九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

黒田監物正成は、もとは岡田重政だったのではないだろうか? 

2023-03-10 | 岡田氏 バラバラ情報

岡田重孝の息に「重政」あるいは「重昌」と出ている系図もある。

という事は、重政(しげまさ) → 黒田氏となり、「しげまさ」を「まさしげ」と反転させて「正成」となったようにも思える。

(反転は、平安時代から本当の名を隠すテクニックとしてあった。)

 

つまり、後に九里氏となる「岡田政直」も、同じように岡田重孝の別名であった「岡田直孝」「なおたか」から「なお」をもらい、反転させて後ろに「なお」を持ってきたとも考えられる。

 

さらに、兄弟ともに「まさ」をつけ 

「重孝」=「直孝」の「孝」の部分を「政」にしたと考えられまいか。

 

 岡田重   岡田

  👇      👇

 黒田茂   九里直      となったのかもしれない。

岡田は、後に黒田となり「正」に変更した。音は同じ「まさ」である。

*****

 

さらに、もう一人 大和郡山藩に九里又九郎がいる。

この人の周囲に岡田姓は少なく、岡田重孝の息という事はなかったかもしれない。

しかし、きれいに九里又八(大和宇陀藩)と九里又九郎(大和郡山藩)となり、気にかかる存在である。

 

この二人のおおもとには、やはり九里氏がいたのではないだろうか?

 

藤姓 九里又九郎高忠(宝暦江戸御家中姓銘帳)

   九里又九郎  (享和分限帳)

   

甲府城(柳沢家が甲府城主となる宝永元年(一七〇四)一二月から享保二年までの一三年間の内の分限帳)

九里仁平治  (弘化三年)交付御城主之節 分限帳) 1844年

 

武田氏の許にいたのか、柳沢氏についていたのか。

史料も少なく、調査中である。

 

 

 

 

 

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天正12年 1584年 小牧・長久手の戦い(3月から11月) 3月6日に岡田重孝他誅殺される 

2023-03-09 | 岡田氏 バラバラ情報

今まで調べた事もなく、名前しか知らなかった『小牧・長久手の戦い』

織田信雄の秀吉と親しかった三家老を誅殺したことが「宣戦布告」となってしまった戦いで、

信雄・家康 VS 秀吉という形となる。

 

その誅殺された三家老の中に『岡田重孝』がいたことになる。

しかも、その息『岡田三四郎』がいたという説がある。

岡田三四郎正成 一見、柏原藩の岡田氏とは別系のようにも思えるが、それは「目くらまし」の為かもしれない。(?)

この岡田三四郎は、秀吉の家臣の子として突如登場し、黒田孝高がもらいうけ、無事に『黒田監物』と成長し、文書に現れるのである。

 

黒田監物正成
福岡藩黒田家家老 書状  とある。

http://kourindo.sakura.ne.jp/kenmotu.html

 

諱は「良利」であるそうなので、一見すると「利」が入っていて、源義光の裔武田流岡田氏のようである。

武田流の方は「利長・利治・・・・」と続き、信雄に仕えている時代もあり、信雄が朝熊に蟄居の際も親子(岡田利治・利次)がついていく。

利次は、信雄の後に前田利常についている。

 

この武田流系のように感じる正成=良利だが

『黒田如水出陣附富来安岐籠城』(慶長五年の出来事)の記事の中に、

岡田三四郎は尾州星崎の城主岡田長門守が子にて、勇才弁舌に卓(こ)えれば‥‥』と記述されている。

この文書を信じれば、岡田長門守重孝の息となる。

 

 

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芭蕉 門下 岡田野水  

2023-03-07 | 岡田氏 バラバラ情報

岡田堅桃斎・岡田見庭斎 この二人と繋がりがあるかどうかはわからないのだが、

【岡田野水】(おかだ・やすい) 

 

当時の雰囲気が伝わってくるような話が下記のアドレスに記載あり!

https://jusendo.com/studyroom/owari_chanoyu09

 

岡田野水のコトバンク 

「野ざらし紀行」にも触れられており、

gooblogでも周辺方々の俳句を拝見していたので、何だか身近で嬉しい。

 

https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E9%87%8E%E6%B0%B4-17636

