九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

足利義昭とその周辺(3) 佐々木大原氏の系図 と 福永氏・春照氏・白井氏・海北氏

2023-03-24 | 佐々木氏

大原氏の系図

https://www.google.co.jp/books/edition/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%83%A1%E5%BF%97/SmdEjdRd_WoC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%80%80%E7%99%BD%E4%BA%95%E6%B0%8F&pg=PP1032&printsec=frontcover

 

大原氏の居館は市場中村に「大原判官屋敷跡」と呼ばれて現存し、土塁・堀状遺構をとどめるほか,大原氏のものという多くの墓石が残る。

 

https://bijutsutecho.com/artists/127

大原高泰の嫡孫が卽ち善右衞門綱親で、友松は實にそのつど改め,持泰の五男高泰の時になって.始めて海北稱したという。先祖は大原判官重綱

海北友松は豊臣政権下で活躍した絵師。1533(天文2)年、近江国坂田郡(現・滋賀県)に生まれる

父は近江浅井家の重臣。

《雲龍図》は友松の代表作。

 

 

居士姓源氏海北名紹益字友松江州坂田郡之産而其先出大原判官重綱也至白井
備中守入道持泰第五男美作守高泰始称海北高泰嫡孫曰善右衛門尉綱親居士則
網親第五之男也

浅井備前守長政奉江州大屋形秀卿之長子稚屋形義郷以保于江
北小谷城諸士多属長政就中最励志盡忠者六家海北氏亦居其一

天正元年九月廿九日及平信長公亡

長政海北氏父兄皆戦死場中然従居士髫年時喝食於東福禅寺
隨侍和尚因得免焉性善畫圖和尚使狩野法眼永仙為之師而傳其術・・・

 

と海北友松夫妻画像の横に書かれている。

 

☆佐々木信綱の長男重綱が大原氏の祖 = 近江国坂田郡大原郷

重綱の長男が福永氏の祖(福永高基)= 近江国坂田郡福永荘・福永御厨等

重綱の孫貞頼が春照氏の祖 = 伊吹山麓 春丞郷(春照郷)

重綱の玄孫信親が白井氏の祖 = 坂田郡の土地の名?

白井備中守入道持泰第五男美作守高泰 海北氏の祖 = 浅井氏家臣 

 

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菖蒲佐々木金田氏の娘(古河家 官女 金田氏)

2022-12-05 | 佐々木氏

2022年11月20日の記事からだが、すごく引っかかる部分、↓

斎藤実盛の11代の後裔である斎藤実家の妻が、菖蒲城主佐々木金田氏の娘(古河家官女金田氏)である。金田氏は佐々木義清の後裔である。

義清の後裔が菖蒲の佐々木金田氏であった点。

 

つまり、代々古河公方の家に仕える官女を出していた「金田氏」となる。

古河公方 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%85%AC%E6%96%B9

 

金田氏は足利家とつながりがあった!

 

足利高基や弟義明が活躍していた時代とその父政氏の時代と九里員秀前後の時代とかぶってくる。

つまり、金田秀宗前後の時代もかぶると思う。

そしてとうとう、以前から気になっていた金田氏の歴史とつながってくるのではないだろうか?

http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk007/kk7b-koyumikubo.html

 

更に図書館レファレンスの以下の部分の足利茂氏

康正2年(1456)に菖蒲城を築いたとされる古河公方足利茂氏の家臣金田式部則綱および鎌倉府から古河公方(5代)までの佐々木氏や菖蒲佐々木氏の動静については郷土資料に詳しい。

☆この茂氏は『足利持氏』のことだろうか?

