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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

和歌山の九里氏の系図にあったと記憶されている橘逸勢の周辺 (2)

2023-02-25 | 熊野氏

どれが本当かはわからないが、逸勢の息か、もしくは養子か、で繋がっている可能性はある。

安麻呂が伊予橘氏へと繋がっているとすると、逸勢の息であった達保が安麻呂へ養子に入ったのかもしれない。

逸勢(安麻呂)ー達保・・・遠保?

逸勢(782年?ー842年歿)で、遠保は944年没となっているので、間にはあと二・三代以上入るのだろうかと思う。

更に逸勢歿が60歳代として達保・龍剣・実山等30-40歳代で、何処かに逃げていたとも考えられる。

 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~y_manabe/tatibana/tatibana.htm

 

http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-22.html

 

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和歌山の九里氏の系図にあったと記憶されている橘逸勢の周辺 (1)

2023-02-25 | 熊野氏

 

橘永名(780年生~866年歿)

橘入居の息。

承和9年7月、弟の逸勢が承和の変で逮捕された。

のちに逸勢の復権過程と歩調を合わせて弾正大弼・神祇伯を歴任、

貞観2年(860年)11月、従三位に昇叙。貞観8年5月、87歳で卒した。

 

橘逸勢(782?ー842年歿)60代で没しているようだ。

橘入居の男。延暦23年(804年)空海・最澄らとともに遣唐使に従って留学した。

嵯峨太上天皇が重態の折、伴健岑とともに皇太子恒貞親王を擁して東国に入ろうと謀ったという理由で逮捕され拷問されたが罪に服することを拒否した。

その後、伊豆へ遠流となったが配流の途中の遠江国板築駅(静岡県引佐郡)で病没した。

(子:珍令)妙仲尼・龍剣・実山

 

孫珍令・龍剣・実山に関して

http://tsuhozan-mirokuji.com/main2/syo1.html

 

龍剣・実山・珍令も元の姓を返してもらい、洛中にも出入りして良いように戻ったそうであるが、僧となったためか、その後は探せなかった。

 

橘遠保は有名な人物だが、他の系図では、逸勢とは繋がっていないようである。

https://www.his-trip.info/keizu/entry455.html

https://www.his-trip.info/keizu/tb17.html

逸勢の息に【達保】がいるようであり「伊豫警固使橘達保」とある。

 

遠保の説明文に以下のようにあり、達保と同様の「伊予国警固使」とあるので、養子縁組か何かで繋がっているのかもしれない。

天慶3年(940年)正月に平将門の乱に際して防戦した功に対する恩賞として、遠江掾に任ぜられる。翌天慶4年(941年)には伊予国警固使として藤原純友の追討に当たり、博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた純友とその子息・重太丸を捕らえ、同年7月7日に純友・重太丸の首を朝廷へ進上した。純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられている。

 

藤原純友の事件と関連しているという。

 

 

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季範の五男「範智」は、熊野別当「範智」ではないだろうか?

2018-11-06 | 熊野氏

藤原季範 1090年生まれ、範智は五男である。

http://www.wikiwand.com/ja/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AD%A3%E7%AF%84

この季範の息である範智も、熊野別当第20代の範智も同時代と思われる。
熊野別当の系統と熱田神宮と何かしら関係があったのだろうか?

この季範の父は季兼であり、母は熱田大宮司尾張員職(かずもと)の娘である。

尾張氏ということは、中原氏や大中臣氏と関係があると思うのだ。
そして、季兼の父親は藤原実範であり、その家系は次のようになる。

藤原実範

生没年:
父:左兵衛佐 藤原能通
従四位上
蔵人
文章博士
大学頭
妻:(父:小野資通
成季
季重
1044-1101 季兼(熱田神宮大宮司家へ)
妻:(父:美濃守 高階業敏)
季綱
女:
行綱
興義
実慶
(養子)業仲(父:美濃守 高階業敏)

