九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原広宗ー広忠

2024-07-29 | 九里【只今の状況・まとめ】






顕厳僧都
諸門跡譜には中原広忠男、博士従四位下広宗孫とあるが、押小路家譜に記載無し。 牛車。東大寺別当。東寺長者。護持僧。


親厳大僧正
中原親光男〔尊卑分脈によれば、親光は大江維光の子〕。中原広季為子。号越後僧正。号広橋僧正云々〔諸門跡譜〕。 法務。東寺一長者。牛車。嘉禎2年10月2日(ユリウス暦:1236年11月2日)寂〔10月は諸門跡譜による。系図纂要作12月〕。

*****石見守でもあった中原広宗*****

広宗の父は尾張氏の血を引いた貞親であった。
広宗から中原氏から宇都宮氏となっていく宗政の系となる。
宗政は宗家ー(宇都宮)宗綱ー朝綱…と続く。
宗綱の弟に宗房がおり、孫が信房となる。

つまり、宇都宮氏となっていく中原氏と大江氏と合流していく中原氏の中間地点に【九里氏】となっていく中原氏がいたといえるのではないだろうか?

とすれば、藤原秀郷流でもあり、宇都宮氏でもあり、大江氏とも近い
中原氏なのである。

中原久経…なかなか姿を現してはくれないが、

母親が秀郷流の清兼娘且つ義通の義妹。
中原氏に嫁いだのだが、其の近江国中原氏か、近江国の宇都宮氏とごく近い関係にあったのではないだろうか?
近江八幡で九里の居た場所は、隋心院門跡領であったことが、顕厳・大江中原の親厳とのつながりを思う。


この賢清が久経の兄弟、経賢が久経の父ではないかと思うのだが…

石見国との縁(石見守中原広宗)、清原氏と久利氏・中原氏と九里氏。
大江久兼と蓮忍入道(丹後丹波 河守御荘)のつながり。

中原有安の養子となった中原景安(景康)とその景安の養子となった大江久康。(想像)

石見国の都野氏の居た場所【多鳩神社】
「江津の石見国二宮の多鳩神社は中原氏の住んでいた都野郷である。」

この中原氏が宇都宮氏のことでもあるならば、広宗ー宗政…の系となるだろう。



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鈴木真年伝の中の【九里氏】と【近江国中原氏】

2024-07-29 | 九里【只今の状況・まとめ】




ここから下は【石見家系録】という本からである。








嬉しい事に、久利と九里と久理が同列に扱われている。

石見の本に、多賀氏も井口氏も載っていることが不思議であるが、近江国の伊香郡や高島郡は山陰に距離的にも気分的にも近かったので石見にも拠点があったのであろうと思う。

中原廣宗 寛治三年(1089年)【石見守】
     康和五年(1103年)【石見守】

この人物に追随して赴いた中原組がいたであろうと思う。
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近江国中原氏と久利氏 石見国 都野氏 (2) 

2024-07-28 | 九里【只今の状況・まとめ】
都野氏が【都野宿禰の後裔 】となるとみても良いのだろうか?
ただ、所領を預かっていたために【都野】と名のっていただけという可能性があるかもしれないとも思えるので不安だ。

宇都宮流善積氏の拠点である近江国善積荘は現在の今津の周辺である。
一方、継体天皇の出生の地は安曇川の田中の周辺である。







宇都宮氏は石見都野氏より出 近江中原氏となっている。

都奴賀阿羅斯等(ツヌガアラシト) の都野氏のようにも聞こえてくるのだが。




上記のweb情報に
「ツヌガ」が「角鹿」(つのが)となり、「つるが」と訛って現在の地名となる。‥‥とある。その「角」が「都野」なのではないだろうか?




さて、石見家系図という本の中には、小堀家も秀郷流であると記載がある。

和歌山の九里系図

兄の助政が小堀氏となり、弟の助恒が九里となった。(恒は経からきたかもしれない)

秀郷流でもあり宇都宮氏流の中原氏でもあるとする。
平安後期から鎌倉前期でこれに当てはまるのは、私の調べた範疇では中原久経だろうと思う。



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近江国中原氏と久利氏 石見国 都野氏

2024-07-26 | 九里【只今の状況・まとめ】
中世の江津と都野氏 井上寛司 山陰地域研究

この中に、とうとう(近江国)中原氏と久利氏の接点が見いだされたのである!









