九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

帥升、その一族は? 依知秦氏には楽師も多く関係がある?

2023-10-09 | 古代からのつながり
まず、帥升が倭国王として後漢安帝朝に認められ…とあるのが107年のこと。


此の本が、気になる方は国立国会図書館のデジタルで、登録後見ることができます。


依知秦氏には楽師が多い、とあり、帥升が楽師であったことと、ラップしますね。

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出雲国と新羅 … DNA鑑定

2023-10-09 | 古代からのつながり
503年に「新羅」という正式な国号とした…という事は、神功皇后の時代も、スサノヲの時代も「斯蘆 」(しろ)であったのかもしれませんね。

?????

こんなコメントや記事を見つけました。

数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。 ↑「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。




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近江 百濟寺(2)新羅部族が出雲を経て渡来定着した土地

2023-10-09 | 古代からのつながり



下から3ページ目の「百済寺の文化的意義」の中に「新羅部族が出雲地方を経て定着」とある。

よくわかりませんが、web上の資料等を読むと、

その頃(聖徳太子の生きていた頃)の新羅という事は、500年の後半から600年の前半なので、百済が情勢悪化の時代で、557年に威徳王が即位したが、頼みの綱の任那も滅亡、加羅諸国も新羅に属し…562年までに伽耶地方の大半が新羅の手に落ちることとなった。

その後、恵王・法王・武王となり、その武王の時には「武王は甥の鬼室福信を唐に派遣して仲裁を受け入れたが、その後も新羅との紛争は続いた。」とある。その後もに二転三転する。

その鬼室福信はwikipediaによると
「 鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印として擁するため豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求める。斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することとし、翌年正月には斉明天皇自ら、筑紫へ遠征する運びとなった。」とある。

663年白村江の戦い。

其の「鬼室」は近江に続いてくる。
「 福信の近親者と思われる鬼室集斯は天智4年2月(665年)(即位元年起算よると天智10年正月)に福信の功績によって天智天皇から小錦下の位階を与えられ、百済の民男女四百余名・近江国神前郡に住居を与えられたが、天智8年(669年)男女七百余名とともに近江国蒲生郡に移住させられた。」

この人々の住んでいた場所がやがて「小野村」となったと思う。

私としては、新羅から出雲経由で逃げ延びてきた百済の人が先に蒲生郡に定着していて、その後、百済の民男女四百余名・近江国神前郡に住居を与えられて移住してきた人々を集めた可能性もあるかな?と思っている。

其の出雲から来た方々は、和邇氏と息長氏とも親しくしていたと思えば、繋がりそうですね。(かなりアバウトかもしれませんが。)

依知秦氏は新羅からと思っていたのですが、百済系なのだろうか?と疑問が生じ、ますますわからなくなってきました‥‥が、

新羅に一度逃げ延びていた百済の人々が出雲経由で近江に入ったのではないだろうか?と思い始めています。

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近江 百濟寺 (1)

2023-10-08 | 古代からのつながり



もう少し、息長氏と依知秦氏に詳しい記述が見つかり次第アップします!
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市杵島姫 ・ 近江八幡の沖島・厳島神社が「市寸島比売(いちきしまひめのみこと)」を祀っていること。

2023-10-04 | 古代からのつながり

↑をクリックすると、この記事の下に以前書いたここに関する記事が出る。

【イチキシマヒメを祭神として祀る市杵島神社では、「市杵島姫命は天照大神の子で、皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されている」という説明板がある。 】

つまり、此の近江八幡の日牟禮神社という名称になる以前の神社と関係がある。場所も日牟禮よりも北津田の方に寄るかもしれない。
いずれにせよ、今のその周辺と昔とではかなり地形が違っていたようなのだ。

『奥津島神社 』には「多紀里比売命(たぎりひめのみこと)」
『大島奥島神社』には奥津比売命(おくつひめのみこと)で、実は、この女神は、奥津島神社に祀られる多紀里比売命、玄界灘沖の島に祀られる田心比売命と同神なのです。 
沖島の北側には『厳島神社』には「市寸島比売(いちきしまひめのみこと)」
が祀られているそうで、つまり宗像と同じく三柱揃っていることとなる。

それらを守ってきた紀氏と和邇氏。
その神社の中に、呉織・漢織 の「綾神社」があり、秦氏が育てた蚕や織物を奉納していたと思われるのではないだろうか?

