九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

九里の和歌山系図より 小堀氏系図 と 日野俊基の家司後藤助光か?と思われる「小堀助光」

2024-03-25 | 日野氏
九里の和歌山系図の助光が日野俊基の家司?であった後藤助光(太平記)と同時代のようなので、気になっている。1200年後半から1300年前半位生まれの人物であろうと思う。

この系図は和歌山から出てきたものだそうで、途中からしか入手できていない。 ↓

お心当たりの方がいらっしゃいましたら、是非お教えいただきたく思っております。


途中からは近江国御家人井口中原系図と同じキーワードが出てくるため、繋がっていると思われるのだが、名前の通字は違っている。

前半部分が明らかになることで、小堀九里につながる中原藤原秀郷流ということが、証明されるかもしれない。








さて、小堀助光と後藤助光は同一人物かどうか…
また、後藤助光なる人物は実在であったのだろうか?

日野俊基とは、調べてみると俊基の7代前の日野実光から資憲・資長と分かれている資憲の流れであった。




*****

日野家と九里氏(小堀氏)のつながりで、考えられる点をいくつか挙げてみようと思う。

貴光女(吉光女)の母が源朝長と同母で、義朝の妻であった。つまり貴光女の母は中原久経の母でもある。久経は親鸞の叔父になる。(西山深草氏の説)

繋がりは、日野家の親鸞から始まっているのではないだろうか?

近江国の中原の経久の叔父にあたる中原景経が1244年広橋経光(勘解由小路 経光 )に判官にと推挙されている。結果はわからない。
その時、景経は近江国伊香郡の富永庄の召次勾当であった。


日野家は【珠洲】に若山庄を持っていた。
(現在地震で大変なことになっている。心よりお見舞い申し上げます。)

若山荘とはどのような荘園だったのだろうか。


《 能登国珠洲郡にあった能登最大の荘園で、現在の珠洲市西部から能登町の旧内浦町地区全体まで広がっていました。
若山荘は、平安時代末期の康治2(1143)年、能登守・源俊兼の子・季兼(すえかね)が領家職を確保しながら土地の保護を求め、皇太后宮藤原聖子(皇嘉門院〈こうかもんいん〉)を本家と仰いで寄進し、成立したとされています。

承久3(1221)年の「能登国田数目録」には、公田数500町(1町は約1ヘクタール)との記録があり、国内の荘園・国領の中でも最大規模を誇っていたと考えられています。

本家職は皇嘉門院から九条家、領家職は日野家へと伝えられ、地元の武士である打波家や本庄家、松波家が荘園の経営を担いました。当時、園内で盛んに焼かれた珠洲焼は、富山湾を経由して日本海沿岸の東北地方まで広く流通していました。》(コトバンクより)

この松波氏と共に被官と成っていたのが、九里氏(九能利とかかれている)だったのである。
この松波氏は藤原秀郷流波多野氏の末裔とも言われている。



上記から省略 ↓

【若山荘は、日野兼光からその子・日野資実(すけざね)へと伝領され、能登最大の荘園である若山荘は、日野家領となっていく。日野資宣 の名もある。

松波氏・久能利(くのり)氏・山方(やまがた)氏の諸氏についても、本庄氏と同様、荘園領主の日野氏と結んでいた。 】



日野氏と中原氏・藤原秀郷流氏・大江氏とはつながりがあるようで、その後も九里との縁も続くのである。

足利義澄の正室が日野阿子で、日野冨子の姪であった。
俊基とはまた別の系ではあるが、足利義澄が最後に九里氏を頼って水茎岡山城にやってきた背景に、日野氏とのつながりもあったのではないだろうか?

全く知らない一族の許に逃げ込むとは考えられず、困った状況とはいえ、なんらかの繋がりがあったから…と思うのである。









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日野氏の荘園「饗場御厨」から見えてくること(2)

2019-01-13 | 日野氏

1.荘園で、日野氏・広橋氏・柳原氏(全部つながりのある系)が関わっているところは?
2.荘園で「中原氏」がかかわっているところは?
3.更にその中で「近江国」は?