もしも、持氏だとするならば、下記の足利成氏の父であるので、繋がってくる!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F

 

菖蒲城のwikipediaに

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9F%8E

「初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称した。金田氏の墓所は曹洞宗久林山永昌寺にある。 」

 

https://4travel.jp/travelogue/11303807

 

この部分を読むと、菖蒲佐々木氏から金田氏となり、大塚姓となったようであり、上総の金田氏とは別系統とも見えるが、上総金田氏も千葉氏から出ており、また菖蒲佐々木氏=後の金田氏も佐々木義清の裔であり、其の佐々木氏もまた永田胤信など千葉氏とのつながりも感じさせる部分がある。

 

*****

 

鎌倉公方となった足利氏は、基氏が初代で、氏満ー満兼ー持氏ー成氏…となっていく。

この成氏が初代の古河公方である。

古河公方は、成氏ー政氏ー高基ー晴氏ー義氏 である。

 

wikipediaによると、鎌倉公方・古河公方と室町幕府の将軍とは対峙した関係であったようである。

遡ってみようと思う。

 

室町幕府の将軍は

足利尊氏ー義詮ー義満ー義持ー義量ー義教ー…

 

六角氏頼の息に満高がおり、その佐々木満高と足利家に関係があった。

https://satetsu.seesaa.net/article/200505article_3.html

佐々木哲学校のブログ記事より 大事な部分をご紹介したいと思う。

六角満高(一三六五-一四一六)氏頼の子

母藤原氏。

実は足利義満の同母弟(『足利治乱記』、沙々貴神社本佐々木系図、六角佐々木氏系図略、徳源院本佐々木系図)。幼名亀寿。本名満綱(『迎陽記』)。大夫判官。備中守。備中入道。左京大夫(『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条、沙々貴神社本佐々木系図)。右京大夫(『足利治乱記』、徳源院本佐々木系図)。正妻は足利基氏娘(『足利治乱記』)。法号は大慈院宝山崇寿。


 貞治四年(一三六五)四月将軍義詮の妾紀良子が、京都六角邸で男子を出産した。「男子卒」と噂されたが(『師守記』貞治四年四月十日条・十一日条)、六角氏頼の実子として育てられたようだ。嫡母は氏頼の室藤原氏である(迎陽記)。
 

明徳四年(一三九三)八月四日付斯波義将書状(尊経閣文庫)で、宛所は「佐々木備中守」となっている。このときまでに備中守に補任していたのだろう。備中守は頼綱以来六角氏の世襲官途であり、以後満高は「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれた。『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条には「佐々木左京大夫入道跡」とあるように、満高は左京大夫にも任官していた。沙々貴神社所蔵佐々木系図などで左京大夫とすることと一致するとともに、『足利治乱記』で鎌倉足利基氏の娘婿とする六角右京大夫が満高のことである。しかし「備中守」が佐々木六角氏の世襲官途だったためだろう、「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれ続けた。

満高は、嫡子満綱の正妻に足利義満の娘を迎え(『系図纂要』足利系図)、義満政権期はまさに満高の絶頂期であった。ところが義満の没後、将軍義持は父義満の政治を否定、義満の「鹿苑院太上天皇」の尊号を朝廷に返上し、勘合貿易も中止した。そして義持と満高も対立する。

 

と、室町幕府将軍と六角佐々木氏とは密な関係であったようである。

そして、室町幕府将軍職は 義満のあと義持ー義量(よしかず)ー義教ー…と続き、義澄に至る。

 

佐々木氏と室町幕府将軍職とのつながりがこんなにも深いとは…驚きである。

その氏頼に仕えていた九里氏がやがて分かれて、一つは和歌山の九里氏となってつながれていく。

もう一つの流れは、近江国に居住していたのだと思う。

また、更に金田氏に従っていた九里もいたとすると現在の久喜あたりに九里がいた可能性が出てきて、

久伊豆神社(越谷)にあった「九里」の名前も、その傍証にもなるかもしれない。

 

金田氏が佐々木氏の出とすると、なおさらにその可能性が大きいと思うが…

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佐々木義清の後裔が菖蒲の佐々木金田氏へ~

2022-11-20 | 佐々木氏

当ブログを『葛西氏』で検索してみると、以前にも調べていたことが判明。

すっかりと忘れている!が、とても重要な部分があった。

葛西清親の娘は後藤壱岐守基政の室となっている点。

長井斎藤氏は秩父平氏葛西氏と重縁を結んでいる点。

(斎藤実盛の娘が豊島康家の妻である。豊島康家の嫡子である葛西清光の娘が、斎藤実盛の孫である斎藤実利の妻である。)

