九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

美濃国不破郡赤坂村 山賊 坂長範(熊坂長範) と 浅小井小源太清長 深尾氏の祖

2023-04-08 | 浅小井深尾氏

中山道が整備される以前の東山道の宿場 赤坂

上石津の時の烏帽子岳(熊坂山、熊坂谷)の山中に隠れ住んでいたとする伝えもある。
さて「熊坂」は、長範が率いる大盗賊団が奥州に下る金売り吉次の一行を赤坂宿に襲ったところ、その一行にまだ16歳の牛若が居て返り討ちに会い、ついに長範は63歳で赤坂の土となる。

そして、長範の幽霊が争いの様子を語る…

彼の伝えには生き延びて仏門に入って終わったとする話もあり、義賊だったという話もある。

https://www.nisimino.com/nisimino/turedure/65_index_msg.shtml

 

さて、浅小井小源太清長の系図の註に、以下のように書かれている。

            清長の註 ↓

治承ノ始メ伊勢、近江、美濃三ヶ国々堺三国岳ニ坂長範ノ残党が立テ籠モルニ依リ、清長之ヲ退治スルタメ、

伊勢員弁郡深尾谷ニ移リ住ス、此の時深尾ト改姓、…

 

 

 

             ↑ 中里ダムの左横に烏帽子岳

地図の中にも三国岳・烏帽子山が見えるが、件の山賊の闊歩していた山と同じであろうと思う。

 

はやり、時代的にも 熊坂長範かもしれないし、その名を語ったものが多々いた、ということかもしれない。

「能」にもなっていて、かなり名の知れた山賊であったのだろうと思う。

 

赤坂宿(中山道)とは、 美濃国不破郡赤坂村(現在の大垣市)で、確かに深尾氏のいた員弁郡の(現在・中里ダムの湖の中)場所に近い!!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9D%82%E5%AE%BF_%28%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%29

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鈴鹿関警護役 山中新五郎俊直 と 深尾監物太郎清長 

2023-04-07 | 浅小井深尾氏

橘義清の息俊清、その俊清の息盛宗が山中氏の祖と言われている。

山中盛宗は柏木本領主とあるが、系図に気にかかる註が付いていた。

「橘大夫宇田尼夫王大夫清俊」→これは、橘大夫、宇田尼夫、王大夫清俊 となるように思える。

 

橘大夫盛宗が宇田尼の夫となって柏木本領を得て清俊と名のった

御厨保司職を得て、柏木御厨宇田にその居を移す(日本文化史論叢 柴田實先生古希記念)

 

山中俊直はこの清俊の孫という。(中世村落都仏教 中村善人著作)

柏木御厨と宇田の位置関係は… ↓ オレンジの円が柏木御厨があったであろうと思われる場所である。(千年プロジェクトさんページより) 下方に宇田の文字が見える。

 

 

山中直俊が建久五年(1194年)二月十四日鎌倉将軍家下文案」にその名が挙がり、また、

山中村地頭職鈴鹿山守護= 鈴鹿関警固先祖重代相伝の所職としていた鎌倉御家人と認識されていたこと。(山中俊直ー俊信ー有俊)

いっぽう、同時代よりやや早く(1177年あたり)…に、浅小井清長=深尾監物太郎清長が員弁郡の鈴鹿山にもほど近い場所で山賊退治をしていたが、やがては北条氏とつながっていくこと…を考えるに、つながりがあったのではないだろうか?

 

深尾氏(深尾元範)が築城した浅小井城。

また、山中氏も浅小井荘の領主?(地頭?)であった時代もある。(1431年 山中文書)

が、なんらかのつながりがあったという証にならないだろうか。

 

山中俊好も某年十月浅小井(現近江八幡市)を六角承禎より安堵された。

六角承禎(義賢)は1521年―1598年を生きた人物なので、すでに深尾氏は浅小井には居なかった。

が、『浅小井』という氏名が深尾氏よりも以前にあったわけで、平安時代にはすでにそのあたりに住んでいたと思われる。

 

角川日本地名大辞典には「浅小井荘室町期から見える荘園名。蒲生郡のうち。室町期は善入寺領か。」と書かれている。

 

山中氏が『浅小井』とかかわりを持つようになったのはいつ頃なのだろう…

 

 

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呉の宮 吉士(呉)長丹 と 阿佐太子を送った【威徳王】

2022-12-17 | 浅小井深尾氏

近江国の近江八幡

宇津呂町(八幡小学校裏)に公礼八幡宮の小祠があるが、これを通称「呉の宮」と呼び、以前には巨勢忠久の筆になる長丹の画像二面が所蔵されていた。

この長丹が 呉長丹=吉士 長丹 

白雉4(653)年に派遣された遣唐使大使。このときのは小山上で,副使吉士駒,同行の留学僧には,道昭,定恵(中臣鎌足の子)らがいた。翌年7月,百済,新羅送使と共に帰国したが,このときは西海使と『日本書紀』に記されている。同月,皇帝(高宗)に会見して多くの書物宝物とを得たことを賞して,小花下の位を授けられるとともに封戸200戸とをも与えられた。

昨日のこの図に「西海大使長丹像中図二枚…」と書かれていた。

この図と前のページの秦河勝の冠古図というのが関係があるのかどうか・・・・?