藤原不比等の長男である武智麻呂の系となる。
この範智が熊野と関係があるならば、熊野別当と小野氏とのつながりもできたことになる。

小野義孝=横山資孝(資隆) の「小野」なのだろうか? 
また、資通という名前だけに注目すると、源資通もいる。
藤原資通(九条判官代)もいるが、年代が違うかもしれない。

また、「小野」に注目すると、
下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わる。
この猿丸大夫も今まで解明されていない人物だそうだ。

藤原季兼の父藤原実範の母:藤原元尹の娘(藤原南家巨勢麻呂流出身)で、この巨勢麻呂の妻には、丹治比氏の娘がいて、その丹治比氏は「武蔵国では丹治比氏の後裔を名乗る武士集団丹党が勢力を持つようになり、武蔵七党の一つとして力を振るった。」とある。














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馬淵氏の桜本坊 

2018-04-06 | 熊野氏

https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/62194a2c4629ec2bad625d995c20dd2e

以前書いた記事の「桜本坊」は、上記の地のことだったのではないだろうか?

…ということは、馬淵氏の被官『九里但馬守』であったのかもしれない。
大和国にある桜本ではなく、近江国の古城山城の可能性の方が高そうである。

城郭探訪様記事によると
「 佐々木定綱(1142--1205・経方の曾孫)の5男・広定が野洲郡馬淵に住んで馬淵と名乗った佐々木氏の傍流で、後に佐々木氏の嫡流・六角氏(佐々木氏は定義の孫の代に六角氏・京極氏などに別れている)に仕え馬淵氏・岩倉城(野洲市大篠原小字岩倉)の城主だったという。」

なるほど、広定の末裔。


この長江氏は、近江国御家人井口中原系図の中に現れる「長江氏」ではないだろうか。

しかも、佐々木哲学校の記事によるとhttp://blog.sasakitoru.com/201312/article_2.html
「ところで沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、平安末期の「源行真申詞記」に登場する愛智家次の弟に長江権守家景がある。長江太郎義景により鎌倉平氏長江氏が成立したのとほぼ同時期であり、〈景〉の字を通字とする。平治の乱後の佐々木氏の東下と関係があるかもしれない。佐々木氏は鎌倉平氏の旧領のひとつ相模鎌倉郡長尾郷を領しており、鎌倉平氏を継承していた可能性はある。」

さらに
「また続群書類従所収中原系図によれば、愛智郡に勢力をもった江州中原氏(中原真人)にも長江氏があり、江州中原氏薩摩太夫仲平が愛智郡甲良に入婿し、その子八郎成家が長江氏を称したのに始まる。長江八郎成家―家定―盛定と続き、盛定の長男に「某(孫太郎)」、次男に「明智」と記されている。愛智流長江権守家景とは養子関係にあったと考えられ、続群書類従本佐々木系図(巻百三十三)では、長江権守家景の猶子長江三郎家経の系譜は家経―秀家―忠家―家成―家定とあり、中原系図と成家(家成)―家定の個所が重なる。」

中原氏と長江氏、そして佐々木(馬淵)氏・鎌倉氏との関り~~気になることがたくさん。どなたか解明して下さらないかなぁ。。。


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愛甲庄と山内庄

2018-02-25 | 熊野氏

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/愛甲  

【国名】
相模
【郡名】
愛甲
【荘園名】
愛甲庄
【フリガナ】
アイコウ
【重複コード】

【参考市町村】
厚木市
【市町村コード】
142123
【明治村字名】
愛甲・船子
【史料村郷名】
船子郷・岡田郷・土器作田・愛甲・船子・東野・愛名村
【領家・本家】
熊野山領・室町幕府御料所・鎌倉府料所
【初見年和暦】
寛元元年
【初見年西暦】
1243
【出典】
長府毛利家文書・新編相模風土記・松浦文書・松雲公採集遺編類簒・得田文書・内閣文庫所蔵諸国文書・金沢文庫文書
【遺文番号】
カ6207
【記録類】

