九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

常陸房昌明 = 太田昌明 = 法橋昌明 =  後裔が長田を名乗る

2022-01-09 | 太田・大田氏

法橋昌明は大江広元の養子水谷重清(広元の妹の息)と関係があるのだろうか。

法橋昌明が伯耆国会見郡 長田荘を賜ったとあったが、

  鳥取県西伯郡南部町法勝寺488

辺りだろうか。松江と大山の中間付近にあたる。

さて、この法橋昌明を(大江姓)と書かれたweb情報があったので、

但馬国出石郡太田荘の法橋昌明が大江氏として、但馬国養父郡水谷大社の水谷重清も大江氏であることを思い出した。

この水谷重清は大江広元の妹の息である。しかも妹の夫は藤原秀郷流の近藤氏からつながる田村氏という。藤原仲教。

さらに、其の但馬国出石郡太田荘の位置を地図で確認すると、なんと・・・

左のオレンジ丸が太田荘・右が丹波国加佐郡の河守荘である。

法橋昌明のいた太田荘と河守荘とはかなり近い!!

此処には、蓮忍入道(九里の祖 中原経久)がいたのである。

すごい!繋がってきた。

つまり、中原太郎経久は大江氏の一族として、地頭として派遣されていたのである。

さらに、因幡国法美郡の富城郷も加えてみると…

青紫色の一番左が富城郷である。

 

確かに鎌倉前期の中原氏は大江氏と系図も重なっており、見分けつかない。

(中原氏一族として…と書いても全く構わないのだが。)

中原親光=大江親光 

中原の親厳 = 大江の親厳 なのである。

 

其の親厳の息カ孫あたりに 九里経久が存在していたと思われるのだ。

 

因みに中原祐安は飛騨守でもあったのだが、中原大江親光も飛騨守である。

 

更に水谷の先祖となる近藤氏は、中原久経とともに源頼朝の配下の者として行動していた近藤国平につながるのではと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%9B%BD%E5%B9%B3

 

近江国近江八幡の九里村が隋心院の門跡領であったことも、親厳とのつながりがあったからと思う。

そして、美作氏から本郷氏になっていった(後の矢部氏にも?)人々も同じ大江氏であり、中原氏である九里氏とつながる人々であると思う。

同族かどうかまではわからないが、そのように思っている。

 

 

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法橋昌明 

2022-01-03 | 太田・大田氏

今までよくわからなかった太田昌明が、判りかけてきた。

「法橋昌明」と検索してみると

伯耆会見郡長田荘も賜わり…とある。

この「太田氏」は長田荘を賜ってから「長田氏」と名のるようになる。

 

法橋昌明は「鰐淵寺」にも関係していた。

村上源氏から始まり[名和氏]につながっていく系図となっているせいか「那波系図」にも記載がある様である。私はまだ確認はできていない。

那波氏となると、大江氏とも繋がってくる。長井氏にも繋がる。

 

メモ、秀郷流、佐貫、大江流

===*===

 九里氏となる以前の富城蓮忍入道の息であった富木常忍が太田乗明の姉を娶っていた事、

太田氏の所領であった中山法華経寺の近く若宮に富木常忍の自宅もあった事、

このことから「太田乗明」は常忍に近い関係である。

 

三善氏の中にも「太田氏」があり源頼政の所領?の太田庄と関係するいう情報もあるが、

法橋昌明の線も捨てがたいと思っている。

 

今まで書いてきた記事も他のweb情報もプラスし再考したい。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%98%8C%E6%98%8E

http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_3_m.pdf

http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_6_m.pdf

 