息長氏のいた米原には天野川があり織姫と彦星を思い起こさせる。
天野川周辺には、製鉄の痕跡もあるそうだ。

神功皇后が新羅から連れてきた秦氏がそこにも住み着いていたのかもしれない。という事は、その最先端の技術が近江にも入っていた。

伊吹山の麓から米原周辺に住み着いていた秦氏たちがやがては依知秦氏となり…と想像するとつながる。

琵琶湖に浮かぶ竹生島に弁財天様がおられるが、この神様も元は「市杵島姫」であったと思う。

天野川の付近にある「日撫神社」も「火撫」とも思われ、製鉄と関係していたかもしれず、そこに相撲神事も残っている。
大地を掘り起こし製鉄することと大地を鎮める相撲が繋がるのかもしれない。



 
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長屋王家の木簡 35000点の発見から35年目

2023-09-17 | 古代からのつながり
長屋王家木簡は、長屋王と夫人であった吉備内親王の邸宅跡で木簡が発見されてから35年経つそうである。

長屋王とは天武天皇の孫にあたる。高市皇子の息である。
吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の娘で、文武・元正両天皇の姉妹。

出土地が長屋王の邸宅跡であることが確実であるとなったのは、雅楽寮から「長屋王家令所」に充てて舞人の派遣を依頼した文書木簡があったからだそうだ。
 
その木簡の中に【片岡司】という土地の名前?役目の名前?が出てくる。




第 65 回 歴史リレー講座「長屋王家木簡と片岡」 馬場 基氏(R2.2.16)


上記の中から気になる箇所を抜粋すると以下のようになる。

長屋王は、天武天皇の孫であるとともに天智天皇の孫でもある。

神亀 6 年(729)、長屋王は藤原氏の密告により聖武天皇から謀反の疑いを掛けられ自害する。

長屋王邸宅跡の発掘調査では 3 万点を超える木簡が出土
長屋王の領地のなかでも重要なのが片岡司で近くの馬見丘陵には天皇家の土地があり、木簡には片岡司から納められた農作物の内容(カブラナ、桃、蓮
葉、ヌナハ=ジュンサイ、アザミなど)や関係者名(道守真人など)だけでなく、都まで運んだ人の名も見える。

全国に多数の荘園を抱える長屋王にとって、大和盆地の片岡は大和川を下って瀬戸内海航路へ、ひいては朝鮮半島へ直結する重要拠点という意義があったのではない

その多数の荘園の中に、上総国・下総国も含まれていたようである。
もしも、もしもそこに片岡司が派遣されることになり「片岡氏」を名乗っていた…なんという事はないだろうか?

片岡司…とは?
片岡王寺とは?

九里経久の年代を見直した際に、片岡経久(1175年生)はありえないということに一度はなったのだが、天武天皇の流れの中に接点がありそうで、もう一度調べてみた方が良いのかもしれない。





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崇峻天皇(欽明天皇の息)と天武天皇(高向王か舒明天皇)の線をさぐる

2023-09-06 | 古代からのつながり
崇峻天皇 欽明天皇の息 欽明天皇の父は継体天皇
敏達天皇 欽明天皇の息 石姫(宣化天皇の娘が母)宣化天皇の父も継体天皇

天武天皇の父は舒明天皇か、高向王
舒明天皇 父は押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の息)
高向王  父は田目皇子(用明天皇の息)用明天皇も欽明天皇の息

崇峻天皇も天武天皇も共に継体天皇・欽明天皇の血筋であることがわかる。

舒明天皇は反・蘇我氏派とみられ、
高向王は蘇我氏派と思われる。

が、蘇我氏もいくつかの派閥があったそうだ。

崇峻天皇から天武天皇へと線で結ばれる何かがあったのではないだろうか?
そのために近江国御家人井口中原系図と江州中原系図が始まりは違えど、途中から一致してくるのではないだろうか?

