九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

鹿嶋宮 大中臣流片岡氏(4)鹿嶋宮の担当の三氏 中臣・大中臣・片岡  大中臣親継 

2024-04-13 | 片岡氏


                 
『鹿島神宮は宮司・禰宜・祝・物忌各一名の定員で、六年毎に、朝廷より補任された』







鎌子(中臣鎌足)と父の長子御食子とともに神官で鹿島宮司 とある。

中臣・大中臣・片岡の三氏が宮司となっていたそうだ。

ここにも、義経の家臣となっていた片岡のことや、親鸞の弟子となった片岡氏に触れられている。

片岡八郎とは経春のことと思われる。
父が八郎であったため太郎ではなく八郎を称していたと、何かの本に書かれていたと思う。
下記は日本城郭全集




神社関係の方々の中では、片岡経春も宮司家の片岡氏という認識なのだ。

ここまで、片岡氏を調べてきて、経久(1175年生まれ)も見つけて、だが、此処で暗雲が垂れ込めている。

*****

暗雲…真実に近づいているのなら、それもやむなし。
私なりに可能性を探りつつの実況中継のブログなので、どのような「えっ、まさか?」も飲み込み、考え直さなくては…と思う。
その過程を書き続けることで、間違いの箇所も見つかるだろうと思う。
そのためのブログ!と思っている。

*****

次回に書こうと思うが、中原経久の息である中原経重が伊勢守になっていたのを見つけたのだ。
これが、とんでもない波乱となりそうで、

まぁ、一から考え直そう!と、やっと思い始めることができた。





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鹿嶋宮 大中臣流片岡氏(3)片岡信親と信広  近江国蒲生郡日野出身の日野左衛門尉頼秋

2024-04-10 | 片岡氏


兄信親が朝廷の命によって鹿島神宮の大宮司となったため、弟の親綱が片岡の家名を継いだ。

この【朝廷の命】という部分がひっかかります。

だいたい順信は信親と信広のどちらの法号なのだろうか。
本によっては見解が分かれており、前回のblogに挙げた系図の書き方から見ると信親が親鸞の弟子となったように見える。しかし、順信の名は見えないという事になっているのだ。

【片岡信親=順信房】





【順信の父=片岡信親】


【片岡信親の息ふたり=順信房と乗然房】



【順信=信広=信親の息】



以上が順信は誰か?と言う事で調べたが、様々な意見があるという事であった。

乗然房(親綱)は信親の弟であったのか、息であったのか?も調べるうちに、分からなくなった。

*****

次に、常陸国枕石寺を創った「日野左衛門頼秋」
この人は近江国の蒲生郡の出身だそうだ。

近江国蒲生郡日野出身の日野左衛門尉頼秋は、北面武士であった。
驕慢な振る舞いが多く常陸国に配流となった。
のち1207年(承元元年)には赦免されたが京には戻らず、そのまま久慈郡大門に居ついた。常陸国に土着した頼秋は、盗賊をしていたともいわれる。

…と問題のある日野頼秋だったのだが、親鸞も日野氏なので、もともとお互いに名前だけでも知っていたかもしれない。
頼秋は道円となる。

*****

一番上に貼った情報に「片岡経春も鹿島の人にて神主の族人」とあったことや、片岡親綱が上野国にいたこと等を合わせると、上野国の片岡氏と鹿島宮の片岡氏は同じ一族であろうと思われる。

朝廷のを調べなくては!と思う。


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鹿嶋宮 大中臣流片岡氏(2)大中臣公利が片岡氏の祖となる。  鹿島神社領【橘郷】(常陸国)

2024-04-10 | 片岡氏
鹿嶋神社の大中臣公利が大中臣系の片岡氏の祖と言われている。
系図の中には片岡経春も、為春も見えてはこない。
親鸞の弟子となった信親信広(順信)がみえる。

↑のページには、上野国の片岡郡にいた源親綱と片岡信親が兄弟であることが示唆されている。
これは、重要な鍵となりそう。

乗念房は如来寺の略縁起によると上野国片岡郡の城主片岡尾張守源九郎親綱という豪勇無双の武人で兄信親が朝廷の命によって鹿島神宮の大宮司となったため、弟の親綱が片岡の家名を継いだと伝えています。乗念(親綱)の兄、片岡信親は鹿島神宮の宮司でありましたが親鸞聖人の弟子となり、聖人より順信と法名を授っています。