斎藤実盛の11代の後裔である斎藤実家の妻が、菖蒲城主佐々木金田氏の娘(古河家官女金田氏)である。金田氏は佐々木義清の後裔である。

義清の後裔が菖蒲の佐々木金田氏であった点。

 

菖蒲城 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9F%8E

 

 

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佐々木氏と葛西氏 佐々木義清の息泰清が婿になっていた。

2022-11-19 | 佐々木氏

佐々木哲先生のメルマガで、2018年に送っていただいた【佐々木信綱の系譜1~秩父平氏と信綱】 に大きなヒントがあった。

『河崎氏の系譜:その(渋谷)重国は東海道を陸奥に下向する途中の佐々木源三秀義を引き留め、秀義・中務丞経高父子を女婿に迎えている。そして河崎氏惣領中山重実の子五郎為重は信綱を女婿に迎えた。実は奥州総奉行葛西清重も隠岐佐々木泰清を女婿としており、佐々木氏は秩父平氏と間の重縁を結んだ。』

 

葛西清重の婿の部分は、wikipediaによると清親になっていて、塩冶三郎左衛門頼泰

と富田義泰の母となっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E7%BE%A9%E6%B3%B0

 

佐々木秀義・経高が渋谷重国の女婿に、

佐々木信綱は中山重実の息為重の女婿に、

そして佐々木泰清は葛西清重(清親?)の女婿!!

 

☆泰清は義清の息である。この「清」は葛西からいただいた通字だったのかもしれない。

 

以下は弘前図書館のADEACより

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0220205100/0220205100100010/ht020330

葛西氏は、武蔵国豊島郡を本拠とした豊島氏の一族である。清重の父は、史料には豊島清基とも葛西清基ともあらわれるので、父の代に葛西氏を称したらしい。清重自身の本領は下総国葛西御厨で、これが葛西氏の名の由来である。

その子孫が、のちに津軽地方にも広く分布することとなった。弘前藩家臣中にも葛西家がいくつかあるが、津軽の葛西氏についての確実な最古の史料は、永正二・三年(一五〇五・一五〇六)の年紀をもつ深浦町の円覚寺の棟札で、そこに「葛西木庭袋(きばくら)伊予守頼清」の名が刻まれている(史料八七九・八八〇・写真101)。

 

 

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長田氏 と 永田氏

2022-09-18 | 佐々木氏

https://masakishibata.wordpress.com/2017/01/28/kanada-osada/

右上 沙沙貴神社 真ん中 長田町 金田小学校付近から斜め下 九里村

 

 

下記は、以前いただいた系図に【美濃国土岐郡に永田屋敷の跡】があるとのことで、下記は恵那郡のため当てはまらないかもしれないが、面白かったので載せます!(周囲には古墳の多いところです。)

https://www.asoview.com/spot/21210aj2200025207/

 

長島町永田に梅露庵という地名があります。

ここに西行法師が庵を結んだと伝えられている屋敷跡の平地が山の中に残されています。

平成15年に地元の永田区で公園として整備し、西行歌碑のあるシダレザクラとウメの名所として親しまれています。

 

*********

上総国の富木常忍の居たかもしれない場所、藻原のすぐ近くにも永田の地名が見える。

上に永田 本納(橘樹神社がある)下に 藻原

 

 

長田に関してしらべると神功皇后の「長田神社」に行きつくような気がする。

 

高嶋の永田、近江八幡の長田 そして永田胤信に長田胤信

(長田実経 が再び浮上してきた。)

 

愛智郡と高嶋郡のつながりを指摘している論文があったが、蒲生郡の近江八幡と高嶋郡もつながりがあるのではないだろうか?

 

蒲生郡にも、高嶋郡にも「船木庄」があり、また、高嶋郡永田には「長田神社」がある。

 

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佐々木永田氏

2022-09-17 | 佐々木氏

胤信は【長田氏の祖】となっているではないか!

