九里太郎=蓮忍入道のことです。
丹波国 大江 室尾谷山観音寺文書の詳細と
そして 因幡国 富城郷 富城中太入道蓮忍のことを書きます。
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丹波国 大江 室尾谷山観音寺文書 (webと大江町誌より)
蓮忍寄進状 延応元年(1239)
観音寺は『略年代記』によれば、貞永年間(1239)に僧蓮乗によって再興され、十一坊が建立されたとあるが、この文書はその直後に、当地方の地頭、沙弥蓮忍が観音寺に寺領を寄進した際の寄進状である。
観音寺が、河守御荘観音と表記されていることが注目される。また、中世の当地方で地頭と称する人物が確認できる唯一の例が、この沙弥蓮忍である。
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河守御荘とあるこの【御】がついていることが、高貴な方の荘園だったことをうかがわせているそうです。
天皇領か摂関家領であったかもしれないとのことです。(京都歴史地名大系)
次に因幡国 富城(とき)中太入道蓮忍に関してです。
富城は【富木】【土木】と書くこともあります。
このひとは、宗教家 日蓮の強力なサポーターである【富城日常=常忍】の父だろうと思われます。
因幡国で、やはり地頭だったようですが、もしかすると因幡国守護代や国司代?であったかもしれません。
富城蓮忍も常忍もその後、鎌倉に移り、千葉氏のもとにいたのでは…と言われております。
このどちらかがもしも九里とイコールならば、近江国伊香郡にいた中原九里はいつからか東国にいたことになります。
それと、橘姓とが何かしら関与しているのでは…と探っている最中です。
【吾妻鏡】に記載がある部分をwebよりご紹介します。(一部省略)
八幡荘(やわたのしょう)は、中世の下総国葛飾郡にあった荘園。現在の千葉県市川市の北部地域に相当する。
谷中郷・蘇谷(曽谷)郷・中沢郷・大野郷の4郷から構成される。
保元3年12月3日(1158年)付官宣旨に記された石清水八幡宮領「下総国 葛餝別宮」が前身と考えられる。
『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年)条の関東御知行国々内乃具未済庄々注文にも「八幡」とみえるが荘園領主の記載がなく、
鎌倉時代には千田泰胤から娘婿の千葉頼胤に継承されたとされ、富木常忍・曾谷教信・太田乗明らが代官を務めていたとされる。
彼らは迫害を受けていた日蓮を迎え入れてこれを保護した。
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以上が蓮忍・常忍に関する事項でした。(常忍は蓮忍の息子)