九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

「台記」の中の「新六郎友員」

2017-05-05 | 近江国 佐佐木庄
藤原頼長の書いた「台記」の中に、見つけた記事からの考察である。
新しい情報を得たため、前回とはまた、異なった結論になってしまったがお許し願いたい。

康治元年二月二十二日の項に、それを見つけた。(大和文華館 デジタル・東京大学史料編纂所データベース)










ここで、今までの「愚昧記」背面文書にはなかったことが載っていた。

まず、愚昧記では、源行真にインタビューしていた際の記であったが、「台記」は藤原頼長の日記である。

私が気になったのは「于京師 々者近衛京極 民間帰 罪為義」の部分である。

はじめの部分は、于は下の文字にかかるそうなので、京師においての友員…とでも読ませるのであろうか。
「々者」も誰にかかるのか? 友員なのか、京師なのか? 

ひょっとして「京師である殺された新六郎友員、その者・・」と読むのだろうか?

民間に帰して「罪は為義」と… 民間では為義が…と噂されていたのであろう。

そこで、近衛京極の部分が気になる。
近衛府舎人であろうか? そして、ちなみに京極殿(きょうごく・どの)とは、藤原忠通のことで、頼長の兄であるが、仲は悪かったそうである。

頼長は一貫して崇徳派であり、忠通は鳥羽派である。

忠通=京極殿

しかし「于京師 々者近衛京極」を 「京師において殺された新六郎友員」という意味であるならば、ソノ京師が近衛京極ということになる。
どちらなのだろうか?

人々に犯人ではないかと疑われたのは「源為義」であるが、不思議なことにこの二月にあった事件の後八月には忠実・頼長の配下に入っている。

「院の信任を失った為義は、事態打開のため摂関家への接近を図る。康治元年(1142年)8月、興福寺の悪僧15名が奥州に配流された(『台記』8月3日条)。これは摂関家の大殿・藤原忠実の意向で、権上座・信実に寺務を統括させるために反信実派の粛清を断行したものであるが、為義は忠実の命を受けて悪僧を捕縛して連行した。これ以降、為義は忠実・頼長父子の警護、摂関家家人の統制、摂関家領荘園の管理など、摂関家の家政警察権を行使する役割を担うようになる。」weblioより


「近衛京極」は土地の場所のことなのか、近衛府舎人で京極周辺を守っている~と言う意味なのか、京極殿と関係があるのか、京極家と関係があるのか? 皆目見当もつかず、わからない。

わかったのは、藤原頼長には永治二年二月二十二日には、この情報は入っていたこと。そして、「字名新六郎友員」と愚昧記ではなっていたが、名前を工作する前から、「新六郎友員」であったこと。

康治元年は4月からだが、なぜか頼長は、はじめから康治と書かれているのであろうか?
自分の日記を「清書」して本にしていたのであろうか?

確か中原師安と頼長は、この「永治」「康治」のどちらが正しいのかに関して話していたことが、あったはず。師安は頼長の家司であったそうだ。

古い地図にヒントを求めてみた。
「京師」京の都市というような意味で使われていたようだ。

「京において新六郎友員は殺され、その者は近衛京極。」という意味かもしれない。
「近衛京極」の場所を見てみると興味深いことが分かった。









地図でわかるように、その場所は源三位頼政の邸宅である。

この人物と関係がありそうである! 











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源有仁と源師基(もろもと)→ 師基(かずもと)→ 友員(ともかず)か? ありえないか?

