九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

少弐氏 と 宇都宮氏(2)宇都宮信房

2024-05-27 | 美濃源氏
武藤氏(後の少弐氏)が九州にやってきた時代は、実は宇都宮氏が九州に来た時代と重なっているのではないだろうか?

宇都宮宗房=中原宗房が、
『豊前宇都宮氏の祖』とも言われているというが、
宇都宮・中原信房も祖と言われているようである。

宗房の兄は宗綱で、寒河尼の父ではないかと言われている。
寒河尼は頼朝の乳母でもあった。

今回は、豊前宇都宮氏の九州における活躍等を見ていきたい。
wikipediaには、
文治3年(1187年)9月、鎮西奉行として鬼界ヶ島(貴海島)の平氏残党討伐で功績を挙げた。建久3年(1192年)には豊後国・日向国内において所領を与えられた
晩年は仏教に帰依した。天福2年(1234年)8月2日、79歳で死去した。

とある。
息のうち、三人には、九州での所領を冠した苗字がついているようである。
  • 男子:宇都宮景房
  • 男子:笠間有房
  • 男子:如法寺信政
  • 男子:麻生国弘
  • 男子:山田景長
横道にそれてしまうが、今回『深水』という苗字を宇都宮信房の兄弟に見つけたが、これは、秀郷流の片岡氏が近江蒲生郡に移り住んできた際の場所の【深水】と同じなのではないか?と思った。

宇都宮信房の兄弟・中原宗隆、野仲重房、山田政房、深水興房、西郷業政、廣澤直房、那須有家、江里口業俊


話を戻す。
以下の本に、天野遠景のあとに武藤氏が筑前・豊前・肥前の守護職となり、その後太宰少弐となったとある。大友氏は豊後・筑後・肥後の守護職である。
宇都宮信房は、はじめは平氏亡き後の没官領の地頭職であったようなのだ。
これは、意外であった。守護職だったのかと思っていたので…
では、有間氏との接点はあったのだろうか?










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改訂房総叢書 第5輯の系図にみえる 千葉氏と土岐氏

2024-01-06 | 美濃源氏
私にとっては、新鮮な系図が出てきた。
1959年の出版なのでただ知らなかっただけなのだが、
これが年代的には合っているのではないだろうか?と思う。





胤綱には息がいなかったために弟であった時胤を養子とし、家を継いでいる。

其の胤綱の妹が土岐判官光行の妻となっている。
更に胤綱弟千葉次郎泰胤の娘を千葉介頼胤の妻としている。

土岐七郎左衛門尉という系図は、実は『光行』のことであったようだ。
私なりの考えだが、土岐氏のはじまりであった国房が『美濃七郎』を称していた。
其の「七郎」が引き継がれてたのかもしれない。

土岐光衡の時代、源頼朝に美濃国守護職を賜わり、鎌倉幕府とは近い関係であったのだが、承久の乱で上皇方についていたために、光行は『土岐浅野判官 出羽守』となっていた。

また今回の調べで源範頼の源国長の息国江がいて、三河目代となっていたことがわかった。源国長は中原祐安の同じ時代を生きた人物で、共に従五位下となっている。

更に土岐光信の息光長は、寿永の乱で木曽義仲に組しているそうである。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉聖光尼の父親は行方景幹(結城市史 第4巻 古代中世通史)

2024-01-04 | 美濃源氏
千葉聖光尼の父親は…と調べると、行方景幹(結城市史 第4巻 古代中世通史)
行方景幹・鹿島政幹は常陸吉田氏の流れを継いでいる桓武平氏国香流大掾氏(鹿島氏) であるようだ。

この周辺に佐竹氏がいる。
佐竹昌義の母は吉田清幹の娘(常陸吉田氏・常陸平氏・大掾氏)であり、父は源義業(源義光の息)である。佐々木為俊の母が源義光の娘であり、その兄弟となる。

さて、竹昌義の息義政の娘が片岡常春の妻となっている。
片岡常春は海上庄司常幹の息と言われている。が、大中臣氏と関係があると思う。



親鸞の弟子に片岡信広がいる。僧名は「順信」という。
その片岡信広の父片岡信親は常陸国鹿島明神(現在の鹿島神宮)の大宮司であったようだが、順信=信親との説もある。?