【関係文献】

【地名辞典】
 平凡地名=厚木市愛甲、船子、岡田、愛名などを含む=愛甲熊野社、厚木熊野堂あり、熊野社領=愛甲季隆名字の地、荘園成立期は不明=「愛甲保」との関係も不
【備考】
 『地名辞典』追加:=愛甲保との関係も不明、玉川流域・カ6207藤原山内首藤清俊を預所并下司職に補任・領主職=地頭職=愛甲季隆?→清俊母鶴熊→山内首藤清俊→→(鎌倉期)足利氏→(室町期)山内上杉氏・荘園志料=「アユカハ」・平凡地名=「アイキョウ」・金沢文庫文書=「あいきゃうのしやう」・→1505005「愛甲保」参照・貞和2事書=年貢1/3は京進、2/3は御免=鎌倉府管理・『出典』追加:神田孝平氏旧蔵文書(鎌倉市教育委員会)・本郷文書





山内庄の中にも「本郷」の記載があった。

相模
【郡名】
鎌倉
【荘園名】
山内庄
【フリガナ】
ヤマノウチ
【重複コード】

【参考市町村】
鎌倉市
【市町村コード】
142042
【明治村字名】
山之内・雪ノ下・大町・小町・扇ケ谷・二階堂・西御門・十二所・浄妙寺・乱橋・材木座・長谷・坂之下・極楽寺・峠・台・小袋谷・大船・岩瀬・今泉・笠間・長沼・上倉田・下倉田・戸塚宿・矢部町・吉田・上・中・鍛冶ケ谷・小菅ケ谷・公田・桂・本郷・上野庭・下野庭・野庭郷・舞岡・舞岡郷・永谷上・永谷中・上柏尾・下柏尾・平戸・品濃・前山田・後山田・秋葉・名瀬・上矢部・宮沢・中田・和泉・矢部郷・阿久和・岡津・瀬谷・瀬谷野新田・上飯田・下飯田・長尾台・飯島・金井・小雀・田谷・長尾郷・原宿・深谷・汲沢・高谷・小塚・宮前・弥勒寺・大鋸町・西俣野・東俣野
【史料村郷名】
本郷・岩瀬郷・秋庭郷・倉田郷・吉田郷・舞岡郷・富塚郷・山崎郷・長尾郷・津尾・鍛冶ケ谷・白山堂・桂口・杜木・梅沢・櫪町・加夫木・飯島・岩崎・桂入・子神前・曽利町・西楼橋・後田・具所・猪鼻・信濃・志奈野・那瀬・常葉・今泉・信濃・那瀬・田屋・金目・小雀
【領家・本家】
後白河院領・皇室領・長講堂領・宣陽門院領・正続院領・円覚寺領・長福寺領・明月庵領・得宗領
【初見年和暦】
治承四年
【初見年西暦】
1180
【出典】
東鑑・島田文書・宣陽門院所領目録・越前島津家文書・蜷川文書・内閣文庫古文書・証菩提寺文書・称名寺文書・明月院文書・報国寺文書・毘沙門堂棟札・円覚寺文書
【遺文番号】
カ327・カ3274・カ5603・カ22731
【記録類】
『東鑑』治承4,10,23・文治4,6,4・建仁2,12,19・建保元,5,7
【関係文献】

【地名辞典】
 平凡地名=鎌倉市山之内が遺称地、鎌倉市北部から横浜市戸塚区の東半分に及ぶ一帯=山之内首藤経俊所領→(和田合戦)義時→得宗領(元弘)→足利直義領→上
【備考】
長禄3高師長本領注文(蜷川文書)=政所職并本郷(不知行地)  

この政所職を補任された「高師長」の中心となった土地という意味だろうか。
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【行慶】は、源政長、そして宇多源氏へとつながっている。