鹿島神社領に【橘郷】があったようで、これは海上郡の東荘(橘庄)とは別の場所と思われるため、私の勘違いがあったかもしれない。
行方郡 橘郷 古くは立花と書かれた。

コトバンクには《「和名抄」に「立花」と記され、訓を欠く。承安四年(一一七四)一二月日の常陸国庁宣(鹿島神宮文書)、治承四年(一一八〇)七月一八日の常陸国留守所下文(同文書)、「吾妻鏡」養和元年(一一八一)一〇月一二日条、元暦元年(一一八四)一二月二五日の源頼朝下文(鹿島神宮文書)、同二年八月二一日の源頼朝下文(同文書)に「橘郷」とみえる(行方郡玉造町の→羽生村)。 》とある。


鹿嶋の歴史 さん ページより

…(下妻)広幹も橘郷を含む南郡(小美玉市から行方市・かすみがうら市の北部)の領地を没収され、広幹に代わって支配したのが惣地頭(そうじとう)の下河辺政義(行平の弟)です。下河辺氏はもともと下総国下河辺荘(古河市から春日部市一帯)を拠点とする小山氏の一族で、藤原氏系の武士です。その領主交替の影響は、橘郷を社領としていた鹿島神宮にも及びました。

元暦(げんりゃく)元年(1184)、鹿島神宮の大祢宜(おおねぎ)(神職の職名のひとつ)・中臣親広と政義が土地を巡り対立、翌二年、頼朝は詮議(せんぎ)のため、親広と政義を鎌倉に召喚してそれぞれの言い分を詰問しました。親広は、「政義が郷内の百姓妻子を束縛し、さらに神宮の神事を妨害した」と頼朝に訴え、一方の政義は、「それらは家来の勝手な振る舞いである」と答えました。結果は親広の勝訴。頼朝にとって政義は庇護(ひご)すべき御家人でしたが、政義よりも鹿島神宮の親広の言い分を認めたのでした。
詮議のあと、政義はその場に伏したままでいました。頼朝が理由を尋ねると、政義は「鹿島神宮は武士の守護神であり、とても逆らうことはできない」と答えたといいます。これは当時の鹿島神宮に対する武士の率直な気持ちの表れでしょう。頼朝が崇敬するのと同様、御家人たちも鹿島神宮を厚く信仰していました。しかし、この後も鹿島神宮と地頭である武士との争いは続きました。



立花郷(周辺)歴史 さん ぺーじより



立花地方は、古代から中世には橘郷と呼ばれ12世紀中ごろには源義家の子孫が進出していましたが、源頼朝が鹿島神宮へ寄進した関係から鹿島神官系の大禰宜中臣氏も橘郷へ進出するようになり鎌倉時代まで抗争が続きました。大禰宜中臣氏は、羽生村、八木蒔村そして倉員(倉数)村などの新村を開いていきました。橘郷南東部地区には、若舎人氏や箱根氏などの小領主が勢力を拡げていました。・・・


羽生村(コトバンク)
霞ヶ浦沿岸にあり、北は沖洲村、東は捻木村。沖洲村と同じく古代は「和名抄」にいう茨城郡立花郷に属したとされる(常陸誌料郡郷考)。橘郷は承安四年(一一七四)一二月日の常陸国庁宣(鹿島神宮文書)に「可令鹿島社神領橘郷事」とあり、国司高階経仲は、鹿島神宮の日次御供の不足を補うため橘郷の官物・雑役等を免除し、鹿島神宮大禰宜中臣則親に知行させた。橘郷は翌安元元年(一一七五)に南郡郡司下妻広幹の乱妨を受け、元暦二年(一一八五)八月二一日には、志田義広の乱で広幹に代わった南郡惣地頭下河辺政義が郷内百姓妻子等に地頭の支配に服すとの起請文を書かせた(「源頼朝下文」同文書)。建仁二年(一二〇二)には国井政景が当郷地頭に補任され、預所である中臣政親との間に両者の権利の範囲をめぐって相論が起こり、元久二年(一二〇五)八月二三日に政景の地頭職は停止され、代わって政親が地頭職を兼ねた(同文書など)。