 

 

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岡田某氏 前野長康 藤堂高虎 織田信雄

2020-10-30 | 岡田氏 バラバラ情報

藤堂高虎が前野長康の娘を洛北の岡田氏に匿ってもらえるようにと連れて行ったのが1595年頃と思われる。藤堂高虎が40歳の頃である。
藤堂高虎は加茂郡の常念寺に滞在していたことがあるのは1620年。
前野氏の事の以前からのつながりであったのかもしれない。

そして洛北には岡田鴨神社がある。この神社は常念寺と同じ加茂郡である。古くは加茂郡は「岡田」と言っていたそうだ。
藤堂高虎は江州中原氏の系図の中に登場する。同じ系の中にいる。
良峯姓の前田氏と江州の中原氏はどこかでつながっていたと想像できる。

そして、それこそが九里の祖である九里左衛門太郎経久 蓮忍入道の周辺なのではないだろうか。
この人と息・弟・甥の可能性もある常忍の二人は因幡国にいた形跡もあり、伊福部氏・長田氏を見知っていたはずの人たちである。
長田氏とは同族であった可能性もある。1249年あたりまで因幡国に居住していた。
平氏でありながらも(私の直系の九里は平姓)源頼朝の配下に入った良峯姓原氏と似た立ち位置にいる。

その九里と良峯姓の原氏が近い関係であれば、その良峯姓原氏と同族(兄弟からの分れ)の前野氏が藤堂氏に助けられるのも、納得できる。
もっともっと後の戦国時代にできた藤堂氏と前野氏の関係がそうさせたのかもしれないのだが(藤堂は前野長康雅自害に追い込まれた際に、その場にいた人物でもある)
氏族の関係も少なからずあったのではないかと想像する。

また、大和宇陀松山藩の九里に二度も佐々氏となった元の前野氏が養子に入ってきていることもその傍証と成るのではないだろうか。
そして、其の九里は、宇陀藩に入った際、最初の頃は「岡田氏」を名乗っていた。岡田政直とある。
その政直が九里に改めているのである。理由は記されていない。

ここに、私はつながりを感じる。
しかももしも岡田鴨神社に潜んでいたことがあったとすれば、そこも賀茂氏と関係がある場所である。

1615年 織田信雄 宇陀藩主となる。
もしもその匿われた1595年に岡田政直として九里政直が生まれていたとすると、1615年には二十歳である。









===*===
常念寺





===*===

近くに岡田国神社も見つけた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE


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昨年の記事を読むと久多庄が書かれていた。ふと佐伯氏を思い出す。改訂

2020-03-26 | 岡田氏 バラバラ情報


久多庄は山城国。近江国の朽木の奥になるそうである。
山城国と湖西は繋がっていて、そうなると、湖西から若狭や湖北に抜けていくこともあったのかもしれない。
今までは湖東を中心に見ていたが、湖西と若狭・湖北と越前というつながりでは見たことがなかった。



ポイントの所に久多漁協がある。不思議だ。
漁協というのは海にあるものとばかり…鰻かな? 残念!(ブラタモリで、海とつながっている汽水域にのみ鰻がいると学んだはずだった。…ここは汽水域ではない。)

「あまご・いわな・鮎」だそうである。その魚たちのための荘園に違いない!
北海道では「あまご」は聞いたことがない、と思って調べてみると「ヤマメ」の仲間のことだった。




福井県史より↓





https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/35aa34a63240a02a909fbe22260e005c

「藤原良方の子の元方が、糟屋の地で土着して糟屋氏の祖になったという。」
佐伯元方のことである。

佐伯元方の裔かと思われる人物=仁和年中(885‐889年)に上総介盛久という人物が久多荘に来住、それ以来久多荘の公文職をつとめたと伝える。

久多川流域国境=長承2中原明兼勘注状初見 とある。勘注とは調査記録することだそうだ。
この地は相論にもなっており、山城国と近江国で、どちらが川の利権を取るかでもめていたらしい。

