九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (5-補足)賢清の『母の兄弟 実清ではなく公康』であったかも。

2024-07-18 | 九里【只今の状況・まとめ】

間違いであったかもしれない。
上記の意味は清兼ー公康となり、その公康の息に実清という意味かもしれない。
とすれば、こちらも保元の乱の時の右馬権頭実清には当てはまらないかもしれない。

うーーーむ。私には難問すぎてわからない。




上の秋田県「佐藤一族」の系譜と伝承口碑によると『公康ー実清』となっている。

また、同じ本の中にある下の系図では、公康から後藤氏の基清につながる。


以前挙げた下の系図とも違う。


一つの可能性だが、
源朝長の母(藤原清兼の娘)の兄弟である「公康」は年が10歳以上離れている兄であったとすると、実清が保元の乱の際に20歳以上であったと思う。

1120年位に朝長の母が生まれ、1110年に公康が生まれたその息実清が1130年生まれとすると26歳のときに保元の乱となる。

保元の乱で配流となっていた実清の息をもしも預かったとしても、朝長の母はまだ36歳であり、朝長も13歳。朝長は三年後の1159年には「中宮少進 」となっている。1160年17歳で歿してしまう。

藤原清兼ー公康ー実清ー賢清‥‥となるのかもしれない。
まだまだ、調べていく必要があると思う。




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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (5)賢清の『母の兄弟 保元の乱の右馬権頭実清』なのではないだろうか?

2024-07-18 | 九里【只今の状況・まとめ】
右馬権頭実清 土佐国へ配流セラル…とある。(保元元年 1156年)崇徳上皇・頼長の方に付いていた。源為義も同じくである。


いかに藤原長輔の三男の「実清」がいるが、
藤原 実清[ 保延5(1139)年 〜 元暦2年正月8日(ユリウス暦:1185年2月9日) ]長輔三男。母藤原清隆女。治承元年11月12日(ユリウス暦:1177年12月3日)叙従三位。
元暦元年12月21日(ユリウス暦:1185年1月24日)出家。
正三位・非参議。※生年は、公卿補任の出家時の年齢46歳から逆算したもの。初見時の年齢から計算すると、保延4(1138)年生。

保元の乱は1156年でもあり、そうなると 17歳の時に新院の許で右馬権頭ということになる。
あり得るのだろうか。
これは、秀郷流佐藤氏の藤原清兼の息の実清ではないのだろうか?
清兼の娘は1120年代の生まれと思われ、康治二年(1143年)に源朝長を産んでいる。其の兄か弟なのではないだろうかと思うのである。

もしも、秀郷流の実清であるならば‥‥の想像なので、また外れているかもしれないのだが、
そうなると義朝の妻となった姉妹の居る実清が義為側についたことにもなる。








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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (4)賢清の『母の父清兼』

2024-07-17 | 九里【只今の状況・まとめ】
藤原清兼(佐藤氏)の息に実清の名があり、

 






その実清の息【賢清】は、実は実清の姉か妹に託された息で【中原久経】であれば、系図ができるのだが、僧名賢清となった人物が、頼朝のもとでは久経を名乗るであろうか?
還俗という事もあるが、やはり別人か?と思う。
とすると、久経と賢清は従兄弟か義兄弟という可能性が高いかと思う。

ともかく、清兼が祖父とすると
久安二年(1146年)の記事の清兼が該当するのだろうか?
清兼という名は、他にも見えるために見極めが難しい。

『藤原武智麻呂の孫真作の後裔藤原清兼の子で『尊卑分脈』には兄の資清とともに陪従とみえる。』と、此の清兼はどうなのだろうか?


此の美濃の清兼も気になる存在であるが、どうなのだろう。

(佐藤)清兼ー実清
清兼ー右馬権頭実清ー賢清   
清兼の娘を母としていた松田義経(常)も右馬允となっている。
この二つは符合しているので、正しいのではないかと思う。
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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (3) 中原経賢ー中原賢清