太田氏(ー長田氏ー名和氏) コトバンクより

伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県)の豪族村上源氏。史上有名な長年(ながとし)の祖父行盛(ゆきもり)は、「名和系図」によると、村上天皇(むらかみてんのう)皇子望平親王(もちひらしんのう)11代の後胤(こういん)で、伯耆国に流され、同国長田(ながた)を賜(たまわ)って長田氏を称した。長年に至って名和荘(なわのしょう)(鳥鳥取県西伯(さいはく)郡大山(だいせん)町)に住して名和氏を称す。長年は建武(けんむ)新政府の権臣として因幡(いなば)、伯耆2国を領したが、建武政権に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦って死んだ(1336)。子義高(よしたか)も2年後に戦死した。長年の孫顕興(あきおき)のとき肥後国八代(やつしろ)(熊本県八代市)に移り、その後顕忠(あきただ)の代に同国宇土(うと)(同県宇土市)に移り(16世紀初頭)、宇土氏を称した。顕孝(あきたか)のときに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州征服のために宇土を失い、諸国流浪ののち、1621年(元和7)立花(たちばな)氏の領する筑後国(ちくごのくに)柳川(福岡県柳川市)に迎えられ、約300年を送った。明治に至り、長恭(ながゆき)が名和神社宮司となり男爵を授けられた。

[田辺久子]

『平泉澄著『名和世家』(1954・日本文化研究所)』

 

中世南朝方の有力武家。村上源氏右大臣顕房の子孫と伝え,鎌倉時代行盛が配流され伯耆国長田邑を領し長田氏を称したという。長年は同国名和荘に住し名和氏を称したが,1333年(元弘3)隠岐に配流された後醍醐天皇船上山に迎えてこれを助け,そのにより建武政権から伯耆守に任じられ,因・伯2国を領した。しかし36年(延元1∥建武3)京都で足利尊氏勢と戦い子息らとともに討死した。孫の顕興は伯父義高が地頭職を得ていた肥後国八代荘に一族をあげて下向し,以後肥後南朝方の一中心となった。

…建武新政期の武将。当初,伯耆国長田(ながた)荘を名字の地とし,長田又太郎長高といったが,長講堂領稲積荘内と推定される名和に館 を構え,名和氏を称し,富裕な人として知られた。この荘の海辺には天皇家の御厨(みくりや),賀茂社領など海民の拠点があり,のちに後醍醐天皇が長年に与 えたという帆掛船の紋や,《蔗軒日録》に彼が鰯売(いわしうり)の商人と伝えられている点からみて,名和氏は海民を基盤にもつ廻船人,商人と関係があったものと思われる。…

 

 

太田乗明

http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index130.htm

○大田乗明

  大田乗明は日蓮聖人と同じ貞応元(一二二二)年に誕生しています。富木氏と同じく千葉氏の被官だったのが大田乗明です。この主君である千葉頼胤の系統に、中山法華経寺第三世の日祐上人がいます。大田金吾・大田五郎左衛門尉ともいいます。祖先について四つの説があります。

  • 乘明の祖先は源三位頼政で、丹州(丹波)五箇の庄、太田城に住していたので大田氏と名のったという。『本化別頭仏祖統紀』。
  • 太田氏の中宮太夫三善康信で、子の民部大夫康連が、備後国(広島県東部)太田荘にいたので、大田の姓を名のったとあります。康連は鎌倉問註所の執事を務め、乘明はその子であるとしています。乘明は父と同じく門註所に出仕し、左衛門尉になったとあります。また、所領は越中にあり、中山は役領といいます。
  • 中山の所領は実朝公のとき、康連が拝領した中山四郎重政の旧領であり、そのとき、富木氏の母も拝領したとあります。『境妙庵目録』(『本化聖典大辞林』上。六五二頁)。また、妻の於経(恒)は道野辺右京の孫で、日蓮聖人と従兄妹といいます。(『高祖年譜攷異』・『門葉縁起』・『御書略註』)。
  • あるいは、常州(常陸)那河郡の大守とあります。(『高祖年譜攷異』)。

この四説のなかでは、『本化聖典大辞林』(六五五頁)には、二番目の『門葉縁起』や『年譜攷異』の説に従うのを可としています。

また、大田氏は富木氏と同じように在地性はうすく、幼少の千葉頼胤(一二三九~七五年)を扶けるために移住してきた、越中に地頭職をもつ武士といいます。建長元年に閑院内裏造営にあたり、裏築地の押小路面二〇本のうち二本を、越中大田左衛門尉に課せられ、この造営にあたった、ほぼ二五〇名が北条氏をはじめとした各地の御家人で、千葉介も西対を担当していました。中尾尭先生は「太田保」と関係をもつのではないかとのべています。(『日蓮宗の成立と展開』四〇頁)。

