九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

我が九里家古文書より(15) 【別紙】 差出人詳細も、年号もわからない、でも重要な書状だと思います。

2016-03-14 | 我が九里家と古文書
九里家由緒書の他に、私が謎を解く鍵になるかもしれないと思った【別紙】をご紹介します。
釈文のご指導、Mさん、本当にありがとうございました!

【1】
別紙

一 家系等焼失仕候哉 旧記等無御座候
一 旧主何様ニ御座候哉 承傳不申候
一 當家江相勤候儀 寛永年中よりと承傳申候
  尤 其頃當旦那居城
  下野国壬生城ニ御座候 猶承糺可申上候

一 先祖九里孫三衛門と申候 私代迄六代ニ相成候
        
當時相用候
 
紋所 (絵)○に橘

【2】

 右之外 替紋源氏車相用申候 
 其外ニ相用候紋所只今迄無御座候
 右之通 者先 不取合荒増申上候
 其外之儀 猶手筋も有之候ハバ
 願候上 可申上候

一 牧野備前守様御家中ニ九里孫左衛門と
 申仁有之候由 幷太田丈之助様江も
 九里性御座候由 承及候得共
 本文申上候通 未糺不申候 此段も
 乍序申上候 以上

 九月廿一日

以上が【別紙】でした。

私流解釈

この書状を書いた人(九里孫三衛門六代目)の由緒書は焼失しているので、どの方に勤めていたのかも承伝は無い。
寛永年中より今の家に勤め、もっともそのころは、主人は下野国壬生城であった。

先祖は九里孫三衛門で、私はその六代目である。

家紋は〇に橘、替え紋は源氏車
そのほかに使っている紋は今までには無い。

あらましは、こんな感じで、他にも探す手立てはあると思う。

牧野備前守(長岡藩主)のご家中にも九里孫左衛門という九里姓の人がいると、太田様からもきいている。
あまり詳しくはないが、今回は申し上げた通りである

~~なんちゃっての訳ですが…

どうやら、この方も、もらったわが九里八郎右衛門も、ほかの九里を探している様子!

やはり、途中の戦乱の世でバラバラになってしまい、
江戸時代になって落ち着いてきた此の所、気になり調べている…

そんな感じに思えます。

九里は近江時代、兄弟がたくさんいたのだと思います。

戦国時代・織豊時代、お互い連絡を取ることもままならず、バラバラになって、別々な場所で生きていかざるをえなかったのですね。

今のところ、九里孫三衛門の記述は見つかっておりません。

ただ、信長に内通容疑でつかまり処分された、または、自害させられた「九里三郎左衛門」の名前が

昨夜、岡山県史 第25巻 72ページ にあるとの情報を得たところです。

三郎左衛門の息子か、其の系が続いていたらしいこと、嬉しいです。

で、孫三衛門は、どこにいた人なのでしょう??

どなたか、九里孫三衛門の情報をお持ちの方、ご連絡いただけますと、嬉しいです。

題名をクリックしますと、ずっと下の方にコメント欄が出てまいります、そこにご連絡いただけますと嬉しいです!





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我が九里家古文書より(14)寛永4年から 政直登場! 大和宇陀松山藩 九里家由緒書【7】

2016-03-13 | 我が九里家と古文書
江戸時代、この政直より以前は不詳です。残念!!

九里八郎右衛門の系はこの世から消えてしまったかのごとく、
足跡をたどることが難しくなります。

福島掃部頭に仕えていたことが、唯一の情報です。
この政直以前が、とても知りたい!のです。

他の九里の方々(源兵衛や市左衛門~十左衛門・孫左衛門等々)
のことから、何かがわかるかもしれません。
どのような情報でも、教えていただけますと嬉しいです。

さて、今日は九里八郎右衛門政直 です。

実は、この人はもともと【岡田清左衛門】を名乗っておりました。

柏原織田家臣系譜の政直の部分には、
「初仕宇陀領主 福島掃部頭正頼主家断絶後信雄公以
 政直之通民情命代官役賜 禄百石於 宇多(ママ)郡 藤井 日有 平尾 三村
 改冒 九里氏」

…とあります。

藤井・日有・平尾はどの地も荘園があったところのようです。

宇陀って、神秘的で素敵なところです~。
http://www.city.uda.nara.jp/sin-kankou/index.html

それでは、九里八郎右衛門政直 参ります!