2024-07-15 | 九里【只今の状況・まとめ】




経賢ー賢清ー経任ー経久となる。
「太夫」とついているのは

こちらのページに詳しく、

五位の男性の通称として用いられていた大夫という言葉は、朝廷の支配が弱まり、武士の世となった鎌倉末期には芸能の棟梁を指す言葉ともなり、「大夫」は「太夫」と書いて「たゆう」と読むようになりました。五位という位階は貴族では最下層ですが、やはり六位以下とはその身分や待遇において雲泥の差があり、武士の世となったとはいえ、庶民や地方武士達にとっては一種の憧れ(あこがれ)であり、ステータスでもありました。従って時代が進むに従い、太夫は様々な者を指す言葉となり、人名の一部となったり、身分ある人への呼びかけにも用いられるようになりました。
・・・(略)
ちなみに、五位以上の位階を持つ女性、あるいは五位以上の男性の妻を命婦(みょうぶ)と呼びます。


*****

まだ平安後期の時代のことで、中原経行が従五位下であったことも考えるに、経賢もその地位に居たのかと思われる。

しかし,中太(中原の太郎)であった賢清から九里太郎の経久までは「太夫」は見かけられず、鎌倉時代に入り状況が変わったのだろうと思う。

また「清」の文字は「清原氏」を思い起こさせる。
そこ(賢清)に何等か清原氏との接点が生じたのではないだろうか?とも思われるのだが、その「清」は、実は母方の父「清兼」から来ているかもしれないと想像している。


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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (2) 寛喜三年 鐘 銘

2024-07-07 | 九里【只今の状況・まとめ】


銘は、こちらの鐘に付いていたものと思い込んでいた。
この鐘には「仲原(中原)景経」の銘は無く、名前の記載があったのは、文永五年の鐘であった。😱 


まずは、此処から始める。
ここから分かることは、富永庄の奉行人として「仲原景経」がいたこと。
比叡山延暦寺東塔が願主となり新日吉の神社に鐘を造ったということ。

・・・・・

上記の景経の甥が九里の祖 経久=蓮忍入道=九里太郎なのだが、
「経久」であり且つ「蓮忍」という人物は、めったにはいないと思う。
年代が変わった事で当てはまらなくなる事、
また、新たな可能性は何かを考えようと思う。


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古文書の中の【等】に関する件

2024-03-04 | 九里【只今の状況・まとめ】



後半部分であるが、二つ『ホ』に似た文字がある。

右件 山林者為観音寺御本尊の敷地幷坊敷寺之寄進〇然者奉存天●(切れている)
〇久兼者御領主の子孫繁富故
領内の沙汰人亙(わたる)存代旨仍寄進〇件(必件?)以下
              
延應元年己亥 十一月六日 地頭沙弥蓮忍

*****

緑の〇は「也」とご教示をいただき、「故也」と分の最後が決まる!

東京大学史料編纂所からアクセスできる「史的文字データベース連携検索システム 」で「等」と検索をかけてみた。

 


河守御荘の寄進文書に中の文字は以下である。


違うようにも、同じようにも見える。

文脈的には「等」で良いようにも思える。


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中郡那珂氏の河辺大夫 / 中郡那珂氏は多氏の系 和邇氏とも

2024-03-01 | 九里【只今の状況・まとめ】

気になる部分をコピペ(略有)して留めて置こうと思う。

河辺〔川野辺〕の地は、那珂川の上流の現那珂郡御前山村東部の野口平(その小字に川野辺がある)を中心とする地とされており…

中郡那珂氏一族がまさしく古代仲国造の宗族後裔であることが分かります。『新編常陸国誌』に引く『丹波志』に「天田郡…金山城主金山大膳大夫大中臣那珂宗泰」という表記も、古伝を記したものと考えられます。

 中郡那珂氏の祖とされる上総介頼継が新治郡の中郡荘六十六郷を与えられ、その子頼経はこれを譲られて中郡を名字とし、その子経高は保元・平治の乱に参加した。鎌倉前期には、中郡荘地頭として中郡氏は幕府の有力御家人となり、承久の乱等で出雲や丹波・山城・安芸等に恩賞地を得た、と系図に記される。中郡荘の下司で中郡氏を称する経高は、『吉記』に見えており、承安四年(1174)には乱行で京に召喚されている。 

鎌倉初期の那珂実久が十一年間京都守護職を務め、丹波・摂津・山城の守護人であったと記載されており、網野氏は十分肯けるとするも、その職掌には誇張があるのではなかろうか。 

中郡那珂氏こそが多氏系であるとの事についても一つ。
大井神社の西・朝房山の北に、古内という地があり、昔は鹿島郷と呼ばれ、鹿島神宮の二十年に一度の修造の用材を採っていた地だといいます。鹿島神宮の宮司も大中臣氏ですから古代においてはずいぶん行き来があった事が伺われて興味深いです。

