九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

大江広元・季光以前の相模国愛甲郡毛利庄は、源義隆の所領であった!

2023-06-18 | 清和源氏

森氏・毛利氏…を調べていこうと思う。


鎌倉時代
大江広元が相模国毛利荘をあてがわれ…とあるため、それ以前の毛利荘のことを知りたく思った。

それ以前にいたのが、源義隆なのである。

父以来の相模国愛甲郡毛利庄を相伝し、鎌倉幕府の御家人となる(源姓毛利氏の祖)』とあり、

源義隆の方が大江広元・季光よりも先にいた毛利氏である。

父以来…と云う事は、源義家!が、この毛利荘の領主であった時代があり、それが七男の義隆に相伝したという事になる。

以下の事項とプラスしてみる。

義家の娘は義隆の姉か妹ということであり、浦野氏となった源重遠(妻が義家の娘)も義隆の義兄弟であったことになる。

 

次に、『平良兼の息致兼(むねかね)[7]致時(むねとき)[8]兄弟は従弟の将門を滅ぼした戦功で尾張国を賜り、同国知多郡野間郷内海庄長田村[9]の地名をちなんで長田氏毛利氏相模平氏/尾張平氏)の祖となった…』

因みに致兼は公雅のこと…とある。

致時は公連、致兼の息に長田致頼がいる。

 

この部分が妙に気になっている。

長田氏がなぜ毛利氏(森氏)・浦野氏・木田氏さらに我が系の(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)九里氏に近いのかを探ってみたい。さらには千葉氏にも繋がる箇所も今回見つけたのである。

 

長田氏の丹波国と関係がありそうな方の長田致信ー長田荘司二郎資致ー高庭介資経ー資家…

荘司二次郎資致が源義家に従っていたという。

因幡国法美郡…他4郡をもらい高庭に暮らしていたようである。

 

九里の前身中原蓮忍入道がいたのも、因幡国法美郡である。

 

この藤七資家が、まだ若き頼朝に附き従って伊豆に送り届けた人物となるのだ。

(この系と、富士谷の大神宮の長田源次郎忠利が繋がっていることがわかる。)

 

この長田氏と法美郡にいた中原氏と婚姻関係などのつながりを持っていたのではないだろうか?

近江国でも、近江八幡の中の九里(九里村)の隣は長田村であることからも、また、永田氏の系図の中に「称九里」とあることからも無関係ではないと思う。

 

義家に仕えていた時代とは1106年迄である。

 

以前調べた際にわかったことをプラスすると、

此の藤七資家は【源義家の郎党であった藤原資道の流れを組む人物の可能性があろう。 『吾妻鏡』寿永三年三月十日条…】とあり、

秀郷流の資清(助清)で、首藤大夫であった人の系ではないか?という

藤原(日野)資憲の関係者となる高庭介資経…と云うのも気にかかる。

中原は、代々日野家の家司でもあったと思う。

 

藤原助清の裔には義通がいて、その妹が中原久経の母であり、久経は九里の先祖となる人物ではないか?と思う。

 

上記に登場している長田致信を見つけることができれば、もう少し進めそうなのだが。

 

平良兼 : 別名は良致。上総太郎または上総次郎。嵯峨源氏の源護の娘を妻とした。甥の将門と仲が悪く、良兼の女婿で妻の甥でもある従子の貞盛(良望の子)とともにこれを争い939年6月に没した。

子の致兼(むねかね)・致時(むねとき)兄弟は従弟の将門を滅ぼした戦功で尾張国を賜り、同国知多郡野間郷内海庄長田村の地名をちなんで長田氏・毛利氏(相模平氏/尾張平氏)の祖となった。

この記述の毛利氏は、大江季光の方ではなく、源義隆の方の「毛利氏=森氏」と思う。

この時、長田氏の婿養子となったのが源義隆だったのだろうか?