それで、河童伝説に至ったのではないだろうか。
つまり川に入ると足をつかまれて溺れるぞ~という脅しを、お互いにかけていたのかもしれない。

山城国の久多庄でもあり、文書によっては近江国の久多庄でもある。
「鎌倉遺文は近江国高島郡とするが、現京都市左京区久多の山城国久多庄であろう、山間部の荘園で近江国と接する」歴博DB



===*===

佐々木氏に関係する「藤原元方」も同世代に佐伯氏とは別にいる。
藤原菅根の息「藤原元方」 源扶義の母「藤原元方の娘」

そして、藤原元方(888‐953年)の娘が源雅信の妻となり「源扶義」を産む。
源扶義の息「成頼」が近江国佐々木庄に居住し佐々木氏の祖となった、と言われているが、同姓同名の人物がいたという説もある。

私は、ココ藤原元方とつながっていると思う。
成頼か経頼かが近江国と関係していると思う。
そこで熊野とも繋がる縁ができて…と思っている。

それが熊野別当の行範につながる事になる。(藤原実方、息長快。長快の孫が行範)
佐々木行範は「乾氏の祖」と言われている人物である。
佐々木行範と熊野別当行範とは同一人物では?…と疑っているのは、たぶん私の他にはいない。
それほど突拍子もない荒唐無稽説と思う。

土岐氏と佐々木氏のつながりはこの辺りからであったか?

頼政の兄弟には土岐氏から来た養子もいた。
その頼政は熊野にいた源行家(源為義十男=義盛=新宮十郎)に源氏再興の話を持ち掛けに行くことになる。

為義の郎党に近江国佐々木行実の息が何名かなっているほか、佐々木秀義が為義の婿養子となっている。

この辺りが繋がるきっかけであったのではないだろうか?




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伊賀守元近もしくは元忠の孫が、岡田竹右衛門尉元次である。

2019-03-29 | 岡田氏 バラバラ情報

【伊賀守元忠】は岡田竹右衛門尉元次の祖父である。
祖父ではあるが、岡田氏とは限らないことに気が付いた。

鳥居伊賀守元忠だろうか?
疑念を持ちつつも調べてみると、面白いことがわかった。

鳥居元忠の娘が「土岐定政」に嫁ぎ、その定政は「菅沼」を名乗っていて、後にあらためて土岐に復姓していた。

其の定政は明智光秀のまたいとこ、だそうである。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐でも軍功を挙げたため、征伐後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に1万石を与えられた。・・・とwikipediaにあるので、その時に岡田氏も共に?相馬郡へ…だろうか。


その定政の妻には、鳥居元忠の娘の他に、神尾刑部少輔守世の娘もいた。

この神尾守世の母親は「阿茶局」であり、いかにweb情報の経歴があったので、一部分をコピーした。
阿茶局
1555年 1歳 武田家家臣、飯田直政の子として甲斐国に生まれる
1573年 19歳 一条信龍の家臣、神尾忠重に嫁ぐ
1574年 20歳 神尾守世を出産
1577年 23歳 夫、神尾忠重が死没
子息として神尾守世・神尾守繁、養子として神尾元勝(=岡田元直の兄弟)・高源院 (鍋島勝茂正室)がいる。

神尾 元勝(かんお もとかつ、天正17年(1589年) - 寛文7年4月25日(1667年6月16日))

江戸時代の旗本、茶人。江戸時代の歴代町奉行の中で、もっとも長期間奉行職を務めた。通称は五郎三郎。官位は内記、従五位下備前守。剃髪後に宗休と号する。子に元珍、娘(西郷延員室)、娘(柴田勝興)室がいる。

岡田元次の子として誕生し、神尾忠重の夫人で後に徳川家康の側室となった阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った。慶長11年(1606年)、家康に登用されて徳川秀忠に拝謁、書院番士に選出される。その後小姓番、使番、作事奉行と累進し、寛永11年(1634年)に長崎奉行に就任、寛永18年(1641年)には殉職した加賀爪忠澄の後任として南町奉行に就任した。