大和の意富(多臣の本拠で、現田原本町多)は三輪山型蛇神伝説の発祥地・三輪山の真西に位置しますが、常陸では逆に朝房山の真西に意富と大井神社があります。大井神社(=鹿島明神)の祭神には、「建借馬命、木花開耶姫命」があげられます。多臣氏は、神武天皇の皇子神八井耳命の後裔と称しましたが、実際には竜蛇神信仰をもつ和邇氏族の出であったことに留意したいものです。「那賀」は長で、蛇の意味の「ナーガ」に通じますし、「那珂」だと和邇氏族の起源地・筑前国那珂郡にも通じます。
鹿島・行方両郡も仲国造の領域であったとが知られます。


鹿島郷と呼ばれ、鹿島神宮の二十年に一度の修造の用材を採っていた地】と上記にあったが、これは栗の木であったのではないだろうか?

行方郡の三崎荘(海上荘)にいた片岡氏(佐竹の娘聟)も大中臣氏であった可能性もあるのではないだろうか?

*****
memo

丹波国の「浄心」は、雀部荘地頭であり、飯田次郎入道浄心 光信(1271年頃)であり、弟は光長であることがわかった。(祖父?は飯田清重1186年~1200年)

河守荘に関係する人物として「興心」がいる。





雀部荘あたりか ↑


*****

中原久兼が中原久経の叔父か、父か、異母兄か…どのようにしたら解明できるか。。。

久兼、河守御荘に名前があるという事は、大中臣系那珂氏であろうと思う。
だが、系図に久兼の名前はない。

ただ、大江久兼(山城介)の息久家多好方(1130年生)から神楽秘曲伝授されている。
そして、絃管系図なので普通の系図と違うが、伝授したことによる養子となっていることも重要だと思う。


多氏という事は大中臣氏にちかい!

ここかな?と思う。
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典膳大夫中原久経と関係があったような記述の那珂氏 そして「河辺大夫」「中河辺清兼」追記あり

2024-02-28 | 九里【只今の状況・まとめ】
典膳大夫であった中原久経と関係があったような記述の那珂氏
疑問符がついているようなので(「与欠」(一文字)は「~か?」という意味のようだ。)系図を書いている人も確信ではなかったようだ。









那珂経政と兄弟の近藤実広



古くは六浦荘という荘園が設置され、国衙(こくが)や郡衙の支配を受けない私有地であった。六浦・金沢・釜利谷・富岡が4郷から成り立っていた。当初の領家は仁和寺(皇族の門跡寺院領)であったとみられている。現在も真言宗御室派の寺院が東国では珍しく金沢区内に分布している。保元2年(1157年)に源義朝から恩賞として常陸国の那珂実経(大中臣実経)に六浦荘が与えられ領主になったとされている。

武蔵国久良岐
六浦の鎌倉時代の地図が面白い!


*****

今までわからなかった「九里太郎=沙弥蓮忍」は大中臣姓の「那珂五郎三郎経久」であった可能性があると思う。

中原久経とも関係がある。

中は、中原氏でもあり、那珂でもあったことになる。

中原清兼は、以前調べた際には武蔵少掾であった。(1147年)
中原久兼は外記史生(1158年)

大中臣久兼は丞とあるが、1246年という事もあり、別人であろうと思う。

中原久兼は中原清兼の外孫か?で、
久経の兄弟であった可能性もあると思う。

清祐ー清兼ー(娘)ー(娘と近江国中原・宇都宮中原との息か?想像)…久兼・久経ー経政・政経ー経久ー常忍 だろうか。

この久兼か久経が賢清(けんせい?)法名か僧名であったかもしれない。

ともかく、どうやら大中臣の略系図に記述のある金山氏になりそうな気配である。
九里の祖・太郎経久の父経政が【大中臣時連】に養子に入ったことから、か?