清原氏(久利氏)→宇都宮中原氏(都野氏)→近江国中原氏→九里氏




其の【都野】という名前だが、以前書いたブログ記事に
(紀氏関係のwebよりコピペした情報)
豊後高田市

①古代:松津国 国造:金連(物部連祖伊香色雄命孫)饒速日命・物部系
           仁徳天皇時代

       ・・・・・・・・・・・

国崎郡に「岐部村」あり、武内宿禰の男、都野宿禰の後裔

…とある。



以前書いた当ブログ記事からだが、


越前国 坂井郡 高向 振媛


『高向王』は、その系の中にいるという証なのだろうと思う。


高向王ー(漢皇子=天武天皇)のちいさな証となりそうなことがある。
継体天皇と天武天皇のつながりが見えてくるのが、


牟義都(むげつ)国造伊自牟良君の女 ・久留比売命(くるひめのみこと)を妻とし、汙斯王(うしのおおきみ、彦主人王)を生んだ。 (継体天皇の父が彦主人王)

‥‥という事で、【都野】というキーワードで、面白いように繋がってくるのである。

しかも以前調べた際には宇都宮氏は継体天皇とつながりがあり、善積氏となった宇都宮氏も継体天皇とのつながりを感じさせる場所を領地としていたのではなかっただろうか?

そのことがあって、天武天皇からの系図の中に近江国の中原氏がいるのかもしれない…とも思う。

清原氏もまた天武天皇から始まる系図の中にいる。

上記に添付した情報
国崎郡に「岐部村」あり、武内宿禰の男、都野宿禰の後裔
も、国東半島にいた富来氏につながり、同じ紀氏のなかでのことになるのではないだろうか?

以前文書で出てきた紀太(木田)氏も、日牟禮神社の紀氏も、土岐氏(源頼政の関係で石清水八幡宮の紀氏)も、みなその範疇にいるのではないだろうか?




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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (6)賢清を「かたきよ」「たかきよ」「たかきよ」「まさきよ」と読んでみる。

2024-07-26 | 九里【只今の状況・まとめ】
【賢】という漢字は、いろいろな読みができるようで、
当て読み・・と書かれているが
「かた,かつ,さか,さかし,さと,さとし,さとる,すぐる,たか,ただ,ただし,とし,のり,まさ,まさる,ます,やす,よし,より 」とある。


「けんせい」という僧名とは思うが、【清兼】を曽祖父に持つと思われるため、人名そのものかもしれないし、其の「清」を僧名に取り入れたのかもしれない。

想像はこのくらいにして、系図に戻ると、賢清の父は経賢となる。
賢清の「賢」は、父から一字貰っていることになる。

其の経賢の孫の代を見ると、共に「経」の文字があり、
もしも「賢清」が僧名ならば、本名には「経」が付いていたかもしれないと思う。

本名か僧名か…悩める「賢清」である。





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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (5-補足)賢清の『母の兄弟 実清ではなく公康』であったかも。

2024-07-18 | 九里【只今の状況・まとめ】

間違いであったかもしれない。
上記の意味は清兼ー公康となり、その公康の息に実清という意味かもしれない。
とすれば、こちらも保元の乱の時の右馬権頭実清には当てはまらないかもしれない。

うーーーむ。私には難問すぎてわからない。




上の秋田県「佐藤一族」の系譜と伝承口碑によると『公康ー実清』となっている。

また、同じ本の中にある下の系図では、公康から後藤氏の基清につながる。


以前挙げた下の系図とも違う。


一つの可能性だが、
源朝長の母(藤原清兼の娘)の兄弟である「公康」は年が10歳以上離れている兄であったとすると、実清が保元の乱の際に20歳以上であったと思う。

1120年位に朝長の母が生まれ、1110年に公康が生まれたその息実清が1130年生まれとすると26歳のときに保元の乱となる。

保元の乱で配流となっていた実清の息をもしも預かったとしても、朝長の母はまだ36歳であり、朝長も13歳。朝長は三年後の1159年には「中宮少進 」となっている。1160年17歳で歿してしまう。

藤原清兼ー公康ー実清ー賢清‥‥となるのかもしれない。
まだまだ、調べていく必要があると思う。




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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (5)賢清の『母の兄弟 保元の乱の右馬権頭実清』なのではないだろうか?