そこが気になっている。
そのヒントが、継体天皇や息長氏・和邇氏あたりにありそうな気がしている。
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厚皇子(あつのみこ) と 阿豆王(あづのおう)にかんして 日本書紀と古事記の違い

2023-09-06 | 古代からのつながり


 

 



和邇のはえひめ か 阿部のはえひめ か …


訳文古事記 : 標註 による
桜園書院編輯部 訳
出版者桜園書院
出版年月日大正12 


下記の系図もあったので載せておこうと思う。和邇のはえひめの息 厚皇子(阿豆王)




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衝撃 用明天皇と崇峻天皇は平安時代末期の写本の【日本書紀】であった。+広姫と広媛

2023-09-06 | 古代からのつながり
八木書店さんのページより
『日本の古代を知るためにもっとも重要な史料の一つが、『日本書紀』です。奈良時代の720年に成立した、いわゆる六国史(りっこくし)の第一にあたる歴史書で、本文全30巻と系図1巻とがあったとされます。本文、系図ともに奈良時代の原本は現存していませんが、本文の全30巻については後世の人々により書き写された本が残っており、原本を知るよすがとなっています。』




日本書紀 : 秘籍大観 巻第21・22


*****

さて、息長広姫(息長真手王の娘)の陵が近江国坂田郡にあることがわかった。





息長真手王の娘(麻績郎女)は継体天皇の妃として荳角皇女を産みんでいる。‥‥とwikipediaにある。
荳角(ささげの)皇女(伊勢斎宮) と、コトバンクにある。

しかし、二人の娘と言われている麻積郎女広姫は年が離れすぎており、
どちらかの伝承が間違いなのではないか…ということである。




上記を見ると、継体天皇に嫁いだ【広媛】がいるではないか!
ともに継体天皇に嫁いだ女性なのだろう…と思った次第である。



継体天皇の妃となった女性の父はどのような家柄であったのか。




これまでに天皇に嫁いだ例があったかどうか。

上記の広媛と広姫の問題の答えと思われる記事を見つけた。↓



息長氏を継いだのは末子「沙禰王」でその子が息長真手王である。
この真手王の娘とされた「広姫」は実は分家息長氏出身の26継体天皇の実子「阿豆王」(記紀にも記録あり)と真手王の娘との間に出来た娘である。 

つまり、広姫も継体天皇の血を継いでいたのである。
阿豆王…を調べてみよう。

継体天皇の妃であった和珥荑媛はえひめ。和珥臣河内の女)
  • 稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
  • 円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)
  • 厚皇子(あつのみこ。阿豆王
なるほど!
ココで和邇氏かつ息長氏・継体天皇ともつながる女性が【広姫】となり、敏達天皇の嫁ぎ【押坂彦人大兄皇子】を産むことになる。

押坂彦人大兄皇子の息が舒明天皇(諱・田村)と茅渟王 となる。

茅渟王は桜井皇子の女の吉備姫王(吉備島皇祖母命)を妃とし、
宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)を儲けた。 

共に欽明天皇から生まれた敏達天皇と用明天皇であったが、妻とした家系は違い、そのあたりから蘇我氏と離れようとしてきた敏達天皇の系が爆発したのが『乙巳の変』のように思えた。


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日本書紀(1)崇峻天皇の記事 など

2023-09-01 | 古代からのつながり


[ 『日本書紀』は、元正天皇の養老4年(720)に完成したとされるわが国最初の勅撰国史(天皇の命で編修された国の歴史)。撰者(編者)は天武天皇の皇子の舎人親王(とねりしんのう)ですが、ほかに紀清人(きのきよひと)や三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)らが編纂の実務を担当しました。
                   
全30巻のうち、巻1・2は神話的性格の濃い「神代紀」。巻3の「神武紀」以下、巻30の「持統紀」までは、年月の順に歴代天皇の事蹟や歴史上の事件が漢文で記されています。
                   
『日本書紀』が用いた資料は、『古事記』と較べはるかに多彩で「帝紀」「旧辞」のほか、朝廷の記録や個人の手記、中国の史書、さらに朝鮮半島に関しては、「百済記」等も用いられています。巻28以降(天武紀・持統紀)は朝廷の日々の記録に基づく記述も増え、記述の信憑性を高めています。]
                   
‥‥とwebページにある。

信憑性を高めている‥‥とのことだが、もちろん書きたくない事は省かれているのであろうと思う。

そのように編集したのが、舎人親王と思うが、持統天皇・藤原不比等からの圧力もあったろうと思う。

だが、崇峻天皇のことについて暗殺された後のことまで含めると16ページも割かれている。重要な事件であったと位置づけられていると思う。

なぜ、事細かに書かなければいけなかったのだろう。
本当にこの事件があって、あまりにショッキングな事件であったためその真相を明らかにしておきたかったのか、
はたまた、あたかも真実であったかのような印象を与えるためであったのか。




さらに、天智天皇・天武天皇の項のはじまりもアップしておこうと思う。




国立国会図書館デジタルで読めます!

天武天皇(下)







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