つまり、鹿嶋神宮の宮司家に「片岡」がいた証拠となる。
しかも、此の片岡氏は「中臣鹿島連」というが、大中臣公利(片岡氏) と書かれた本を見つけた。此の大中臣公利から片岡に住したという。
「片岡を以って氏としていた。」とある。



中臣鹿島連と大中臣氏が交代に大宮司を務めていくという決まりがあったようなのだ。が…途中から勢力争いのようになっている。

鹿島神宮誌の中に大中臣の系図があり、此の片岡信親・信広は大中臣の系に入っている。




つまり片岡常春は此の大中臣の一族であった可能性がある。

さらに、行方との縁(海上庄司常幹)があったために「三崎荘(橘樹)」の所領を、そして佐竹氏の妻を娶る事となったのだろうと思う。母が大中臣氏であったのかもしれないとも思う。(海上常幹と妻が大中臣の息子が常春と仮定)

その三崎荘が源頼朝よりの所領没収の憂き目にあい、東氏(海上氏)に所領が渡ったのだろう。

大中臣と中原氏の関係は大中臣略系図の註に記載があった。
『東国での妬みがあり「藤原姓」を名乗らず「中原姓」にしている』との記載もあった。大中臣氏も始まりは藤原(中臣)鎌足なので藤原氏であった。

更に中原氏と多氏は養子縁組もあり、古くからの付き合いがあったのではないか。
其の多氏が鹿島神宮の初期の宮司であったようなのである。
(大和岩雄氏説)

*****

九里氏と絡めて考えようと思う。

富木常忍の母は千葉氏と考えられるそうだが、

常忍の父か叔父の経久は、大中臣(中原氏)の父を持ち片岡氏であり、たまたま富城の地頭となったために「冨城氏」を称し、一緒に連れ立っていた常忍もそのように称した。(養子となっていたのか。)

片岡常春は経久の叔父か、親戚で、弟或いは義弟である片岡為春の養子が経久なのではないか?(ここはまだあやふやであるが。)


佐々木高信の配下にいた孫中原秀重は唐崎合戦で討死している。
では、なぜ近江国にいたのか、ここに千葉氏との関係が絡んでくるのだろうと思う。

中原経久の実父経任は橘樹庄(三崎荘)の地頭か何かで橘を称し橘次と名乗っていたのかもしれない。

其の経任の兄弟か義兄弟に中原久経がいたのか…
中原久経は1185年に近藤国平と全国を飛び回っていたので、その頃40代前後くらいであったと思う。源朝長の弟(異父)ともなるので、1143年以降、1150年前後に生まれたと思う。

太郎経久蓮忍入道は1175年生まれとなる。
1235年孫の秀重が高島高信の配下に、
和歌山系図にみられる 助泰(住・蒲生郡石寺)は六角判官氏頼の配下についた。

という事は、この中原経久がまだ片岡氏であり富城氏を称していた時代から3代目(孫時代)に中原秀重は高島高信の配下につき、永田胤信と同世代として生きていたことになる。ここで近江国佐々木氏との縁ができたのではと思われる。(もっともっと以前かもしれないが・・・)


この永田氏は胤信と云う名前からも千葉氏の周辺とつながりがあるのだろうと思われ、上総国本納の橘樹神社の付近にも「永田」という地名が残っている。

更に高信の弟泰綱の曾孫時代である六角氏頼(泰綱ー頼綱ー時信ー氏頼)の時代になって蒲生郡に入り「九里」となったのではないだろうか?


蒲生郡石寺
現在の「近江八幡市安土町石寺」のようである。
観音寺城へ行く途中




そして佐々木京極氏に付いた方はキュウトク…久徳氏となったと思われる

*****

気になる永田胤信の【胤】である。
千葉頼胤の三男か四男が胤信と同じ名前である。
桓武平氏文良系全系図 - 第 1 巻 に「三男胤信(奥州葛西氏第四代清信となる)」とある。

また葛西史郎清時の箇所に下記のようにある。

『建治2(1276)年、清時は千葉介頼胤の子・胤信を養子として迎えたとされ、頼胤は胤信に一族の臼井三郎左衛門常俊、千葉飛騨守胤常、千葉左馬助胤氏の三人を附けさせて奥州へ下向させたとある。葛西氏に入った胤信は「清信」と名を改めて太守となったことが伝承として伝えられている。 』

高島高信の妹(佐々木信綱の娘)が千葉胤綱の妻となっていたことも、近い間柄を象徴している。

そして、胤綱の妹が土岐七郎左衛門尉に嫁いでいる。

*****

蛇足だが、
永田氏は、系図によっては長田と註に書かれている。
以前気になっていたのが大中臣実経と長田実経が同一人物ではないかという事。(memo)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉成胤の母は上総介広常の娘 そして成胤の妻は…(1)