政方が書いております。

由緒書  
                           九里八郎右衛門先祖書
                           祖父 九里清左衛門
徳源院様、和州宇陀御拝領遊ばされ候以後、召し出され御代官役仰せ付けられ、
     知行百石下し置かれ、御判物徳源院様御在世の内 寛永四年(1627年)、
     瑞泉院様より成し下され候、
同御代  正保元年(1644年)迄右の御役儀相勤め、病死仕り候、
     清左衛門儀、前方 福島掃部頭に相勤め罷りあり、
     宇陀郡の様子案内に付き召し出され、御代官仰せ付けられるの由承伝候

以上が政直の生涯でした。

福島正則の弟である高晴(正頼)にも仕え、その後の織田信雄にも仕えていた政直。
それ以前はどこにいたのか、九里家と岡田家の関係は?などが知りたいところです。

ここで古文書は終了。由緒書きとはいえ、なんだかあっさりとしたもので、
書いている当人たちも自分たちの出自はわかっていなかったと思われます。


今までの登場人物(明治から江戸へ遡る)

圭治→政得(益男・文之丞・敬三)→政忠(雅吉・彦輔)→政敬(乙蔵・嘉膳・実 岡田十左衛門重昌四男)→修政(繁治・実 佐々茂左衛門・法名実相院大誉義空居士)→良朴(亀之丞・実 水野九郎右衛門次男)→良顕(杢之丞 実 水野佐七右衛門 法名唯心院願誉祐慶居士)
→政方(八郎右衛門)→ 政道(九里八郎右衛門 法名壇誉道林信士)→政直(岡田清左衛門 九里ト名字改め 九里清左衛門 法名 性山道悦定門)


大井家に養子に入ったものもおりました。(私の曽祖父にも曾祖母にも九里の血が入っていたのですね。)



昨日「佐々介三郎宗淳」著者:但野 正弘 水戸史学選書を借りてきました。
「助さん」だけではなく「格さん」も本当にいらして、同僚だったそうです。

秘密がたくさん詰まっているような、そんな本です。
内容を少しお伝えできるといいな…と思って、メモしながら読んでおります~♪

今日の政直で、さかのぼりの歴史 明治から江戸の時代は終わります。
次回は、織豊時代に入ります。

ただ、ココからは八郎右衛門の系がわからず、混乱を極めております。

お付き合いいただけますと、幸いです!








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我が九里家古文書より(13)正保元年から天和二年 政道登場 九里家由緒書【6】

2016-03-13 | 我が九里家と古文書
こんにちは。きょうは、九里八郎右衛門政道です。 

でも、その前に~政道の家族をご紹介したいです。
 
政道 妻は早川権兵衛の娘
   子ども三人 女 丹後宮津藩士 秋田岡右衛門の妻
         女 浅井次郎左衛門伊政 妻
         男が 政方 

途中、妻・子どものことを書くのを忘れておりましたので、ここで追加で書きます。

政方の妻は永田傳左衛門広賢           
   子供一人  女 九里八郎右衛門良顕 妻

良朴の妻は綾部藩士 岸江軍治の娘
   子供一人  女 峯 荻野八左衛門 妻ここで、荻野に九里の血が入っている。(追記)


政道は、大和宇陀松山藩に居りました。

大和宇陀松山藩は、慶長五年(1600年)から元禄八年(1695年)迄です。


宇陀崩れの騒動などありましたので、渦中さぞ、大変だったろうと思われます。


さて、政道の部分、参ります!

瑞泉院様御代 小姓に召し出され、徳雲院様へお付遊ばされ御部屋住みの
       御時節より相勤め、其の後元服仕り、直ちに御近習中小姓相勤め、

       正保元年(1644年)親の跡目を相違い無く仰せ付けられ候、

徳雲院様御代、寛文六年(1666年)三月 御加増五十石成し下され、都合百五十石拝領仕り候、

徳雲院様御代、寛文十一年(1671年)十二月、宗旨奉行役仰せ付けらる、

同御代、   延宝八年 (1680年)三月 町奉行役仰せ付けられ相罷り有り、

        天和二年 (1682年)正月 果て申し候

以上が、政道の生涯でした。

宗門改めのために、宗旨奉行の役ができ…このあたりwikipediaに詳しく説明がありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E9%96%80%E6%94%B9


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我が九里家古文書より(12)正徳三年から享保十六年 政方登場! 九里家由緒書【5】

2016-03-12 | 我が九里家と古文書
九里八郎右衛門政方の登場です。

柏原(かいばら)織田家臣系譜には、政方は「用人物頭・命越後流兵学師範」とあり、
越後に兵学を習いに行って、師範になって帰って来たのでは(私流解釈)と思います。
「流」は越後流の意味と思ったのですが、いかがでしょうか?
それとも、命令で行ったのに、放浪してきたとか??