そして、更に岡田元次は「相馬利胤」と関係もある。
慶長7年(1602年)12月に徳川秀忠の養女という形式で、旗本の岡田元次の次女を継室に迎えた。


~~~*~~~

さて、この岡田氏の出自は一体どこにあるのだろうか。
鳥居氏か?
菅沼氏(土岐氏)か?
飯田氏か?

上記にある「書院番士」は、江戸中期の岡田寒泉(善里・恕)の系でもある。
この寒泉の父は岡田善富、その前は…善房~善紀~善政 となる。
さらに前は重善~與九郎(智恩)~與七郎(中務少輔・道慶)~與七郎(尾張國岡田原)

このどこからか、別れた系が元次につながってくると思う。
與九郎の兄弟に以下がいる。
重季(與十郎)・重通(又八郎)

この又八郎かもしれない。
九里政直は幼名又八とよばれ、八郎右衛門で、しかも隠居してからは「清左衛門」と名乗るのだが、寒泉も清助と清の字を使っている。

 
|||*|||

だが、岡田伊賀守元近、存在しているようなので、鳥居ではないかもしれない。
兄弟かもしれない。

これからあともう少し進めることができれば…以下のアドレス「中村藩 相馬忠胤」の中の系図が参考になる。

http://chibasi.net/hanshu2.htm






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津田武永の娘婿 岡田時常

2019-03-26 | 岡田氏 バラバラ情報

津田 武永(つだ たけなが)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。名は武衛(ぶえい)とも。通称は与十郎。官位は遠江守。尾張国川村北城主。
略歴

尾張国岩倉城の守護代「織田伊勢守家」の一族で木ノ下城主の織田広近の子として誕生。織田寛近(おだ とおちか/ひろちか)を名乗る。

文明年間に津田武永と名乗ったと推定される。文明7年(1475年)、父・広近の隠居により、尾張小口城でその家督を継ぎ、小口城主となる。後に尾張川村北城を築き居城とするが、男児がおらず、川村北城を娘婿の岡田伊勢守時常に譲った。長享元年(1487年)からの六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に斯波義寛に従い、出兵した。明応4年(1495年)、船田合戦では兄・寛広と織田紀伊守広遠らと石丸利光を攻めるため、美濃に出兵するが、「織田大和守家」の織田敏定の布陣中の死を知り尾張に引き返し、「織田大和守家」の進軍を妨害していた弟・広忠に加勢し寛定を討ち取った。

天文13年(1544年)8月、清洲三奉行の一人弾正忠家当主の織田信秀の要請で援軍を送る。

天文16年(1547年)7月頃に出家。法名は宗伝。

尾張国川村北城主 http://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris36.htm
津田武永 ⇒ 娘婿岡田時常 ⇒ 牧長清
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岡田十右衛門と佐々木氏・片岡氏・飯田氏・今福氏・原氏

2019-03-24 | 岡田氏 バラバラ情報

岡田十右衛門を見つけたので、その周辺を探ってみた。

石川県史の中の金沢町中御法度之帳・金沢町方等二日読御定書 に【町奉行里見七左衛門・岡田十右衛門】と出てくる!


その他、飯田氏の系図の中に「細川豊前守家臣岡田十右衛門某」と名前が出てくる。この人は、上の人物の系と同じなのか、違うのか?ちょっとまだわからない。

細川豊前守は?と調べてみる。
【細川興隆】の事のようであるが、時代はちょっと合わない。
大きな意味でとると、細川氏の家臣であったという意味かもしれない。

どういう経緯か…想像するに、細川政元が足利義澄をサポートしていた時からのことかもしれない。

この十右衛門、
佐々木道治・岡田十右衛門娘
片岡久兵衛(飯田)(佐々木)





飯田伴有という名前も出てきて、その周辺から探ってみると…武田氏に関わりが出てくる。

周囲には今福・原が出てきて、辻氏も出てくる。
この「原氏」は土岐原氏のほうで、千葉原氏の原氏の末裔であった「岡田元繁」とは繋がらない。・・・はずなのだが、どうも気になるのである。

土岐原氏と千葉原氏が同祖なのかどうかは、いまだ解明されていない問題のようである。

~~~*~~~

辻久太郎のことを調べると、

元禄の国絵図の作成を幕府に命じられたとある。

元禄十年閏二月四日、大目付仙石伯耆守が諸家の留守居を評定所に集め、正保の年に官庫に納められた諸国の絵図は、正確ではないため新に絵図を製し、上納するようにと申し付けられる。又このことはについて伺いたいことがあれば仙石伯耆守へ聞くべしと申し付けられる。

