九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

橘一族の氏の長者の式部大輔菅原在良 と 書かれている件 (4)こだわってみる。

2022-03-25 | 菅家

橘一族の氏の長者の式部大輔菅原在良 と書かれている1118年

この在良は80歳まで生きていた方で、1120年に歿している。

 

他界する二年前には、橘一族の長者となっていたのだろうか?

菅原一族長者ならばすんなりと分かるのだが、橘氏一族とあるそうなのだ。(吾妻鑑に)

 

菅原氏と橘氏は近い関係であることはわかったが、一族の長者ともなると別な話ではなかろうか?

これはもしかすると間違いかもしれない。すんなりと「菅原一族」「菅一族」なのかもしれないぞ…と思う。

 

 

 

 

菅原氏から唐橋氏が始まった事は正しいと思う。

姓氏家系大辞典によると唐橋氏は他にも佐々木氏・村上源氏・大中臣氏他を祖とするものもあるので注意が必要なのだが、

九里氏と関係のある親厳と父親光が唐橋と称していたことは、菅原氏が1000年代から唐橋氏の祖となって始まっていることからも、つながりがあるのではないかと思う。

大中臣氏にも唐橋氏がいたが、清麻呂の男一代か、その周辺だけであったようだ。

村上源氏は調べた方がよさそうである。

 

もう少し調べてみようと思う。

 

 

 

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菅原在良の周辺(3) 橘氏一族という箇所を考える。

2022-03-25 | 菅家

前回、中途な記事であったので、もう少し書き加えておく。

菅原在良が唐橋氏の祖であり、菅原家は遡ると大江氏と同祖(野見宿禰)である。

菅原道真(854-903)は橘広相(ひろみ)(837-890)の窮地を助けていた。

橘広相は、道真の父是善に教えを受けていた弟子であった。

 

是善の兄が「善主」であり、その裔に真利がいて久利民部を称している。

其の事例より先に、道真の側近に秦久利がいて、菅原の家より婿養子を迎えている。

其の婿養子の人物が久利長門守となっていたようである。大宰府に道真に会いに行き、飛梅の種をもらっているという説がある。

 

広相の娘は宇多天皇妃となり斉世親王を産み、その室に道真の娘を迎えた。(菅原寧子)

母違いの弟が敦実親王(あつみしんのう)で、源雅信の父である。

源雅信が藤原元方の娘をもらい、生まれたのが源 扶義(みなもと の すけのり)で、近江国の佐々木氏の祖となる。

 

藤原実方の母は、源雅信の娘なので扶義の姉妹である。

 

話が佐々木氏よりにずれてきたので戻す。

 

橘俊通(1002-1054)の妻は菅原孝標(たかすえ)の娘であり、孝標は道真の高孫であり、上総介・常陸介の経験もある。

この孝標の息に【定義】がいて、定義の息に【在良】がいる。(唐橋氏の祖)

叔母の夫に橘俊通がいた事になる。定義の妻には藤原実方の娘がいる。

 

孝標のもう一人の妻は高階氏であった。

 

そして、大江氏と橘氏は何度も婚姻関係・養子縁組が行われている。

菅原氏とも同祖であり、同じように系図には見えていないが、婚姻関係等はあったのではないだろうか?

もしかすると菅原から入ってという事で「唐橋」を称していたのかもしれない。(ここは仮想)

 

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菅原在良の周辺(2) 橘氏一族という箇所を考える。

2022-03-24 | 菅家

九里・久里・久利一族の本からである。

 

http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-22.html

http://www.nextftp.com/well/roots/new_page_8.htm

上記二つも参考にし、再考していきたい。

 

久利民部真利は、尊卑分脈には記載がなかったので、養子かもしれないし、あとで付け加えたかもしれない。

が、道真の側近?に久利がいたようなので、再度調べてみた。

 

「”北岡城は菅原道真に仕えた秦久利の居城である、秦久利は老いて一女のみであったので、管公の族子をもらい跡継ぎとして久利長門守といった、その後香西氏に仕え、戦国時代に長曽我部軍に敗れる。”」と、以前書いた記事に在った。情報はweb上にあったと思う。

久利の名を氏となし久利長門守…とある。

 

http://www.edu-tens.net/syoHP/enzaHP/tiiki/gosikiume.html

唐梅ともいわれ,久利長門守が太宰府を訪れ,菅原道真公とお会いしました。

その時,大変喜ばれ,飛梅の種を賜わりました。持ち帰ってこの地に植えたのが五色梅です。

 

 東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 

                   梅の花

    あるじなしとて 春を忘れそ

                

                 菅原道真

 

本当だとしたら、すごい話だと思う!

ご先祖様かもしれない人が、道真に気に入られていたとすると!

