ブラームスの写真をたくさん撮った女性 マリア・フェリンガーはアマチュア音楽家・画家・写真家であった。
夫のリヒャルト・フェリンガーはアマチュアピアニストで、シューマン・ブラームスの作品を弾くのが得意であった。また、妻は美声の持ち主であり、その伴奏をして、ブラームスの歌曲のほとんどを演奏したそうである。
彼の本職はドイツの代表的電機メーカー「ジーメンス・ウント・ハルスケ」のオーストリア=ハンガリー帝国支社長であった。
このジーメンス…は実は日本ではシーメンスと発音されている。(Siemens & Halske)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9
実は、父も此処のお世話になっていた。補聴器で…
「1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家へシーメンス製電信機を献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。
1887年 7月中旬にヘルマン・ケスラーが日本に到着し、8月1日、東京の築地にシーメンス東京事務所が開設され、以降、シーメンス社の製品は広く日本に浸透することになる。19世紀の主な納入実績には、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機供給、江ノ島電気鉄道株式会社への発電機を含む電車制御機および電車設備一式の供給、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などがある。
1901年にはシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。」(wikipedia)
日本ともご縁の深い会社であったことがわかる。
ブラームスはフェリンガー一家と何回か避暑地で同じ屋根の下もと過ごしている。
冗談も言い合えるほど親しく、子どもたちも懐いていたそうである。
家族のいなかったブラームスにとって、特別な大切な間柄であったのだろうと思う。
クララ・シューマンの紹介でフェリンガー一家と親しくなったブラームス。
「ブラームスは語る」第2巻 音楽之友社 ホイベルガー、リヒャルト・フェリンガー 著
この著者でもあるリヒャルト・フェリンガーの母親がマリアであり、ブラームスの写真をたくさん撮った人物である。
因みにリヒャルトの弟ローベルトの洗礼立会人としてクララ・シューマンが参列している。
リヒャルト・フェリンガーは1957年まで、ローベルトは1955年迄ご存命だったので、ブラームスを知っている人物が1950年代まではいたのである。
このマリア・フェリンガーという人は、ブラームスの肖像画のもとともなる「鉛筆画」を残している。
たくさん残された写真は、とてもリラックスしたブラームスの様子が垣間見ることができ、後世の私たちにも嬉しい限りなのである。
本より、拡大し、一枚だけご紹介したいと思う。右の二人の男性がフェリンガーの長男リヒャルト・次男ローベルトなのだそうだ。下の髭の方がブラームス!
此の写真を撮ったマリア・フェリンガーとともに、記載があったのが「カメラ・コダック」であった。
1892年位から1896年にかけての写真が本の中にある。
この時代のコダックのカメラとは?と思い調べてみた。
https://www.kodak.com/ja/company/page/george-eastman-history
マリア・フェリンガーが持っていたカメラは、下記と同様の物だったかもしれないと思う。
『イーストマンは1888年にコダックカメラを発表しました。 彼の発明の才能のお陰で、今では誰もが手持ちのカメラでシャッターを押すだけで写真を撮れるようになりました。彼はこのようなスローガンを作りました。「あなたはシャッターを押すだけ、あとはわれわれにお任せください」。』
『イーストマンは、1888年にコダックカメラに写真を誰にでも利用可能なものにするための基礎を置きました。100露光に十分なフィルムがあらかじめ組み込まれているカメラは簡単に持ち運べて、操作の間に手持ちできました。価格は25ドルでした。 感光後に、カメラごとロチェスターに戻されました。そこでフィルムが現像され、プリントされて、新しいフィルムが挿入されました。これらすべてが10ドルでした。』
*****
このように、時代の最先端の画期的なハンディ・カメラを購入し、日常を写すことの出来たのがマリア・フェリンガーならば、夫のリヒャルト(長男と同名)は、どのような人物であったのかが、気になる処である。
こちらは次回に…
1873年のプラーター公園で万国博覧会が開かれたことがわかっている。
ブラームスは語る(2) ブラームス回想録集 より
1887年のブラームスの記述を見つけたので、ご紹介したい。
『ブラームスは昨日、プラーター公園のハンガリー風居酒屋「チャールダ」に行ったそうだ。
「いいことを教えてやろう。食事はかなりのものだった。グラ―シュは絶品だし、トプフェンパラチンケンも最高、ビールもワインも良い。なんたって有名なジプシーバンドが出演しているんだよ!」
ブラームスはこの楽団に次から次に弾いてもらったと、夢中で話していた。」(p.50)
wikipediaの「ハンガリー舞曲」より
【ブラームスは1850年代の前半に、エドゥアルト・レメーニの伴奏者としてドイツの各地で演奏旅行を行い、その時にレメーニからジプシー音楽(ロマの民族音楽)を教えられて魅了された。それ以来ブラームスは、それをハンガリーの民族音楽と信じて採譜を続け、1867年に出版社のジムロックに最初の6曲を送ったが、その時は拒否されている。結局それらを含む第1、2集が1869年に出版されると大好評となり、1880年に第3、4集が刊行された。
『ハンガリー舞曲集』に作品番号は付いていない。これが自作ではなく、伝統音楽の編曲にすぎないことをブラームスが慮ってのことであった(とはいえ、第7曲、第11曲、第14曲、第16曲の主題は、完全にブラームスの創作であったらしい)。のちにレメーニは『ハンガリー舞曲集』の成功を知ると、これが盗作であるとしブラームスを相手に訴訟を起こした。結果はブラームスが「作曲」ではなく「編曲」としておいたことが幸いして、ブラームスが勝訴した。】
此処で重要と思われるのは、ブラームスが19歳(1853年)に出会い魅了されたジプシー音楽(ロマの民族音楽)を採譜し続けて。34歳の時最初の6曲の出版を試みていること。
36歳の時には1,2集を出版し大好評となり、47歳の時(1880年)には3,4 集も出版された。
その音楽に魅かれてから編曲して新たな息吹を与え、世に出すまでに17-27年かかっている。
ブラームスは交響曲第一番も、構想を練り始めてから、完成を見るまで21年を費やしている。
蠟管蓄音機に出会ったブラームス(1889年)は録音している‥‥wikipediaで聴けるのだが音がひどくて‥‥私は途中で切ってしまった。足で拍子を取っているのもブラームスなんだろうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%88%9E%E6%9B%B2
ブラームスの部屋は、音楽室・図書室・寝室の3部屋だったそうだ。
カールスガッセにあったそうだ。
↑ 「ブラームス」 三宅幸夫著 新潮社 写真の一部を拡大し、私が撮ったもの。
1897年に死没しているブラームスの見た風景は、もう少し素朴な公園だったかもしれない。
想像も混じっているのだが…
ブラームスは遠く離れた東洋・日本の曲の中に『見知らぬ曲なはずなのだけれど、どこか懐かしさ』を感じていたと思う。
彼がまだ「極子の琴」を聴く以前に、すでに自分のピアノ曲の中に日本に似た旋律が出来上がっていた。
2つのラプソディ―(47歳の時の作曲)の一番の中の第二のテーマで、私たちは高校時代にブラームスの「さくら」と言っていたくらい、雰囲気が「桜」である。(PPの部分から)
更にラプソディー以前に、ブラームスが19歳の頃、エドゥアルト・レメーニというハンガリー出身のヴァイオリニストの伴奏をすることになり二人で演奏旅行に行っていた時代がある。
彼こそがジプシー音楽をブラームスに案内した人物だろうと思う。
*****
私がオーストリアを旅行した際に、オーストリアとハンガリーの国境付近にポツンと小屋があり、ロマ(ジプシー)の音楽が聴ける店であった。
音楽を奏でる面々が舞台から降りてきて、次々とテーブルを回って、店の中はだんだんと熱を帯びたようになり、カオス状態になっていく。魔術にかかったように…
そして、ブラームス自身も10代の頃に、酒場でピアノ弾きのアルバイトをしていたのである。
ロマ音楽の聴ける店にも気軽に立ち寄ったに違いない!
ロマの音楽に接し興味を持ったという事は、その先の未知なる「世界の音楽」に興味が移っていった可能性もある。
おりしも万国博覧会もウィーンで開催もされ(1873年)ヨーロッパでは東洋への関心が高まっていたはずである。ブラームス40歳の時である。
1886年には、レメーニは神戸・横浜へと演奏会で来日することとなった。
ブラームスはレメーニに、日本の音楽を採譜してくるように頼んであったのではないだろうか?
(若い時分に仲違いをしている二人ではあるのだが…)
さて鹿鳴館の華であったと言われている戸田極子。
彼女は明治20年(1887年)10月に一家でオーストリア・ウィーンに渡っている。
wikipediaの註によると
『ピアノ教師として公使邸に出入りしていたボクレットが日本の民謡をピアノ用に採譜した楽譜『日本民謡集』を出しているが、ブラームスの遺品の中に、ブラームス自身の書き込みのある『日本民謡集』が見付かっている。書き込みは「六段」「乱れ」「春雨」などにあり、演奏している筝を直接聴きつつ書き込んだと思われることから、山田流の筝の名手であった極子が演奏を披露したのではないかと言われている(関東大震災により戸田邸が全焼したため、上記の楽譜以外に確証といえるものは残っていない)。この出来事を題材として、日本画家・守屋多々志は「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」(平成4年第77回院展出品、大垣市守屋多々志美術館所蔵)を描いた。』
ブラームスも聴いたと思われる「戸田極子の琴」
さて、耳で聴く「琴」の音は、西洋の音階に当てはまったのだろうか?
本物を聴いたブラームスは、そこに違和感を感じたのではないだろうか?
楽譜の音符では確かにこう書くしかないのだが、
本当の音はそうではない・・・と感じたに違いないのである。
六段に書かれたブラームスのメモ書きは「この音に非ず…」であると、ウィーンの楽友会館の記事だったか、どこかで読んだ記憶がある。
極子の実の母親は『岩倉(野口)槇子』と言い、その父親は【野口為五郎賀代】という。大津にいた人物である。辿っていくと、加山雄三に迄つながっているのである。
因みに、我が九里に野口に嫁いだものもおり、しかも野口家は彦根城すぐに住んでいたそうである。
何処か繋がっているような気がしないでもない。
https://www.a-wgm.at/ausstellungen/sterreichische-musik-japan-japanische-musik-sterreich
ブラームスに影響を及ぼした二人のハンガリー人。
↓
1853 年 5 月、ヴァイオリニストのレメーニーがハノーヴァーで演奏会を開いた時、
伴奏したのがまだ 19 歳のブラームスだった。
1853年、ブラームスは人生において知遇を得た最も深い人物。ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)
「夕べにすべてを見届けること」
実はこの言葉は、ベートヴェンの日記の中にあるそうだ。
【テーマ】は家の中の物たちである。
きっかけは、引っ越しと私が勝手に仮定する。
家の中の物々を一度運び出し、すべてを見渡す。
旧居より搬出し
新居に搬入する。
今までとは同じ物々であるはずなのだが、
部屋の大きさも、窓の位置もかわり、物々の配置は変って来る。
テーマである物々が分解され、紆余曲折…(こっちにしよう、あっちにしよう、と)
新たな空間にはめ込まれていく。
すると不思議な感覚に襲われる。
そこで部屋に収まった【テーマ】を
「夕べにすべてを見届けること」となる。
すると【テーマ】であった物々がうまくはめ込まれて新居が出来上がっているのである。
同じ物々であるはずだが、同じではない。
そこには、新たな小さな命のような輝き、エネルギーも生まれている。
以下の言葉はベートーヴェンの手記からである。
現在のような日常生活をもうこれ以上つづけないことだ! 芸術もまたこの犠牲を要求しているのだ。気ばらしによって休息するのはいっそう力づよく芸術の仕事に努めるためでなければならない。(一八一四年)
*****
この「すべてを見届ける」という行為も「いっそう力づよく芸術の仕事に努めるため」に向かっているのだと思う。
『夕べにすべてを見届けること』
ベートーヴェンの言葉なのだそうだ。
一体どのようなタイミングで使ったのかはわからないのだが、想像してみよう。
「すべて」とは?
ベートヴェンのある一日
今日は引っ越し、何故なら大家とケンカをしたからだ。
大家はいつも不機嫌で、私にも、甥のカールにも、失礼な人物だったのだ。
かくゆう私も、不機嫌な人には不機嫌に接することにしている。
さて、今朝はやけに早く目が覚めたので、さっさと引っ越しを済ませてしまおう。
めぼしい部屋を見つけて契約をしたばかりだ。
ココよりも安く、空にも近く、いつもの散歩道である河辺にも近い。
馬車を呼び、甥っ子と荷物を片付け、最後にピアノ・椅子・楽譜を別の荷馬車に載せる。
此の衝動的な引っ越しも50回目か…
この50回で学んだことが、大事なものは最後に運び込むことだった。
さて、もうすぐ大変だった一日が終わる。
新居での夕べは特別だ。
あらたなワインを開けるときのように、明日からを想像し、期待する。
そして
これまでの全てを見届ける夕べなのだ。
明日からは新たな自分になるのだ。
新しい部屋の朝は陽のさし方も変わり、空気の香りも変わり、全てが変わるのだ。
もちろん私自身も変わるであろう。
この系図の中
【与永原等同 賜惟宗朝臣姓】かもしれない。
興ではなく【與】
という事は、永原氏も惟宗朝臣を賜った…の意味か???
しかし、系図にわざわざ書く意味があるのだろうか?
他の氏の人も同じく惟宗を賜った‥‥という事を。
わからない。