2024-01-03 | 美濃源氏
富木常忍の周辺に再び来ている。

土岐氏と千葉氏(東氏)の繋がりの他にもいろいろと再考したい箇所が出てきているので、復習!を兼ねながら深めていこうと思う。


千葉胤正の息 成胤の母は上総介広常の娘
成胤の妻は千葉尼聖光 
千葉尼聖光の娘に播磨局了阿
播磨局了阿は結城朝光の妻

結城朝光の子、寒河時光・山川重光の母親は「千葉介業胤女
業胤=成胤であるので、千葉成胤の娘であったことがわかる。

千葉成胤と千葉尼聖光の娘=播磨局了阿=結城朝光妻

結城朝光 1168-1254年
播磨局了阿は寒河時光・山川重光の母

その聖光尼の父親は…と調べると、行方景幹(結城市史 第4巻 古代中世通史)という。

行方景幹は鹿島政幹の従兄弟と言われ、行方郡を支配する鹿島社惣検校なのだそうだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E6%94%BF%E5%B9%B9

因みに鹿島政幹の娘は千葉常胤に嫁いでいる。


*****

千葉成胤ー胤綱ー時胤ー頼胤

諸説あるが一応このように仮定する。
時胤は胤綱の弟かもしれないという説もある。

さて、この千葉介頼胤の娘が 土岐光行の妻という系図がある。





他に、胤綱の妹が土岐七郎左衛門尉に嫁いでいるという系図もあったはずである。

*****

佐々木信綱の娘が千葉胤綱の妻になっている。
此処は大きい。
胤綱の息カ孫の頼胤の周辺に土岐氏と佐々木氏がいるのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東氏と野田氏から土岐氏と千葉氏を考える

2023-12-29 | 美濃源氏
東常慶が野田氏を名乗っていたことから遡り東氏を調べている。

常慶の祖父である常縁は、兄であった氏数を継いだとある。
その氏数の註を見ると「住篠脇城号野田」とある。

永享4年(1434年)に氏数は家督を継ぎ、寛正二年(1461年)に常縁に継いでいる。
篠脇城とは、岐阜県郡上市大和町にある。

古今伝授の里 ↓




土岐氏は東氏から室を迎えている。
東氏は、そのことから美濃にもつながりができ、郡上に赴いたのであろうか?

その始まりは、土岐光行の妻であろうと思う。
土岐光行は1249年に歿している。

光行の息光定の母が東氏であろうと思われるが、いくつもの説がある為、私のなかでは曖昧なままとなっていた。
が、今回は郡上の野田・篠脇城を知りえたことで、東氏であるように思っている。

東氏と野田氏の別れ 1390年あたりか 松尾城

野田氏は、南北朝時代に東氏から別れた後、佐々木氏?或いは、千葉氏との関係があると思われる九里氏を頼って近江国に来たのではないだろうか?(九里氏の祖の江州中原蓮忍入道が富木氏ならばの想定・蓮忍の息カ甥の富木常忍は頼胤の執事的存在であった。)

もう一つ、隠岐胤国の「胤」の一文字が、祖母の千葉氏・東氏を現しているように思う。

この隠岐胤国の兄国時は1250年生まれであり、胤国も生年はその周辺であろうと思われる。
兄弟共に土岐光定の息である。

この胤国は伊勢守護代となり、息は泰時となるようだ。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡田(memo)木田氏・打越氏・楠木氏とのつながり

2023-07-01 | 美濃源氏

以前に書き、未アップロードであった記事。

木田氏との関係があるため、アップすることにした。

九里源兵衛は天文法華の乱の最中、楠正成の後裔という「大饗正虎 おおあえ-まさとら」と話をしているのだが、

 

清和源氏満政流
山田重親の次男・泰親が、尾張国知多郡岡田(愛知県知多市岡田町)を領して岡田氏を称した。
別資料では、重賢の子重篤は山田を改めて岡田与七郎を名乗り、以後岡田氏を称した。また重政が尾張国知多郡岡田村に住して、岡田与二郎を称したという説もある)ともある。
重政が斯波氏に仕え、善同が徳川家康の旗本で5千石。

「寛政重修諸家譜」 〇山田重親-岡田泰親…重政-重章-重賢
-岡田重篤-重頼-重善-直孝・善同-善政

 

https://www.his-trip.info/keizu/entry384.html

木田氏もいる 木田重長 美濃に住んでいたという

https://www.google.co.jp/books/edition/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B5%B5%E5%B7%BB_%E6%89%93%E8%B6%8A%E5%AE%B6%E4%BC%9D/-_PsDwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&dq=%E6%9C%A8%E7%94%B0%E9%87%8D%E9%95%B7&pg=PA356&printsec=frontcover

 

https://genealogy.hatenablog.com/

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木田之孫左衛門 近江国三村庄   天正時代の来田氏とも関係があるヵ?