2017-11-15 | 熊野氏
昨日みつけた「(1159年)平治元年、三所権現遷座 導師  前大僧正行慶 役人法橋二人能智行勝 阿闍梨二人教智倫圓 先達二人長厳慶尹 本宮別当湛快」(近江輿地志略)だが、この中の【行慶】が
どのような人物なのかが気になったので調べてみた。
行慶
1101-1165 平安時代後期の僧。
康和3年生まれ。白河天皇の皇子。母は源政長の娘。大僧正行尊に天台をまなぶ。保延(ほうえん)元年摂津四天王寺(大阪府)の別当。権(ごんの)僧正となり,仁平(にんぴょう)2年近衛(このえ)天皇の護持僧。同年近江(おうみ)(滋賀県)園城寺(おんじょうじ)。永万元年7月16日死去。65歳。通称は桜井僧正,狛僧正。

上記の「母は源政長」に注目してみたい。
コトバンクによると、
源政長
1038-1097 平安時代中期-後期の雅楽家。
長暦(ちょうりゃく)2年生まれ。源資通(すけみち)の子。内蔵頭(くらのかみ),刑部卿となり,正四位下にいたる。宇多源氏の神楽をうけつぎ,子の有賢(ありかた)につたえた。堀河天皇の郢曲(えいきょく)(歌謡),笛の師。永長2年閏(うるう)1月4日死去。60歳。


源資通
1005-1060 平安時代中期の公卿(くぎょう),雅楽家。
寛弘(かんこう)2年生まれ。宇多源氏,源済政(なりまさ)の子。寛徳元年(1044)参議,のち従二位。管弦にすぐれ,源経信に琵琶(びわ)をおしえた。和歌もよくし,伊勢大輔(たいふ),菅原孝標女(たかすえの-むすめ)らと交遊があった。康平3年8月23日死去。56歳。

源済政(なりまさ)
天延3年(975年) - 長久2年2月(1041年))は、平安時代中期の貴族。宇多源氏、大納言・源時中の子。官位は正四位上・播磨守、贈従三位。
六位蔵人・式部大丞を経て、長徳年間に従五位下に叙爵。阿波権守、五位蔵人、信濃守、右少将、左少将を経て右中将にまで昇るが、公卿昇進は果たせず、修理権大夫や太皇太后宮亮など京官や、讃岐守、近江守、丹波守、播磨守など地方官を歴任し、位階は正四位上に留まった。
管絃の名手としても知られ、宮中での御遊でしばしば笛を担当している。

源時中
平安時代中期の公卿。左大臣・源雅信の長男。致仕大納言と号す。
そして、父雅信の息(つまりは時中の弟)に源扶義がいる。

源扶義
源 扶義(みなもと の すけのり)は、平安時代の貴族。官位は正四位下・参議。字は源叔。
その息が、源成頼

源成頼
天延4年/貞元元年(976年) - 長保5年8月7日(1003年9月5日))は、平安時代中期の貴族。宇多源氏、参議・源扶義の長男。官位は四位・近衛中将。古くから佐々木氏の祖とされ佐々木成頼とも記される。

つまり、行慶は遡ると源雅信にあたり、佐々木氏も遡ると源雅信に突き当たるということである。





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近江国 三井寺と熊野権現社 「湛快」登場!

2017-11-14 | 熊野氏

近江輿地志略 巻之十一
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950934
コマ115-116

(1159年)平治元年、三所権現遷座 導師  前大僧正行慶 役人法橋二人能智行勝 阿闍梨二人教智倫圓 先達二人長厳慶尹 本宮別当湛快と記載を見つけた。

第十八代熊野別当の湛快、次の代が「行範」である。

この三井寺との関りも次の代に受け継いでいたとすると、当然「行範」も近江の三井寺の熊野権現社に来ていたであろう。

巻之十三
三井寺の中の「常在寺」熊野権現社に関わる記載では「永久四年(1116年)に熊野三山第二の検校となり、次いで貫主に補せられる。…また老年に及び…両三山をこの地に移し…三所権現を勧請し、以って熊野三山に准ず。」とある。

どうやら平等院前大僧正行尊阿闍梨が建立した「熊野権現社」のようである。

この行尊とは、コトバンクによると
[1057~1135]平安後期の天台宗の僧。源基平(みなもとのもとひら)の子。諸国を行脚(あんぎゃ)。祈祷(きとう)に優れ、天台座主(ざす)となった。和歌にもすぐれ、金葉集・新古今集などに入集。平等院大僧正。