2024-07-18 | 九里【只今の状況・まとめ】
右馬権頭実清 土佐国へ配流セラル…とある。(保元元年 1156年)崇徳上皇・頼長の方に付いていた。源為義も同じくである。


いかに藤原長輔の三男の「実清」がいるが、
藤原 実清[ 保延5(1139)年 〜 元暦2年正月8日(ユリウス暦:1185年2月9日) ]長輔三男。母藤原清隆女。治承元年11月12日(ユリウス暦:1177年12月3日)叙従三位。
元暦元年12月21日(ユリウス暦:1185年1月24日)出家。
正三位・非参議。※生年は、公卿補任の出家時の年齢46歳から逆算したもの。初見時の年齢から計算すると、保延4(1138)年生。

保元の乱は1156年でもあり、そうなると 17歳の時に新院の許で右馬権頭ということになる。
あり得るのだろうか。
これは、秀郷流佐藤氏の藤原清兼の息の実清ではないのだろうか?
清兼の娘は1120年代の生まれと思われ、康治二年(1143年)に源朝長を産んでいる。其の兄か弟なのではないだろうかと思うのである。

もしも、秀郷流の実清であるならば‥‥の想像なので、また外れているかもしれないのだが、
そうなると義朝の妻となった姉妹の居る実清が義為側についたことにもなる。








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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (4)賢清の『母の父清兼』

2024-07-17 | 九里【只今の状況・まとめ】
藤原清兼(佐藤氏)の息に実清の名があり、

 






その実清の息【賢清】は、実は実清の姉か妹に託された息で【中原久経】であれば、系図ができるのだが、僧名賢清となった人物が、頼朝のもとでは久経を名乗るであろうか?
還俗という事もあるが、やはり別人か?と思う。
とすると、久経と賢清は従兄弟か義兄弟という可能性が高いかと思う。

ともかく、清兼が祖父とすると
久安二年(1146年)の記事の清兼が該当するのだろうか?
清兼という名は、他にも見えるために見極めが難しい。

『藤原武智麻呂の孫真作の後裔藤原清兼の子で『尊卑分脈』には兄の資清とともに陪従とみえる。』と、此の清兼はどうなのだろうか?


此の美濃の清兼も気になる存在であるが、どうなのだろう。

(佐藤)清兼ー実清
清兼ー右馬権頭実清ー賢清   
清兼の娘を母としていた松田義経(常)も右馬允となっている。
この二つは符合しているので、正しいのではないかと思う。
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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (3) 中原経賢ー中原賢清

2024-07-15 | 九里【只今の状況・まとめ】




経賢ー賢清ー経任ー経久となる。
「太夫」とついているのは

こちらのページに詳しく、

五位の男性の通称として用いられていた大夫という言葉は、朝廷の支配が弱まり、武士の世となった鎌倉末期には芸能の棟梁を指す言葉ともなり、「大夫」は「太夫」と書いて「たゆう」と読むようになりました。五位という位階は貴族では最下層ですが、やはり六位以下とはその身分や待遇において雲泥の差があり、武士の世となったとはいえ、庶民や地方武士達にとっては一種の憧れ(あこがれ)であり、ステータスでもありました。従って時代が進むに従い、太夫は様々な者を指す言葉となり、人名の一部となったり、身分ある人への呼びかけにも用いられるようになりました。
・・・(略)
ちなみに、五位以上の位階を持つ女性、あるいは五位以上の男性の妻を命婦(みょうぶ)と呼びます。


*****

まだ平安後期の時代のことで、中原経行が従五位下であったことも考えるに、経賢もその地位に居たのかと思われる。

しかし,中太(中原の太郎)であった賢清から九里太郎の経久までは「太夫」は見かけられず、鎌倉時代に入り状況が変わったのだろうと思う。

また「清」の文字は「清原氏」を思い起こさせる。
そこ(賢清)に何等か清原氏との接点が生じたのではないだろうか?とも思われるのだが、その「清」は、実は母方の父「清兼」から来ているかもしれないと想像している。


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出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (2) 寛喜三年 鐘 銘

2024-07-07 | 九里【只今の状況・まとめ】


銘は、こちらの鐘に付いていたものと思い込んでいた。
この鐘には「仲原(中原)景経」の銘は無く、名前の記載があったのは、文永五年の鐘であった。😱 


まずは、此処から始める。
ここから分かることは、富永庄の奉行人として「仲原景経」がいたこと。
比叡山延暦寺東塔が願主となり新日吉の神社に鐘を造ったということ。

・・・・・

上記の景経の甥が九里の祖 経久=蓮忍入道=九里太郎なのだが、
「経久」であり且つ「蓮忍」という人物は、めったにはいないと思う。
年代が変わった事で当てはまらなくなる事、
また、新たな可能性は何かを考えようと思う。


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