*****

上記の【国井氏】とは・・・ 余呉?さんの頁では以下のようにある。
950年、源頼信の5男義政がこの地に安川城を築き、国井五郎源義政と名乗るようになったのが城の始まりである。義政は常陸源氏の祖であり、子孫は国井氏を名乗るようになった。


*****

行方の片岡氏との伝承があるため、橘郷 との関りがあったであろうと想像する。
中原経任が、橘次経任となったきっかけが此の橘郷であったという事ならうれしいのだが…

さて、以前佐貫城のことに関して書いた記憶がある。
片岡氏が居城していたそうなのだ。

その様子が記述されているのが以下である。

地図を見ると、現在は海の中になるそうなのだが、先端に佐貫城があったと思われる。(記述はよくわからなかったため、だいたいです)



        👆この先端か?


行方周辺



 此の羽生付近に【橘郷】があったかと思われる。

上記の乗念が、上野国の片岡氏であったならば、大中臣氏の片岡氏は秀郷流片岡氏でもあった事になる。

下河辺政義も秀郷流のため、同族である。
叔母は寒河尼であり、宇都宮氏とも近い関係。

この辺りに進出し、大中臣氏の中に入り、鹿嶋宮の中臣氏と対立していたのではないだろうか。

しかし、片岡経春の通字である「経」「常」「春」はどこにも見当たらず、この時代の大中臣の片岡氏は「親」「信」である。

大中臣の片岡氏と上野国の片岡氏、その関係を調べていきたいと思う。



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秀郷流片岡氏(1) 上野国片岡郡から近江国蒲生郡深水へ、更に天文年中に備中国下道郡八代へ

2024-04-08 | 片岡氏
秀郷流の中原氏を探していて、片岡氏に出会ってしまった。

こちら、
《総社市史編纂史料報告書 第3次》にある。

秀郷流片岡氏 上野国片岡郡から近江国蒲生郡深水へ、更に天文年中に備中国下道郡八代へ








日本城郭全集
岡山(備中・備前)より
朝日山城
大附城
片岡城
釜島城
粧田山城
南方城
妙見山城
穂積陣屋

等が、片岡氏と関係があった。
今まで不明であった、片岡氏の一端が垣間見ることができ、非常に面白かった。

情報が豊富な中、佐々木児島氏とのつながり(距離的にもすぐ近く)で、協力しあっていたことが分かった。






片岡氏には盛綱とのつながりがあった事がわかった。

また、宇喜多氏・池田氏との関係も示唆されていた。


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千葉氏の中の【橘氏】 橘荘 橘川

2024-01-12 | 片岡氏


四条家隆生涯に詠んだ歌 六万首

↓ 片岡常春は舟木荘と横根荘も所帯であったとある。
↓ 海上郡橘荘および木内荘がある。両荘共に、その地主・荘司は千葉氏の一族であったらしい。


佐竹義政の娘を妻とした片岡常春。
海上常幹の息とすると、以前調べた長山局、聖光尼、播磨局了阿につながる系である。

鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 市村高男 著の論文より
4枚目の系図に注目したい。

吉田清幹の裔である景幹に嫁いだ長山局(蓮妙)
その二人の娘であった聖光尼(千葉尼)千葉成胤の妻となる。
千葉成胤と聖光尼の娘が播磨局了阿となる。(結城朝光妻)

吉田清幹の兄弟である致幹の嫡子・直幹は房総平氏の千葉介常胤の娘と結婚して、多気義幹、下妻弘幹、東条忠幹、真壁長幹を儲けている。 

この辺りと片岡常春、そして富城蓮忍・富木常忍と結ぶ糸があるのではないかと思う。



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奥州の金売橘次 と 源光重(波多野御曹司・深栖三郎)

2024-01-08 | 片岡氏

「奥州の」多賀?の金売橘次という事で、違う人物かもしれないが、一応中原経任(片岡為春)と仮定しよう。
此の人、金売を装って諜報活動をしていたのではないだろうか。
九里家は「調法の家」でもあったようだ。

またいろいろと調べていくうちに何かわかるかもしれない。

さて「波多野御曹司」だという光重とその息の頼重。
頼重が片岡常春の居城であった佐貫城へ案内するわけなのだが、
なぜ此の片岡常春の佐貫城を目指したのだろう。

光重は波多野御曹司という事なので、周囲に波多野氏と清和源氏(摂津・美濃源氏)と通じていた者がいたという理由から義経をつれてきたのだ…と思う。

光重の関係の系図は様々あるが、どれが本当であるのかは私には分からない。が、今回は ↓ を考えてみる。

「光重は実は源光信(土岐氏・出羽判官)の息であり、源頼政の義理の弟でもある。」とすると、ストーリーが浮かび上がってくるではないか! (伊賀氏となった者も近かったのではないだろうか?)

