姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
この【中山氏】の中山は河崎重家から始まっており「河崎冠者基家の嫡男。通称は平三大夫。本拠は橘樹郡河崎郷(川崎市川崎区)に置いていたとみられるが、子の中山次郎重実は中山郷(緑区中山)一帯を支配して中山を称しており、河崎氏は中山郷から鶴見川沿いを私領化していたと思われる。」と千葉氏のページにある。
https://chibasi.net/sibuya.htm
(上記を読んで、市川市の「中山法華経寺」とは関係のない「中山」であることがわかった。)
中山重政と兄弟の為重の娘が、佐々木信綱の妻となっており、生まれたのが佐々木重綱という。
ここで、佐々木氏とつながっている。
渋谷重国の弟が、中山重実なのだそうだ。
また、前回の下総局ではなく、五條局がいただいた所領は小山田別当有重の子榛谷四郎重朝のものであった。
兄弟にが稲毛三郎重成がいる。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/titibu2.htm↓
『重国の娘は、近江の所領を失って関東に来た佐々木源三秀義の妻となって五郎義清を生み、その妹は秀義の子の三郎経高の妻となっています。建暦三年(1213)の和田合戦の際には、重国の子の渋谷次郎高重・渋谷仙座次郎親子や、中山二郎重実の子の中山四郎重政・同太郎行重親子らは、和田義盛に味方して討死するなど、この一族も大きな影響を蒙ったのですが、重国の子の太郎光重の子孫は、薩摩に下向して大いに栄え、祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城などの諸氏を輩出しました。』
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何故この中山重政の所領が下総局にやってきたのか。ただの偶然か。
和田合戦の時に和田側に付いた中山重政から没収されたものなので、
中原経久かまたは下総局の父・兄らが、北条側に付いたために賜わったものなのか。
和田合戦のことを思うと由比ガ浜もなんだか行きにくくなってしまう。。。
ただ、今回中山四郎重政が誰だったのかがわかり、少しすっきりした感じがする。
題名の「重実」は重政の父のことである。
秩父重弘の父は秩父重綱である。
その秩父重綱の娘が三浦義明の妻となり、子が杉本義宗、三浦義澄、大多和義久、佐原義連、多々良義春、長井義季、杜重行、源義朝側室、畠山重能室、金田頼次室、長江義景室、大河戸広行室
となっている。
孫には杉本義盛=和田義盛がおり、その弟(宗実・宗妙)の息が藤原秀郷流の中の「藤原秀宗」となった。
更にその秀宗の妻が土岐光基の娘であった。
秩父重綱の先祖は平将恒である。
将恒は武蔵比企郡大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)に居住して大蔵太郎と名乗った。
ここで、比企郡が出てくる。
そしてこの場所は、源義賢と関係が深い。
源義賢を書く前に、秩父重綱の子ども達周辺をご紹介すると、重綱の長男重弘の子孫は畠山氏、二男重隆の子孫は河越氏を称し、三男重遠の子孫は高山氏、四男重継の子孫は江戸氏を称した。
河越氏の祖となる二男重隆の娘が源義賢の妻となる。また、重隆の孫に河越重頼がおり、 比企尼の次女(河越尼)が妻となっている。
wikipediaによるとこの秩父重隆と源義賢が協力関係にあったのである。
「重綱の次男であったが、秩父氏の家督を継いで「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)にあり、武蔵国で最大の勢力を有していた。隣国の藤姓足利氏や新田氏と利根川を挟んで抗争を繰り返しており、また家督を継がなかった兄重弘の長男・畠山重能並び父・重綱の後妻との間でも、家督を巡って対立していた。
仁平3年(1153年)夏、河内源氏の御曹司・源義賢を娘婿として武蔵国比企郡大蔵館に迎え、周囲の勢力に対抗する。 」
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源義賢(????-1155)
源義賢は六條判官源為義の次男で、源義朝の異母弟にあたる。母は六条大夫重俊娘。武芸に優れ、とくに弓の上手のうわさが高く、保延5(1139)年、体仁親王(のち近衛天皇)立太子に際して、その親衛隊長ともいえる春宮坊帯刀舎人の長官(帯刀先生)に補された。しかし、その翌年に殺人事件に関与したとして解任され、その後は内大臣藤原頼長(のち左大臣)に伺候し、康治2(1143)年に能登国にあった頼長の荘園の預所として赴任した。しかし、久安3(1147)年には年貢が納められなかったために解任。ふたたび頼長のもとにもどった。
仁平3(1153)年、坂東で威勢を振るっていた上総御曹司源義朝(義賢の兄)が従五位下・下野守に任官して上洛したため、義賢が代わって関東へ下った。しかし、義朝の本拠地・相模国鎌倉郡には、三浦氏や上総平氏と結びついていた義朝の長男・鎌倉源太義平が居座っていたためか、武蔵国多胡郡に落ち着いて、武蔵国随一の威勢を誇る秩父重隆と交流を持った。そして重隆の聟となって比企郡大蔵に館を構えて勢力を広げたが、久寿2(1155)年8月16日、義賢の勢力拡大に反発した鎌倉の甥・源義平に大蔵を攻められて討死を遂げた。
この大蔵館の戦いでは、義賢の庶子・駒王丸が乳母に抱かれて脱出、信濃国木曾郡の中原三郎兼遠のもとで成長して「木曽冠者義仲」と名乗った。また、義賢の嫡男・仲家は摂津源氏の惣領である源頼政の養子となって、八条院蔵人として京都で活躍。治承4(1180)年5月に以仁王・源頼政が打倒平家を謳って挙兵した「以仁王の乱」では、頼政に従って出陣し、平等院の戦いで嫡子・蔵人太郎仲光とともに討死にした。この戦いでは千葉介常胤の子・園城寺の律静房日胤も戦死している。
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もう一度秩父重綱に戻る。
重綱の娘に「太田行光の室」がいる。
では、この太田氏はどのような太田氏なのだろうか?