きっと、【片山良庵】の塾?に行っていたのだと思います。
年代的にはもう良庵先生が亡くなられていたのではと思います。


片山良庵(江戸前期の軍学者・医師)越前福井藩士後越前松岡藩士 (wikipedia)
さらに、弟子の系譜もあり、

片山良庵 ― 真柄安勝 ― 小倉実重 ― 秋原正族 ― 木村正敬 ― 九里成照 ― 名児耶根麻 ― 秋原政勝 ― 秋原政甫 ― 九里成誉 ― 高野常道(『日本兵法史』424頁〔長岡市個人蔵『伝統之巻』による〕)。とwikipedeiaに書かれております。

☆二人の九里(成照に成誉)

長岡藩・加賀藩にも九里の親戚が多数おりますので、その中の人かもしれません。
政方が入っていると面白いのですが、まだ調べているところです。

また、加賀藩の【加賀藩 鉄砲所文書】の中にも九里が登場してきます。
兵学に強い家系なのでしょうか。

さて、片山良庵の一番弟子?【真柄氏】の事ですが、水野良顕・良朴の家系にもいた苗字です。
たしか、水野九郎右衛門の祖だったような。。。

真柄直隆のこと(弟子の当人ではなく、その祖か?)ですが、面白いので書いておきます。

戦国武将で、朝倉氏に仕え、武勇に優れた人物…とあり、身長2メートル・体重250キロ。(wikipediaより)


同じく朝倉氏に仕えていた九里甚左衛門正貞も【九里系図并旧記】に「容貌長大 勢力有」と書かれております。

ちなみに、初期の藤原氏も体格が良かったそうです。

それでは、古文書参ります!

九里八郎右衛門政方の部分です。

                        当 九里八郎右衛門
徳雲院様御代、天和二年(1682年)三月、亡父跡式相違無く仰せ付けられ、御馬廻り相勤め、
       当御代、
       正徳三年(1713年)正月、御目附役仰せ付けられ候、以上

       正徳三年三月

                        九里清左衛門由緒書
       正徳三年(1713年)   差し出し候由緒書以後 
                        曽祖父 九里八郎右衛門
                       (これは修政が政方のことを書いたため曽祖父となっている思われる)
 
長徳院様御代、正徳五年 (1715年)正月十一日、御郡寺社奉行仰せ付けられ候、
       同 六年(1716年)二月五日、此の度の御領内百姓御仕送り仕り候に付き、
                       御元締め役仰せ付けられ、是迄の御役儀兼ねて相勤め候様
                       仰せ付けられ候、
      
       享保二年(1717年)四月二十一日、実子御座無く候に付き、〇〇〇〇以って
                         御眼鏡養子仰せ付けられ候、
       同 七年(1722年)二月九日、 御物頭役仰せ付けられ、御用人役是迄の御役儀兼ねて
                          相勤め候仰せ付けられ候、

水月院様御代、享保九年(1724年)三月十日、 倅○○儀だんだん結構に仰せ付けられ相勤め罷りあり候処、
                          不縁に付き、願い奉り離縁仕り候、
      
      享保十一年(1726年)四月十七日 御前において三十石加増成し下され、都合百八十石頂戴仕り候、
       同          九月十三日  願い奉り水野左右衛門弟 水野杢之養子に仰せ付けられ候、
       同          九月十八日  御賄御元締仰せ付けられ候、
      同十六年(1731年)六月二十四日  病死仕り候

                                       
以上が九里八郎右衛門政方でした。

とても密度の濃い一生だったように思えます。

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。 では、また次回!                                                              
      




        


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我が九里家古文書より(11)享保11年から宝暦十三年 水野家よりの養子 九里家由緒書【4】

2016-03-12 | 我が九里家と古文書

享保11年(1727年)から 宝暦十三年(1763年)です。

水野杢之丞は九里家に入り、九里八郎右衛門良顕となります。

(元禄五年生まれで)宝暦十二年に70歳になるので、もうそろそろ御役儀赦免して頂きたいと、隠居したい旨を伝えておりますが、
いやいや、まだ働いておくれ~と言われ、続けている模様です。(どうも、奥方々に人気があったようです。)

では、参ります!