1174年生まれの片岡経久の説はどうだろうか。
1232年那珂氏が打撃をこうむった時に、経久が片岡経久とすると58歳の時である。

そして、河守御荘の文書は1239年 65歳の時になる。
在庁官人として因幡国(冨城郷地頭でもあったか?)に赴き、東国に帰ってくる時は1249年あたり 75歳あたりの時となる。
常忍は33歳である。

因みに北条泰時に一万石を頂戴しているが、泰時は1242年に歿している為それ以前となる。

何処か宙に浮いていた感のある中原久経だったが、少しこのようだったかもしれない‥‥という像が浮かんできたようにも思う。

因みに 那珂氏の中に「河辺大夫」と称していた人物がいた。
那珂通直である。

後には佐竹氏の家臣であった時もある那珂氏なので、
片岡氏が周辺にいてもおかしくはないが‥‥

久経は源氏と藤原氏と中原氏と宇都宮氏に関係があり、経政(経任)は想像だが、片岡氏と海上氏・橘氏に関係があり大中臣・那珂氏の養子となり、経久は平(千葉氏)との関係があり、佐々岐荘の下山保の地頭でもあったので、佐々木氏と関係もあったのかもしれない。

さらに、経久か、次世代かには、近江八幡に所領も、後には城(本郷城・久里城)もあり、佐々木氏の許に居たと思われるのである。

そうして近江八幡の九里氏となっていく。




川辺大夫や、中河辺清兼の河辺だが、
坂戸に片柳があり、そこか大宮の片柳が、大中臣氏の「武蔵国方屋木郷」のことのようである。(かたやぎ・郷)

この河辺(川辺)と方屋木(片柳)と繋がりはあるだろうか?
この辺りも河越荘だったのだろうか?

入間川も、昔とは流れも、そして名称も変わっているかもしれない。
今の「越辺川」も鎌倉時代には「入間川」という名であったかもしれない。

*****

東国にいたはずが、地頭として派遣された丹波国・因幡国の地で、その周辺で暮らさなくてはならなくなった。
が、常忍は千葉氏の執事としてと帰ってきているのである。
経久は、東国か、近江か、に帰ってきていると思う。

因幡国冨城郷には誰もいなくなっていた…それで、仕えていた面々が不安になってか、宇倍神社で働くようになってしまっていたようだ。


これからは、しばし
冨城中太の軸足を大中臣にして、調べてみようと思う。

大中臣の中原氏、九里氏であったと仮定してみようと思う。





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天田郡(あまた・ぐん) 金山と河守郷の位置関係 と 寛元四年1246年 大中臣久兼

2024-02-27 | 九里【只今の状況・まとめ】


天田郡の河守郷と赤枠の金山郷(佐々木荘下山保?)

大中臣 金山氏(武家家伝より)


中郡氏は貞永年中(1232ごろ)に、それぞれ大きな打撃を蒙ったようだ。おそらく、幕府内部の抗争による結果と思われるが、その詳細は不明である。そして、那珂氏は那珂西郡のほか若干の所領を残して他は没収され、中郡氏は本領中郡荘を失った。

『大中臣系図』は、逆境に立たされた中郡・那珂両氏の人々が、一門の結束の強化をはかるために、栄光ある祖先の功業を後世に伝えようと企図した。そして、鎌倉時代後期の延慶二年(1309)に、種々の史料に基づいて作成したものと思われる。 

以上が気にかかり、大中臣姓で久兼を調べてみた。
東京大学の史料編纂所のDBに一件のみ、あった。

1246年のことである。


1239年の河守荘の寄進の文書
そして、


那珂実久


実久は頼朝側近の有力な御家人として、元治元年(1199年)には丹波・摂津・山城の守護を兼ね、京都守護職の地位にあった。
1207年頃には執権北条氏との対立から那珂東郡・那珂西郡の惣地頭職と京都守護職などを失った。しかし那珂郡内の地頭職は那珂氏が掌握しており、那珂東郡の惣地頭職こそ北条氏の手に渡るものの、那珂西郡の惣地頭職は回復した。

時連の息経政は養子である。
経政が、経任だったのだろうか。

と調べているうちに、大きな私的発見があった。(つづく)

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武蔵入間 河越荘内 河辺郷もあった。(過去の自分のブログ内に)

2024-02-26 | 九里【只今の状況・まとめ】

「1186年の初見だが、武蔵入間 河越荘内にも河辺郷がある。」
(何の本だったのだろう…)
古文書は見つからなくとも、1186年以前からあったともいえる「河辺郷」

信濃 [第3次] 32(12)(372)著者信濃史学会 編

出版者信濃史学会出版年月日1980-12












河越荘内の河辺郷は見つからないが、青海線に河辺駅があるので、この辺りまで河越荘だったのかもしれない。

他にも備中国・美作国の河辺 他にも多々この地名はある為、また何かの機会に掘り下げたい。



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