源義朝の息朝長の母でもある中原久経の母は、藤原秀郷流の波多野義通の妹である。

経久の父となる橘次経任は、片岡常春の弟になることで橘荘(三崎荘)の橘を称したのではないだろうか。


下記の系図
(此の光衡の横にいる光行は、光定の父ではなく、別人である。)
光信の息に光基と光重がいて、光基の息に光衡となる。
光衡の息に土岐光行(妻・千葉成胤の娘)となる。
光行の息に土岐光定がいる。(東氏より妻を迎えているが、胤頼では年代が合わないような気がしている。)








上記には【伊賀守光基(出羽判官光信の子)出羽蔵人光重】とある。(源頼政が生きている時代)

そして、その後…義経が登場し、
源光重は下総国相馬(の深栖)にいた。

その場所は、意外と三崎荘・佐貫城に近い!?
野田市の下にあるのが下総国相馬
野田市の上にあるのが下河辺荘(源頼政?八条院の所領)で、下河辺氏が荘司であったと記憶している。つまり、秀郷流の小山氏の裔である。

そして銚子の上に東荘とあるあたりが三崎荘で、佐貫城も近いと思う。




次に佐貫城があった付近。刑部岬




相当な「こじつけ」かも知れないのだが、片岡常春の居城に寄る意味があったのだと思う。(義経は、深栖に一年逗留しいていたという説もある)

片岡為春の息経久は1175年生まれ。

1174年に15歳であった義経が自らの手で元服を終え奥州へ向かっている頃、経久はまだ生まれていない。

常春は1174年には22歳。(1152年生)
為春は1174年には21歳 (1153年生)

片岡弘経の名も見えることから、こちらは中原久経(多分1147年付近生)の弟など、何かしら関係者かも知れない。(?)

義朝の右筆であった時代もあるという久経。
13歳で右筆はあり得るのだろうか?

もしそのように義朝の近くに居たとすれば、同世代の頼朝のことも知っていたであろうと思う。(其の縁で「鎌倉殿御使」 に選ばれたのかもしれない。)

さらに義経の赤子の頃も観た事があったかもしれない。

弘経を調べてみようと思う。




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間違いだったかもしれない? 大中臣=片岡常春の説は間違いか? (2)金売橘次の登場

2024-01-07 | 片岡氏
此の片岡氏の続きになんと、、、、金売橘次が出てくる。
橘次である。

経久の父「経任」は改め橘氏であり、橘荘(海上郡)の橘を称したのではないか?と思っているので、この金売橘次が怪しいのだ。
(中原)橘次経任である。

そこに続きがでてきた。
片岡常春の佐貫城に義経を連れてきて逗留したというのだ。本当か?






為春が実在し、その息に経久がいたという説が大和葛城郡の系図である。経春(常春)・為春一歳違いの兄弟という事である。



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間違いだったかもしれない? 大中臣=片岡常春の説 

2024-01-07 | 片岡氏
昨日から行方の片岡常春の周辺を調べているのだが、

片岡氏は源頼義の時代永承6年(1051年)片岡常憲‥‥と出てくる。
さらに承保三年(1076年)に海上郡佐貫城主片岡常明


この片岡、江州中原氏系図の中原経憲のことかもしれない?
なぜなら千葉氏の祖ともいえる「平常長」の母親が中原氏からであろうこと、そこに天女の伝説があり、近江国伊香郡余呉の伝説と似ていること。

1028年 中原成行は平直方、次いで源頼信に従って出陣・・・という説も多賀氏の本にあった。

江州中原氏 成行の兄弟が経行(経憲)で九里に続く系である。(近江国御家人井口中原系図では経行)
 
大和北葛城郡史にあった系図は正しかったのかもしれない。
源頼義に追随している【為利】の記載がある。









もしかして、この片岡氏と伊香郡の片岡という地名と関係があるのかもしれない??