2017-04-29 | 近江国 佐佐木庄



愚昧記の背面文書であった『散位源行真申詞記』

東京大学史料編纂所の記事から~

原本の紙背文書では、史料編纂所所蔵第一巻・第二巻(仁安二年冬記)紙背に、康治元年(永治二年、一一四二)・久安二年(一一四六)の検非違使庁関係文書(問注記など)と、天治二年(一一二五)〜大治五年(一一三〇)、仁平元年(一一五一) の名簿が見える。実房の父公教は保延六年(一一四〇)から久安三年(一一四七)まで検非違使別当であることから、原本第一巻・第二巻は公教の周辺にあった反故を料紙に利用していることが判明する。

~~~*~~~

愚昧記の著者である三条実房の父の代に書かれた文書ということになる。興味深いのは、この三条公教の妻が「源有仁 家女房」で藤原実綱を生んでいることである。

『散位源行真申詞記』の事件当時、源有仁は左大臣であった。(佐々木荘領主でもある)

その有仁の母親は「大納言源師忠の女」であった。

源師仲も「母親は待賢門院の女房であった源師忠の女」であった、とwikipediaにある。

そして、師仲と同じ父親(師時)である師行は「美福門院の従兄弟にあたることから、鳥羽法皇の信任を得て院司となり、康治元年(1142年)に正四位下長門守に任ぜられた。」とある。

つまりライバル同士の関係となる。有仁・師仲は崇徳派である。師行は鳥羽派(=近衛派)


そして、師行の母親は、家女房である。
そしてさらに母親が不詳の義兄弟に「源師基」がいるのである。この人物は、「もろもと」と読むのであろうが、それを「かず・とも」と変形させて文書に書き記したのではないだろうか?

私の勝手な説だが、詳しく書いてみると、
『源行真申詞記』の事件に出てくる「新六郎ゆういん」…「とも・かず」「友・員」と読める。
しかし、殺された者がわからぬようにひねりを利かせていて、本当は「師基」(もろもと)なのだが、師という字は「かず」と読めるため「かず・もと」、それを反転させて「もと・かず」「基師」→ 言葉をひねり「とも・かず」→「友員」(とも・かず)にしたのではないだろうか。

(この文書では、他の登場人物も変名になってはいるのだが、誰のことかがわかるような名前が付けられている。)

この事件は結構衝撃的だったようで、奥州の藤原氏にまで伝わっており文書が残っている。(奥州藤原史料)
…ということは、源氏のなかでも力を持っていた時代の潮流であった村上源氏が殺された人物だったのではないかと…(私の妄想)
殺されたのは、下司ではなく、領主だったのではないだろうか?

はたして「佐々木行実」の甥に、そのような人物がいたのであろうか?
行実に姉や妹がいて、もしも嫁いでいたとすれば、甥になる。村上源氏のこの師基も、母は不詳となっている。

「新」という字がつくからには、新院の側についた人物だったのではないだろうか?
崇徳上皇側が「新院」と呼ばれていたそうだ。



「源有仁」の母方の祖父は「源師房」といい「はじめ資定王(すけさだおう)と称すが、父・具平親王を早くに亡くし、姉・隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となった」人物である。つまり、源有仁は藤原道長の義理の孫にもなる。

もう一度『源行真申詞記』の事件を考えるに『新六郎ともかず』は清原姓・伊庭源太などの郎党の上にいた人物である。伊庭荘の領主はどなたであろうか?

『近江伊庭荘保元の乱に源為義が崇徳上皇の白河殿に参上すると、これに近江伊庭荘・美濃青柳荘を与へられた。』と国学院雑誌の中にある。
それ以前の領主は???

為義のその前後の時代をwikipediaに求めると「大治5年(1130年)5月、延暦寺の悪僧追捕の際、郎党が誤って前紀伊守・藤原季輔(鳥羽上皇の生母・藤原苡子の甥)に暴行を加えたことで、検非違使別当・三条実行により勘事に処される。源師時は「為義の作法、児戯の如し」と評す(『長秋記』5月14日条)。

長承2年(1133年)9月、為義の郎党が丹波国に赴いて多くの人々を殺害(『長秋記』9月15日条)。

為義本人については犯罪者の隠匿、他の同僚との軋轢、郎党については粗暴な振る舞いが目に付く。保延元年(1135年)4月、西海の海賊追討に際して忠盛と共に候補に挙がるが、鳥羽上皇は「為義を遣わさば、路次の国々自ずから滅亡か」として強く反対した(『中右記』4月8日条)。為義郎党による追討に名を借りた略奪行為を懸念したと見られる。

保延2年(1136年)、為義は左衛門少尉を辞任する。これまでの経緯を見ると、実質的には解官に近かったと推測される。
保延5年(1139年)、無官となった為義は高野山改革派で鳥羽上皇の尊崇を受けていた覚鑁に名簿を提出し、院の不快を蒙ったことを語り、伺候と任官のための祈祷を嘆願している(『平安遺文』4710、4713~4717)。

この頃、長男の義朝は東国に下向していたため、次男の源義賢が後継者の地位にあった。義賢は保延5年(1139年)に体仁親王(後の近衛天皇)が立太子すると東宮帯刀先生に任じられるが、翌保延6年(1140年)には殺人犯に協力するという失策を犯して罷免された(『古今著聞集』巻15)。

この為義の息義賢の殺人犯に協力とは、ひょっとして「新六郎友員」の事件とどこかで接点があるのではないだろうか?