また、そのさらに前のページに「厩戸皇子」とあり【百済阿佐太子書寫(写)】とある。

この阿佐太子は、wikipediaに書かれていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BD%90%E5%A4%AA%E5%AD%90

百済の王族出身の画家。推古天皇五年(597年)、威徳王の命で来日[1]推古天皇五年(597年)に朝貢した百済王の子といわれるが、百済の史料にはない

 

真偽のほどはあるらしいのだが、

コトバンクにもある「百済(くだら)王子。推古天皇五年(五九七)来朝。聖徳太子に会うと、救世観音(ぐぜかんのん)の化身であると合掌し、太子もまた、わが弟子であると言ったという伝説がある。御物「聖徳太子御影」はその筆と伝えられる。生没年未詳。」

「推古天皇5年(597),威徳王で来日。「聖徳太子伝暦」によれば,聖徳太子が「阿佐は前世でわが弟子であった」とつげたという。  」

これらの説を信じたい気もする。

威徳王を一代目と数えて5代目に義慈王で、その息に豊(扶余豊璋)、勇(百済王善光)がいて、朴市秦 田来津と繋がる。

 

597年にもしも百済の王子と聖徳太子が会っていたとすると、ちょうど秦河勝の時代と被る。

威徳王を調べてみよう!

 

 

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宗像神社の関係者? 宗像少輔領とは?? 其の宗像少輔とは???

2022-04-08 | 浅小井深尾氏

宗像少輔とは??

一つのヒントがwikipediaの【大吉祖荘】にあった。

何と藤原師綱の息【親綱】のことという。

という事は、師綱の娘は波多野遠義に嫁いでいるので、親綱と遠義は義兄弟で、更に義通の叔父が親綱となる。(親綱=宗像少輔と仮定して考えている。)

しかも小一条家。藤原実方と同じではないか!

系図を見てみよう! 一行目に実方 最後の行の師成の曾孫が師綱である。

 

 

其の宗像少輔領の大吉祖荘であり、其の荘官に「中原兼経・兼遠」がいた事になる。

 

藤原北家小一条家と中原氏が繋がったのは、波多野氏を通してのことであったかもしれない。

とすると、この兼遠と中原久経の父の中原は案外近いところにいたかもしれない。

因みに中原久経は母が波多野義通の妹か、義通の妻の妹で、源義朝の妻であったこともある。

更に義朝と別れたのちに中原氏と結婚し久経をもうけたことになる。

其の中原氏は、私の考えでは近江の中原なのだが、何も証拠がない。

 

話を元に戻すと…

 

とあるので、もう少し調べてみると、師綱の息に覚綱(仁和寺。法眼。阿闍梨)がいる。

 

ともかく、藤原小一条家と波多野・中原氏が繋がったようである。

 

親綱の息 藤原家時 ↓

?-1236 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
宮内大輔藤原親綱の子。建久9年出雲(いずものかみ),のち斎院長官,少納言,中務大輔,越前(えちぜんの)守などをつとめ,安貞2年正三位となる。嘉禎(かてい)2年1月死去。法名は蓮家。

 

吾妻鑑の底本には「宗像少輔」とあるが、「宗像大輔」に改めた。生没年未詳。藤原師綱の男。母は中納言藤原俊忠の娘。中務大輔、宮内大輔。的大吉祖庄筑摩郡。現、長野県木曽郡木祖村小木 よる。

 

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笠氏とは?

2022-02-07 | 浅小井深尾氏

西(かわち)大友村主が祖という大蔵氏

坂上氏、渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏)

 

そして笠俊兼の「」、丹波国の「加佐郡」も関係するのだろうか?

web日本辞典には

[笠臣国造 ( 吉備 )]
笠臣国造(笠国造)とは笠臣国(現・岡山県西部~広島県東部、笠岡市中心)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ)を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の皇子・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の後裔氏族であり、笠臣は鴨別命の後裔氏族として書かれている。また日本書紀には鴨別命が熊襲征伐の勲功により応神天皇より波区芸県主に封じられたとされているが、波区芸(はぐき)がどこかは不明である。

 

散歩道で工事があるためにはらわれて、捨てられていた小枝。

可愛い春を運んでくれた!!