 

そして、橘氏との接点はどうなっているのだろう。

菅原氏の祖は野見宿禰という。大江氏と同じである。

大江氏は橘氏と養子縁組が何度もある。

下記は接点と思われる箇所をいただいた。http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-22.html(橘氏考)

更にこの橘氏を通して、片岡氏とも重なってくる。

中原経任の養子先の橘氏が見つかると良いのだが。

橘次経任。

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菅原在良 

2022-03-21 | 菅家

菅原在良

母中将藤原実方女。
鳥羽院天永2年12月12日(ユリウス暦:1112年1月12日)侍読〔菅儒侍読年譜〕。
文章博士。
大内記。
御書所別当。
長者。
従四位上。
式部大輔。
天徳2年11月24日(ユリウス暦:959年1月5日)贈従三位〔本朝諡号雑記〕。
長久4(1043)年生〔本朝諡号雑記。
尊卑分脈作長久2(1041)年〕。
保安3年10月3日(ユリウス暦:1122年11月3日)卒〔本朝諡号雑記。
尊卑分脈作保安2年10月23日(ユリウス暦:1121年12月4日)〕。

:::

此の後、どのような関係から中原を名乗るようになるのだろう。

この在良から唐橋飛騨守中原親光に至る系があるはずである。

:::

菅原在良は、菅原在良(従四位上・式部大輔・贈従三位)(1041年 - 1121年)を祖とする堂上家から唐橋家(からはしけ)は起こる。

参考菅原家は、源平藤橘の橘一族。   ┌是綱─厳実氏人爲不可
               菅原道真┴在良┬在殷子爲不可
                      ├信永
                      ├善弘─在長─安能(現別当)
                      └為恒─珍全(別当職を望んで安能を追い出そうと画策している)

 

 安樂寺長官の別当職をみだりに望む人を橘一族から放り出す手紙
  安樂寺長官の別当職をみだりに望んで、氏の長者の推挙を得ずに、僧兵を使って就任運動をしたので、橘一族から締め出すこと
 右の事は、例えば父の命令に背くようなことは、子供としての正しい道から外れている。氏の長者の推挙に逆らうものは、氏の一族とは認めない。先祖の天神様菅原道真公の命令書に決められているのは、氏の長者の推薦によって、兄弟順に任務するようになっています。それを氏の長者の推薦を得ずに僧兵を使って就任運動をするような奴は、京都朝廷で止めさせてください。橘一族から締め出すことはこの通りであります。
   永久六年(1118)正月十二日           橘一族の氏の長者の式部大輔菅原在良

 

文治二年(1186)六月小十五日辛酉。安樂寺別當安能僧都、平家に同意之聞有るに依て、改替被んと欲す。


二品憤り申さ令め給ふ所也。珍全之を望み申し、京都に於て當時其の沙汰有り。


而るに安能潜に使いを進め、藤判官代邦通に属し、子細を陳じ申す。


寺務之間興隆の事并びに當寺務の事權門に付し濫望す不可之由、證文有りと稱し、


永久の起請・保延の宣旨状等を進ずと云々。今日關東に參着する也。

参考①安楽寺は、大宰府天満宮の菅原道真廟所。

以上の記事は以下のアドレスより拝借しました。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma06-06.htm

 

安楽寺 別当安能

https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/4212.pdf

 

菅原唐橋家、情報をもう少し集めてみたい。

 

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菅原孝標(たかすえ)

2018-06-20 | 菅家
1020
寛仁4
9.18上総介菅原孝標(たかすえ、道真の5世嫡孫)の娘、任地上総から父とともに京に戻る際、下総国と武蔵国の境にある
「ふとゐ河」(太日河)を「まつさとのわたりの津」で渡る(『更級日記』)。


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菅原善主から過去に遡ると大江氏と同じ祖に行き当たる。

2018-06-19 | 菅家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E5%96%84%E4%B8%BB
土師氏

他の系図では菅原善主の息に「「真利久利」は見えません。また「秦久利」を探すと建長二年にその名が出てきます。
しかし、「菅原道真の秦久利」の伝承は信じて、何かないかを探してみたい!

もしも「秦久利」に「菅原道真」の縁者が養子に入って来てその末裔が「久利長門守」となったのなら、と思うとワクワクします。



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菅原善主と是善 真利久利のこと 久利長門守のことではないだろうか?

2018-06-19 | 菅家
またまた、どうしても横になる画像で、スミマセン。




この善主の家に真利久利がいる…四国の久利氏と関係があるのだと思う。下記のアドレスにあったように「秦久利」という人が菅原の道真に気に入られ、菅原家の一族の那珂より養子に入っていただき、「久利長門守」となったようである。

「”北岡城は菅原道真に仕えた秦久利の居城である、秦久利は老いて一女のみであったので、管公の族子をもらい跡継ぎとして久利長門守といった、その後香西氏に仕え、戦国時代に長曽我部軍に敗れる。”」

http://jyoushi.webcrow.jp/kagawa/kagawakitaoka.htm

以下のような記事もあった。http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2016-03-15 





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