九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

伊香郡 丹生神社 (2)

2023-06-04 | 井口氏 バラバラ情報

伊香郡に二つの丹生神社がある。

一つは上丹生に、もう一つは下丹生にあるとのことである。

 

上丹生の神社の方では、一月七日に頭・額に赤い印を捺印する(牛玉宝印)行事がある。

私はこれが『オコナイ』のことだと思っていたが、その儀式の一部であったようだ。

 

以下に詳しく記述がある! 中島誠一著 『近江のオコナイにみる牛玉宝印』

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0025/OS00250R435.pdf

 

 

 

 

伊勢や大和にも丹生関係の神社がある。また、紀伊国には丹生都比売神社(世界文化遺産)がある。

https://niutsuhime.or.jp/

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伊香郡の丹生神社  息長丹生真人

2023-06-02 | 井口氏 バラバラ情報

中原・井口氏の開発領地となる以前のことである。

伊香郡には丹生氏・物部氏がいたのではないかと思われる節がある。

中原景経が勾当としていた富永庄の近くも流れている『高時川』の上流は『丹生川』という名称のようだ。

伊香郡の丹生を「上丹生・下丹生・管並・田戸・小原・鷲見・針川・甲並・尾羽梨,以上九村を丹生郷と云,余湖の庄の内なり」

http://kamnavi.jp/ny/yogokami.htm

この伊香郡の丹生は、ずっと前に調べた「オコナイ」に関係するのではないかと思い調べると、

本当に関係がありそうである。(丹生氏は息長氏の一族だそうだ。)

オコナイの様子 ↓

https://chekipon.com/archives/5263

http://www.mfutamura.com/sub84.htm

https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=2288

 

 

丹生神社と丹生氏の研究: 伊都国王の盛衰と丹生氏の出自についての一考察(丹生広良著)より

丹生と関係する土地 遠敷もそうである。(長田氏)

桓武平氏長田氏族の丹生氏。関係神社、遠敷郡、若狭比古神社二座若狭国遠敷郡人丹生弘吉云々、勅して位三階を叙す。太良荘の開発領主丹生二郎隆清(恒枝保も) その父は下野守師季

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/a615a7544cb84088d6a832870aa44b33

http://amanokuni.blue.coocan.jp/hani.htm

 

 

 

稚淳毛二俣王

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%9A%E9%87%8E%E6%AF%9B%E4%BA%8C%E6%B4%BE%E7%9A%87%E5%AD%90

 

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%8B%A5%E9%87%8E%E6%AF%9B%E4%BA%8C%E4%BF%A3%E7%8E%8B%E6%97%A7%E8%B7%A1

 

息長丹生大国

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E9%95%B7%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%A4%A7%E5%9B%BD

 

息長丹生文継

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E9%95%B7%E4%B8%B9%E7%94%9F%E6%96%87%E7%B6%99

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続群書類従7上(系図部)と 近江国御家人井口中原系図(諸氏家牒) の相違

2023-05-31 | 井口氏 バラバラ情報

成俊ー経憲ー正憲ー経正ー國経ー光経ー経盛ー経貞ー経賢ー賢清ー経任 ~九里経久

 

 

成俊ー経行ー光経ー経盛ー経貞ー経賢ー賢清ー経任

 

 

 

続群書類従7では、成俊から11代目に経任となる。(成俊含む)

成俊ー経憲ー正憲ー経正ー國経ー光経ー経盛ー経貞ー経賢ー賢清ー経任~記載なしだが(九里経久)に続く。

 

成俊ー経行ー光経ー経盛ー経貞ー経賢ー賢清ー経任~九里経久

近江国御家人井口中原系図では、成俊から8代目で経任となる。(成俊含む)

 

続群書類従の方の國経のあとの、息と孫の光経ー経盛の系へ進んでいるのが近江国御家人井口中原系図となっている。経貞で元に戻っている

 

成俊ー経憲ー正憲ー経正ー國経ー光経ー経盛ー経貞ー経賢ー賢清ー経任

              

成俊ー         経行ー光経ー経盛ー経貞ー経賢ー賢清ー経任ー九里経久    

 

此処に何か秘密があるかもしれない!

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武功夜話の登場人物 富樫氏流坪内氏 そして富樫氏周辺 に 疋田斎藤氏あり!