大中臣とのつながりが良く分からなくなってきた。

もう一件気になっている部分。

千葉胤正の息 成胤の母は上総介広常の娘
成胤の妻は千葉尼聖光 
千葉尼聖光の娘に播磨局了阿
播磨局了阿は結城朝光の妻

この中の千葉尼聖光の父が行方景幹(結城市史 第4巻 古代中世通史)であったこと。

行方景幹・鹿島政幹は常陸吉田氏の流れを継いでいる桓武平氏国香流大掾氏(鹿島氏) であるようだ。
その流れと関係しそうな【海上庄司常幹】の息に片岡常春が書かれていること。

佐貫城主でありながら、海上氏の息となるだろうか???

この辺り、もう少し資料を探してみたい。


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片岡親経 この人物が親綱につながるのだろうか?(2) 上野国の片岡氏は壬生か? 礒野氏か? または礒野も壬生氏か?

2022-08-16 | 片岡氏

前の記事の(1)を調べてみて、上野国の片岡氏は礒部氏とイコールかどうかはまだわからないが、佐々木氏がすぐ近くの礒部郷に所領を持っていて礒部氏を称していたことを考えると、片岡氏も称していた可能性もある、と私は思う。

さらに、其の片岡氏が土佐国に行ったとも考えられる。

礒部氏がいた【貫前神社】の創建の場所は【咲前神社】となっているのだが、その場所を確認すると以下の地図となる。左の赤丸が咲前神社、右の緑丸が片岡郷となる。

佐々木盛綱の墓所群馬県安中市松岸寺と岡山県倉敷市になっている。

   

 

佐々木盛綱は上野国礒部に所領を持ち、礒部氏を称していた。

坂東太郎経繁=近藤氏=片岡氏)は、近江国から上野国へ、そして土佐国へという流れも考えられる。

近藤氏は秀郷流でもある。

佐々木盛綱は相模国秦野で生まれている。

秀郷流とも(近藤氏とも)つながりがあったに違いないと見ている。

 

この上野国の片岡氏ともう一方の鹿島宮にいた方の大中臣の片岡氏と、同じかはたまた別の氏か、そこが悩ましいが、鹿嶋宮の方の片岡氏も、やはり佐々木氏とのつながりがある片岡氏ではなかっただろうか?

 

想像だらけだが、私の頭の中では

中原経任は橘次経任となっていたので、三崎荘(橘樹荘)と関係があった。

その関係から、片岡経春と懇意?であったか、親子or 兄弟であった。

中原経任の息経久は片岡を称することとなった。

源頼朝時代より佐竹派の片岡経春であり、片岡氏は其の為もあり冷遇されていた。

しかし実は、経久は中原久経の裔であることなど判り、誤解が解け、北条泰時の時に召し出され一万石をたまわった。

其の片岡経久は、東国より近江国へ帰国し、佐々木氏のもとで九里という地に居住。

(もしくは、元から持っていた土地であったか?)

また東国に残ったものは下総国で千葉氏の執務を取り行い日蓮の支援者となっていた。

また、鎌倉後期には熊野に入り、本宮前の大智庵他で御師をしていた。                                                                      

 

富木氏は中原であり、富木常忍は、源実秀(佐々木盛綱の孫)と書状をやり取りしていた。

(常忍の父は中原経久)

是もまた、盛綱と縁があった傍証となるかもしれないと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

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片岡親経 この人物が親綱につながるのだろうか?(1) 上野国の片岡氏は壬生か? 礒野氏か? または礒野も壬生氏か?

2022-08-16 | 片岡氏

片岡親経のことを記事にし忘れていたので、追記したい。

 

親経は「太郎」とあるので、為春が父、親経が長男、経春が次男なのだろうか?

経春は太郎になっている系図もあるので、親経こそが経春なのかもしれない??

そこが、どうもわからない。

 

しかし、片岡親綱、信親、と「親」の字が続くので、親経は為春のことかもしれない??