長男 毛利治部丞源義広が父義隆以来の所領である相模国愛甲郡毛利庄を引き継ぎ、代々、鎌倉幕府の御家人として勤仕した。

(地頭職を大江広元が作る以前は義隆・義広が持っていたと思われる毛利荘)

 

さらに、婚姻関係にある丹姓平氏千葉氏房総平氏)の庇護を受けた…とあったのは、

長田氏を介して平姓の千葉氏を妻として迎えたのではないだろうか?

 

この辺りの長田氏や、千葉氏と 源頼隆周辺がわかると良いのだが…

頼隆を預かったのが「千葉常胤」というのは、何故なのか。

この中に出てくる毛利氏と長田氏がどこで同族となっていくのか‥‥↓
毛利氏 (平氏) : 相模国愛甲郡毛利郷(現在の神奈川県厚木市毛利台)拠点として(相模平氏)、後に尾張国を拠点とした(尾張平氏)。丹姓平氏の平致時の子の致孝・致良父子を祖とする長田氏と同族であり、この家系は戦国時代に織田信長に仕えて、今川義元を討ち取った良勝(新介秀高、致勝の子)と天文16年(1547年)に美濃国稲葉山城攻めで戦死した毛利敦元の孫で、敦秀(十郎)の子の秀頼(長秀)・秀秋(秀政)父子は豊臣秀吉に仕えた。さらに豊臣秀頼の武将として活躍した勝永(良政、勝信(良成)の子)などが出た 。



【長田氏】
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E6%B0%8F

長田氏(おさだし)は、丹姓平氏良兼流致兼の系統で、尾張平氏とも呼ばれる。
尾張国知多郡野間郷内海庄長田村を拠点とした。

同族に、尾張毛利氏があり、庶家に浦野氏とその系統である葦敷氏を中心に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏)・尾張木田氏・小河氏(三河小川氏)・平野氏と三河平氏の大浜氏・三河永井氏などがある)。

 

様々な本の「長田氏」「坂東平氏」を調べていると、とうとう重要な一文に出会ったのである。

長田致将は忠致の二子というが、実は千葉常重の子で、忠致が養子にした。

三州諸家史(氏の研究)薩州満家院史

↓ 此の致将は種子島などに行っていたようである。

ここが、長田氏と千葉氏の接点の一つなのだ。

義家の七男義隆、その息頼隆を千葉常胤(常重の息)が預かって育てた理由

(長田氏は義家に従っていた…その養子致将の兄弟となる千葉常胤が預かった)で、

その頼隆が毛利氏(森氏・若槻氏)で、長田氏と同族という所以。

その長田氏が浦野氏・木田氏ともつながりがある所以‥‥となっていくように思う。

 

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森氏 と 木田氏

2023-06-17 | 清和源氏

森岡先生の系図では、

https://office-morioka.com/myoji/genealogy/genpei/seiwa_genji_overview.html

 

源満仲の息 頼光から土岐氏

同じ満仲の息 頼信-頼義ー義家ー義隆…森氏となる。

 

一方

満政の系が浦野氏となる。

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%83%A1%E5%9F%9F%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%9C%AB%EF%BD%9E%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AB%E6%96%BC%E3%81%91%E3%82%8B%E3%80%80%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AE%E5%8B%95%E5%90%91.html

 

満政-忠重ー定宗ー重宗ー重実ー重遠・・・浦野氏

 

 

満政の曾孫 重宗(中央政府 右兵衛尉という官職についている。)は、佐渡源太とも八島冠者とも名乗り、安八郡、方県郡、本巣郡に勢力を張り、その子孫は、”山田、葦敷(あじき)”、生津(なまづ)、小河高田、鏡、白川、小島、木田、開田の諸氏にわかれている。( 詳しくは、多治見市史 通史編 上 昭和55年 刊 参照 )

尚、重宗流源氏の略系図が、瀬戸市史 通史編 上 平成15年 刊 P、90にありますのであわせて参照されたい。

 