2020-11-13 | 井口氏 バラバラ情報

今まであまりこのブログには取り上げてこなかった「井口氏」
勿論九里氏の始りの系図の名前「近江国御家人井口中原系図」には「井口」とあり、関係はあったのですが…コレカラ登場してくる予感があり。

===*===

富樫氏流坪内氏にかんしては、詳しくはわからず、前回の記事を参照願うが、その富樫氏!

その富樫氏、祖は藤原利仁であると「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」さんのページから情報を得た。

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%AF%8C%E6%A8%AB%E6%B0%8F


富樫氏から坪内氏だが、その富樫氏を遡ると以前探していた石黒氏が登場し、更に宮崎氏・斎藤氏・林氏・井口氏などと繋がっていることがわかってくる。


https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-01-02-03-01.htm



そして今まで気に留めていなかった「疋田斎藤氏」
この疋田斎藤氏と大江通景、更に突き進んで鎌倉時代には「野本氏」「清原清定の系」も、この疋田斎藤氏と関係がありそうなのである。

この大江通景は中原広忠とほぼ同時代という。同じ外記補任の同じページに記載がある。
父親が尾張貞親が広忠の祖父であり、其の広忠が大江広元の祖父である。







そしてもしも富樫光景が前野長康とすれば、長康は「但馬国出石」に所領を持っていたという。
其の出石は、法橋太田昌明の裔(但馬国出石、大田庄)(石見国 銀山 大田?) 、そして弘安8但馬国大田文に「菅庄41丁7反300分(八幡宮領)」とあり・北方地頭肥前左衛門太郎経久、南方地頭多々良岐孫太郎長基(但馬国出石 菅荘)
と、出石にも多々荘園は合ったろうと思うのだが、関係があるかもしれない。

この辺りを、少し調べてすっきりさせたいと思っている。

さて、野本氏。久々の登場であるが、以下のようにweb情報があった。
この疋田斎藤氏が東国でも活躍していたことがわかるのではないだろうか?
ともかく、たくさんの課題が武功夜話を読んだことでいただいた!というのが感想である。

http://saitama-myouji.my.coocan.jp/2-5sa.html
 六 斎藤氏流野本氏 比企郡野本村(東松山市)より起る。尊卑分脈に「疋田斎藤為延―為頼―竹田四郎大夫頼基―基親―基員(住武蔵国、実は継孫武蔵国下河辺左衛門尉政義の子也。武蔵国に住して、野本左衛門と号す)」。疋田系図に「斎藤左衛門大夫基員(武蔵国野木に住す)」とあり、野木は野本の誤りなり。吾妻鑑建久四年十月条に野本斎藤左衛門大夫尉基員と見ゆ。鷲宮村鷲宮神社文書に「神主莿萱太郎次成房(母野木住人斎藤利氏娘、下河辺庄司行平臣也)」と、野本住人の誤りなり。長井氏系図に「長井斎藤実仲(建武四年八月利根川討死)、弟豊後次郎実季(実仲と同じく戦死)―次郎太郎実連(住野本)」と見ゆ。野本、都築条参照。

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新免氏から宇野氏、草野氏に。そして久里大明神につながってしまった。

2016-09-22 | 井口氏 バラバラ情報
井口氏から新免氏に、そして宇野氏につながり、草野氏に。
その草野氏は鏡神社(肥前)の大宮司となっていた。

まずは、近江国の草野氏から紐解いていこう。(近江 大田亮著)
【草野氏】
平治の乱 義朝敗走して東近江草野庄司定康に拠る。東(吾妻)鑑 文治三年二月九日條有
大夫定康関東功士也云々とあり。浅井郡草野庄より出づ。子孫宇野氏と云ふ。浅井三代記に見ゆ。

ということで、近江では草野氏の子孫が宇野氏ということである。

美作・播磨では赤松氏より新免氏、新免氏より宇野氏になる。

肥前国では、宇野御厨荘があり、草野氏が鏡神社で大宮司で久里大明神ともいわれていたところであるらしいことが分かった。

姓氏家系大辞典で、『宇野』を調べてみた。


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新免氏が徳大寺氏・井口氏と関係するとなると・・・

2016-09-22 | 井口氏 バラバラ情報
新免氏として赤松氏の中に入った人物は『徳大寺実孝』の息になるのだろうか?
その徳大寺実孝(1293年~1322年)を調べてみると、【室は西園寺公相の娘】とある。