(長男には「親」を付ける・・・・・など)

 

そこで、海上荘にいた片岡経春と上野国片岡郡の片岡信広とは別である・・・・というのが一般の説らしいのだが、繋がる可能性もあるかもしれないので、調べてみようと思う。

 

上野国片岡郡の片岡城主 【片岡親綱】

https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-kataoka/

坂東太郎経繁 (近藤氏) 片岡氏となる。初め近江に居たことになっている。

其の同じ経繁の弟が蓮池家綱という。ともに藤原秀郷流となる。

其の近藤経繁が、もしも近藤国平の父であったならば…

しかし、近藤国平の父は国澄という。

国澄―国平―国重となる。この国重が国繁か?と以前にも思ったのだが、国平は頼朝の配下で働いていた事績があるので、別人なのだろう、と、思うが、どうだろう…

この近藤国繁は大平国信と兄弟となる。源平に分かれていたことになる。

さて、この経繁は土佐に落ち延びていったというが、、、

上野の地は関係が無いのであろうか?

 

http://rekisi.tosalog.com/%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%81%97%E3%82%82%E4%BD%95%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%E3%82%89/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E3%81%AE%E8%B1%AA%E6%97%8F%E7%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AF%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%8B%E6%BA%90%E6%B0%8F%E3%81%8B%EF%BC%9F

 

上野国片岡郡の佐々木盛綱の裔が片岡氏と称していったという説があるが、あるページでは否定され、この片岡氏は壬生氏の裔であるという説を提唱しているのだが、もしかして宇都宮氏や大中臣氏との関係を考えるに、佐々木氏が壬生氏ともつながりを持っていたとも考えられないだろうか?

相模国の高座郡は、もともと壬生氏がいた場所でもあったようである。

また、壬生氏は宇都宮氏に仕えていたようでもあるので、清原氏とも繋がり、清原氏は大中臣氏とも繋がっている。

宇都宮氏と佐々木氏は婚姻関係もある。

 

そんなこんなで、片岡氏は壬生氏の裔でもあり、佐々木氏とも繋がり、佐々木氏を称しもしていたのではないだろうか?

古代を調べてみると、ひとつヒントとなりそうな神社が出てきた。

一之宮 貫前神社 ご祭神 経津主神

http://nukisaki.kazelog.jp/blog/

鹿占習俗/焼いた錐(きり)で鹿の肩甲骨を貫き、そのひびの具合によって吉凶を占う神事が行われている。

 

経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえ、葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)平定に功績があったとされています。

公式HPによると、
【『日本書紀』のみに登場し『古事記』には登場しない神で、香取神宮(千葉県香取市)・春日大社(奈良県奈良市)・鹽竈神社(宮城県塩釜市)に祀られています。】

 

http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2019032400021/files/resume.pdf

 

今回のキーワードは 【礒部】または【磯部】氏となる。

磯野・磯部氏

https://0743sh0927sh.seesaa.net/article/201906article_15.html

 

宇多源氏 磯部氏…盛綱の跡、孫秀忠が礒部氏を称している。

更に源頼家の時代、佐々木盛綱自身が上野国磯部郷の旧領を復して欲しいと願っている。

 

更に【礒部】と同じ音の【石部】や近い【磯野】を近江の中に求めると、

 

  • 石部神社
    • 石部神社(磯部大明神)
      滋賀県蒲生郡竜王町七里831
    •  
    • 石部神社
      滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6222
    •  
    • 赤見神社
      滋賀県長浜市高月町磯野530
    • となる。
礒部信貞申状写