大田氏は弘安元年に入道して、法名を妙日と改めています。弘安六年九月二六日に六二歳で逝去したといいます。先の『統紀』の説(七六歳)とは違うことになります。日蓮聖人と大田乗明との関係は、大田乗明の妻が日蓮聖人の従兄妹であることから、縁戚があったことがわかります。この関係から、大田乗明は曽谷教信とならんで、聖人遊学中の資縁を送り、入滅に至るまで毎月の扶持米を奉った家柄であることが頷けます。このことから、日蓮聖人は大田夫妻を父母に準じて、乘明には妙日、妻には妙蓮の法号を授けられたとしているのです。(『境妙庵目録』)。

 また、中山の土地は大田乗明のものであり、若宮が富木氏の所有であることは、大田乗明の父親と富木常忍の母親が縁戚関係であることになります。ここに、三氏が日蓮聖人の家族を援助していたとする理由が、日蓮聖人の母親と縁戚であったことになります。日蓮聖人と富木常忍とは、血のつながりはありませんが、富木氏は無二の人といわれるほど信頼された人でした。しかし、経済的には裕福でなかったと書かれています。(「なれど貧者のゆえに意に任せざるなり」)。

大田乗明は『観心本尊抄』を直接あたえられた人物であり、学問にも精通し外護の信徒として布施を多く送っています。その妻も夫乘明とともに、早くから日蓮聖人に帰依し教化をうけています。日蓮聖人が鎌倉にいたときは、鎌倉に住していたこともあったのではないか、ともいわれ、身延に入山してからも篤信の行いを続けています。文永一二(一二七五)年の『曽谷入道殿許御書』(九一〇頁)に、曽谷氏とともに越中に所領があったことがわかります。このころ大田乗明氏は越中にいたようです。

 

メモ、那波氏


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常陸房海尊 (コメントの件)

2021-02-18 | 太田・大田氏



昔の方も、同一人物ではないかと探っていたようです。
便り左に…となっておりますが、その便りは載っておりませんでした。

コトバンクには海尊は「源平合戦をかたりつたえたとされる。」とありました。

平家物語 文治二年五月十二日 に「常陸房 昌命」(昌明と同一人物ヵ?)も出ているようです。




https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
の検索ワードに気になる人物の名前を入れてみると、出てくるかもしれません。

また、googlebooksにも、出ておりましたが、昌明との関係はわかりません。
ただ、秦氏であったようで、是も面白いデス。


https://books.google.co.jp/books?id=fcTA3GKhZ4kC&pg=PP898&dq=%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwicrs2NnvLuAhWlUN4KHTG7AcQQ6AEwB3oECAgQAg#v=onepage&q=%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A&f=false


また、情報が入った際には記事にしたいと思います。

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太田乗明 と 康連の三人の息

2020-02-07 | 太田・大田氏




康連の息:太田康宗(康政)康有 康経  これで合っていたようだ。

太田を名乗っていること、また年代を見て、行倫の息である康常ではないと判断した。




これを読むと承久三年に活躍している康常。(1221年)

乗明と思われる「康経」は1222年に生まれたと考えられている。

1243年 若干21歳で世羅郡の太田荘地頭代となって派遣され、康経が非法行為(違乱)を行っていたようで、停止し謝るようにとお達しがあったようである。
父である康連にも申し云われる大事になっていたようである。

この後には「康経」、出てこないのである。
次に出てくる時には乗明になっていたのであろうか?

