下から3ページ目の「百済寺の文化的意義」の中に「新羅部族が出雲地方を経て定着」とある。
よくわかりませんが、web上の資料等を読むと、
その頃(聖徳太子の生きていた頃)の新羅という事は、500年の後半から600年の前半なので、百済が情勢悪化の時代で、557年に威徳王が即位したが、頼みの綱の任那も滅亡、加羅諸国も新羅に属し…562年までに伽耶地方の大半が新羅の手に落ちることとなった。
その後、恵王・法王・武王となり、その武王の時には「武王は甥の鬼室福信を唐に派遣して仲裁を受け入れたが、その後も新羅との紛争は続いた。」とある。その後もに二転三転する。
その鬼室福信はwikipediaによると
「 鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印として擁するため豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求める。斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することとし、翌年正月には斉明天皇自ら、筑紫へ遠征する運びとなった。」とある。
663年白村江の戦い。
其の「鬼室」は近江に続いてくる。
「 福信の近親者と思われる鬼室集斯は天智4年2月(665年)(即位元年起算よると天智10年正月)に福信の功績によって天智天皇から小錦下の位階を与えられ、百済の民男女四百余名・近江国神前郡に住居を与えられたが、天智8年(669年)男女七百余名とともに近江国蒲生郡に移住させられた。」
この人々の住んでいた場所がやがて「小野村」となったと思う。
私としては、新羅から出雲経由で逃げ延びてきた百済の人が先に蒲生郡に定着していて、その後、百済の民男女四百余名・近江国神前郡に住居を与えられて移住してきた人々を集めた可能性もあるかな?と思っている。
其の出雲から来た方々は、和邇氏と息長氏とも親しくしていたと思えば、繋がりそうですね。(かなりアバウトかもしれませんが。)
依知秦氏は新羅からと思っていたのですが、百済系なのだろうか?と疑問が生じ、ますますわからなくなってきました‥‥が、
新羅に一度逃げ延びていた百済の人々が出雲経由で近江に入ったのではないだろうか?と思い始めています。