【永田氏】ではなく、【長田氏】である。

いままで【永田氏の祖】と思い込んでいたので、驚いている。(胤信)

 

永田氏系図(柏原織田家臣系譜)         👇定重

定綱ー信綱ー泰綱ー頼綱ー時信ー氏頼ー満高ー満経ー政頼ー高頼ー氏綱ー義賢・定重ー定正・正廣ー廣正ー廣豊ー廣満

 

web上の情報を集めてみると、以下のような記述が出てきた。

武家の佐々木満経の二男を養子として家を継がせ、三井備中守高久と称した。

佐々木満経の三男久綱は、栗太郡野村に分住し野村氏となる

 六角高頼 (?~?)六角政勝の子。妻は古河公方足利成氏の娘。子は氏綱

 六角氏綱 (?~?)六角高頼の子。母は古河公方足利成氏の娘。六角家は足利将軍家と敵対していたが、足利義澄により六角氏綱は赦免された。

さらに義澄の妹を娶り、婚姻同盟を結んだ。これは足利義澄が足利義稙に対抗するための措置である。後に足利義澄を近江岡山城に匿った。妻は足利政知の娘。子は定頼娘は二条晴良、京極材宗に嫁いだ。異説によると義久という男子がいたと云う

永田景弘 (?~?)六角重臣。刑部少輔。「六角氏式目」に署名。

 永田賢弘 (?~?)六角重臣。備中入道。「六角氏式目」に署名。

 

以下は佐々木哲学校からの記述である。

https://satetsu.seesaa.net/article/201112article_1.html

 

高島衆の永田氏惣領家は「四郎」「伊豆守」を名乗り、湖上交通を支配して六角氏からは自立しており、六角氏文書では「永田殿」と敬称された。また六角氏重臣永田備中家は仮名孫二郎が、愛智郡香庄所務を六角高頼から安堵された永田源次郎と連続しており子孫と推定できる。六角氏近臣団の一員として戦国期に急成長し、備中守高弘・備中守氏弘・刑部少輔某などが見え、六角氏式目の連署人に永田備中入道(賢弘)・永田刑部少輔(景弘)が列している。

織田信長の近江侵攻で、刑部少輔景弘は後藤・進藤氏らとともに観音寺城にこもって信長に呼応し、以後は江州衆として織田軍の一翼を担っている。それに対して永田惣領家ら高島七頭は幕府奉公衆として独立した勢力を維持し、足利義昭政権でも奉公衆として、三好三人衆が義昭邸を襲撃した際には高島七頭が撃退している。しかし信長に対抗して没落し多くは帰農したが、永田氏は前述のように護正院主を輩出して権益を維持した。また江州衆として織田軍に編成された永田刑部少輔は相撲奉行も勤めたことが『信長公記』に見える。明智光秀の乱で没落したが、のちに徳川家に仕えて幕府旗本として存続した。
 また平高望の四男良兼に始まる尾張国長田(おさだ)庄司の家系で永田氏と名乗った家系もあり尾張藩に仕えた永田氏はこの桓武平氏流長田氏の子孫が多いようである

 

永田氏と長田氏は混同されることが多く、とくに永田氏の本貫が『寛政重修諸家譜』に見られるように高島郡永田ではなく蒲生郡長田と思われ、また江戸時代には歌舞伎の演目でも佐々木盛綱・高綱兄弟が登場するほど佐々木氏は人気があったことから、長田氏の子孫も佐々木永田氏を名乗り、四つ目結紋を使用したと考えられる。このように永田氏のすべてが、必ずしも高島七頭や六角氏旧臣の永田氏とは限らない。これが系譜研究の難しいところである。

永田氏系図
胤信┬長綱(三郎左衛門)─┬有綱(三郎)
   │            └長隆(四郎)
   └貞綱(四郎)─長信(四郎)

 

ますます混乱する。

もしかすると、佐々木義賢の弟となったのは、永田氏ではなく、平井氏が永田氏となったのではないだろうか?

