- 男子:宇都宮景房
- 男子:笠間有房
- 男子:如法寺信政
- 男子:麻生国弘
- 男子:山田景長
以前に書き、未アップロードであった記事。
木田氏との関係があるため、アップすることにした。
九里源兵衛は天文法華の乱の最中、楠正成の後裔という「大饗正虎 おおあえ-まさとら」と話をしているのだが、
清和源氏満政流
山田重親の次男・泰親が、尾張国知多郡岡田(愛知県知多市岡田町)を領して岡田氏を称した。
別資料では、重賢の子重篤は山田を改めて岡田与七郎を名乗り、以後岡田氏を称した。また重政が尾張国知多郡岡田村に住して、岡田与二郎を称したという説もある)ともある。
重政が斯波氏に仕え、善同が徳川家康の旗本で5千石。
「寛政重修諸家譜」 〇山田重親-岡田泰親…重政-重章-重賢
-岡田重篤-重頼-重善-直孝・善同-善政
https://www.his-trip.info/keizu/entry384.html
木田氏もいる 木田重長 美濃に住んでいたという
美濃源氏 源光保の息光宗が木田氏
清和源氏満政流八島氏の支流。美濃国方県郡木田郷(岐阜県岐阜市木田近郊)を本貫
清和源氏と称した氏族。尾張国海東郡木田郷(愛知県あま市木田)を本貫
いずれかに重なる可能性があるが、
私は近江国の三村庄のことでもあり、長田氏流木田氏とみることができると思う。
木田氏 → 長田氏一門の浦野氏の葦敷氏の庶家
【形態】折紙【縦寸法】281【横寸法】450【単位】1通【事書】三村庄内東寺米代官職之事 【書止】仍執達如件【内容分類】対公武交渉【地域分類】三村庄【人名】木田 大和 伊庭出羽守(満隆) 為信 了承【地名】三村庄【寺社名】東寺【文書形式】奉行人奉書(折紙)【影写本】「1-8」 8
東寺百合文書/ケ函/143/
近江国守護六角氏奉行人奉書
【形態】折紙【縦寸法】285【横寸法】460【単位】1通【事書】三村庄内東寺米」代官未進事 【書止】仍執達如件【内容分類】荘園所領支配【地域分類】三村庄【人名】木田 大和 当庄沙汰人 為信【地名】近江国三村庄【寺社名】東寺【事項】代官 【文書形式】守護奉行人奉書【影写本】「48-58」 39
2月18日(55550020180)
越後法橋祐算・乗観房祐成連署注進状
東寺百合文書/ル函/195/
尾張国知多郡野間郷内海庄長田村を拠点とした。
同族に、尾張毛利氏があり、庶家に浦野氏とその系統である葦敷氏を中心に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏)・尾張木田氏・小河氏(三河小川氏)・平野氏と三河平氏の大浜氏・三河永井氏などがある)。
原氏に関して調べてから約二年がたっているので、新たな情報もwebに挙がっているに違いないと思い、新たに調べてみようと思う。
復習から
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/5b1b41719f4cca111a76e81b5462b3d7
胤秋に兄がいて『胤光』というようである。
下の地図 右上が小松原 左下が、浪合
原胤定(胤実とも。)の賜った所領 小松原
↑の『原氏ノ館跡』の段に 胤定ー胤末ー彦兵衛・與一右衛門 とあり。
いただいた資料の中にもこの本にある【原胤勝】が登場している。
千葉氏のページにも胤勝、他が登場しているのだが、
http://chibasi.net/ichizoku8.htm
この胤勝の時に関東の千葉氏と別れた可能性があるかもしれない。
史料を読み解く第二巻より(森下徹・吉田伸之 共著)↓
『上総国千葉常胤の六男常吉を養子として迎え、小松原を所領としたが、その五代のちの与九郎胤勝が浪合に…』
まず、ココで躓いてしまうのだが 千葉常胤の六男は東胤頼になる為、わからなくなってしまう。
この『小松原』は千葉にある小松原かもしれない。どこだろう。。。鴨川?市原?
この『小松原』を千葉で所領として賜った後に、新たに武田信玄から賜わった土地=『小松原』と名をつけたのかもしれない。