受け門跡領として守ったのではないだろうか?
この仮定があっていれば、元は近江八幡の九里の場所には小野氏(和邇氏)が住んでいた場所であったのかもしれない。もちろん櫟・一井・市井・井氏であった可能性もある。
そのため、姓氏家系大辞典の中にある《九里がこと
功力(櫟)三郎衛門 也》という事になったのではないだろうか。
☟功力三郎衛門 也