重宗流源氏についての概略 ( 以下の文は、瀬戸市史 通史編 上の要約であります。)
重宗には、重実・重長・重高・重時・重親という子がおり、はっきりするのは、

重時で、白河上皇に使え”検非違使”として警察能力を発揮した事。

重実は、鳥羽院武者所と言われ、美濃国河辺郡での狩猟が伝えられると。

其の重実の弟、重長は、美濃国木田郷に居住し、木田三郎とも名乗っていた。

その重実の子 重成は、鳥羽院のもとで活躍。

 

重実の子 重貞は、保元の乱(1156年)の時、後白河天皇方で戦功をあげている。

重実の長子 重遠は、美濃国を生国として、尾張国浦野へ進出し、居住。浦野を名乗ったのでありましょう。…

その後重遠の子 重直は、尾張国河辺荘に住み、山田氏を名乗ったという。


とあることからもわかるように、木田氏と浦野氏は一族の中である。

 

*****

上記の記述を読むと、柏原藩の九里氏とご縁の深い岡田氏は、ココにつながってくる。

柏原織田家臣系譜によると 

浦野を名乗った「源重遠」の妻は源義家の娘という。

その重遠の息 重直が 山田氏となり、岡田氏と変遷していく。

重遠の伯父に当たるのが、重長・重時となる。

 

 

 

 

2つ上にある系図の中の源斉頼は、源頼政の室の養父となっている。

つまり、ここで頼政と惟家(善積氏)が義兄弟であることになる。

という事は、善積惟家…

近江国の善積庄は中原信房と関係があったはずだが、今のところそことつながるのかどうかまではわかっていない。

 

柏原藩の九里氏とのつながりを感じる 満政流の岡田氏・木田氏

・・・・更には源満仲流の森氏 である。

 

森氏は、江戸時代中期から後期の九里政敬が逼塞を命じられた際に森氏の許に「お預け」となり、

お世話になっている。

 

和歌山の九里氏も大坂で商店を始めた際には「紀の庄」を称している。

 

土岐氏も紀氏とつながっていたように(石清水八幡宮の池田氏)

其の池田氏と頼政もつながっていた。

 

 

 

 

 

 

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来田文書の中に【嶋郷】の記載が… (書き直しました!)

2023-06-15 | 清和源氏

今朝、自分の記事を見て、その分かりにくさや誤解を招きそうな部分が気になったので、

書き直しました!

 

伊勢神宮の外宮御師の監物家の文書 来田文書

そこに【近江国の嶋郷】の記載があるという事は、木田氏とつながっていることを意味しているのだろうか?

[ 天文 10 年6月 23 日南倉(足代)弘康道者売券の文中に
「嶋郷内うつろ里一」などの三村荘の関係地名が記されている。] とあった。
 
1541年 木田氏の記載があってから89年後のことである。
 
 
私の記憶が正しければ、三村庄は木田氏と大和教賢が相論した後には、他の人が代官となっていたはずである。しかし、この来田氏の文書にあるという事は嶋郷の土地は持っていて、それを南倉氏に売った‥‥か‥
 
ともかく、全く関係がない人物がこの文書を持っているはずがない。
キタ氏が持っているという事は、木田(紀田)と繋がっている証なのだろうと思う。
 

禁裏領山国荘

という本に南倉[足代〕民部丞弘康 という名がでていた。

 

ということは、

南倉[足代〕民部丞弘康に売った券?
または、彼から購入した券?(土地の権利書?) 
 
場所が嶋郷宇津呂であった…と云う事なのだろうか?
 
さらに南倉弘康で検索すると以下のようになった。
 
不思議なことが出てきた。
この森氏のことを調べるにあたって、
【森氏家譜】森一族の歴史・・・を見た。
以前にも訪れた事のある頁である。
 
 
ここが、下総の千葉氏と清和源氏の接点となるらしい。
 
毛利頼隆ともいう。彼(とその兄弟もか?)が千葉常胤に預けられひっそりと育てられ、頼隆が源頼朝に出会う場面である。
 
千葉常胤の息1141年生まれ 六男の東胤頼が1155年生まれ
源頼隆が1159年生まれ
 
22歳くらいの時に頼朝の前に出ていることになる。
 
日本通信百科事典によると、
 

 