1055-1135 平安時代後期の僧,歌人。
天喜(てんぎ)3年生まれ。源基平(もとひら)の子。天台宗。近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺で出家し,各地で修行。祈祷にすぐれ鳥羽天皇の護持僧となる。園城寺長吏,四天王寺別当,天台座主(ざす)をつとめた。大僧正。和歌が「金葉和歌集」以下の勅撰集に多数おさめられている。長承4年2月5日死去。81歳。通称は平等院大僧正。著作に「行尊大僧正集」など。
【格言など】もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし(「小倉百人一首」)

没年:保延1.2.5(1135.3.21)
生年:天喜3(1055)
平安時代の僧侶,歌人。三条天皇の曾孫。参議源基平の子。12歳で出家して 園城寺に入り,大峰山での修験の修行などを重ね,25歳で頼豪から阿闍梨灌頂を受けた。以後,加持祈祷の効験をうたわれ,鳥羽天皇の護持僧となるなど活躍。園城寺長吏,大僧正に任ぜられた。書や琵琶のほか和歌にもすぐれ,大峰修行中の作などは西行の先蹤として後代から高く評価された。「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」の一首は特に名高い。上流貴族出身の高僧として多くの霊験譚の主人公ともなっている。<参考文献>近藤潤一『行尊大僧正』

平安末期の僧。源基平の子で後三条天皇の孫にあたる。園城寺(おんじようじ)(三井寺)の明尊の弟子となり,17歳のときから大峰,真木尾,熊野など霊山をめぐって苦行し験力を讃えられ,鳥羽天皇皇后待賢門院璋子の病を加持して名声を得た。1116年(永久4)園城寺長吏,18年(元永1)四天王寺別当,23年(保安4)天台座主(ざす)に任じられたが延暦寺僧徒の反対で辞退。25年(天治2)大僧正となり,宇治平等院を本寺としたので平等院僧正とよばれた。

平安末期の天台宗の僧。通称を平等院(びょうどういん)大僧正という。参議源基平(みなもとのもとひら)(1026―1064)の子。12歳のとき園城寺(おんじょうじ)で出家し、17歳から諸国を遊歴、大峰(おおみね)山、葛城(かつらぎ)山などの修験(しゅげん)霊場で修行した。祈祷(きとう)に優れ天皇の病を祈り験(しるし)があったという。のち三井平等院に入り、1116年(永久4)園城寺長吏となって百座仁王講(にんのうこう)を始め、毎年修するのを例とした。1123年(保安4)44世天台座主(ざす)に任ぜられたが、6日で辞した。和歌に秀で、『金葉』『詞花』『千載(せんざい)』『新古今』などの勅撰(ちょくせん)集に多くの歌が収められている。また画もよくし、衣冠を着けて歌を詠んでいる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)像を夢にみて写したという画があり、人麻呂像の最初のものとされる。[塩入良道]

~~~*~~~
…というすごい人物である。

ひとつ気になったのは、三井平等院の「三井」である。

三井寺のHPに「当時平等院は三井寺の末寺」とあるではないか。http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/145.html

平等院は1052年に出来ているので、ちょっとわからないなぁ?

ともかく、「行範」も近江国の三井寺には出入りしていた可能性は充分にありそうである。

~~~*~~~
行慶も、コトバンクで調べてみると。

1101-1165 平安時代後期の僧。
康和3年生まれ。白河天皇の皇子。母は源政長の娘。大僧正行尊に天台をまなぶ。保延(ほうえん)元年摂津四天王寺(大阪府)の別当。権(ごんの)僧正となり,仁平(にんぴょう)2年近衛(このえ)天皇の護持僧。同年近江(おうみ)(滋賀県)園城寺(おんじょうじ)。永万元年7月16日死去。65歳。通称は桜井僧正,狛僧正。

