読める年表 - 第 2 巻より(googlebooks)
'待賢門院側近の逮捕,配流康治元年二一四二)正月十九日、散位従五位上源盛行とその妻津守嶋子および広田社の巫女朱 などを流罪に処する官符が下された。
盛行は待賢門院判官代、鳴子は同院女房として、夫婦で待賢門院彰子に仕えるものであるが、この夫婦は広田社の神前に巫女を集めて、皇后得子を咒咀する祈りを行ったり,
朱雀を自宅に招いて得子を呪わせたりした。
密告によりこのことを知った鳥羽法皇は、検非違使に命じて真相を糾明させ、 ...
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このことと、【散位源行真申詞記】が関係あると私は思う。
この事件があったのが1142年一月十九日。そして新たな友員殺害の事件があったのが二月二十二日より前なのだ。
高階氏が近江国でどのような活躍をしていたのかを探ってみたい。
平安京左京三条二坊十町(堀河院)跡の調査報告より
高階為家(藤原師実家司)・高階重仲(藤原師実の職事・忠実家司・忠通家司)などがいる。・・・私メモ(師実は頼通息、師通の父)
村上源氏顕房の娘賢子が師実の養女として後三条天皇の皇子貞仁の妃となっている。
橘俊綱(藤原頼通の男)、藤原忠綱(藤原頼通の男)も近江守に任じられている。・・・(橘俊綱は頼通の養子)
その他にも興味深いことが記載されていた。↓
堀川院の遺構よりピンクの火山灰がでており、ピンク火山灰は滋賀県高島市朽木の「白土谷」でも採取される。
朽木と京都との関連を示す史料は、長保三年(1001)六月二十六日の「平惟仲の施入状案」で、平惟仲の造営した白川寺喜多院(寂楽寺、北白川仕伏町付近にあったが所在不明)に「高島郡朽木庄壱所」とある荘園が寄進されたことを記した史料に遡る。平惟仲は藤原兼家の家司として重用され、道隆、道長に仕えた。近江権守を歴任し、中納言まで登った人物である。
平安時代後期の資料をみると、朽木の荘園・杣には「子田上杣・河上荘」「朽木荘・杣」「針幡荘」「三尾杣」などが知られる。
田上杣・河上荘は、治暦四年(1068)には平等院領であり、藤原頼通の領地であった。
朽木荘・杣の針幡杣(荘)は寛弘八年(1011)に尚侍殿藤原 子(後の三条天皇中宮)に寄進されたが、康和五年(1103)には朽木荘と針幡荘の間に抗争があったことが知られる。
久多・針幡・大見荘は平治元年(1159)には法成寺領であった。
史料から判明することは以上であり、朽木と摂関家との関係を示す直接的な史料は見出せない。
この他として、摂関家の家司で近江守に任じられた人物に注目すると、藤原実政(藤原師実家司)、高階為家(藤原師実家司)、藤原隆宗(藤原師通家司)、平時範(藤原師通・忠実家司)、高階重仲(藤原師実の職事・忠実家司・忠通家司)などがいる。
また橘俊綱(藤原頼通の男)、藤原忠綱(藤原頼通の男)も近江守に任じられている。これらの人物を通して、朽木地域が摂関家、ひいては堀河院の造営にまで関わりをもった可能性も考慮すべきである。
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以上、興味深い調査報告書に出会うことができ、幸せでした。
以下はweb情報よりのピックアップです。
鳥羽離宮
鳥羽離宮(鳥羽殿<とばどの>)は,白河天皇(1053~1129)が創建した譲位後の御所です。現在の京都市南区上鳥羽(かみとば),伏見区竹田・中島・下鳥羽(しもとば)一帯にありました。鳥羽上皇(1103~56)の代にほぼ完成し,14世紀頃まで代々院御所として使用されました。
敷地は約百八十町(180万平方メートル)。鳥羽殿を構成する南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所には,それぞれ御堂が附属し,広大な池を持つ庭園が築かれました。
讃岐守高階泰仲(たかしなのやすなか)ら受領層(ずりょうそう)が造営を請負い,資材が諸国から集められました。
また,院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,仏所や御倉町(みくらまち)なども造られたので「あたかも都遷(みやこうつり)の如し」だったといわれています。院政期の鳥羽は,京・白河とともに政治・経済・宗教・文化の中心地だったのですが,南北朝の内乱期,戦火により多くの殿舎が焼失し,その後急速に荒廃していきました。
左京二条三坊六町
西半分:右大臣藤原実資(さねすけ)の「小野宮(おののみや)」の西の厨町→実資の姉の尼君→侍従(=吉田早苗氏によれば、実資の甥の藤原経任(つねとう))。
また、実資の娘の千古(ちふる)とその婿の藤原兼頼もこの邸宅を自由に使っていたらしい。
平安後期には、尾張守藤原時房(ときふさ)や歌人の左近衛少将源有房(ありふさ)の邸があり、賀茂斎院範子(のりこ)内親王は、左京二条四坊十六町の卜定所の焼失により、有房
邸に移っている。
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高階為家に関してwikipediaより
「源家実と為家の娘との間に生まれた息子の1人が為章の元に養子に行き高階基章と名乗り、彼の娘の1人は伊勢平氏の平清盛の妻となって清盛の長男重盛と次男基盛を儲ける事になる。」(為章は為家息)
また、寛治七年には興福寺の大衆の訴により、白河院の近臣院司の近江守高階為家が現任を解かれ、その息男の為遠も阿波守をやめさせられる。ということもあった。それが、歴博データベースで「角川地名=春日社領=寛治7、興福寺僧綱、近江守高階為家の処罪を訴訟=庄内神人が春日社に魚介を納入=近江八幡市井町付近か」とある。
つまり、近江八幡 市井町 のあたりの受領は高階為家である。ということは、以前「鷹飼町」の鷹飼は高階ではないか?というのもあながち遠い話ではなかったのかもしれない。特に「高階」さんとかいて、フリガナで「タカガイ」と書かれているチラシが我が家に入って来たので、なおさらにそう思うのだ。
市井は、高階為家の時代には「市庄」と呼ばれていた。
八幡、九里のあった西本郷あたりと近いので地図を見ていただきたい。
その間に「鷹飼町」があるので、平安時代には続いていたかもしれない。そして、豊浦庄や伊庭荘とも近い場所である。
そうなってくると『散位 源行真申詞記』の伊庭荘となる以前の状態は、ひょっとすると高階が受領を務めていた領地だったのかもしれないのである。
緑の丸が市井、赤い①が伊庭である。