正保の国絵図も照合のために拝借を望むならば借出しする旨仰渡される。
 幕府側担当役人は、
 諸国絵図の惣司 
 寺社奉行 井上大和守 
 大目付 安仙石伯耆 (職分変更)→ 同 守藤筑後守  
 町奉行 松前伊豆守 
 勘定奉行 松平美濃守 (死後)→ 同 久貝因幡守
 勘定衆四人
 細田伊左衛門・野村新兵衛・平野次郎左衛門・辻久太郎



元禄国絵図に関する対馬藩への申達・・・ 勘定役 辻久太郎 

また上記の辻久太郎と同一人物かどうかはわからぬが、web上に興味深い一文があった。

鬼室集斯の末裔を称しておられる小野の辻久太郎家に伝わる『過去帳』

「鬼室集斯が庶孫ニシテ室徒中ノ筆頭株司ナリ代々庄屋ヲ勤メ郷士トシテ帯刀御免ノ家柄ナリ名ハ代々久右衛門ト称ス 近江国蒲生郡奥津保郷小野村ノ住人(略)
       辻久右衛門尉  宝永三年(一七〇六)正月 釈 念心」

というものも見つかった。

蒲生郡の「小野村」。
そこで百済の貴族であった「鬼室集斯(きしつ しゅうし)」の末裔が小野村の庄屋を勤めていた…ということのようである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%AE%A4%E9%9B%86%E6%96%AF


実は、九里の養子に入ってきた系に「高須氏」があり、その高須氏に養子に入った系に「辻氏」がある。辻久馬である。でも、小野村の人物とは違うかもしれない。

蒲生郡の出身なので、何等かつながりがありそうだと思っている。




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岡田竹右衛門

2019-03-23 | 岡田氏 バラバラ情報
岡田竹右衛門の情報を集めている。


岡田竹右衛門 権平

…という事は、名はわからないが、權平(長男)もいたと思われる。
ちなみに弟は五味右衛門元保である。

(和歌山県の大智庵にある九里氏のお墓を守って下さっているのが「五味様」(昭和時代)
きっと、つながっていると思う。)



大津時隆:
?-? 戦国時代の武士。
徳川家康の家臣。永禄(えいろく)6年(1563)三河(愛知県)の一向一揆(いっき)にくわわり家康にそむくが,翌年降伏。剛勇で知られ,三河吉田の戦い,遠江(とおとうみ)(静岡県)小山の戦いで功をたてた。のち家康のもとをはなれ,武蔵(むさし)にうつった。通称は土左衛門。

石川忠総の家臣となっていたようである。
石川忠総は、コトバンクによると…
1582-1651* 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)10年生まれ。大久保忠隣(ただちか)の次男。徳川家康の命により,外祖父石川家成(いえなり)の養子となり,慶長14年美濃(みの)大垣藩主石川家3代。19年実父忠隣の改易事件のため駿府(すんぷ)に幽閉されたが,石川姓ゆえにゆるされ,大坂の陣で功をたてる。加増をかさね,豊後(ぶんご)日田(ひた)藩主,下総(しもうさ)佐倉藩主をへて,寛永11年近江(おうみ)膳所(ぜぜ)藩主石川家初代。7万石。慶安3年12月24日死去。69歳。通称は宗十郎。

石川忠総
没年:慶安3.12.24(1651.2.14)
生年:天正10(1582)
江戸前期の近江国膳所藩(滋賀県大津市)藩主。実父は大久保忠隣,石川家成の養子。通称宗十郎。主殿頭に叙任。大垣,日田,佐倉を経て,膳所7万石を領す。慶長19(1614)年実父の改易事件に連座したが,石川姓であったため許された。(小柴良介)