越中国太田保の記述   http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7317741(JLogos)

長いので関係のある部分のみコピーする。

「太田保に属していたと思われる応永5年12月17日の越中守護畠山基国遵行状によれば,「東岩蔵寺領越中国□□(太田カ)保内富山郷 太田小次□入道跡事」とあり,富山郷が太田小次郎入道の旧領であったことがわかる(相州文書/県史中)この太田小次郎は文永から建治年間越中に所領や寺院を経営していた下総国(千葉県)住人太田乗明の子孫であろう(太田禅門許御書/県史中)「吾妻鏡」建長2年3月1日条に見える「越中大田次郎左衛門尉」もこの太田氏に関連する者であろうこのように,太田保には鎌倉御家人らの所領が形成されており,金沢文庫所蔵「御影供導師次第」紙背の某書状に「大田ノ保」とある(県史中)また,正中2年11月日の大江顕元安堵申状案によれば,「亡父覚一拝領之地越中国太田保内赤田村者,申付中務丞元長,布瀬村者,譲給四郎元忠」とあり,太田保内の赤田・布瀬両村が大江支族に相伝されていたことがわかる(金沢文庫古文書/県史中)」

この記述から、私の中でも「太田保」は乗明とその子孫が関係していること、とした。
つまり、乗明が亡くなるまで、更にその先も1408年までは確かに子孫にも相伝されていたことがわかる。

そういう目で見ると、本の中にも「太田保に地頭職を持つ太田一族」などの文も見えてくる。
「大田」なのか「太田」なのか、いまいちわからず、気分次第で書いているが、これってよくない事だろうと思う。

どうしたらよいのだろう。
越中国の太田保は? ・・・荘園名は「太田」だが、中の土地名には「大田」と点のないものも見える。
全く統一されていないようである。

備考も以下のようである。(越中国の太田保の備考)
『地名辞典』追加:正中2大江顕元安堵申状、庄内赤田村、布瀬村=永和3後愚昧記に太田庄・「白山宮荘厳講中記録」に「大田」がみえる・角川地名=金沢文庫所蔵「御影供導師次第」に「大田ノ保」=正中2大江顕元安堵申状に太田保内赤田村布瀬村あり・相州文書=富山郷は大田保とみられる・永正5,9,15幕府が大田保内徳政を許可

ああ、どうしよう…と悩む。

備後国 世羅郡の方…荘園名「太田庄」
【地名辞典】「荘園志料=和名抄大田郷を基本とし、桑原郷、鞆張郷を包括=永万2庄号立券・平凡地名=甲山町、世羅町、同西町=東条内大田、桑原両郷を開発、平重衡が院に
【備考】 ヘホ106=永万2立券文=東限矢田堺、南限篠堺、西限羽賀山、北限三谷西条堺=見作30.8丁、在家26宇=大田、中江良条、大江良条、他条、忠江良条、上原村、赤屋村、伊尾村、宇賀村、上原村、赤屋条、伊尾条、宇賀条」

さらに悩む。

乗明の名で「東京大学DB」で調べると「太田乗明」であった。
コトバンク・wikipediaには「大田乗明」とあった。

点のある、なし、は、このブログにおいては気にしないでいただきたい! という結論に達しました。

ともかく乗明、越中国太田保とかかわりのある人物であったことが重要と思われる。






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太田氏を考える(7)藤原秀郷の中の太田氏は小山氏につながる。寒川尼にもつながる。

2018-07-04 | 太田・大田氏
http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/1.%E7%A7%80%E9%83%B7%E6%B5%81%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E5%9B%A3%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B%E3%81%A8%E9%A4%A8%E6%9E%97%E5%9C%B0%E5%9F%9F

藤姓足利氏の成立と発展

      11世紀後半の坂東では、兵の系譜に連なる武士が開発の主体となり、規模は
   小さくても地域社会の好適地に私領を形成するようになる。こうした在地領主化した
   兵(つわもの)の子孫が中心となり、同族や、村郷規模の領主層を郎従等に組み込み、
   武士団を形成するようになったと見られている。

   清和源氏が摂関家家人・中央軍事貴族として台頭する中、十一世紀後半には秀郷流
   藤原氏でも頼行の子兼行・行尊は在地領主化を指向するようになったと考えられる。

   行尊(頼行の甥行高と同人か)は「太田大夫」の呼び名から武蔵国太田荘に土着し、
   兼行は「渕名大夫」の呼名から上野国佐位郡渕名(伊勢崎市境上渕名・下渕名)に
   土着したと考えられている。

この行尊とその息を調べてみると、小山氏につながってくるのだ。となると結城氏にも、
   
行隆(尊) 