【P1】
供御院預左衛門(少)尉礒部信貞謹言上
 欲早依累代相伝道理、且任度々 勅裁旨、被停止寮家師顕朝臣非拠競
 望、当職間事
副進
 一通 院宣案   〈弘安八年九月日、信良改姓事、被聞食由事、〉
 一通 院宣案   〈弘安八年十一月廿五日、礒部氏中以帯道理之仁、可計補由事、〉
 一通 寮家任符案 〈弘安八年十二月十六日、信貞故姓令相伝文書、仍令定補由事、〉
 一通 同挙状案  〈弘安九年二月廿三日、信貞申 宣旨任先例可有御 奏間由事、〉
 一通 宣旨実   〈弘安九年三月廿日、任行種譲、信貞永為彼職、子々孫々可執行由事、〉
 一通 綸旨案   〈被下寮家正応五年六月廿五日、供御院預職、如元可被返付信貞由事、〉
 一通 同綸旨案  〈被下信貞同年同月日、供御院預職事、如元可返付之旨被仰師顕由事、〉
    自余次第証文井 綸旨・院宣等先進之問、略之、
右供御院預職者、一条院御宇去(之)長保四季(年)磯部広信下賜永 宣旨』以降、
至子信貞、相伝已十五代、星霜三百余廻也、其間雖為一代、無察(寮)家知行
之例、争可致新儀非拠之稀望哉、而今如所不(下)賜之文書者、寮家 奏開状
数通在之、何年月之状乎不存知之、雖為一通未被尋下之間、始而所令披
見也、所謂彼状云、信貞者信房孫、信友子、重代藤原氏也、且弘安八年
八月日、任左衛門尉之時藤原之条、召名分明也、捨烈祖姓、称礒部行種
猶子、横補之、令叶道理否〈云々、取詮、〉
 此条存外也、或出重代累葉之家、入他氏而稟継其跡、或雖為異姓他人
 身、成猶子而相伝所帯者、貴賤之通規、世上之常法也、今古之例、不
 遑言挙、呪(況)不可尋例於他家、当職之先祖行職者遷三善氏、而安元二年
 八月日還本姓礒部畢、父任官之後改姓之輩、遠則少内記藤原重真、保
 安五年正月冒改惟宗、右兵衛尉中原安頼、永萬二年三月日改平姓、少
 判事坂上明基、承安三年八月日改中原近則少内記久広、弘安十年十
 二月左衛門尉拝任之時為安倍、正応四』年十月日任右少史之時為三善
 等是也、自余例不能羅縷、且信貞為行種猶子改姓之刻、令言上事由之
 処、改姓事被間食畢、北面奉公不可有子細之由、被下 院宣畢、案文
 進覧之、因茲去弘安八年十一月日、定澄与信貞相論之刻、被下 院宣
 於寮家云、供御院預職事、両方申状遣之、礒部氏中以帯道理之仁可計
 補〈云々、取詮〉困茲寮家補任状云、信貞為行種猶子改姓、令相伝文書畢、仍
 所定補也云々、彼状案進覧之、筆跡未乾、何今可申子細哉、奸曲之至、
 不能左右者歟、加之寮家父出挙状云、供御院預職礒部信貞申宣旨解状
 謹進上候、任先例可有御奏聞〈云々、取詮、〉 仍蒙 宣旨状云、応早任代々 宣
 旨、且依行種譲、令左衛門尉磯部信貞為当寮供御院預、子々孫々相伝
 領掌〈云々、取詮、〉彼挙状井 宣旨案同進覧于右、凡以帯道理之仁、可計補之
 由、預 勅定、即令定補信貞之上、或捧挙状、忝驚 天聴、任行種』
 譲、子々孫々相伝領掌之由、被下 宣旨畢、輙難及一言之濫訴者乎、
 而今不顧先日之成敗、奉棄破厳重鳳文、巧出新儀自由之非拠、恣望申
 累代相伝之所職、信貞改姓横補之企、不叶道理、可被付寮家之旨、競
 望之条、誠是叶理致否、為憲法否、併所仰勅断也、
同状云、被優老躰之奉公、被止非分信貞之知行、被返付寮家者、可為徳
政歟〈云々、取詮、〉
 此条寄事於老躰之奉公、猥於令望補他人之所帯者、何輩可令相伝之職
 哉、難堪次第也、信貞已為十五代相伝之職、帯代々厳重之 宣旨・院
 宣井次第調度之文書、相伝異干他、争可称非分知行之由哉、無謂申状也、
同条云、信貞等朝要何事哉駈〈云々、取詮、〉
 此条必雖非朝要之器、如此之所帯、或任先祖相承、或依由緒相』伝、
 甲乙輩面々領掌之条、傍例満于耳目、当職何及異儀乎、且長保年登、
 広信賜 宣旨補件職以来、天朝之御宇二十六代、私門之知行一十五代、
 全以朝要之儀不被補之、代々 宣旨文不載其子細、只任聖代之佳例、
 依累代之相伝、所令補任領(預)常也、況朝要之段、於信貞者、褻晴 御幸
 之所役、 禁裏仙洞之奉公、随分勤節有忠無懈、労功之道、雖異朝要
 之儀、惟同者乎、何況無棄士
「奥欠」            
 
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佐々木氏がなぜ【礒部氏】を称したかがわからないが、盛綱が住んでいた相模国の高座郡にも礒部という地があったようである。
この辺りは、もっと時間をかけないと‥‥まだ不明。
 
       
コメント
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