水月院御代、享保十一年(1726年)九月十三日  願い奉り 八郎右衛門養子に仰せ付けられ候、
      同 十二年       四月十四日  御近習仰せ付けられ候、
      同 十六年       八月四日   亡父(政方)家督百八十石の内百五十石成し下され、
                             御給人仰せ付けられ候、

当御代、  延享二年 (1745年)十一月十五日 大御納戸役仰せ付けられ候、
      同 四年 (1747年)       実子御座無く候に付き、願い奉り…(勢州より養子をもらうが後離縁となるため省略)
      同 五年 (1748年)十月十九日  大御目附け役仰せ付けられ、
                             奥向き御用も兼ねて相勤め候様仰せ付けられ候、
 
      寛延三年 (1750年)六月五日   御用人役奥向き御用相勤め候様仰せ付けられ候、
      同 四年 (1751年)正月     (勢州からの養子)是迄だんだん…不縁に付き離縁仕り候

      宝暦四年 (1754年)四月十六日  願い奉り水野九郎右衛門次男水野亀之丞養子に仰せ付けられ候、
      同十二年 (1762年)正月十五日  七十歳に罷り成り候に付き、御役儀差し上げ隠居仕り度く候段願い奉り候処、
                             御役儀は御赦免遊ばされ、隠居の儀は今暫く御差し留め、
                             奥御用向きは心侭に相勤め
                             候様仰せ付けられ候、

      同十三年(1763年)正月二十八日  隠居の儀追々願い奉り候に付き隠居仰せ付けられ、  
                             家督相違い無く倅へ仰せ付けられ候

                                                         以上

昨日書いた部分ですが、明和九年に亡くなったのは、この良顕だとすると80歳です。良朴だとすると30歳代くらいでしょうか。
書き綴ったのは、修政らしいです。                              

次回は、兵学師範だった 政方です。


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我が九里家古文書より(10)安永三年 1774年 九里清左衛門修政の続 九里家由緒書【3】 

2016-03-12 | 我が九里家と古文書
昨日の続きがまだありました。佐々家よりいらした茂左衛門弟の九里清左衛門修政のことです。

安永二年差し上げ候由緒書以後   養父 九里清左衛門

          
            蘆月院様御代、安永三年(1774年) 六月八日 知行の御書き出し成し下され候、
            天明三年(1783年)正月十一日 御使者番仰せ付けられ、平日勤め向きは是迄の通り、
            御使者番役の面々へ掛け合い勤め筋兼ねて承け合い置き候様仰せ付けられ候、
            
            同年正月十五日、常々御勤め方へ立ち入り御勤め向きの儀、並び江戸御勤め方への文通
            御勤め方の面々連名にて差し出し候様仰せ付けられ候、
            当御代、天明四年九月、御代替えに付き、知行の御書き出し成し下され候、

            同年 九月十一日、御徒士頭助役仰せつけられ候、
            同五年四月十八日 御役人格仰せ付けられ候


【養父】と書いているので、清左衛門が家督を譲った政敬に宛てて書いているか、または、養父のことを政敬が書いて残しているのか…
素人の私には、良くわかりません。古文書のルールとしては、どちらなのでしょうか??
(文字の様子からは、なんとなく政敬の字のようです。)

さて、水野家から叔父と甥の二人が九里家へ続けて入ってきています。

このブログでは、さかのぼり方式にしておりますので、まず甥っ子の初名「亀之丞」から書いていきます。

この、水野家は【平姓】でした。
藤原姓・源姓の多い「九里」が柏原藩では「平姓」なのは、ココから来ているのかもしれません!


柏原藩の水野家の祖は「光信」  北畠具教・蒲生氏郷に仕えており、
息子(三郷)の代に織田信雄に十余年仕え、
天正十八年(1590年)後、蒲生氏郷、
慶長三年 (1598年)秀頼改浅香左馬介
 同五年 (1600年)関ヶ原後浅野幸長
同十九年 (1614年)前田肥前守利常に仕える

と、戦国らしい経歴の持ち主。水野三郷…後日調べたいです。

その三郷の息子が(養子?)【真柄清蔵】八歳で働きの良い三郷の息子であるとのことで、織田信雄の近習として仕え、共に宇陀に来ています。
そして、水野九郎右衛門を名乗ります。

この人の孫が叔父【杢之丞】のほうで、曾孫がこれから登場する【良朴・亀之丞】になります。

では、参ります。

              初名 亀之丞其の後杢之丞
当御代、宝暦五年(1755年)正月十一日  寄り合いの間見習い仰せ付けられ、 
           同七年正月二十四日  外様御中小姓見習い仰せ付けられ候、
           同八年 十二月四日  外様御中小姓仰せ付けられ御擬(あてがい)並の通り成し下され候、
           同十三年正月二十八日 家督相違無く御給人仰せ付けられ候、
     明和九年(1772年)八月十五日 病死仕り候