父:武行
太田大夫(従五位下)、下野介(小山系図)
別当大夫宗行(結城系図)

行政(快實) 

父:行隆(尊)
太田大夫(従五位下?) (小山系図)
二郎(結城系図)

行光 

父:行政
太田四郎(小山系図)
四郎(結城系図)
子:小山政光、下河辺行義

小山政光

父:行政
下野大掾


この小山氏につながると小山朝光=結城朝光なので、結城氏となっていく。
その周辺を探ると、

兄弟 小山朝政、吉見朝信、長沼宗政、朝光、久下重光、島田政照
養兄弟:吉見頼経、
宇都宮頼綱(宇都宮業綱子)
伊賀朝光娘
子 朝広、平方朝俊、寒河時光、山川重光、細戸朝村、朝長、宗政、宗泰、
小磯時広、河原田朝綱  

この結城朝光の母親は寒河尼であるので、頼朝の乳母であり、また八田宗綱の娘である。
その八田宗綱のまたの名前は、宇都宮宗綱、中原宗綱である。

寒河尼 の兄弟は「宇都宮朝綱、八田知家(異説あり)」であり、朝綱の孫に塩谷朝業がいる。
朝綱の息に成綱(業綱)がおり、妻が平長盛の娘である。
また、塩谷の方を遡ると源義親につながっていくことは、以前の記事に書いた。
この記事を見るとわかるように「八田宗綱」には兄弟がいた。「中原宗房」である。

【宗円の息八田宗綱33歳まで季仲は生きていた。】という言葉もこれから効力を発揮しそうなので、心にとめておこうと思う。


https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%A1%A9%E8%B0%B7

 

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太田氏を考える(5)多田氏は源頼政(太田氏)と大江広元をつないでいる。

2018-06-13 | 太田・大田氏


googlebooksの部分なので、見えないところは想像で補っているのだが

「武州都築郡太田庄地頭の太田庄とある太田は、『永享記』にも太田郷地頭職と見えるが、都筑郡には太田はないから
、埼玉郡の太田の誤とある。大田 ... 注目すべきは右の資房は、「伊豆国多田氏より婿養子」とあることで、
 このあたりから多田宗成(都筑郡太田庄地頭)とつながって…

上記の話は、実は自分のブログで恐縮だが繋がっている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/e/3b998ca7c61bb3500c3bba414acd77e8

ブログの中にも「伊豆で挙兵した鎌倉の源頼朝の傘下で平氏追討軍に参加した」とある。
これが本当ならば、この太田氏と源頼政・源頼朝・大江広元・多田仁綱とつながってくるのである。

多田氏のwikipediaをコピーすると

平安時代中期に摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した源満仲が「多田」を号したことから始まる。その後、多田の地は満仲の長子であった頼光とその子・頼国が継承し、頼国の五男・頼綱以降、嫡流が「多田」を号した。

頼綱以降では馬場氏族や山県氏族といった庶流を輩出しており、嫡流にあたる多田氏の系統は清和源氏一族の最も古い所領である多田の地を200年余りに渡って相続したが、源平争乱期に惣領であった多田行綱が源頼朝に疎まれ多田荘の所領を没収されると衰退し、以後一族の動向を伝える史料は断片的なものとなっている(行綱以前については多田源氏の項目も参照)。

多田氏の衰退後、『続群書類従』収録の「多田系図」などによると源兼綱の子である源頼兼(『尊卑分脈』では源頼政の次男とされる)が多田氏を再興し、伊豆国を地盤として鎌倉幕府とも繋がりを持ったとされる。この流れを伊豆多田氏と呼び、室町期には摂津国と伊豆国に領土を安堵されるが、永正年間(1504年 - 1520年)の足利将軍家家督争いで足利義稙側に付き没落したという。しかし、この伊豆多田氏については系譜や事跡に不明な点が多く実像がはっきりしていない。