~~~*~~~

佐々木哲氏のブログから気になる箇所をコピーしてみると(一部略す)

「新六郎友員が殺されたとき、人々は河内源氏源為義が犯人だと噂した。
しかし検非違使庁によって容疑者とされたのは為義ではなく、友員の伯父源行真であった。

まず行真は、友員殺害についてまったく知らないと答えたのち、友員にはもともと敵人があったとして、為義の郎等源七郎道正の名を挙げた。道正は行真の甥であり、道正と友員は従兄弟であった。

以前、友員が道正の母と弟道澄を殺した報復として、道正が友員の母と兄友房・末高を殺害していた。
そのため、友員殺害も道正の仕業に違いないと主張した。さらに道正の妹婿愛智三郎家次も共犯に違いないと主張した。」


「事件の夜に友員の従者伊庭源太が傷を負いながら、成勝寺領伊庭庄内の清追捕使安貞の許に逃げ込んだと伝え聞いていることを述べている。…(略)


この行真の言葉から、友員の従者には、伊庭源太や清追捕使安貞など源姓や清原姓の者がいたことが分かる。
このうち伊庭氏は源姓を名乗っているが、神崎郡大領佐々貴山公の子孫と考えられる。
伊庭氏は友員の従者になることで、源氏を名乗ったのだろう。