2023-06-13 | 美濃源氏

 

美濃源氏 源光保の息光宗が木田氏

清和源氏満政流八島氏はしましの支流美濃国方県郡木田郷(岐阜県岐阜市木田近郊)を本貫

清和源氏と称した氏族。尾張国海東郡木田郷(愛知県あま市木田)を本貫

 

いずれかに重なる可能性があるが、

私は近江国の三村庄のことでもあり、長田氏流木田氏とみることができると思う。

木田氏 → 長田氏一門の浦野氏の葦敷氏の庶家

 

 
東寺百合文書/ル函/155/ 
[近江国守護六角氏奉行人]連署奉書案
享徳元年12月11日(14520120110)

【形態】折紙【縦寸法】281【横寸法】450【単位】1通【事書】三村庄内東寺米代官職之事 【書止】仍執達如件【内容分類】対公武交渉【地域分類】三村庄【人名】木田 大和 伊庭出羽守(満隆) 為信 了承【地名】三村庄【寺社名】東寺【文書形式】奉行人奉書(折紙)【影写本】「1-8」 8

 

東寺百合文書/ケ函/143/

近江国守護六角氏奉行人奉書

享徳元年12月29日(14520120290)

【形態】折紙【縦寸法】285【横寸法】460【単位】1通【事書】三村庄内東寺米」代官未進事 【書止】仍執達如件【内容分類】荘園所領支配【地域分類】三村庄【人名】木田 大和 当庄沙汰人 為信【地名】近江国三村庄【寺社名】東寺【事項】代官 【文書形式】守護奉行人奉書【影写本】「48-58」 39

 

2月18日(55550020180)

越後法橋祐算・乗観房祐成連署注進状

東寺百合文書/ル函/195/

【形態】続紙【封式】切掛封【縦寸法】267【横寸法】879【包紙情報】275*264【事書】当庄所務之事【書止】恐惶謹言【内容分類】荘園所領支配【地域分類】三村庄【人名】公文律師 祐算 祐成 木田之孫さ衛門 御尾形【地名】近江国三村庄【寺社名】東寺【事項】古帳尋出/切符【文書形式】私信/注進状/注進状【影写本】「30-37」 22-24
 
 
上記の長田氏一門の『浦野氏の葦敷氏の庶流の木田氏』をキーワードに調べていこうかと思う。
 
其の木田は「木太」という表記もある。
平家物語略解の中に、以下のようにある。
 
『木太三郎重長 延慶本長門本八 坂本 竝に「木田三郎重長」に作る
尊卑分脈に依るに重長は源満政四代の孫 重宗の子、重実の弟なり
美濃国木田郷に住し、在名を称ふ
参考 源平盛衰記 十三には、「木田三郎重長 按系図 足助重方子」とあり
木田は、旧方縣郡 今 稲敷(葉?)郡 木田村の大字なり』
 
『開田判官重国
延慶本長門本八 坂本
竝に「開田判官代重国」に作る
尊卑分脈に依ると 木田三郎重長の子にして高松院判官代となる
美濃国開田に住し、開田判官代、また、木田判官代と号す
開田は、旧 方縣郡 今 本巣郡の内にて木田の西に隣なり」
 
 
さらに、以下にもつながると思うのである。
 
長田氏(おさだし)は、丹姓平氏良兼流致兼の系統で、尾張平氏とも呼ばれる。
尾張国知多郡野間郷内海庄長田村を拠点とした。

同族に、尾張毛利氏があり、庶家に浦野氏とその系統である葦敷氏を中心に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏)・尾張木田氏・小河氏(三河小川氏)・平野氏と三河平氏の大浜氏・三河永井氏などがある)。
 
 
九里種信の文書の「紀太蔵人」は木田蔵人であろうとの思いを強くした。
 
三村庄とは、ごくごく大雑把に現在の地図で切りとるとこのような範囲である。
 
 
 