鎌倉時代初期の多田経実に始まり大和の国人(衆徒)として存続した多田氏は源満仲の後裔と伝え代々佐比山城に拠ったが、別族とも取れる記述が見られるなど系譜が明確でない。また、大江広元の舅()であった多田仁綱は『安中坊系譜』によれば摂津国多田郷吉川村の出身で、源満仲の弟源満成の長男、左近将監満信の後胤であるという。仁綱の娘は広元との間に大江親広(寒河江氏の祖)を儲けているが、仁綱の名は『尊卑分脈』などの系図に見えていない。

~~~*~~~

この満成は「満正」「満政」とも書く。
wikipediaより気になる点をコピーすると↓

子孫
後代、満政の子孫は長男・忠重の系統が美濃国から尾張国、三河国方面にかけて進出し、嫡流の八島氏からは浦野氏、山田氏、高田氏、水野氏、足助氏、小島氏、佐渡氏、木田氏、山本氏など多くの氏族が輩出されたほか、次男・忠隆の系統は主に近江国を地盤として善積氏や雨谷氏、和田氏などを称した。また、三男・忠国は摂津との関係が記録に残っている。


善積氏が出てきた!和田氏が出てきた!
しかも「男子:源忠隆 - 鷹飼の達人斉頼の父。子孫は近江和田氏など。」とあるではないか。
この斉頼の娘は確か源頼政の妻となっている。




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大碓命は、守君(もりのきみ)、大田君(おおたのきみ)、嶋田君(しまだのきみ)の祖です。

2018-06-13 | 太田・大田氏
太田氏の古代。忘れないうちにメモ。
http://himiko-y.com/scrp1/kojiki-28.html#160508

大碓命は、守君(もりのきみ)、大田君(おおたのきみ)、嶋田君(しまだのきみ)の祖です。

大田君  〈大辞典〉は「大田の地名は多く大田部の住居より来りしものにして、大田氏の多くは太田部の後裔と考へらる。 されど、後世称号とせしものも亦尠からざるなり。」とするが、 実際には地名「おほた」は、各地に無数に自然発生した地名だと思われる(別項)。

 それでは、大碓命を祖とするのは、そのうちどれか。 〈大辞典〉には「美濃の豪族也。和名抄〔倭名類聚抄〕当国には安八郡、大野郡共に大田郷を載すれば、 此の氏何れを負ひしか不詳なれど、恐く前者なるべし。古事記に「大碓命・大田君云々の祖」と見ゆ。 牟義都国造の族也。」

 つまり、美濃国の牟義公は大碓命を祖とするから、「大田君」の本貫も美濃国だろうと推定している。 一方、崇神段に登場した大田田根子は、河内の美努村(書紀は茅渟県陶邑)で発見される。 〈姓氏録〉には、〖河内国/皇別/大田宿祢/宿祢/大碓命之後也〗とあるので、河内の方が見込みがある。 大碓命を祖とする氏族が、崇神朝の時既に河内にいたとすると辻褄が合わないが、 氏族の始祖を皇子とするのは擬制としての姻戚関係に過ぎないから、こういうことも起り得る。

太田部

牟義都国造

大田命
おおたのみこと

別名 太田命:おおたのみこと

猿田彦神の子孫。興玉神の別称、あるいは猿田彦神の別名とする説もある。

垂仁天皇の御代、伊勢に到着した倭姫命に、五十鈴川上を天照大御神の鎮座の地であると教示し土地を献じ、 五十鈴川上の地主神であり、宇治土公の祖。

滋賀県高島郡新旭町太田、太田 (オオタ) 神社
滋賀県高島郡安曇川町青柳、太田 (オオタ) 神社
京都市北区上賀茂本山340、大田 (オオタ) 神社

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太田氏を考える(4)小山氏の中の太田

2018-06-03 | 太田・大田氏



系図がちょっとずれたが、小山氏の中にも太田氏がいたのである。
太田大夫として「行尊」「行政」
太田四郎として「行光」

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/c820b10784ca85778805d5a23d2a7650

この中のどの太田氏にあたるのだろううか?
または書かれていない「太田氏」かも知れない。



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太田氏を考える(3)富山「太田荘」~赤丸米のふるさとから 越中のささやき…~さんのHPより

2018-06-02 | 太田・大田氏
赤丸米のふるさとから 越中のささやき さんのHPに重要な記事が!
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%AE%AE%E9%81%93

■京都の「祇園社」(※明治から八坂神社)に魚津から立山、富山市に至る広大な「太田庄」を寄進した古代豪族「宮道氏」⇒室町時代には幕府政所代として越中の統治に関わっている。(※「蜷川氏」から「太田氏」や「吉岡氏」が出ていると云う。射水郡太田庄にも「吉岡村」が在った。)

「越中蜷川氏」は源頼朝に従って戦功在り、この時期には「太田」と名乗っていたが、越中新川郡、砺波郡に領地を賜ったとされ、その地は「太田保」(※ほぼ旧富山市地域)と呼ばれ、「太田保蜷川郷」に蜷川城を築いて勢力を持ち、足利尊氏に付いても戦功が在り、室町幕府では政所伊勢氏や足利家とも縁組して、累代、「政所代」を勤めた。「越中蜷川氏」は「物部氏」の末裔で「宮道氏」の子孫であり、初期には「太田」と名乗り、後には一部が「吉岡」と名乗った様だ。「太田保」には「吉岡村」が在り、「越中吉岡庄」(※後の五位庄)には地頭として源頼朝の家臣の吉岡庄地頭「成佐」が配置(※「吾妻鏡」)されていた事から、当初、吉岡庄に配置されていた「成佐」はこの頼朝配下の「蜷川氏」で在り、「吉岡庄」を治めて「吉岡成佐」と名乗っていた可能性が高い。