源(毛利)頼隆は幼いときに、『平治の乱』で、祖父ほども年齢が離れた年老いた父の源義隆を失って、30歳近く親子ほども年が離れた長兄の森義広の軍勢に護衛されて、嬰児であった異母弟の茂理定隆とともに婚姻関係にある丹姓平氏千葉氏房総平氏)の庇護を受けた。

 

此処で疑問なのは、誰と誰が婚姻関係があったのか…

 

成長した頼隆は、義広・定隆兄弟とともに信濃国に戻って、源家相模源氏)の当主で、族孫の源頼朝に仕えて、源氏一門の御家人として厚遇された。

頼隆の子の頼定は、朝廷や北条得宗家に仕えて、安嘉門院判官代などを歴任した。頼定の子の定氏頼仲)も父と同様で、北白河蔵人などを歴任した。

 

頼隆の兄、森義広は、以下のようになっている。

森義広 : 別名は頼義。源義隆の長男、若槻頼隆[4]・茂理定隆の兄、義昭義秋)の父、義輝義照)の祖父。信濃森氏(信濃源氏)の祖で、信濃国佐久郡茂理(森)郷[5](現在の長野県佐久市森大字)を本拠地とする。治部丞・蔵人に任じられて、晩年に出家して「西阿入道」と名乗った。

 
遡り、頼隆の父は? ↓
源義隆 (森冠者) : 通称は森冠者/陸奥冠者/陸奥六郎。源義家の7男(末子)義宗義親義忠義国義頼)・義時の末弟。森義広若槻頼隆・茂理定隆らの父。信濃国佐久郡森(茂理)郷[1](現在の長野県佐久市森大字)を本拠地として、信濃森氏信濃源氏)・若槻氏などの祖となった。『平治の乱』で、年老いた義隆は、従孫の義朝義頼)の身代わりとなって、戦死を遂げた。
 

 

 

義朝の家臣か舅に【長田】または、家臣の鎌田の舅【長田】、更に源義広の舅も【長田】だったのだろうか。

確か、長田氏は平姓ではあるものの、頼信にも仕え、義朝に領地も賜わっていた。源氏の家司的存在であったかもしれない。

 

兄義広の婚姻関係だろうか。

https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E8%89%AF

平良兼 : 別名は良致。上総太郎または上総次郎。仁明源氏の源護の娘を妻とした[6]。甥の将門と仲が悪く、良兼の女婿で妻の甥でもある従子の貞盛(良望の子)とともにこれを争い939年6月に没した。子の致兼(むねかね)[7]致時(むねとき)[8]兄弟は従弟の将門を滅ぼした戦功で尾張国を賜り、同国知多郡野間郷内海庄長田村[9]の地名をちなんで長田氏毛利氏相模平氏/尾張平氏)の祖となった[10]

この系統に浦野氏とその庶家である葦敷氏を中心に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏、庶家に三河石橋氏))・尾張木田氏・小河氏(庶家に水野氏・毛受氏)・平野氏と三河平氏の足助氏・大浜氏・永井氏などの庶家が出たが、大浜氏・永井氏をのぞいて陽成源氏満政流八島氏羽島氏)の系統と自称(仮冒)した。

 

つまりは、森氏も

木田氏と同族となる!!

この「森氏と木田氏」の関係は次に! このままでは混乱しそうなので…

コメント (4)
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平経久‐知信ー信範 妾 能勢資国の娘 ・ 佐竹秀義 妻 多田山縣国政の娘 平氏と源氏の接点

2021-06-10 | 清和源氏

https://ja.unionpedia.org/i/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1#%E5%A4%9A%E7%94%B0%E5%9F%BA%E7%B6%B1

多田基綱

多田 基綱(ただ もとつな、生年不明 - 承久3年6月(1221年))は、鎌倉時代初期の武将。多田行綱の四男。子に重綱(多田三郎)、親綱(修理亮)、行成らがある。号は多田蔵人。 多田源氏の惣領であった父行綱は、源頼朝の粛清により累代の所領多田荘を奪われ没落しており、以降の行綱及びその子らの動向は不明となっているが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると基綱は上皇方として参加し、その敗北とともに討ち取られ梟首されたとの記録が残る(『吾妻鏡』同6月20日条)。上皇方への参加は多田荘の奪回を図ったものであろうと考えられている。 子の重綱と親綱は甥の多田光綱が猶子とし、重綱の子孫が3代後まで存続していることが『尊卑分脈』に記されている。.