 

 

 

 

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一歴史ファン様よりのコメントから考えた事

2021-06-30 | 浅小井深尾氏

一歴史ファン様、ありがとうございました!!

とても関係のあるコメントをいただきましたので、ここに紹介させていただきます!

 

===*===

 

佐々木氏の一井家識が入婿した一井氏は多賀大社に住んで高宮氏となって高宮氏からは最上徳内が出ています。
浅小井盛実→一井家識周辺一族からは真野氏間宮氏が出て間宮林蔵が出ました。

一井姓高宮三河守信盛弟が高島郡今井に住んで今井姓を名乗りますが今井氏が越中中山氏と婚姻し子孫から神保氏張がでます。
(神保氏同族は甲賀21家でもあります)

神保氏張は千葉香取郡に幕府旗本として移住→一族の神保氏から伊能忠敬が出ます。

 

・・・以下は略させていただきます。

 

===*===

 

まだ消化しきれておりませんが、この周辺は井口氏とも繋がりそうな気も‥‥

 

中山氏との関係が書かれているブログ ↓

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/f0975e7f316881e110d5a756e0006c71

 

今井とは、今井宗久の今井のことですね?

 

高宮氏には2系統があったとあります。

https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-zhi-ji-xing/zi-he-xian/gao-gong-cheng?overridemobile=true

 

そして神保氏張

wikipediaによると佐々成政の臣下であったという。

「織田氏の家臣・佐々成政の越中入封後はこれに臣従して功があり、嫡子・氏興は成政の婿となり一門に準じた。」

 

関係がいっぱいありすぎて‥‥未消化。

つまり神保も、元は高宮氏であったことになる。(本姓 惟宗氏!)

高宮氏は元は一井氏である。

 

となると、櫟・一井・市井、は皆同族!という事なので、ひいては日牟禮神社関係者の一井氏に相伝された目賀田氏、ひいては目賀田と婚姻関係にもある九里とつながってくる。

 

九里も和邇氏(その中の 櫟氏 いちい・し)であったという勘も当たっていたのかもしれない。

誰かが間違えて「クヌギ氏」(功力)と言っていたのも、「櫟」をまちがえて「くぬぎ」と読んでしまったことにあるのだ。

 

ちょっと自信をもって櫟氏の一員になっても良いのかもしれない。

 

神保氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E6%B0%8F

 

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/ca8003e84037f9f1cf7cb4eaed6d427d

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畔蒜の関する事項

2021-04-07 | 浅小井深尾氏

 

伊南 伊北

伊北時胤

出雲国大原郡の御家人として残っていた

 

中世大原の信仰と文化 牛山佳幸 著 

https://core.ac.uk/download/pdf/148767123.pdf

 

気になる情報をどんどん置いている。今は情報集めの時。

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真野氏から始まっている深尾氏、浅小井氏。 真野氏を遡ると「藤原氏秀郷流」と接点があり、それゆえに近江国豊浦庄は波多野経秀の領であった時代があると思う。

2021-01-29 | 浅小井深尾氏


http://himagine1110.web.fc2.com/keizu/hatano.htm

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/67d4882023073c50d515e43ecd8d8628

(近江国坂田郡史)
「經秀代々豊浦庄の知行を相傳す,撟本の合戰に討死し、其の子又太郞成遠、長じて足利義詮に仕へ、後光胺院、雜を近江にへられ、始めて此の地に移住し、常樂寺村を本據どす,氏成、建武元年八月、遠州子氏成は彥三郞ど稱し、正虔二年ョほ父の軍功」とgooglebooksそのままコピーしてみた。

意味不明の箇所もあるが、最初の経秀代々豊浦庄の知行を相伝す。が、一番重要な部分と思われる。

真野氏が藤原氏と関係が深いと聞いていたが、其の藤原氏とは藤原氏秀郷流であったのかもしれない。

まず、日本研究のための歴史情報 【深尾隆太郎】氏の部分にある その家の始りの箇所が大事と思われる。

「當家は近江源氏眞野太郞定義の嫡男刑部行信の後にして六世を經て深尾重良に至り高知藩祖山内一豐に仕へ其客臣となり土佐國佐川一萬石を食む更に十世を經て重先(鼎と稱す)に至り維新の際勳功あり其孫重孝明治三十九年特旨を以て華族に列し男爵を授けらる卒するに及び嗣子なし」

http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-18860


【深尾系図】
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html

系図を見ると、真野定平ー重定ー信泰ー時泰ー定義高義(深尾刑部丞 1290-1353年)ー行信
其の高義がちょうど浅小井師方(北条師時の猶子)と同時代のようである。



この系図のよると行信から、行信を勘定に入れず九世代あとに重良が登場する。深尾重良(1557‐1632年)(山内一豊に仕える)