~~~*~~~
 
【初代問注所執事 三善康信】 三島義教 著作 を読んで、勧修寺流と関係があると思っていただけに、上記は嬉しい情報であった。

Magohachi様ありがとうございました。

この周辺、後でじっくりと調べてみたいです。

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太田氏を考える(2)昌明と乗明

2018-05-31 | 太田・大田氏

太田昌明は、はじめ比叡山の荒法師で「法橋昌明」として、進美寺に寄進状案を差し出している文書が残っている。
但馬守護法橋昌明である。



寄進先の「進美寺」は源氏にとっては大事なお寺だそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E7%BE%8E%E5%AF%BA

「正治元年(1199年)にも「関東御祈祷所但馬進美寺」へ文書が発給され、承久の兵乱の後、但馬守護が太田昌明(常陸房)に交替してもこれらの権能は引き継がれた。」とあるように、この太田昌明は常陸房昌明でもあった。

コトバンクによると、以下のようにかかれている。
?-? 平安後期-鎌倉時代の僧。
はじめ延暦(えんりゃく)寺の僧。武芸にすぐれ,平家滅亡後は北条時政にしたがい京都の警備にあたる。のち,源行家追討,奥州藤原氏攻め,承久(じょうきゅう)の乱に活躍。法橋(ほっきょう)を称し,承久3年(1221)但馬(たじま)守護に任じられた。通称は常陸房(ひたちぼう)。

そこで、名前だけ見るとこの昌明と「乗明」が似ているので、気になっている。

それだけではない、あちらこちらで顔を出す神出鬼没の人なのである。そして手腕はあるのに悪だったり、威張りたがり屋だったりとその行動から判断できてしまうような…変なお坊さんなのである。(欲張り。全然欲を捨てていない!)

但馬守護
鎌倉幕府

1185年~? - 小野時広
1197年~1221年 - 安達親長
1221年~1223年 - 太田昌明(常陸房)
1323年~1285年 - 太田氏
1285年~1321年 - 太田政頼
1321年~1331年 - 太田氏
1331年~1332年 - 太田守延
1332年~1336年 - 太田氏

乗明との関係は、わからなかった。残念。

文書の中に昌明と並んであった名前「一品房昌寛
?-? 平安後期-鎌倉時代の僧。
京都成勝(じょうしょう)寺執行(しぎょう)。源頼朝の右筆(ゆうひつ)的存在。元暦(げんりゃく)元年(1184)源範頼(のりより)にしたがい平氏追討のため西海におもむく。文治(ぶんじ)5年頼朝の命で藤原泰衡(やすひら)追討の宣旨をえるための使者として京都にいった。通称は一品房(いっぽんぼう)。
コメント (2)
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