同年代に平井定重がいる。

平井定重====1560備中覚雲 ??
『定武の近親には備中守定重(覚雲)がおり、その子かとみられる備中守秀定という一族もいた。』とある。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hirai1.htm

 

難しい。

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上野国礒部郷の新情報(私が知らなかっただけだが・・・)多胡荘 そして多胡氏!!

2022-08-20 | 佐々木氏

千葉の方よりの有益情報があったので、ココに記載しておく。

盛綱は上野・多胡庄を義仲に代わり領有していた時期があり磯部(温泉)がその中心です。その後、越後・加治荘に移ります。

1106年の浅間山の大爆発により田畑がほぼ壊滅した。

 この地域の復興に取り組んだのが、多胡庄( 源義賢(義仲の父))、新田荘(新田義国 義重)、高山御厨(源義朝)、この周辺の復興事業を源氏が指導したということの様です。」

 

初めて知る事ばかり! 

しかも片岡氏との接点もあり、佐々木氏との接点(亀井氏)があり、と、重要であった。

 

多胡氏を調べてみると、大江氏の裔かもしれないとのことである。

また、下記のweb情報によると大中臣氏との婚姻関係があるとのことで、それが片岡氏であった可能性も感じる。

 

 

源義賢・義仲が領していたのが【多胡荘】そこに磯部(温泉)があった!

中原氏が義仲の乳父母であった。

http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/siro/yosii/tago/tagoyakata.htm

 

武家家伝多胡氏 大江氏の裔かもしれない!

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tago_kz.html

 

多胡家家訓 今でも役に立ちますネ!

https://ohnan.saloon.jp/takokekakun.htm

 

クスペディア クスリと笑える?

https://www.kusuya.net/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E5%A4%96%E8%A8%9

 

多胡碑の「羊」と羊太夫伝承 さんのページよりの情報 

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujika.html

「多胡氏は、西上州の名門であったとみえ、摂関家流藤原氏の流れをくむ大中臣氏と婚姻関係を結んでいる。大中臣氏は、中世中期頃までに作成された「大中臣氏略系図」(桐村家所蔵)によると、常陸国中軍荘、那珂東西郡の地頭である。」

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礒部氏を称した佐々木氏、その後。

2022-08-18 | 佐々木氏

https://www.japanese-wiki-corpus.org/jp/person/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E6%99%82%E5%9F%BA.html

礒部時基

磯部 時基(いそべ ときもと)、生没年不詳、は鎌倉時代初期の武将。
加地信実の六男。
磯部秀忠・加地実秀・倉田義綱・佐々氏綱・阿波局らの兄弟。
左衛門尉。
通称は六郎左衛門。
子に基氏がいる。
佐々木 時基とも記される。

もともとは加地氏を名乗っていたが、兄の磯部秀忠の孫、景秀の代で断絶した為に磯部氏を継承した。

 

・・・とあるのだが、ちょっと下記のwikipediaと違うような気がしている。

断絶しているわけではなく、安芸国へ移っているのではないだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E6%B0%8F_%28%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F%29

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礒部氏を称した佐々木(加地)秀忠の裔たち。

2022-08-18 | 佐々木氏

佐々木哲学校の記事に礒部氏のことが出ていた。

 

佐々木三郎長綱は、盛綱─信実─秀忠─景秀─秀綱─高信─長綱とつづく秀忠流磯部氏の人物で、

室町幕府執事細川清氏の孫細川頼氏の養子になり、越後白河庄上下条と遠江相良庄を相続していた人物であるが、生活に窮して足利義満に直訴していた。

このことでも揚北衆佐々木氏が没落していたことが分かるが、この佐々木長綱(三郎左衛門尉)が、新発田氏の祖長綱だろう。戦国期の新発田氏が、越前守師秀の子孫加地氏よりも優勢であった事実から、この長綱の訴えは成功したと考えられる。

https://satetsu.seesaa.net/article/201003article_1.html

 
 
 

磯部氏 (宇多源氏)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E6%B0%8F_%28%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F%29

 
 