大津時隆の妻は大久保忠俊娘である。

この石川氏・大久保氏は遡ると「宇津氏」となり、さらに遡ると「宇都宮氏」となる。という事は、中原氏につながっていることになる。

~~~*~~~

以下はgooglebook情報 其のままにコピーした。

三代岡田元直と政直の祖父民部少輔忠直が同母兄弟. ○六代岡田竹右衛門幸元(14)【有力幕閣へ縁故を持つ). ・家老職:最大時三千石領有. ・三代岡田元直兄弟である神尾元勝(trt-ty)の影響力. (神尾元勝は徳川家康の側室阿茶の局の娘を娶り、神尾家に.」

それを解剖してみる。


岡田元直…松井松平家の「松平康重」の娘が元直の室になっている。
岡田政直…大和宇陀松山藩の九里政直も、元は岡田政直であったはずである。
     しかし、この人物は「土屋正直」であった。残念。。。

祖父 民部少輔忠直が同母兄弟.の意味は、以下の図で解明できた。(千葉氏のHPの中の相馬岡田氏)

竹右衛門と土屋忠直に注目。



神尾元勝 wikipediaより
岡田元次の子として誕生し、神尾忠重の夫人で、後に徳川家康の側室となった阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った。


阿茶の局 ジャパンナレッジより
阿茶局
あちゃのつぼね
[1555―1637]

徳川家康の側室。名は須和(すわ)。甲斐武田氏の臣、飯田直政(なおまさ)の娘。駿河今川氏の臣、神尾忠重(かんおただしげ)と結婚したが、1577年(天正5)、一子を抱えて寡婦となる。2年後、家康に仕え、阿茶局と称した。しばしば戦場にも従い、1584年の小牧長久手の戦いの際には戦場で流産した。才知に優れ、1614年(慶長19)の大坂冬の陣のときには、淀君の妹で京極高次の妻常高院(じょうこういん)とともに大坂城に入り、和睦の使者をつとめて淀君・秀頼母子の誓書をとるなど、政治的役割も果たした。1616年(元和2)の家康没後も、家康の命により髪を下ろさなかった。1620年、秀忠の五女和子(かずこ・まさこ)(東福門院(とうふくもんいん))が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内したときは、和子の母代わりとして上洛。また1623年の皇女(のちの明正天皇(めいしょうてんのう))出産の際にも上洛して世話した。後水尾天皇より従一位の位を与えられ、神尾一位局とも言われるようになった。1632年(寛永9)、秀忠の死後剃髪し、雲光院と号した。
[関 民子]


~~~*~~~

伊賀守元忠(元次の父といわれている??)

浪六全集 第6編

https://books.google.co.jp/books?id=5vagJYSeYmAC&pg=PP398&dq=%E4%BA%94%E5%91%B3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjS6L_ntpPhAhWOFIgKHUy6AJUQ6AEINzAD#v=onepage&q=%E7%AB%B9%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&f=false


http://chibasi.net/hanshu2.htm

長篠の合戦 岡田五兵衛(長篠城籠城方・奥平方)
      岡田竹右衛門元次(徳川方・鳶ヶ巣山攻略)

この竹右衛門の系がやがて十右衛門とつながってくるのだろう。…と仮定してみたが…






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首藤(須藤)・花井氏そして、首藤氏だった藤原秀能

2019-03-03 | 岡田氏 バラバラ情報

◎首藤・花井氏 : 慶長7年(1602)5月徳川家により領地没収の際、相馬利胤は訴訟のため江戸に上り、谷中の瑞林寺(ずいりんじ)に逗留。

旗本嶋田治兵衛を通して家康・秀忠に訴状を提出、10月に至って本領安堵の命を受けた。

帰国の際
瑞林寺住職日瑞上人(にちずいしょうにん)の児性(こしょう)であった須藤嘉助(13才)と花井門十郎の二人を貰い受け相馬に連れ帰った。

嘉助は重臣岡田宣胤(のぶたね)の岡田氏を、門十郎は重臣泉胤政の泉氏を名乗らせ、それぞれ高禄高を与えた。

後に二氏とも元の姓にもどって須藤(首藤)・花井を名乗り代々城下士となった。

~~~*~~~

これと関係があるかどうかは不明だが…

昨日いろいろな系図を探っている際に「藤原秀能」首藤氏となっている(?)文書を見つけた。 

主馬首藤秀能
これが藤原秀能とイコールならば19歳の頃である。



首藤 (藤原)
助清 (主馬首、首藤、守藤、主藤) 出典:寛政重脩諸家譜・文化9年




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