次回は、叔父の【杢之丞】登場です。

何か間違いや、変なところがあったら、コメントいただけますと有難いです。
コメントは、その章の題名をクリックますと、下の方に出てきます。
どうかよろしくお願いいたします~♪ 
 


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我が九里家古文書より(9)清左衛門とは家督を渡した後の名前か? 九里家由緒書【2】

2016-03-12 | 我が九里家と古文書
九里清左衛門 

どうも八郎右衛門が亡くなったり、家督を次代に渡すと『八郎右衛門』→【清左衛門】になるらしいです。

九里清左衛門修政 初名は繁治 です。佐々茂左衛門の弟と書かれております。

この佐々茂左衛門は、岡山藩御家中先祖并自分勤仕抜書 に名前が載っているそうです。
代々 岡山藩の方かもしれません!?

では、古文書の続き、参ります!

天明八年(1788年)八月  岡田十右衛門弟 乙蔵儀 願い奉り養子 仕り候、 
       同年  八月  清左衛門病死仕り候

天明六年(1786年)五月  御目付助役加役是迄の通り仰せ付けられ候、

安永三年(1774年)十一月 安永二年 三月 御眼鏡を以て九里八郎右衛門養子仰せ付けられ、
                家督相違なく百五十石成し下され、御給人仰せ付けられ候、
                同年   四月 御側御給人仰せ付けられ、唯今相勤め罷りあり候、以上


次回は、修政の養父、水野家からいらした「九里八郎右衛門良朴」です。水野九郎右衛門 二男です。





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我が九里家古文書より(8)天明八年よりさかのぼります~ 九里家由緒書【1】

2016-03-12 | 我が九里家と古文書
いろいろな方にお手伝いいただき、古文書を釈文・読み下し文にしていただきました。

本当に、皆様(二人のMさん、Hさん、Yさん)ありがとうございました。

では、参ります!

九里家由緒書

寛政二年(1790年)十二月二十四日 九里乙蔵

   小児の上席年始御礼の節、御給人の次にて御礼申し上げ候様仰せつけられ、当時相勤め罷りあり候、… 

天明八年(1788年) 十月十五日 九里乙蔵 11歳

   徳源院様御代より相勤め候家筋、其の上代々滞り無く相勤め候儀を思い召し、
   高百五十石家督相相違なく仰せつけられ候外に、ゆくゆく(往々)相応の御奉公仕り候迄
   見習いとして御次へ罷り出で候仰せつけられ候、…


乙蔵とは、政敬のことです。11歳で九里家の子となりました!


次回は、その養父 佐々家からいらした 九里清左衛門修政 の事です。


   




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我が九里家古文書より(7)政敬の養父 佐々修政 なんと水戸黄門さまと関係あり!

2016-03-12 | 我が九里家と古文書
九里八郎右衛門政敬の父は佐々家からの養子でした。

養子の多い九里家ですが、系図を見ると九里は若くして他界している人も多いです。

この佐々修政は、佐々茂左衛門の弟ですが、なんと水戸黄門に出てくる「介さん」の兄の曾孫にあたります。

遠いようですが、我が家には結構ニュースでした。

やっとみんなの知っている名前が出てきましたから!

佐々家とは、昔からのお付き合いです。まだ、丹波柏原藩や大和宇陀松山藩になる以前、戦国時代からの、いや、もしかするともっともっと以前からかもしれません。

佐々成政の姉の息子であり九里に養子に入った次男 九里八郎右衛門(十助)。(佐々成政に仕えている)
その兄(宗能)は肥後で戦死し、子孫は淡路に住んでいるそうです。
また、弟(直勝)も肥後に行き、加藤清正の足軽大将になっており、代官も命じられております。

九里の系図には佐々から養子に来た十助の時代のことは載っておらず、残念です。
幼名十助の八郎右衛門です!

どなたか、情報をお持ちの方は、教えていただけますと大変うれしいです!

それでは、また~♪
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我が九里家古文書より(6) 九里政敬の子どもたち

2016-03-12 | 我が九里家と古文書
 九里八郎右衛門政敬の子どもの関してわかっていることを書いておきたい。

長女 若くして没
次女 禮 柏原藩 瀧三郎兵衛 妻 一男三女のこどもあり
三女 梅 篠山藩 栗林季十郎 妻 二男二女のこどもあり
長男 政忠 (雅吉・彦輔) 妻は、福知山藩 佐原佐久衛門 三女 貞  五男一女のこどもあり

この4人が、政敬と田辺與左衛門照徳の娘 美恵 との子どもです。

どなたか、お心当たりのある方、是非ご連絡くださいませ~♪


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