また清追捕使安貞は、近江国の警察権を握る近江追捕使を勤めた人物である。
そのような人物を従者にするほど、友員は富を蓄え勢力を張っていた。
しかも成勝寺は院政期に建立された六勝寺のひとつで、崇徳院の御願寺であった。友員は崇徳院に仕え、成勝寺領伊庭庄の下司を勤めていたのである

~~~*~~~

友員は友房(例えば…祐房・朝房…)・末高(例えば…季任・季遠…)という二人の兄がいて、崇徳院の御願寺成勝寺領伊庭庄領主であり、しかも有仁の佐々木荘の隣の荘園。
源姓や清原姓の者を従者にするくらいの力があった人物。

伊庭荘の領主が殺されたのではないだろうか?しかしそれであれば、領主○○と書かれるはずであろうか?

女性のライバル意識と村上源氏と河内源氏の抗争と(かたや潮流・かたや煙たがられ…)など様々なことがあって、この事件は起きてしまったらしい。

私には本当のところはわからないと思うが、こうしていつも気にかけていることで、何かしら勉強になっていると思う。
この時代に「奥州藤原氏」にまで及んだニュース。ショッキングな事件だったに違いない!と思う私でした。





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源有仁とその周辺 (再び『源行真申詞記』を考える)

2017-03-03 | 近江国 佐佐木庄
『源行真申詞記』と『歴博データベース』によると、佐佐木庄は源有仁の領であった。

永治二年というキーワードと源有仁、そして、新を新院・武者所、友員を「祐師・有師・etc」「師友・師朝・師祐・etc」などと替えていろいろ検索してみた。師という字は、かずと読める。友は、ユウ・とも、「すけ」とも読める。いろいろなパターンが考えられる。


思っていたような情報はなかったが、源有仁と村上源氏との関係がみえてきた。先日中原一統と村上源氏との関係について『中原氏の一統は村上源氏の雅頼の家系と深い関係をもっていたに相違ない。』の一文を見つけていただけに、見逃せない。

有仁の父は「輔仁親王」であり、母は「源師忠」という人物である。

【永久の変】という事件も、関係してくると思う。

wikipediaによると、『この事件の背景には複雑なものがあり、それがこの事件に対する異なる解釈を生む原因となっている。すなわち、「白河法皇が自己の子孫による皇位継承の安定化のために対立候補であった異母弟・輔仁親王とその後ろ盾である村上源氏を排除しようとしたでっちあげ」とする見方

(源有仁は、輔仁親王の息である。)

「白河法皇が父である後三条上皇の遺詔に反して弟の輔仁親王に皇位を譲らずに実子の堀河天皇(次いでその皇子である鳥羽天皇)に継承させたことによる後三条上皇-輔仁親王派の反発から引き起こされた事件」とする見方

に分かれている。

^ 前者は竹内理三・安田元久・米谷豊之祐・坂本賞三らが採り、後者は河野房雄・槇道雄などが採る(槇、2001年、P17-18・27-28)。』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E3%81%AE%E5%A4%89


また、仁寛から立川流にクリックしてのwikipediaには、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)

千手丸事件で罰せられたのが仁寛、および実行犯とされる千手丸の2名のみであったのは、そもそも天皇暗殺計画がなかったからではないか。

即ち、謀反は輔仁親王や支持勢力の村上源氏(仁寛も一族の1人であった)の影響力を削ぐために白河上皇によって捏造されたものであり、かれらを一掃せずとも所期の目的を果たせさえすればよしとしたため、この2名のみを「生贄」としたのではないか[注釈 22]。

とある。


そして、この事件の後に、輔仁親王の息子であった『源有仁』が白河院の養子となる。有仁王となるが、鳥羽天皇に子供が生まれたために臣籍降下となる。

『源行真申詞記』の事件当時、源有仁は左大臣であった。つまり、事件は左大臣の領での出来事であったわけである。


~~~*~~~

申詞記のなかの、新六郎友員の新だが、『新院』の【新】とも考えられることに気が付いた。

永治元年(1141年)十二月七日、三歳でご即位なさった。そのため、先の天皇である崇徳天皇を新院と申し上げ、もともとの上皇である鳥羽上皇を一院と申し上げた。…と保元物語に出てくるそうである。

(永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇は体仁親王に譲位して三条西洞院第に移る。)


愚昧記の紙背文書であった『源行真申詞記』だが、この愚昧記の著者である三条実房の父公教か、祖父実行が書いたのであろうか?
これは検非違使問注所の報告書であったのではないだろうか?
(愚昧記=左大臣藤原(三条)実房(一一四七〜一二二五) の日記で、仁安元年(一一六六) から建久六年(一一九五)までの記事)

それが三条家にあって、裏紙として使っていた…と考えられる。

~~~*~~~

藤原頼長の家司に中原師安がいたように、源有仁の家司も、中原がいた可能性はないだろうか? (頼長の家司は、「論集中世の文学散文篇」よりの情報だが、他では確認できず。)

~~~*~~~


検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。
別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。

官司
令外官

律令制度の下で、令外官として設置された検非違使庁や蔵人所などの責任者。機関の統括責任者ではあるが、所内部の実務については直接関与しなかった(例えば、検非違使別当の場合、検非違使庁そのものは統括するが検非違使ではなく、同様に蔵人所別当も蔵人所を統括するが実務の責任者は蔵人頭であり蔵人としての職務は行わなかった)。対外的な責任者であるとともに、天皇・太政官との連絡にあたった。後には一部の寮・司にも別当が設置された。