ということは、公相の曽祖父が実明の兄 実宗になる。


そして徳大寺には、西園寺公重(公通の弟=実宗・実明の叔父)が養子に入っている。

さらに、中原とのつながりを以前に書いた記事があるのだが、そことリンクすると思う。



http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bb9440b5d4b0b6c3f8dea1f557935d58


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井口氏 赤松氏流 他

2016-09-22 | 井口氏 バラバラ情報
井口氏には、
1.利仁流藤原姓(越中)
2.能登の井口氏
3.江州中原氏流
4.佐々木氏流
5.土岐氏流
6.若狭の井口氏
7.参河の井口氏
8.遠江の井口氏
9.甲斐の井口氏
10.相模の井口氏
11. 武蔵の井口氏
12. 丹波の井口氏
13. 紀伊の井口氏
14. 播磨の井口氏
15. 赤松氏流
16. 藤原姓
17. 其の他(大舘日記に井口清右衛門、石田三成の家臣に井口清左衛門、越後魚沼郡に井口氏、佐州役人帳井口氏・清和源氏に収め、徳川時代龍野脇坂藩重臣、大州加藤藩側用人、秋田佐竹範用人、に此の氏あり。また信濃にも存す。)

姓氏家系大辞典より

その15.赤松氏流 が気になったので、ここにメモを残しておく。
美作国吉野郡赤田村井口上の山塀高城(大野城)中興城主井口長兵衛貞詮と云ふ。新免家記によれば、長兵衛は新免伊賀守宗實の一族にして、赤松左馬助頼則の二男なり。


「新免家譜」によると、その祖は藤原北家徳大寺実季に出ている。実季は『諸家知譜拙記』に「権中納言正二位、元亨二年(1322)正月十七日死去、三十」とあり。『公卿補任』でも同じである。「家譜」はその子大納言に注して「建武年中、後醍醐天皇の勅勘を蒙り、作州粟井庄に左遷、武家より御所を作りて、垣内御所と号す。云々」などとあるが、これは少々怪しいものである。大納言の子則重のとき、勅免を得て新免氏と号し、その初代となったとする。また、将軍義詮から粟井庄・広山庄・吉野庄を賜ったという。この則重の嫡子が長重で次男が助隆で、ともに赤松方の有力な部将であった。(web武家家伝より)

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sinmen.html

この徳大寺は、またまただが、西園寺通季の弟の系なる。

浅井氏は、二男三条実行の末裔となり、(母:藤原基貞女)
九里氏は、三男通季の末裔となる。(…のではないか?)
(母:藤原光子(藤原隆方女) - 堀河、鳥羽天皇の乳母 )
新免氏は、四男実能の末裔(徳大寺)となる。

公実の妹に藤原苡子(1076-1103) - 堀河天皇女御、鳥羽天皇の母がいる。



ともかく、九里が足利義澄を匿っている際に水茎岡山城にて生まれた息(亀王丸=義晴)を赤松氏に預けることになるのだが、そこに関係してくるようにも思える。

「亀王丸は播磨守護・赤松義村の庇護下で養育された。」とwikipediaにもある。

赤松義村と新免氏とは一族の中では近くはないのかもしれないが、赤松氏の一族の中に井口氏・新免氏・徳大寺氏がいることが、気になる。




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中原兼遠の息たち 次男樋口兼光 今井四郎兼平 

2016-09-21 | 井口氏 バラバラ情報

中原中三兼遠の息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、落合五郎兼行は、皆な義仲に臣事する。
兼平の妹は巴御前である。
落合兼行は甥であるそうだ。


讃岐文学より

中原兼遠の斎藤実盛に寄す友情は大きく深かった、この人実盛が名残りを惜しまれて木曾を辞したのは、三月…


「樋ロ二郎兼光と名付け申した、実は御願いが御座って、この兼光を雪になる頃まで使って下さらぬか、時折兵法なり文章なり教え下されい、従者二、三も」「お、、承知致した、喜んでお預り申す、呑気な実盛の宫仕えで御座るからな」兼遠は絶えず木曾の若者を ...