武蔵七党系図 デジタル より
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1144205100/1144205100100010/ht200070
ここでもう一度、太田行尊の流れを示す系図を見てみよう。この「太田大夫」を名乗った行尊の系譜を引く子孫は、行政―行光(「太田四郎」)―行広(「太田次郎」)―行朝(「太田権守(ごんのかみ)」)と太田荘を伝領していくが、その流れからは越谷付近の大河戸氏、久喜付近の清久氏、騎西付近の高柳氏を輩出している。一方、行政の子で行尊の孫政光は小山(おやま)氏を興し、この流れからは後の結城氏・山川氏・寒河(さむかわ)氏・幸島氏など下野南部地域に展開し、支族を輩出したが、政光の兄弟行義は太田荘のとなりで下総国葛飾郡の北半分を占めた下河辺荘の開発にかかわり、下河辺氏となっている。すなわち、太田氏・小山氏・下河辺氏らはもともと同じ一族だったのである。そして、太田行尊の系譜を引く一族は、下野を拠点とした小山氏系を除くと、太田荘や下河辺荘といった古利根川流域の自然堤防上に位置した、湿田低地の地域を基盤としたものが多いことが分かる。
ところで、この「○○荘」という中世の荘園は、私的に土地を開発して排他的に支配した在地領主が、中央の貴族や有力寺社にその土地を「寄進」して、自らはその荘園の荘官(管理人)になるという「寄進地系荘園」の考え方が一般的な理解であった。ところが、摂関政治の全盛期である十一世紀ころに成立した初期の荘園は、国衙(こくが)に対して払う税を免除されたごく少量の個別の田地(免田)にすぎない。そして、中世を通じて存続する荘園は、田畑だけでなく山野河海を含む広い領域を持つものであり、これらは国衙領(公領)と併存したり、あるいはもともと国衙領であったところを囲い込む形で成立していったことが明らかになってきている。
こうした形の荘園が増加するのは、平安時代末期の白河・鳥羽・後白河の三代にわたる院政期であり、こうした荘園の成立=立荘の際に大きな役割を果たしたのが、院や女院の近臣となった貴族たちであった。彼らは院から知行(ちぎょう)国を与えられると、自らの子弟や近親者を国守(名目上の国司)に推挙し、私的縁故によって寄進された土地の持ち主には荘官の職を付与して荘園の経営を進めた。そして実際には、現地(国衙)に目代を派遣して国内を支配し、その国から納められる公納物などの収益を獲得した。こうして、一国の国衙領と荘園の両方を支配する仕組みによって、院と院の近臣たちの知行国には膨大な荘園が形成されていくことになる。
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富木中太経久=蓮忍入道の妻は、千葉胤正(政)の仮説にのっとって進めている。
五男が富木常忍。
千葉胤正の母は、秩父重弘の娘。
秩父重綱の父:平武綱、母:源有光長女
重綱の兄弟 重綱、河崎基家、児玉経行室
重綱の妻 正室:小野氏女(横山党) 継室:兒玉行経(児玉経行)娘(一説による)
重弘の兄弟は 畠山氏・小山田氏の祖。子に畠山重能、小山田有重、女子(千葉常胤室)。
中途だが、上記の太田氏と一族の下河辺氏に深栖頼重は寄寓していたようなので、何等かつながりはあったと思う。
雑だが、次に義賢の妻の出である「六条大夫重俊」について書いてみたい。