代表的なものを挙げていくと、蔵人所別当は通常一上(多くは左大臣)が任命され、蔵人頭以下の補任及び天皇家の家政機関的な「所」の人事に関与した。検非違使別当は衛門督または兵衛督を兼ねる中納言・参議が任じられ、その命令である別当宣は内外に対して勅に匹敵する法的効果を有した。



一上(いちのかみ)とは、筆頭の公卿を意味する一ノ上卿(いちの しょうけい)を略した語で、通常は左大臣のことを指した。

天皇の師傅である太政大臣と天皇の代理である摂政関白を除いた公卿の中で最高の地位にある大臣がこれを務めた。すなわち、通常は左大臣が務めるが、もし左大臣が欠員もしくは一上の資格がない摂政関白を兼ねる場合には右大臣が、それも不可能な場合には内大臣が任じられることになっていた。ごく稀に大納言が務めた例もある。一上は蔵人別当を兼務して蔵人頭以下の蔵人を指揮し、陰陽寮別当が置かれた場合にはこれも兼務した。

一上任命の際には「一上宣旨」と呼ばれる勅宣が出されるのが通例だったが、一上の左大臣が摂政関白に就任することで一上を退く場合には、自ら後継の一上を指名する場合もあった。特異な例として、左大臣藤原道長が摂政就任によって一上を退く際に、当面の間は大臣以下大納言以上の7人の公卿のうちその日最も早く出勤した者がその日の一上職務を行うこととしたことがあったが、これは右大臣藤原顕光と内大臣藤原公季が高齢で老耄の気があることを道長が危惧したための対策だった(『小右記』長和5年3月16日条)。久安3年(1147年)には左右両大臣の不在によって一上となった若輩の内大臣藤原頼長が、大いに政務の再興を図って兄の摂政藤原忠通を圧倒している。

~~~*~~~

いろいろなことを考えさせられる「謎の文書」である。

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佐佐木庄 1142年 永治2年

2017-03-01 | 近江国 佐佐木庄

近江
【郡名】 蒲生
【荘園名】 佐佐木庄
【フリガナ】 ササキ
【重複コード】
【参考市町村】 蒲生郡安土町
【市町村コード】 25381
【明治村字名】 常楽寺・小中・慈恩寺・中屋
【史料村郷名】
【領家・本家】 延暦寺領(千僧供料所)・山門領・源有仁領
【初見年和暦】 永治二年
【初見年西暦】 1142
【出典】 愚昧記裏文書・玉葉・東鑑・天台座主記・常楽寺文書・水原小三郎所蔵文書・華頂要略・牒状類集・平家物語巻9・源平盛衰記巻30
【遺文番号】 ヘ2467・カ31483
【記録類】 『玉葉』建久2,4,2・同4・『東鑑』治承4,8,9・文治元,10,11・建久2,4,5・同11・同26・同30・安貞元,9,22・弘長元,9,13
【関係文献】 有
【地名辞典】  角川地名=『輿地志略』によれば、常楽寺、小中、慈恩寺、中屋4ケ村の総称
【備考】  建久2玉葉=延暦寺千僧供庄、近江国総追捕使佐々木定綱所領、延暦寺と紛争=地頭佐々木氏・→2106034「佐々木御厨」、2106050「佐々木西庄」参照


~~~*~~~

近江の城郭探訪さまのブログを拝見し、小脇の位置がすっきりとわかり、九里村と近いことが分かった。地図の指定、へたくそでずれております。スミマセン。

http://yahoo.jp/c1FUST

しかも上記の歴博のデータ【1142年の佐佐木庄】 常楽寺・小中・慈恩寺・中屋は地図で確認できた。

http://yahoo.jp/N1pZ_M


これは、ずっと以前に記事を書いた『源行真申詞記』につながってくると思う。

この時に、この九里とは名乗っていなかったかもしれないが、関係があるのではないだろうか?



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