九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

富木蓮忍の新情報!

2018-08-02 | 蓮忍情報

今年行われていたらしい「鎌倉幕府と千葉氏」に何と蓮忍・常忍親子が割とたくさん載っていた。
https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/identitysuishin/documents/hongousensei.pdf

そうか、もとは 因幡国府に仕えた文筆官僚。
その後千葉に居を移して千葉頼胤(亀若丸)の秘書官(右筆・事務担. 当者)・家政機関の統率者


千葉頼胤(亀若丸)とは?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E9%A0%BC%E8%83%A4
母親は、北条政子の姪である。

このピースが、何故に浅小井氏にハマルのだろうか?

~~~*~~~










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沙弥蓮忍とは?

2016-04-10 | 蓮忍情報


九里太郎=蓮忍入道のことです。 

丹波国 大江 室尾谷山観音寺文書の詳細と

そして 因幡国 富城郷 富城中太入道蓮忍のことを書きます。


~~~*~~~


丹波国 大江 室尾谷山観音寺文書 (webと大江町誌より)

蓮忍寄進状       延応元年(1239)

観音寺は『略年代記』によれば、貞永年間(1239)に僧蓮乗によって再興され、十一坊が建立されたとあるが、この文書はその直後に、当地方の地頭、沙弥蓮忍が観音寺に寺領を寄進した際の寄進状である。

観音寺が、河守御荘観音と表記されていることが注目される。また、中世の当地方で地頭と称する人物が確認できる唯一の例が、この沙弥蓮忍である。

~~~*~~~

河守御荘とあるこの【御】がついていることが、高貴な方の荘園だったことをうかがわせているそうです。

天皇領か摂関家領であったかもしれないとのことです。(京都歴史地名大系)



次に因幡国 富城(とき)中太入道蓮忍に関してです。

富城は【富木】【土木】と書くこともあります。

このひとは、宗教家 日蓮の強力なサポーターである【富城日常=常忍】の父だろうと思われます。

因幡国で、やはり地頭だったようですが、もしかすると因幡国守護代や国司代?であったかもしれません。

富城蓮忍も常忍もその後、鎌倉に移り、千葉氏のもとにいたのでは…と言われております。

このどちらかがもしも九里とイコールならば、近江国伊香郡にいた中原九里はいつからか東国にいたことになります。

それと、橘姓とが何かしら関与しているのでは…と探っている最中です。



【吾妻鏡】に記載がある部分をwebよりご紹介します。(一部省略)


八幡荘(やわたのしょう)は、中世の下総国葛飾郡にあった荘園。現在の千葉県市川市の北部地域に相当する。

谷中郷・蘇谷(曽谷)郷・中沢郷・大野郷の4郷から構成される。

保元3年12月3日(1158年)付官宣旨に記された石清水八幡宮領「下総国 葛餝別宮」が前身と考えられる。

『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年)条の関東御知行国々内乃具未済庄々注文にも「八幡」とみえるが荘園領主の記載がなく、

鎌倉時代には千田泰胤から娘婿の千葉頼胤に継承されたとされ、富木常忍・曾谷教信・太田乗明らが代官を務めていたとされる。

彼らは迫害を受けていた日蓮を迎え入れてこれを保護した。

~~~*~~~

以上が蓮忍・常忍に関する事項でした。(常忍は蓮忍の息子)


 
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河守庄と沙弥蓮忍

2016-04-10 | 蓮忍情報
【沙弥蓮忍】という記述を京都府『大江町誌』のなかにあることを確認し、その周辺を調べてみました。

沙弥蓮忍の名前が出てくる文書は、1239年延応元年のもので、室尾谷山観音寺に所蔵されているそうです。


室尾谷観音寺は
「丹後室尾谷観音寺略年代記」(元文3年筆写)によりますと「貞永年中、蓮乗によって中興された」とあり、

その直後、地頭沙弥蓮忍が観音寺へ寺領を寄進した…という寄進状が現在まで残っているのだそうです。

沙弥とは、仏教に帰依し、剃髪していても、僧侶の生活をせず、妻子を持って在家生活をしたものを言うのだそうです。

この寄進した土地は「河守庄」(こもり荘・こうもり荘)といい、書状に『河守御庄観音~~』とあるので、

「かなり地位の高い人の領知する荘園となっていたものであろう。皇室領あるいは摂関家領であったかもしれない。」と大江町誌に書いてありました。

地頭の蓮忍が寄進したのか、またはもっと地位の高い人がOKを出して、寄進したものなのか…私には判断が付きませんでした。



この観音寺は開祖【行基】だそうです!!!

丹波のこのあたりは古よりの物語が多々あるところで、有名な「麻呂古親王鬼退治伝説」もある神秘的な場所です。

平氏の落ち武者の隠れ郷になっていたこともあるそうです。その名も「隠田村」(此れでは、ばれてしまうのでは・・・)

この場所、崇神天皇にも、用明天皇にも(麻呂古の父にあたる)深くつながっており、真名為(井)という名もある、古代の香りが立ち込める場所です。


↓の文は、良く判りませんが読める方なら面白いかも~と思い載せてみました。webよりのコピーです。


《丹後旧事記》

豊鋤入姫命。崇神天皇六年乙卯秋九月就美濃国笠縫の邑殊に磯城の神籬立ち天照太神及草薙劒奉移加佐郡此垂跡加佐郡在神守里内宮邑此代国民神守里豊鋤入姫命奉貢四年。

凡当国神社の初は崇神天皇即位六年乙丑秋九月

大和国笠縫より殊磯神籬を立て天照大神及草薙の劒を加佐郡神守の地に移し奉り皇女豊鋤入姫命いつき奉るの垂跡内宮村とてあり。

其後卅九年壬戌天照皇太神與佐の宮に迂幸ましまし倭姫四年を経て斎奉る是よりさらに倭国を求め玉ふ

此年秋七月七日豊宇気比売神比治の真名井原に天降り與佐の宮へ通ひ御貢を奉り四十三年丙寅大和国伊豆如志の宮に移り玉ふ八年をいつき奉りぬと倭姫の世記に見えたり。

又谿羽道主命も此朝十年四道将軍の勅命を受て比治の真名為原にいまして四方を治一国に豊宇気持命を祭らせ豊宇気比売は此神の化神成事を教祭らせ比治真名為原咋石嶽に豊宇気持神玉死ふひし形とて岩面に黒き人の影顕られたり。

是を以て神崇む事当神社の始めなりと伝ふ延喜式に六十五社あげたり。



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