もしも、このやり取りが真実と近ければ、兼光は斎藤実盛(平維盛に仕えていた)の許にいたということになる。(京)

今日は、覚明・中原康定・中原基兼と時代の勉強。
未だ書けそうにないです。

行家が紀州名草に逃げた~と言う一文をみつけた!
姉婿を…とあったのは、熊野別当行範のこと!

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井口氏&石黒氏

2016-09-20 | 井口氏 バラバラ情報


【ヰノクチ ヰクチ】姓氏家系大辞典より、気になる処を書いていこう。

井口氏三郎は越中井口に住し、郷なを以て氏と為す也。(且つ越中井口氏の祖は利仁にして、斎藤氏というは誤れり。又同譜(富樫家譜)に承久三年法皇の勅に因て、越中の井口氏は。富樫家春と俱に、越後越中の境川に東郡を防ぐと云えども、負けてひくとあり)

また、昨日の記事の「井口條を見よ」の件は、下記のようになる。
又、同郡木舟に石黒氏あり。…
木舟城主の歴代は、又次郎光直ー大炊助光教ー大炊左衛門成親ー左近蔵人成綱(信長に誅さる)-左近
又、成綱の弟に湯原八丞國信あり。

國信(高畠古典本に、國信兄石黒左近自刃後、越中を退き、紀州まで至り、二三年を経天正十二年下向、國祖是を召出され、同十四年賜二千五百石とあり。(長太夫祖)其の弟を治郎と云ふ。・・・

紀州まで至り・・・とある。誰かを頼って行ったのではないだろうか。
次に紀伊の井口氏を読んでみると、


【紀伊の井口氏】
…また、在田郡大谷村舊家井口平右衛門條に「樋口兼光の子井口次郎右衛門兼貞、其の子平右衛門兼元なり」と見ゆ。しからば、信濃の樋口氏か、されど微證なし。…

この兼光は、中原兼遠の次男である!木曽義仲を赤ん坊のころに預かってきた其の人の次男である。

木曽義仲の乳母子であるため、共に育ち、共に闘っていた一番義仲に近い家臣である兼光。
もしも、このことが本当ならば、やはり、紀伊国の井口氏と越中国の井口氏とは関係があるのではないだろうか。

明日に続く。


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石黒氏&井口氏 姓氏家系大辞典より

2016-09-19 | 井口氏 バラバラ情報

【イシグロ】 
越中国砺波郡石黒より起る。
三州志に「石黒郷は盛衰記に名高き石黒太郎光弘の邑なり。其後天文の比(ころ)に石黒藤兵衛、天正中石黒右近などありき」と見ゆ。
利仁流藤原氏にして、井口、斎藤、富樫等と同族なり。

省略しつつ、書いていこう。

1.越中の石黒氏
源平盛衰記巻二十八
越中国住人石黒太郎光弘、木曽義仲に従ひ。福光城にあり、子孫七流に分る。…

その後、南北朝の頃石黒左近太夫将監成行なるものありて宮方に属す。
興国三年(1342年)の冬、中務卿宗良親王・越中国石黒が館に赴かせ給ふ。

又、同郡木舟に石黒氏あり。…
木舟城主の歴代は、又次郎光直ー大炊助光教ー大炊左衛門成親ー左近蔵人成綱(信長に誅さる)-左近
又、成綱の弟に湯原八丞国信あり。
詳細は井口條を見よ。


2.濃尾の石黒氏
前項の石黒氏の後なり。
…尾張志春日井郡如意村 長谷川氏條
「石黒氏を改め、藤原姓にして、越中の宮方大炊助重行の後裔」と云へり。…

3.源性武田流石黒氏
武田信虎の子信繁の孫信成の後なりと云ふ。

4.源性多田流石黒氏
摂津豊島地方にあり。多田満仲の末裔石黒京蓮なる者、庄本村光園寺を創立す。

5.橘姓
寛政系譜橘姓に収む。家紋七星、蛇の目、三河発祥の氏なり。

6.その他 島津藩(側用人)に石黒氏 又、山城稲荷神社の社家、備前・志摩等にもあり。…
加賀藩侍帳 石黒次郎左衛門…





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