 

多田仁綱

多田 仁綱(ただ のりつな)は、鎌倉時代前期の武士。大江親広の外祖父にあたる。.

 

多田荘

多田荘(ただのしょう)は、摂津国川辺郡北部(現在の兵庫県川西市全域及び宝塚市北部、三田市東部、猪名川町の一部にあたる地域)に存在した荘園。摂関家(近衛家)領。初期清和源氏の拠点となった。

能勢氏

能勢氏(のせし)は、摂津国(北摂地方)の封建領主。清和源氏頼光流を称する。「能瀬」・「野瀬」・「能世」など複数の表記が存在する。家紋は切竹矢筈十字、獅子牡丹など。

 

 

能瀬 資国(のせ すけくに)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士・官人。能瀬高頼の長男。.

能瀬高頼

能瀬 高頼(のせ たかより)は平安時代末期の武将。多田頼盛の三男。 摂津国能勢庄(現在の大阪府能勢町)の開発領主。多田源氏の一族であるが、一族の他の武士達のように京都の情勢に関心を持たず、領地の開発に邁進した。多田源氏の嫡流(多田氏)が本拠地の多田(現在の兵庫県川西市多田)から勢力を拡大していないのに対して、高頼の代には既に現在の大阪府能勢町および豊能町に勢力を拡大していた。それが後の多田氏と能勢氏の勢力の差につながったことから、能勢氏の最大の功労者といえる。 治承・寿永の乱においては『平家物語』に兄の知実と共にその名が挙がっており、『玉葉』の記述によると、治承4年(1180年)11月23日に福原にて「人宅」に火を放ち東国に向けて逐電したとある事から、高頼も当初は他の摂津源氏と同様平家に服属していたものと思われる。そして12月1日、反平家の狼煙が上がる近江国において近江源氏の軍勢と合流し挙兵を企てるも、平清盛による討伐の命を受けて近江に攻め込んできた平家の家人平家継によって討たれ、仲間及び郎党と合わせて16人が斬首、2人が捕縛されたとある。

 

 

 

佐竹秀義の妻は山縣国政の娘

国政の母は木村定道の娘

平経久の孫信範の妾に能勢資国の娘

平信範は西洞院家につながっていく

 

 

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源義家ー義国ー義康-義兼-義氏(上総三郎)-泰氏-頼氏-家時ー貞氏ー高氏(尊氏)…

2020-05-13 | 清和源氏


西尾市史 71頁周辺に「九里利氏の出自」とあるらしいが、ただいま図書館も遠隔複写もお休みなので確かめられないでいる。九里 足利氏の出自 なのか?



そこで、吉良氏の周辺を探ってみる。

武家家伝 足利将軍家の略系図を見て思ったことは、


この系図に記載はないが、源義光の娘は佐々木季定(為俊)の妻である。
さらに、季定の息秀義の娘が井上六郎実綱に嫁ぎ、其の実綱は行実の養子となっている。
また、源義光の孫に佐竹昌義がいる。そこが、片岡経春・弘経と経久のあたりとつながっている。

系図の中の
この成行は「藤姓足利氏の祖で、鎮守府将軍・藤原秀郷の流れを汲む足利成行の嫡子として誕生。」
こちらの藤原姓足利氏 は、成綱の娘が源義家に嫁いでいることから、将軍家の足利氏ともゆるく繋がっている。