 ☆【東寺領近江国三村荘に関する諸問題-その所在地を中心に】 吉田功治 著
上記論文内に三村庄の範囲が載っている。
日牟禮神社の前から武佐駅周辺にまで及ぶ広い範囲の荘園である。
 
 
☆【南北朝時代の東寺領近江国三村庄ー守護領荘園の代官支配】 勝山清次 著 
 
 
 
今までの調べmemo 木田氏
 
 
 
伊勢神宮の外宮御師の北監物家の文書 来田文書
(吉田功治氏の論文内よりヒントを頂く)
 
以下は、論文の中よりの部分であるが、
 
嶋郷については、『東寺百合文書』だけでなく、他の文書でも確認できる。
伊勢御師の家に伝来した『来田文書』にある
天文 10 年6月 23 日南倉(足代)弘康道者売券の文中に
「嶋郷内うつろ里一」などの三村荘の関係地名が記されている。
(思文閣出版 京都大学文学部博物館の古文書第七輯『伊勢御師と来田文書』5頁)
 
 
*****
 
三村庄と同じ場所を示すと思われる嶋郷の記載があるそうである。
 
 
 
木田=木太=来田=北=記田=紀田=紀多=紀太 となりそうな感じがする。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

快挙! 拍手!! 富雄丸山古墳 日葉酢媛命 

2023-01-26 | 美濃源氏

鏡と剣がセット~💗

 

https://news.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%AF%8C%E9%9B%84%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

 

鏡の大きさがわかります! ↓

https://news.yahoo.co.jp/articles/97f45dec11078201fd721b00c77160db4f718fda/images/000

 

剣の長さもわかります!

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230125-OYT1T50175/

 

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いただいたコメントから【千葉一族の原氏】に関して。(2)原胤定は胤実とも。

2023-01-18 | 美濃源氏

原氏に関して調べてから約二年がたっているので、新たな情報もwebに挙がっているに違いないと思い、新たに調べてみようと思う。

復習から

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/5b1b41719f4cca111a76e81b5462b3d7

 

胤秋に兄がいて『胤光』というようである。

下の地図 右上が小松原 左下が、浪合

 

原胤定(胤実とも。)の賜った所領 小松原 

https://books.google.co.jp/books?id=qCuILK-kyeAC&pg=PP1172&dq=%E5%8E%9F%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%AE%88%E8%83%A4%E6%98%A5&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiT6pyS3cfuAhXHZt4KHQi6AAsQ6AEwAHoECAQQAg#v=onepage&q=%E5%8E%9F%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%AE%88%E8%83%A4%E6%98%A5&f=false

 

↑の『原氏ノ館跡』の段に 胤定ー胤末ー彦兵衛・與一右衛門 とあり。

 

いただいた資料の中にもこの本にある【原胤勝】が登場している。

千葉氏のページにも胤勝、他が登場しているのだが、

http://chibasi.net/ichizoku8.htm

この胤勝の時に関東の千葉氏と別れた可能性があるかもしれない。

 

史料を読み解く第二巻より(森下徹・吉田伸之 共著)↓

『上総国千葉常胤の六男常吉を養子として迎え、小松原を所領としたが、その五代のちの与九郎胤勝が浪合に…』

まず、ココで躓いてしまうのだが 千葉常胤の六男は東胤頼になる為、わからなくなってしまう。

この『小松原』は千葉にある小松原かもしれない。どこだろう。。。鴨川?市原?

この『小松原』を千葉で所領として賜った後に、新たに武田信玄から賜わった土地=『小松原』と名をつけたのかもしれない。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源国政 = 山縣国政 の娘 佐竹氏の系図に「佐竹秀義の妻 義重の母」として記述有

2019-09-29 | 美濃源氏

この戸村義国編の佐竹氏は新羅三郎こと源義光から始まっている。
その中に、源国政の女(娘)が佐竹義重の母として名が残されていた。義重の父秀義は美濃国の山田郷の地頭にもなっている。

国政のwikipediaには
「系譜上従兄弟にあたる源頼政の養子となっていたとされ、父より美濃国山県郡の所領を継承する一方、都で斎院次官などを務めて従五位下に昇ったとされる(『尊卑分脈』)。

その詳しい動向は不明であるが、以仁王の挙兵で自害した頼政の首は郎党の渡辺省・猪早太らによって国政の美濃の領地内(現在の岐阜県関市蓮華寺[1])に運ばれ葬られたという伝説が存在する。

四人の子息たちもそれぞれ美濃国内に所領を有し、美濃源氏山県氏族として勢力を持った。」とある。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする