九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

伊勢貞親 被官 長田又五郎実俊 そして 長田種真・種貞 九里種信の「種」!

2022-12-06 | 永田氏

伊勢貞親は、室町幕府の政所執事であった。

伊勢貞継・孫の貞行・貞経・貞国・貞親・貞宗・(貞親)・貞陸・貞忠・貞孝・貞興 と長く室町幕府の政所執事をしていた家である。

 

伊勢貞宗が足利義澄の後見的立場であったようだ。

足利義晴にも仕えていた。

 

伊勢貞興は明智光秀の与力にもなっていたそうである。

 

さて、この伊勢氏の被官に長田氏がいたのである。

先ほど見つけた人物は、長田又五郎実俊

更に長田種真・長田種貞 である。

尾張に居住していたようであるが、この「種」が、土地のことで文書の残っていた「九里種信」の「種」ではなかろうか。

何故なら、それまで見つかっている九里のメンバーに「種」の文字が入っている人はいなかった。

突如現れたのである。

しかもその土地のこととは近江八幡の「長田南」の土地なのである。

 

室町時代…探ってみよう!

 

 

戦国期室町幕府と在地領主 西島太郎氏 著作より

 

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佐々木氏 葛西氏 益田氏 そして 千葉氏   永田(長田)胤信の周辺(2)

2022-11-18 | 永田氏

千葉頼胤の三男か四男が胤信であるのだが、注意しないともう一人胤信が存在している。

それは、千葉常胤の四男 大須賀胤信である。

 

私が今まで知っていた胤信は 近江国佐々木氏の高島高信の三男 胤信である。

【胤】とついていることから、千葉氏との関係を探ると、高島高信の妹が千葉胤綱の妻となっていた。

そこで、千葉氏と佐々木氏とのつながりができていた。

更に六角時信の息『直綱』と葛西高清の娘が婚姻関係となって『繁綱』(水沢佐々木氏につながる)・『直信』(気仙田茂山佐々木氏につながる)・『宗綱』(気仙佐々木氏につながる)と、奥州で活躍する。

 

これは、https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/1d089ae21a78025e5f0d26a8ddaba993

上記の記事につながってくる。

 

-佐々木氏の入部と躍進-
応永15年(1408)、足利4代将軍・義持に仕えていた佐々木将監繁綱は、葛西氏を頼って奥州に下向した。繁綱は葛西氏により胆沢郡に知行を与えられ、水沢城を居城にしたといわれる。
また、繁綱の弟・宗綱も幕命により北方奉行に任じられ、斯波郡に居住したと伝えられる。二人は母方の縁故により葛西氏を頼って下向したものと思われる。

 

いろいろ調べてみると【葛西氏】【佐々木氏】【千葉氏】は婚姻関係・養子縁組等で強くつながりを持っていたように思われる。

https://chibasi.net/oushumain.htm

建治2(1276)年、清時は千葉介頼胤の子・胤信を養子として迎えたとされ、頼胤は胤信に一族の臼井三郎左衛門常俊千葉飛騨守胤常千葉左馬助胤氏の三人を附けさせて奥州へ下向させたとある。葛西氏に入った胤信は「清信」と名を改めて太守となったことが伝承として伝えられている。

葛西清時=時清か? ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%99%82%E6%B8%85

 

時清の跡は「仙台葛西系図」では葛西経清が、

「盛岡葛西系図」の清信(この清信の子が貞清なので宗清に相当か)が継いだ。

 

其の後、高清の娘と六角時信の息直綱が結ばれたとすると、宗清(=千葉胤信・長田胤信・永田胤信→貞清→高清(娘が六角時信の息直綱と結ばれる))

 

千葉の頼胤に仕えていた【富木常忍】、頼胤の養子の可能性もある【長田(永田)胤信】

胤信が葛西に入り【葛西清信(=貞清・宗清)】となる。

奥州と繋がり、その後の奥州の佐々木氏となっていく。

 

‥‥となっていったのではないだろうか?

 

あくまでも仮想の話である。

 

このつながりは、過去に遡ると渋谷氏と豊島氏の時代からだったのではないだろうか?

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佐々木氏 葛西氏 益田氏 そして 千葉氏   永田(長田)胤信の周辺(1)

2022-11-15 | 永田氏

佐々木氏と葛西氏のつながりを調べていて、富士文書(宮下文書)にもその接点を感じさせる記事に出会った。

益田氏は、佐々木氏から分かれた系図もあったはずである。

そこにも、遠回りながらも佐々木氏と葛西氏のつながりが見えてくる。

更に、六角時信の息直綱の妻が、葛西高清の娘であったことも今回わかった。

さらに【千葉胤信】が【葛西清信】となり、奥州千葉氏となっていたようなのである。

この胤信は、ひょっとして【永田胤信】なのではないだろうか?

だいたい時代もあっているような気がするが、これから調べていこうと思う。

 

セキホツ熊の謎を追え! さんの HPより

https://www.sekihotu.com/entry/2022/01/30/180805

⑩十男グループ『葛西・益田氏?』

日高見国造

一般的には、桓武平氏良文流であり、秩父吉田郷を本貫にする秩父氏豊島氏支流とされる。下総国葛西御厨を所領していたが、源頼朝挙兵によって御家人となる。葛西清重は奥州合戦で奥州藤原氏を攻め、その武功から奥州総奉行に任じられ陸奥国(後の陸前国)所領を得た。しかし宮下文書的に言えば、源頼朝や奥州藤原氏や坂上田村麿が登場する遥か以前から、日高見国を統治していたことになるのだ。

登米郡寺池城を居城とし、三十五万石の大名となり、秀郷流小野寺氏に仕えることになる。葛西清重から黒澤時重が派生。その後1276年以降は、千葉頼胤は息子の胤信を葛西氏に養嗣子として送り込んだとの説があり、ただ奥州千葉氏には系図が失われた為に疑問点も多い。

また前記事でも紹介したが、加茂喜三氏は益田氏の祖とも述べている。これはおそらくは石見国益田氏の事ではないだろうか?。柿本人麻呂の由緒があるといわれる現在の島根県益田市には、吉田・三宅といった地名が見られる。

 

宮城県登米市登米町にあった日本の城

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%B1%A0%E5%9F%8E

 

*****

上記に関してweb情報を集めてみたのが下記である。

葛西太守清信は、建治二年(一二七六)に奥州下向と伝えているが、

清信は千葉介頼胤の四男胤信で、葛西氏に入嗣したといわれているが、

(葛西清宗と没した日が同じとされる胤信)

別文書の中に胤頼の第四子正胤は馬籠に移り住んだとか、本吉四郎清胤とか左術門尉重春が ...バラバラである。

刑部大夫清信は、盛岡葛西家家系に見え、正和二年は五十二歳で建在となる。(1313年)

 

千葉介頼胤の三男が、葛西家入りしたことは一致している。

 

頼胤の室は葛西三代清親の娘で、葛西清時からすれば胤信は妹の子である。

 

建治二年(1276)、葛西太守清時の養子となった千葉介頼胤の子胤信は、十五歳で元服して清信と名乗り郎党数百人を従え奥州に下向した。結果、葛西氏の家臣には千葉氏の分かれを称する者が多い。(奥州葛西氏)

http://www2.harimaya.com/kasai/ks_kasin.html

 

https://chibasi.net/rekidai211.htm

上から二番目の系図に六角時信の記載がある。

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/77d29f63fda8f31e02f63b4019ddad76

 

絡まった糸を解きほぐしていかないと、よくわからないが、葛西氏は佐々木秀義の息佐々木義清は葛西清親の娘聟にもなっている。

更に以前調べた際にweb上にあった情報に

渋谷氏は、同族(秩父平氏)である葛西氏と重縁にあった。
渋谷重国の妻は奥州総奉行である葛西清重の娘であり、渋谷重国の父である重家の妻は、葛西清重の父である豊島清元の姉妹である。
なお、隠岐・出雲流佐々木氏の二代目である泰清の妻は、葛西清重の嫡男である清親の娘である。」とあり、私はまだ未確認なのだが、これが本当とすると、

渋谷氏の時代からのつながりで佐々木氏も葛西氏と繋がっているのだと思う。

上記の重家は河崎重家のことである。

 

memo

渋谷重国 

斉藤実盛?

下河辺行義

佐々木義清

八田知家の妻「近衛局」頼朝の乳母。中条成尋法橋の妹。

相摸國住人原宗三郎宗房(相模国足柄下郡原村・原郷で神奈川県足柄下郡湯河原町吉原字原)

尾張一住人原宗三郎宗房

中山五郎為重は比企判官能員の女婿

 

 

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木田氏 → 長田氏一門の浦野氏の葦敷氏の庶家 とある。

2022-11-07 | 永田氏

木田氏 (尾張国) : 「尾張木田氏」とも呼ばれる。丹姓平氏良兼流長田氏(尾張平氏)の一門の浦野氏の系統である葦敷氏の庶家

尾張国海東郡木田郷(現在の愛知県あま市木田大字)を拠点とした。

同族に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏))・小河氏(庶家に水野氏・毛受氏)・平野氏や三河平氏の大浜氏・永井氏などがある。

 

九里氏は、江州中原氏であり、また住んでいた場所からも、長田氏である可能性が高いと思っている。つまり、上記の「木田氏」と重なっている長田氏であるかもしれない。

浦野氏の系図の中に九里の名も入っていたと思われるのだ。(未確認だが、浦野氏を調べていらっしゃる方が、九里の系図も調べたことが書かれていた。)

 

という事は、木田氏、葦敷氏、浦野氏も、もっと調べた方が良いことがわかる。

 

以前書いた記事から ↓

大江宗秀の娘長田広常が婚姻関係となり、その長田の系には途中大橋氏からの養子も入っている。

この広常こそが、広経と言われた人物で、裔が長田広雅ではないかと思われる。

・・・とすると、経方(常方)ー資経ー資家ー忠利

              ー実経(広経)ー広雅ー雅綱

・・・となる可能性がある。つまり因幡国の高庭介の系である。

源頼朝に付け人として追随した資家、其の子孫が富士山のふもとの神社で「宮伴」として住んでいたことになる。

 

建長三年に 長田廣雅の記載が残っている。1251年

 

長田兵衛尉実経(広経)とあるが、(六波羅探題の研究 森幸夫著)

広雅(広経)はその実経の息ではないかと思う。

 

***

大江宗秀は、父は長井時秀、母は安達義景の娘。
北条実時(金沢実時)の娘を妻とし、その間の子に長井貞秀がいる。
その他の男子に、長井時千、長井冬時がいる。← ココに 永井時千
時千は「ときゆき」というらしい。
【太平記の生成と守護大名】長谷川 端 著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/49/0/49_49_35/_pdf

宗秀の父は長井時秀で
時秀の母は佐々木信綱の娘である。
そして、時秀の妹が那波左近将監妻となっている。

===*===

時秀の母が佐々木信綱の娘
つまり、宗秀の祖母が佐々木信綱の娘
時千は彼女の曾孫である。

「曾孫の娘」が今度は佐々木氏頼(1326-1370年)の母親となっていたのだ。
因みに氏頼自身は信綱の娘の「曾孫」である。
氏頼が1370年に没していることを覚えておく。
一方の片岡を称することとなった直綱が
「応永十八年十二月、始めて土佐国吾川郡 徳光の庄に移り…」とある。1411年。

上記の【太平記の生成と守護大名】長谷川 端 著によると氏頼は高野山に引き籠っていたようである。
氏頼が1326年生まれで、観応の乱が1352年とある。
氏頼の妻は「佐々木道誉の娘」であり、間に挟まれた状況となったのではないだろうか?
一時は三歳の息義信に家督を譲っていたが、(家臣の九里も驚きだったのでは…)
正平9年/文和3年(1354年)には政界復帰したようである。

 

大江宗秀の娘長田広常が婚姻関係が、後に佐々木氏との関係につながっている。

しかも、九里が家臣となっていた佐々木氏頼の母が長井(大江氏)時千(ときゆき)の娘である。

大江宗秀の娘」と長田広経が夫婦。

大江宗秀の息」が長井時千

佐々木氏頼の母が「長井時千の娘」

(大江宗秀の祖母が佐々木信綱の娘も忘れてはいけない。)

九里氏は【大江氏と長田氏】との関係から佐々木氏頼の家臣となったのではないだろうか?

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富士の巻狩り そして 畠山と和田で元宮を再造営

2022-10-26 | 永田氏

 

 

 

まず、24ページ

『征夷大将軍 源頼朝 富士の巻狩りヲナシ』

『保元平時ノ役ニ於ケル 其父等ノ戦功ニヨリ 富士山二十里四方ヲ賜ハリ・・・』

忍ビ来リシ落人‥‥は、三浦源九郎事宮司宮下源太夫義仁・同庄九郎重泰・同治九郎義重・同善九郎義基・柏木忠七郎義政・渡部庄太夫綱重・大森茂二郎治隆・天野源太郎景国・武内兵三郎長貫・長田源二郎忠利等…

 

26ページ 建久六年 畠山重忠と和田義盛が奉行として元宮七社を再造営。

 

27ページ 関守を天野景国と長田忠利に

 

和田義盛は、この富士の元宮周辺に詳しかった可能性があることがわかった。

逃げ込んだ可能性もある!

 

 

 

 

 

 

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源重成が気にかかるが、先に長田源二郎忠利を調べる。

2022-10-26 | 永田氏

源重成、とても気にかかっている。

どの人が該当するのだろうか? 義光の弟義綱の裔という話だが。

 

しかし、本題は【長田氏】なので、こちらの【長田源二郎忠利】から調べていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

【元官社正一位一幣司元官小室浅間神社私考】という本を見つけた。

この中にヒントがありそうなので貼っておこうと思う。

 

【鎌倉殿の13人】のかなり以前の回にあった【富士の巻狩り】が、今頃になってクローズアップされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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三浦義明の孫であった三浦(源重成)あらため宮下源大夫義仁と和田義盛

2022-10-24 | 永田氏

前回の【神皇紀】から、関係のありそうな箇所をピックアップ。

(三浦義継のことが義綱なのかもしれない…)

義綱の嫡子義明は三浦平大夫為道の娘を室とし、三浦郡を食み、衣笠城に居る。

久寿二年(1155) 三浦大佐に補任。

義明に六子あり。長男義顕、次男義澄という。

義顕、源為義の娘若櫻姫を室とす。

義顕、保元の乱に敗走、近江佐々木秀義館に匿われる。

平治の役、義朝につき、敗走。熱田大宮司の館に役ず。

三河・遠江を経て,駿河の富士川に至る。

敵に襲われ、大宮に逃げる。

応保元年(1161)に富士山元宮 大宮司 宮下記太夫政仁は、三浦上野守義顕の長子源甚吾重成 事 源九郎を以って養子となし、長女春子に配し、熱田大神宮尾張源國住と譲り、これに太神宮の大宮司を譲る。

名字官名を賜わり、宮下源大夫義仁と称す。

 

そこで、大事な情報が入ってきました。

この義仁と和田義盛の祖父はともに三浦義明。

和田義盛が富士の山に潜んでいたかもしれない‥‥という情報です。

もしも、そうならば嬉しい限り。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&no=715

 

イヤー面白いデス。

源頼朝は、長田藤資家や、その息 忠利に会いに、行ったのではないでしょうか?

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服常方・服助常親子は長田経方・長田資経親子か? 宮下文書にも登場していた資家!

2022-10-24 | 永田氏

まず、調べやすい【長田資経】周辺から見ていこうと思う。

長田藤七郎資家 というのが源頼朝に附けた人物となる。

 

まだ調査中だが(経方) ー 資経 ー 実経(広経)

                 ー 二男・資家

 

 

また、【服部庄】というキーワードで因幡国を調べていくと、なんと伊福部氏がいた宇倍神社領であり、

因幡国法美郡 服部庄とある。

つまり、富木郷のあった場所と同じ法美郡である。場所は離れて見えるが、服部庄は大きかったのかもしれず、宇倍神社の奥とつながっていた可能性もあるのではないかと思う。

以下に、因幡国のことが詳しく述べられており、助けになった。

 
 

袋川流域風土記

https://www.cgr.mlit.go.jp/tottori/tono/25shisanmeguri/pdf/fudoki.pdf

福部村が服部庄とは誰も言及はしていないのかもしれないが、私の想像では広い範囲だったとすると稲葉山の麓の宇倍神社と近い距離。

 

ところで、この因幡国の長田氏(服部・伊福部)若狭国の永田氏がどうも繋がっているような気がする。

なぜならば、因幡国の因幡(稲葉)と長田のコンビが、また若狭国に勢力をもっていた【稲葉氏】(中原)と、長田(永田)のコンビにも見えてくるのである。

 

さらに、突飛にも思えるのだが、若狭国の永田時信の系図に三浦氏が現れてくることから探っていくと、

永田が三浦氏とつながった理由も、実は富士の宮下文書に書かれていることと繋がっているのではないだろうか?

そこに驚くことに、長田藤資家も登場しているのである。

 

宮下文書に関する記事があった【水石の美を求めて】さんより、一部拝借致しました。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category28-6.html

三浦義明の長子義顕は、保元の乱・平治の乱に破れ、平治2年(1160年)富士阿祖谷に落ち、寒川神社の大宮司・宮下義太夫政仁の計らいで宮伴となり、翌年寒川大明神を元始にもどし富士八幡と改めた。

そして、嫡子源重成を宮下源太夫義仁に改名させ富士七廟(富士高天ヶ原神廟)の大宮司を継承させた。

 

源重成、とは聞いた名前である。(=宮下源大夫義仁)

 

この大宮司継承した重成は

【源義朝】の長男であった源義平

義平の母である【三浦義明娘】

という関係とどこかで重なり合っているのかもしれない。

 

三浦義顕の養子?として源重成を迎えたのだと思う。

日牟礼庄を預かっていた重定の兄であった源重成だろうか?

それとも別人だろうか?

近江比牟礼庄の源重定の兄である「源重成」

源義朝の側近として知られる近江守源重成だそうである。

wikipediaより ↓

義朝は東国で再挙すべく京を脱して落ちるが落人狩りで、義朝の大叔父の源義隆は死に、朝長も腿を射られ重傷を負った。大勢では逃げ切れまいと付き従っていた坂東武者たちを解散して、義朝と子の義平・朝長・頼朝、それに一族の源重成平賀義信、家人の鎌田政清・渋谷金王丸の8騎となり、関東を目指した。雪中の逃避行で年少の頼朝が脱落してしまう。

 

確かに、義朝が歿した際には、散り散りになって、何処かに潜み匿われたに違いない。

 

上記の記事の中には「徐福の子孫は必ず名前に徐福の福を付けるとあり、伊福部・服(福)部とどこか通じる?

この徐福がいたといわれている場所は、波多氏が活躍していた場所に近い。

きっとこの辺りでつながりができた事と思われる。

 

 

まだバラバラな情報を集めてきただけだが、きっとココに何かあると思う。

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E7%B4%80/vbHJABPPZxYC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E9%95%B7%E7%94%B0%E8%97%A4%E8%B3%87%E5%AE%B6&pg=PP464&printsec=frontcover

 

最後に【神皇紀】を少々貼っておこうと思う。

 

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相撲と関係のある神社 出雲の野見宿禰神社 長田神社(神戸・大阪) 養父 水谷神社 隠岐 

2022-10-22 | 永田氏

【相撲】の観点から神社をweb情報から拾い集めてみようと思う。

私が知っている神社は数が限られているので、他にもきっとあると思う。

ご存知の方は是非ご一報を!!

 

出雲大社の手前にあった「野見宿禰神社」

近江の多賀町の多賀神社では九月九日、

京都の梅宮神社では、八月二十八日に嵯峨天皇例祭を催して相撲神事を行う

 

上野国神名帳緑野郡正五位下土師明神

下野国藤岡の土師神社

土師神社(群馬県多野郡美水里村本郷)

例祭は陰暦の八月朔日(現在は九月一日)に行われたので、八朔相撲と呼ばれた。

 

能登国羽咋神社の唐戸山相撲場、

 

養父郡 水谷神社 ねってい

隠岐島 奉納相撲

吉田司家の「相撲三神」は、「天照大御神」、「戸隠大神」、「住吉大神」であったといわれています。

 

相撲神社奈良県桜井市にある。

穴師巫兵主神社鳥居の右手場内に拡がる「カタャケシの社」に鎮座する

『師型兵主神社(奈良)の摂社である。「相撲発祥の地」

 

石川羽咋市第垂羽咋神社はくいじんじゃ化財。神事相撲」

 

穴師坐兵主神社

https://genbu.net/data/yamato/hyousu_title.htm

 

日撫神社秋祭(奉納相撲)

https://maibarand.shiga.jp/sumou-odori/

滋賀県米原市の山津照神社(やまつてるじんじゃ)で『奉納角力(ほうのうすもう)』が行なわれる。

 

坂田郡 相撲神社

 

何と奉納相撲行事を行う神社は1147社もあるそうである。

今回調べたところ、中国山東省にも相撲があったそうだ。

 

 

 

 

 

 

長田神社の「長田氏」が「永田氏」となっていたかも。

(信長公記に永田氏の相撲の記事がある。初めは行司役となっていた永田氏が決勝戦に?)

https://kininaruart.com/artist/shincho/n11.html

大方、相撲終り、既に薄暮に及ぶ。 永田刑部少輔阿閉孫五郎 、強力の由、連々聞こし召し及ばれ侯て、両人の働き御覧じたくおぼし召され、右、御奉行衆の相撲、御所望なり。初めには 堀久太郎蒲生忠三郎萬見仙千代布施藤九郎後藤喜三郎 、取られ侯て、後に 刑部少輔阿閉 、暫し手相にて組まれ侯。勿論、 阿閉 が器量 骨柄勝れ侯て、力の強き事、隠れなく侯へども、仕合せ侯か、総別強く侯か、 刑部少輔 勝ち相撲に侯。

 

更に土師氏は大江氏につながっていると言われているために、養父郡の神社を任せて水谷氏となったと思われる大江広元の姉の息子 水谷重清がいる。

 

長田氏・永田氏・大江氏、どちらを向いても「九里氏」とつながりがある。

 

 

 

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服常方 武蔵国の住人 相撲人

2022-10-21 | 永田氏


 

 

この二つの文書で、因幡国(武蔵国の住人とある)の 【服 常方】と【助常】が親子であることがわかり、共に相撲人であることがわかった。

実は、そこは以前からわかっていたのだが、【武蔵国の住人】が判明した。

 

源頼朝に出会う以前から、武蔵国にいた?のかもしれない。

天永二年八月の長秋記により記述である。

 

この【服】は一つは服部氏 もう一つは伊部氏 が考えられる。

服部は機織に従事した部民。服部を統轄したのが服部連氏。服部は武蔵・安房・美濃・越前・佐渡・因幡・隠岐・備中・阿波国に分布し、服部連氏は大和・山城・摂津・和泉・近江・播磨国に分布する。〈参考〉

 

武蔵国都筑郡

 

 

 

以前は因幡国のことを中心に考えていたので、当然伊福部氏であろうと判断してしまったが、武蔵国の住人‥‥という事で、すこし考え直して【服部氏】の可能性も残しておくことにした。

 

伊福部氏も武蔵国に名代として派遣されていたようである。

 

https://www.cgr.mlit.go.jp/tottori/tono/25shisanmeguri/pdf/fudoki.pdf

...因幡の国司となった土御門氏(村上源氏)が宇倍神社の伊福部氏を圧迫して自領…

 

 

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