61番の深尾掃部元次が、後に中山法華寺若宮の所領を安堵される。





===*===

ここでは、今度は山内氏サイドから、又 深尾氏サイドからと、比較をしてみると‥‥ 
わかりにくいかもしれないが、色の変わっている名前を見ると氏と氏の関係が見えてくる。






更に、深尾系図の上にある文によると「 文明年間(1469-1486)美濃守護土岐氏に仕へ山縣郡太郎丸の城主となり、 土岐氏歿落後は斎藤氏に仕ふ。」

===*===

豊浦庄と関係があると思われる【波多野経秀】の始りは、佐伯経範のようである。

経範は「公光の実子又は佐伯経資の子で公光の娘婿」で、その一代後が波多野経秀である。
その佐伯経資は、前九年の役(黄海の戦い)で討死とある。

代々知行を相伝とあるので、もともとは佐伯氏の所領であった可能性もある。

波多野経秀ー秀遠ー遠義ー義通(1107‐1167年)…とあり、其の義通の妹の嫁ぎ先が源義朝で、朝長を産む
其の後中原某に嫁いで中原久経が生まれたという事になる。

森岡浩先生の系図を貼らせていただくと、公光の三人の息か婿が、其々佐藤氏・波多野氏・伊賀氏の祖と成る。



其の中原久経の裔九里の祖である「九里太郎経久(沙弥蓮忍・蓮忍入道)」であろうと思っている。

この久経は文書では、時折「経久」を記載していたために、ことが複雑になったのではないかと思うが、大江広元(1148-1225年)と同時代を生きたのは、中原久経であろうと思う。

私の予想では
「久経―政経(三左衛門事件・一条家家司 後 近江国伊香郡)・ 経任(橘次)ー経久(九里の祖)ー経重 ・・・・」である。
久経1146‐7年あたりに生まれ、政経1166年あたり、弟経任1168年、経久1188年あたり、五男常忍1216年と予想している。

経任は橘次となっており、予想では「三崎庄【橘樹荘】」と関係ができたためと思われ、佐竹義政の婿となった「片岡経春」の弟分として入ったのではないかと思われる。
何故かというと、この佐竹義政の父は佐竹隆義 で、母が陸奥押領使清衡女であったため、藤原氏秀郷流との関係もあって養子となる機会を得たかと思う。その前にこの経任は鹿島神宮の関係で片岡氏と名乗っていたかもしれないと思っている。



そして、経久は因幡国の在庁官人として1200年代に赴任し、1216年常忍が生まれる。
そして1249年あたりに東国へ戻ってくる。
経久の妻は千葉氏の裔であり、且つ土岐氏とも関係があったのか、その後経久の裔は近江八幡の船木庄の地頭と成る。
経久は、北条泰時に一万石を賜っているようである。(もしも片岡経久でもあるならば‥‥)




常忍は五男であり、父と共に東国に戻り、千葉氏の被官として執事・公文役として働く。
日蓮との出会いから支援者と成り、自宅を日蓮上人に提供する。中山法華寺若宮(奥の院 常忍自宅)は、後に深尾元忠の系の元次に所領として宛がわれている。

         
佐伯氏・波多野氏・山内氏周辺の系図





わが家の九里、「榧之内十文字」という変わった家紋だが、波多野氏も「丸に抜け十字」であり、この「十文字」も意識していたのかもしれない。



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金沢北条氏の研究 永井晋著 より 伊賀氏事件に関して

2021-01-24 | 浅小井深尾氏

googlebooksで、永井晋著作の「金沢北条氏の研究」伊賀氏事件に関する部分を読むことができた。
事件が鮮やかに解剖されていました。これは勉強になります!!!


https://books.google.co.jp/books?id=jwIvD_Y31l8C&pg=PP78&dq=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%B0%8F%E3%80%80%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%B6&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj7jejOhbPuAhUWFogKHazWBL4Q6AEwAnoECAEQAg#v=onepage&q=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%B0%8F%E3%80%80%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%B6&f=false

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浅小井朝房(乾五郎朝房)と 夢窓疎石 ヒントは 北条政村の娘にあるのかもしれない。

2021-01-23 | 浅小井深尾氏

以前考えていた 佐々木経泰 朝綱 と 乾五郎朝房 と 北条氏との関係。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bbde219af9b2884ad553a1d989465344

夢窓疎石の母が乾氏であったと言われている事と 佐々木氏の出であったと言われている事、北条氏との関係を考えると、定高の養子に入った「浅小井五郎朝房」が関係してきそうである。

さて、佐々木哲学校の記事に
http://blog.sasakitoru.com/200602/article_15.html
実は夢窓疎石は鎌倉御家人佐々木朝綱(左衛門尉)の嫡子で、母は北条政村の娘であり、佐々木氏惣領の六角氏頼とは再従兄弟に当たる。


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