橘逸勢(782?ー842年歿)60代で没しているようだ。
橘入居の男。延暦23年(804年)空海・最澄らとともに遣唐使に従って留学した。
嵯峨太上天皇が重態の折、伴健岑とともに皇太子恒貞親王を擁して東国に入ろうと謀ったという理由で逮捕され拷問されたが罪に服することを拒否した。
その後、伊豆へ遠流となったが配流の途中の遠江国板築駅(静岡県引佐郡)で病没した。
子(子:珍令)妙仲尼・龍剣・実山
孫珍令・龍剣・実山に関して
http://tsuhozan-mirokuji.com/main2/syo1.html
龍剣・実山・珍令も元の姓を返してもらい、洛中にも出入りして良いように戻ったそうであるが、僧となったためか、その後は探せなかった。
橘遠保は有名な人物だが、他の系図では、逸勢とは繋がっていないようである。
https://www.his-trip.info/keizu/entry455.html
https://www.his-trip.info/keizu/tb17.html
逸勢の息に【達保】がいるようであり「伊豫警固使橘達保」とある。
遠保の説明文に以下のようにあり、達保と同様の「伊予国警固使」とあるので、養子縁組か何かで繋がっているのかもしれない。
天慶3年(940年)正月に平将門の乱に際して防戦した功に対する恩賞として、遠江掾に任ぜられる。翌天慶4年(941年)には伊予国警固使として藤原純友の追討に当たり、博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた純友とその子息・重太丸を捕らえ、同年7月7日に純友・重太丸の首を朝廷へ進上した。純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられている。
藤原純友の事件と関連しているという。