行尊の弟子であった。

~~~*~~~
長厳も。

1152-1228 平安後期-鎌倉時代の僧。
仁平(にんびょう)2年生まれ。真言宗。七条院の後鳥羽(ごとば)天皇出産の際祈祷をし,のち天皇の帰依(きえ)をうける。熊野三山検校(けんぎょう),新熊野(いまくまの)社検校,石山寺座主(ざす)をつとめ,大僧正となる。承久(じょうきゅう)の乱後討幕計画に加担したとして陸奥(むつ)へ流された。安貞2年7月16日死去。77歳。俗姓は紀

没年:安貞2.7.16(1228.8.17)
生年:仁平2(1152)
平安末から鎌倉初期の天台宗園城寺の僧。尊真の弟子。刑部僧正と号した。有験第一といわれるほど密教修法に優れ,後鳥羽天皇の護持僧となる。天皇譲位後も,修明門院の安産祈願,七条院(後鳥羽天皇の母)への荘園寄進,水無瀬殿造進,そして皇子妙香院宮の師となるなど後鳥羽上皇と深い関係を保ち,大僧正となる。元久1(1204)年に熊野三山検校となり,承元1(1207)年に熊野詣での先達を勤め,上皇の代はそれを勤めるようにと院宣を下された。禅林寺,石山寺,神護寺,観心寺などの寺務も相承した。承久の乱(1221)に際し,討幕の謀議に加担したとして陸奥に流され,配所で憤怨のうちに77歳の生涯を閉じた。

【檜牧荘】より

…牧が荘園に発展した代表的な例。1198年(建久9)後鳥羽上皇の護持僧であった長厳が,開発以来11代目の伝領者平盛相から譲得し,七条院に寄進した。この時点で本家職が七条院,領家職が長厳,下司職は平盛相の子孫が伝承するという職の体系が成立,以後本家職は七条院領として伝領された。…

~~~*~~~
この、「紀」姓というのが、佐々木氏に関係しているのだ。

佐々木宮の木村氏も「紀」であるように、佐々木行定・行実は、母親が「紀盛宗女」である。これに関してはまた明日書こうと思う。



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佐々木経高と息高重 高重は紀州熊野へ逃走

2017-10-08 | 熊野氏
 
佐々木哲学校ブログより

承久3年(1221)の承久の乱では、経高(中務入道経蓮)・高重(太郎判官)父子は京方に参加、経高は院中にあって参謀となり、京方の中心人物となりましたが敗北。戦後6月16日鷲尾に隠れていたところ、北条泰時は使者を派遣して、関東へ助命嘆願するから相構えて命を捨てないよう説得しようとしましたが、経高は自殺の勧める使者と思い自殺。しかしまだ息あったため、使者は輿に乗せて六波羅に搬送。泰時は経高に対面して、経高が自殺することは本意ではないことを述べ、それに対して経高も両眼を見開いて快く笑ったところで、言葉を発することなく息絶えました。
 子息高重は戦いに敗れて、猷子渋谷四郎とともに紀州の熊野方面に逃走しましたが、貞応元年(1222)5月6日に,石田(現和歌山県西牟婁郡上富田町岩田)付近で熊野本宮の社僧・岩田法眼行盛(熊野別当家庶流)らによって殺害され,首が六波羅探題に届けられました(「承久三年四年日次記」貞応元年5月10日条)。しかし子孫は北条泰時の言葉とおり赦免され、高重の子高兼(左衛門尉)・孫高清(左衛門尉)と続きました。
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網野善彦著作集 第14巻より 小山氏家文書について

2017-10-07 | 熊野氏
「小山家文書」
「右、紀伊国東牟婁郡小山弥八郎所蔵文書十二通、世ニ所謂結城文書の内ニシテ、小山氏ハ即チ結城入道広宗ノ末裔ナリ。… 」

小山家文書の中には「紀伊続風土記」の編纂の際にも文書や系図等が調査されたそうである。
注目すべきは…と網野氏が書かれている部分をご紹介しよう。
【九号文書において、小山実隆が「熊野山上綱」と名のり、…十三号文書の充所も「熊野山小山三郎」となっている点である。「上綱」(じょうこう)は通常の意味では、三綱の中の上位のものをさすが、実隆が俗人であること、同じ九号文書に「朝敵足利一族新宮諸上綱以下、率群勢令上洛候」とある点からみても、普通の意味と異なることは間違いないといってよい。…遅くとも延元以降、慶長年間まで、新宮にはかなりの人数の「上綱」がおり、位階を与えられ、造営を行うなど、活発な活動をしていることが知られる。…
「御由緒調査書」も「上綱」という項を立て、この九号文書を引用しつつ、これを「別当の後裔にて其職には補任せされとも、法橋、法眼、法印等に任せし人にて、衆徒神官等よりは上座也氏鳴るへし」とする一方、「別当の称は絶えて7人の上綱の称起りなるへし、其人人は新殿、芝殿、宮崎殿、滝本殿、矢倉殿、中曾殿、蓑島殿とて新宮の内処処に住せしとある書に見えたり」とも述べている。】

~~~*~~~

結城宗広 ゆうき-むねひろ コトバンクより

[生]?
[没]延元3=暦応1(1338).伊勢
南北朝時代の武将。祐広の子。上野介。法名,道忠。元弘の乱には,初め鎌倉幕府軍に加わったが,元弘3=正慶2 (1333) 年護良親王の令旨と綸旨を受けて後醍醐天皇方に転じ,新田義貞とともに鎌倉を攻め,幕府を滅ぼした。建武政府の奥州式評定衆となり,奥州検断職 (警察,刑事裁判の職) を兼帯した。南北朝時代,南朝方に属し,延元2=建武4 (37) 年陸奥の北畠顕家軍の侍大将として,西上の途についた。翌年顕家が戦死し,南朝は義良親王,北畠親房らとともに宗広を陸奥経営に派遣することとし,一行は伊勢大湊から出航したが,暴風雨のため宗広は安濃津 (三重県津市の港の古称) に漂着。まもなく病死した。

[?~1338]鎌倉末・南北朝時代の武将。法号、道忠。新田義貞に応じて鎌倉を攻略。建武の中興後、北畠顕家とともに義良親王を奉じて奥州を鎮定。足利尊氏の挙兵後は畿内を転戦し、のち伊勢で病死。

?-1339* 鎌倉-南北朝時代の武将。
結城朝広(ともひろ)の孫。結城祐広(すけひろ)の子。陸奥(むつ)白河(福島県)結城氏。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年後醍醐(ごだいご)天皇の命をうけ鎌倉を攻める。翌年奥州将軍府の式評定衆(しきひょうじょうしゅう)。建武(けんむ)3年北畠顕家(あきいえ)にしたがい京都に攻めのぼり足利尊氏(たかうじ)を九州に追う。翌年ふたたび尊氏追討のため京都をめざすが敗れ,奥州への帰途,暦応(りゃくおう)元=延元3年11月21日伊勢(いせ)で病没。通称は孫七,上野介(こうずけのすけ)。

https://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e7%b5%90%e5%9f%8e%e6%b0%8f
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新宮十郎義盛から新宮十郎行家に

2017-10-06 | 熊野氏
忘れていたこと。「新宮十郎」のことである。

義盛の盛
長範の息「宗盛・盛勝・覚盛・盛意・盛範・範智」の【盛】
そして行範と行家の【行】

以前書いた記事にあった↓
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/c/8d55ece74681fa739bfae5d131a9425a/1
【行家の母は田鶴原姫】だから半分は熊野の血が入っている。

googlebooksより
日本水軍史
「 承久の乱は、さらに熊野の姿勢を明確にしてくれる。乱の発端は、後鳥羽上皇寵愛の ...
上皇軍は第一一軍として宇治,瀬田に一一万五千騎を配したが、宇治橘警備の佐々木
中納言有雅軍中に、熊野別当軍が加わっている。」

承久の乱
討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。(wikipedia)

有雅は、源有雅のことで、佐々木野中納言と呼ばれていた人物である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%9C%89%E9%9B%85

妻は藤原範光の娘で「憲子(岡前別当三位)(?-1239) - 源有雅室、順徳天皇乳母」である。

~~~*~~~

【橘廣方】または【長】(行宮の「行」なのかもしれない通字。)
平安時代中期の豪族・貴族。氏姓は熊野連のち橘氏に改姓。熊野国造の嫡流で、牟婁郡大領・熊野広継の子。
寛平9年(897年)宇多天皇の熊野行幸時に行長として行宮に奉仕し、その功労により郡司に任ぜられる。
醍醐朝の昌泰3年(900年)従五位下に叙爵すると同時に、橘氏に改姓(橘良殖の猶子となったか)した。牟婁郡大領、熊野本宮大社神職を務めた。
広方の娘は同族の鈴木良氏に嫁いで鈴木重氏の生母となった。広方の3代後の橘良冬(和田良冬)が和田庄司を称した。

【鈴木重氏】
平安時代中期の貴族・豪族。穂積姓、藤白鈴木氏の当主。通称、鈴木大夫。官位は押領使、美濃権介。
父は検非違使・鈴木良氏で、生母は熊野国造家の橘広方の娘。押領使、応和2年(962年)からは美濃権介を務めた。永観元年12月8日(984年1月13日)に卒去。父:鈴木良氏
母:橘広方の娘
生母不詳の子女
男子:鈴木重豊 - 従五位下左近将監
男子:鈴木重実 - 従七位上出羽大掾


【鈴木重実】
平安時代中期の武将・豪族。穂積姓、藤白鈴木氏の当主で、鈴木重氏の子。通称、鈴木庄司。官位は、従七位上、出羽大掾。
天禄元年(970年)、紀伊国名草郡藤白荘年領。長徳2年(996年)に従七位上出羽大掾に任官し、長徳4年(998年)に出羽介・平維茂に従って藤原諸任と戦い58歳で戦死する。兄の鈴木重豊(左近将監)には娘がおり、藤原実方に嫁いで熊野別当・泰救を生んだ。
父:鈴木重氏
母:不詳
妻:侍従・藤原定時の娘
男子:鈴木重武 - 掃部允
生母不詳の子女
男子:鈴木基安
男子:鈴木倫安 - 子の允重は常陸大掾。子孫に鞠子氏、前田氏。
男子:鈴木基兼 - 右京亮。

【鈴木重武】
平安時代中期の武将。穂積姓、藤白鈴木氏の当主。父は重実、母は侍従・藤原定時の娘。官位は掃部允。
長元元年(1028年)の6月に前上総介・平忠常が謀反を起こした際、追討のため中原成通に随行して東国に下向した。永承7年(1052年)9月15日に81歳で没した。
父:鈴木重実
母:藤原定時の娘
妻:眞砂清行の娘
男子:鈴木重康
生母不詳の子女
男子:鈴木重孝 - 下総鈴木氏の祖。
男子:鈴木重親 - 那智鈴木氏の祖。
女子:田屋権大夫室。

【鈴木重康】鈴木氏(穂積氏)は紀伊国熊野地方を本拠としていたが、重康の代に同じ紀伊国内の名草郡藤白浦に居を構えて住み、以降は藤白神社の社家として続いたと云われる。
父母
父:鈴木重武、母:眞砂清行の娘
兄弟
重康、重孝、重親、女子(田屋権大夫室)

帯刀左衛門尉俊澄の娘

重光 

【鈴木重光】
鈴木重光(従六位上、右衛門少尉)

~~~*~~~
【藤原 定時】
平安時代中期の貴族。藤原北家小一条流、左大臣・藤原師尹の長男。官位は従五位下、侍従。
妻は宇多源氏の祖の左大臣・源雅信の娘。百人一首で有名な藤原実方は長男で、定時の早世のため叔父の藤原済時の養子となった。娘は熊野神職の鈴木重実の妻となった。

父:藤原師尹
母:藤原定方の娘
兄弟
弟:済時
弟:定照
女:藤原芳子
妻:源雅信の娘
男子:実方
男子:実光
女子:鈴木重実室

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