保元の乱では家綱の子・俊綱が下野国から八田知家と並んで源義朝配下として参戦している。
治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では、俊綱の嫡子・忠綱が平氏軍に加わり宇治川を先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた。が、内乱の過程で源頼朝に滅ぼされた。大胡・佐野・阿曾沼のなどの一門は頼朝に帰順し、鎌倉御家人として発展した。

阿曽沼氏(武家)
山上氏(武家)
大胡氏(武家)
佐野氏(武家)
園田氏(武家)
木村氏(武家)

波多野遠義、(1107 ?~1167 ?) (1109 ?~1159?) (1111 ?~1131 ?) (1113 ?~1163?)
官位:従五位下 筑後守、父:波多野秀遠、母:一宮紀伊の女、筑後守、
波多野実方、(1113 ?~1163 ?)波多野余三、遠義の子、広沢家の始祖。
奥州征伐に従軍する。
源頼朝上洛に後陣として従事する。
源頼朝の東大寺供養参列に随兵として従事する。
武蔵国大蔵谷の戦いにより武蔵国広沢を賜わる


戸矢子有綱兄弟 足利俊綱、戸矢子有綱、深栖郷綱、利根成次、西場成実、山上高綱

子息:佐野基綱、園部行綱、佐野高綱、阿曽沼広綱、木村信綱、柏木有房、壬生親綱、鍋山有利、那須綱吉、堀川基親、白山賢厳、加賀局(島津忠佐の妻)

===*===








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安井権守源頼高の父を探す。頼高の母は「源義経の娘」と云う。

2020-01-23 | 清和源氏

本来の九里探しを忘れてはいません。(弁明)
でも、この話はとても気になります。
どこかで、重なっているような気がしているのです。

===*===

http://kuwaichi.dip.jp/u_2_3.html

http://kuwaichi.dip.jp/2_3_4.html

上の二つの記事を読んで、気になって仕方がないので、私なりに考えてみようと思う。

安井権守源頼高の父は「頼基」というそうだ。その頼基の妻となったのが義経の娘になる。

まず「安井氏」を全く知らないので調べてみよう!

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/yasui1.htm
「浅野長政の実父系・安井氏」とある。

源頼政と源光重(土岐氏よりの養子:深栖光重)の例もあるので、土岐光基の息である「頼基」も関係があるかもしれない。
土岐の頼基の立ち位置というか、系図の場所が一定ではなく、光基の三男であったり、光長の五男であったり、もしくはもっと離れて光基の弟?光義 - 光国-光有-伊賀頼基であったり、である。

何故「頼基等の実の息子たち」ではなく、養子の「光衡」に土岐氏を伝えていったのか、その謎と関係があるのだろうか?

国長、光経、光衡は「源光長の息たち」で本当の兄弟である。
前の記事で、「光経の息光助が長沢になった」と書いた。

今度は、光衡の義理の兄弟「頼基」なのだろうか。
光基の息という事は、光基の娘と兄弟姉妹である。
波多野秀宗の妻が光基の娘であるので、藤原秀康、藤原秀能の叔父が頼基となる。

其の源頼基(父が土岐光基)
1207年2月12日に「頼高」が生まれたとある。

「頼隆」も頼高と読めるが、系図の場所が後ろ過ぎるので、光基の孫あたりの年代かその一代後と思う。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asano_k.html

「浅野氏」と「安井氏」が関係していることからも、何かありそうである。

ちょうど満仲をいれて八代目に土岐光基の息の頼基がいる! 
安井氏になった頼基は、土岐氏の光基の息のことではないだろうか?


野木氏のことは、長沢氏の件で出てきた同じ「光綱」がいるために、どこかで混乱したのかもしれない。

ただ、土岐氏と佐々木氏で、何等かあったのか…・とも思われる。

「佐々木義清」の周辺と関係がありそうなことがらは、

この義経の娘は、亡くなったと言われている「河越重頼の孫」のような気がする。
なぜなら、河越氏と渋谷氏は同じ秩父氏の一族であるのだが、渋谷氏には佐々木氏が婿に入っている。
そして生まれたのが「佐々木義清」である。
さらに妻は大庭景親で、波多野氏もお世話になっている。

河越重頼の娘は「郷御前」と言い、母親は比企尼の二女である。

wikipediaによると
「義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している」
「文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡が、従兵数百騎で義経が暮らす衣川館を襲撃。義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害した。 」とある。

4歳の子。1207年には21歳である。
この河越氏の郷御前の娘なのではないだろうか?

そして、河越氏にいては危ないので、渋谷氏を通じ佐々木義清へ。
佐々木高綱の息であった「光綱」と共に育った可能性もあるのではないだろうか?
光綱は1187年生まれである。

さらに光綱の妻は「佐々木義清の娘」とある。
ひょっとすると河越重頼の孫娘かもしれない。。。と想像は膨らむが、そうなってくると安井氏との関係はどうなのだろうか。

二つの別々の事のようにも感じる。

wikipediaで安井氏を見ると「清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む足利氏の一門、畠山氏の庶流にあたる。 」とある。
畠山氏も「秩父氏」である。

日本通信百科事典によると
畠山氏の項なのだが「庶家に岩松氏・下野田中氏・美濃畠山氏・二本松氏(奥州源氏)[2]・渋川氏(河内渋川氏)・安井氏(河内渋川氏の庶家)などがある。 」とある。

難しすぎて、よくわからない。。。

===*===

wikipediaの安井重継というページの「安井氏」「浅野氏」の註を読むと、どちらも土岐氏の関係となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E9%87%8D%E7%B6%99

名古屋市博物館紀要
研究紀要第30巻

900円 A4判76頁。(2007)

尾張藩士安井将監家の新旧家譜考-安井将監秀勝「秀長」改名記事を中心に-、太刀拵佩緒結びの雛形、二躯の大日如来像(興正寺ならびに水野平蔵家伝来)について、絵葉書のイメージ・リーディング

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源頼政の孫「源有綱」

2020-01-22 | 清和源氏

源有綱
源頼政の孫であり、1180年の以仁王の乱の際は「伊豆」にいたため難を逃れたそうである。(wikipedia)
1182年に義経の与力として活躍。
『吾妻鏡』の元暦2年(1185年)5月19日条に、有綱が義経の婿であると称して多くの荘園公領を掠め取っているとの記録がある。

…という事は、1159年生まれの義経、1174年に近江国蒲生郡鏡神社で一人で元服。
1185年「義経婿」というのは、娘10歳前後カ。平安から鎌倉時代のことなので、それもあったかもしれない。
とにかく「有綱殿、私の娘を妻としてくれ」という事で約束したのだと思う。

という事は、有綱が歿する前に「大和国宇陀」の義経の母のところにその娘を預けるために行ったのかもしれない。娘はまだ10歳前後の時の1186年に有綱は歿している。

その有綱は、自分が亡くなった後のことも考えて源光綱に託したのかもしれないし、義経が越中国の方面へ逃げ延びていた噂を聞いた娘が追いかけて行ったのかもしれない。

既に光綱の養女となっていて、そこを頼って義経が逃避行の際に寄ったのかもしれない。
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/2cc83ca921d06d2f5cc594055ba858db

いろいろと考えられるが、義経という人物を父に持ったため「渦」に巻き込まれた女性である。

吾妻鑑には「婿」とあるので、妹ではないように思える。
妹とすると、義経の荘園公領を掠め取るようなことは、できないのではないだろうか?

有綱の勝手な行動を許している義経は闘うことにすべてをかけていたに違いない。
兄頼朝のためを思って闘って、源氏再興を願って闘っている義経が、頼朝から疎んじられるという結果に終わる、、、
ぶつけようのない悲しさが私の中にも残る。

この感情こそが「判官贔屓」なのだろうか?










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本朝武家評林大系図 のなかの「公暁」

2019-11-16 | 清和源氏

公暁の母は、加茂重長女で、為朝孫女とある。



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源義経の息が「乾氏」となり、娘が源有綱の室(有綱=源頼政の孫)であった。(2)

2019-11-16 | 清和源氏

「義経記」関東より勧修坊を召さるる事…とある。
義経の息「乾氏」の母親「勧修坊女」のその勧修坊は、つまり勧修坊聖弘ではないかと思う。

とても興味深いので、wikipediaをそのままコピーする。

聖弘(しょうこう、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の興福寺の僧。塔頭の勧修坊を住坊とした。 聖弘得業、周防得業(すおうのとくごう)聖弘とも称される。

『吾妻鏡』によれば、文治2年(1186年)2月、源頼朝と対立し、都を落ちのびた源義経を匿った事により、翌文治3年(1187年)3月8日、鎌倉に召し出されて頼朝の尋問を受ける。

聖弘は義経と師檀の関係であり、平家追討の際には義経の依頼によって祈祷を行っていた。その縁により都落ちの際に南都に逃れてきた義経を一時匿い、頼朝と和解するように諫めて下法師らを付けて伊賀国へ送り出し、その後は音信不通となったという。

謀反人の義経を匿い、祈祷を行った事を詰問する頼朝に対し、聖弘は師弟のよしみで頼ってきたので迎え入れたものであり、祈祷は義経を諫めて逆心をなだめるもので、何ら罪になるものではないと答えた。

また、そもそも今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言によりその奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、予州(義経)を召し返して兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法というものである。これは義経を弁護するものではなく、天下静謐を求めてのことであると答えた。

この聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を行うよう命じている。

『玉葉』によれば、文治5年(1189年)12月には在京している。『義経記』には勝長寿院縁起物語として「勧修坊(かんしゅうぼう)物語」が描かれ、勧修坊(聖弘)が勝長寿院の別当、あるいは開基として語られている。

==*==

聖弘の素晴らしい対応! 
この方の娘が生んだ息が「乾氏」(南都衆)という系図が前回の本朝武家評林大系図である。

例えば、小笠原貞宗の母は、中原氏という説と赤沢氏という説があるのだが、どうかな?と思って系図を見てみると、そこには何も書かれていなかった。
他にもいくつかそのような、確かではないけれど伝承ではこう言われている…という事に関しては書かれていないことが多かったので、この系図は私の感じでは、信頼性があるのではないか?と思うのだが、現代の評価は如何だろうか?

もう一つ、源有綱室に関しても以下のwikipediaが参考になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%9C%89%E7%B6%B1#%E6%9C%89%E7%B6%B1%E3%81%AE%E5%A6%BB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

有綱は「頼朝の弟である源義経の与力に組み込まれる。家臣というより同盟者に近い関係」とあった。

===*===

もう一度「勧修坊の娘を母に持つ乾氏」に話を戻すと、義経と乾氏の関係に関し、平城坊目遺考という本にも記載があった。
「勸修坊今廢亡里傳云源義經文治元年逐電
已後潛居興福寺勸修坊至異本義經記系圖目義經通興福寺眾徒乾氏之女而有一子合相續今景乾氏衆徒是力云」

https://books.google.co.jp/books?id=lHdGAQAAMAAJ&q=%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA+%E4%B9%BE%E6%B0%8F&dq=%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA+%E4%B9%BE%E6%B0%8F&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjBt5_e2u7lAhXTMN4KHcwdAjoQ6AEIKTAA
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美濃源氏 乾氏の祖 道謙 と その周辺(3)明智頼重

2019-11-03 | 清和源氏

長山頼基 息 明智頼重
明智頼重 息 肥田頼寿(乾頼久?)寿も久も「ひさ」と読める。
???? 息 ?光忠 (乾光忠)
        →土岐頼貞の6男である土岐頼清(頼宗)の更に6男である土岐頼忠の三男の頼兼の息ヵ
明智頼重 息 明智頼利(乾頼冬?)冬も利も「かず」と読める。 

道謙にも、頼康にも息がいなかったために、複雑なことになったのではないだろうか。(道謙も頼康も娘は一人いた。)

それでも乾氏をつなげていくために、養子を以ってつないできたように思えるのだが、あくまでも私の感じたことで、
大きく間違っている可能性も大である。


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