磯部氏
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本姓 宇多源氏佐々木氏流加地庶流
家祖 磯部秀忠
種別 武家
士族
出身地 上野国碓氷郡磯部
主な根拠地 安芸国
支流、分家 磯部氏分家 江戸幕臣家武家
磯部氏分家 近江国磯部家武家
凡例 / Category:日本の氏族

磯部氏(いそべし)は、日本氏族。宇多源氏流佐々木盛綱を祖とする佐々木党であり、加地氏の庶流。

盛綱上野国碓氷郡磯部(現・群馬県安中市)に住んだことが、建仁元年(1201年)五月十四日の「吾妻鏡」の条にみえる。

尊卑分脈は、宇多源氏佐々木氏の分かれ、加地信実の子秀忠を礒部とする。

 

安芸国礒部家

芸藩通志賀茂郡の条に「礒部氏、寺家村、先祖礒部左近秀実佐々木盛綱七世の孫にして建武年中上野国磯部より此に来りて里社の奉祀となる。」「また、この氏人ならむと思はるる礒部氏がこと、太平記巻の二十七に見ゆ。いはく。かかりし後はいよいよ師直権威重く成て、三条殿方の人々は面を低れ眉をひそむ。中にも右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後におはしけるを、師直近国の地頭御家人に相触て討ち奉れと申し遣はしたりければ、同九月十三日、杉原又四郎二百余騎にて押寄たり。にわかの事なれば防ぐべき兵も少なくて、直冬朝臣すでに誅せられ給ひぬべかりしを、礒部左近将監が若党散々に防ぎけるが、いづれも屈強の手だれにて志ざす矢坪を違へず射ける矢に、十六騎に手負て、十三騎馬よりさかさまに射て落としたり。」とある。

この芸藩通誌にある礒部家は現在も続いており、「いそべ」の字を「礒部」としているので、ここではそれに従った。

また、この礒部家では、分家を出すと必ずその分家は滅ぶと言い伝えており、継嗣以外の兄弟は他家へ養子へ出されてきた経緯が有り、安芸国近郊には分家は存在しない。

ただし、例外として、下記の江戸幕臣磯部家のように、遠方への同家支流は存在するようである。

 

 

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藤原清衡 の 父 藤原経清は 藤原秀郷の裔である。

2022-02-01 | 佐々木氏

http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukajirou/kantou-cyuuseishi/jisyou/jisyou-keizu-hidesato-1.html

清衡の父は藤原経清とある。

経清は、秀郷ー千晴ー頼遠ー経清の経清なので、清衡も秀郷の裔であったのだ。

同じく秀郷流佐藤氏の系である西行が東大寺に使うための「金(きん)」をもらいに平泉に、源頼朝に行かされるのだが、そのような関係もあってのことのようである。

 

そのことと、ココと関係があるかどうかはわからないのだが、気になることがある。

以前から平為俊は佐々木氏の為俊ではないかと思っているのだが、

(この時代は必ずしも源姓を貫いていたわけではなく、佐々木荘下司の経方も平経方を名乗っていたりする。)

為俊の養子公経。(公俊が養子という説もある。)

これが、佐々木秀義か、その兄弟となるのではないかと妄想してしまう。

そうなると、前回の記事に書いた山内刑部俊通も秀郷流で近い関係、

また、長井斎藤別当実盛も利仁流ではあるが、秀郷の孫である藤原 文脩(ふじわら の ふみなが)の妻が利仁の娘ではないか?という説もあり、遠くはないのである。

更に文脩の孫が公光、曾孫が公清となる。

公清の曾孫に八条院侍長であった兼俊と、役職は?の公経がいたのである。

この公経が平為俊の養子となるのである。

ちなみに平為俊は三浦氏とされている。

三浦氏でもあり、佐々木氏の系図にも載っており、で、あっているのではないかと思うのだが、どうだろうか。

三浦氏であった為俊の養子公経。

 

近江国の八幡付近には平安時代波多野氏は存在していたと思う。

近江国と京都の山奥の久多荘にも糟屋氏の祖である佐伯氏が居たではないか!

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                          

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