など、調べてみた。
1.
荘園 8975件  御厨  1124件
日野氏 103件           13件
広橋氏 25件           1件
柳原氏 28件           1件

2.
全ての荘園で、土地の名前と人名に「中原」が付いているものは100件
その中から人名を抽出してみた。何度も出ていたトップは親能さん。さすが。
遠江佐野 中原庄
近江栗太 中原家領
美濃席田 中原家領(預所職、地頭職)
上野佐位渕名 地頭職=(開発領主)秀郷流淵名大夫兼行→中原親能の子の淵名季時→→(女婿)金沢実泰       →実時→(宝治以後)
若狭三方 大炊寮領局務中原氏
加賀倉月 助教中原師茂ら開発相伝所領
越中砺波吉積 大外記中原家所領
越後蒲原 中原兼俊領(←禅定殿下=藤原忠通か)
丹波桑田 中原家領(康富領)
播磨揖保 中原家領
播磨飾磨 中原氏相伝
播磨こもえ中原氏相伝
備後栗原 大炊寮頭大外記中原氏が宰領
備後世羅 地頭職は幕府評定衆、引付衆の中原一族 摂津親秀
安芸賀茂 中原家領
周防大島 地頭中原広元
豊前企救 中原助光
肥後球麻  預所対馬前司清業(平頼盛家人中原)
中原明兼
中原祐定
中原祐重
中原祐賢
目代中原貞兼
中原(門司)
中原親貞(預所職)
中原祐春
中原康富
中原公員
下司中原氏女
摂津守中原師藤
中原業倫
評定衆中原師員→子孫
地頭中原師員  
中原信房
外記中原氏
中原頼貞
領家職→中原師光→師守
中原師能領・忠清領
中原康富知
中原兼俊
中原師守
音博士中原師躬
中原俊茂
中原師香
地頭駿河入道殿(中原季時)
香曽我部中原氏
中原秋家


3.近江国と中原氏
1 近江 高島 善積庄 弘部郷
2 近江 高島 針幡庄
3 近江 栗太 竜門庄
4 近江 愛智 日吉庄 上庄・下庄

近江国と日野氏
1 近江 蒲生 比佐庄
2 近江 蒲生 熊野庄
3 近江 蒲生 熊野北庄
4 近江 蒲生 熊野南庄
5 近江 蒲生 宮川保
6 近江 蒲生 成安保 成安名
7 近江 蒲生 日野牧 成安名・牧田郷・本牧
8 近江 蒲生 佐久良庄
9 近江 蒲生 奥津保 中之郷
10 近江 蒲生 山本保
11 近江 蒲生 必佐庄
12 近江 浅井 大浦庄
    山門・中村・庄村(=上庄)・大浦・殿村・黒山・小山・東山田・西山田・八田部(=下庄)
13 近江 伊香 菅浦庄 菅浦
14 近江 蒲生 守富保
15 近江 蒲生 小神牧
16 近江 未勘 山本庄

近江国と広橋氏
1 近江 滋賀 粟津御厨 膳所中庄
2 近江 蒲生 羽田庄
3 近江 伊香 余呉庄 菅並・丹生・中郷・片岡郷

近江国と柳原氏
1 近江 坂田 朝妻庄 十二条郷・十三条郷・十五条郷

~~~*~~~

更に詳しく調べたい。
伊勢国も同じように調べたいが、ひとまずここまで。








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日野氏の荘園「饗場御厨」から見えてくること(1)

2019-01-11 | 日野氏

やはり、キーは「饗場御厨」であった。

饗庭御厨のある【員弁郡藤原町】
この饗庭御厨は1334年の文書では「日野業子」が関係する。
『永和4日野業子が建仁寺住持定智に寄進=応仁の乱で一時幕府御料所となる 』とある。

日野氏と関係することから、その御厨の管理を任されていた可能性も充分あること。

日野氏の配下にいた中原某が、浅小井氏とここで出逢ったのかもしれないし、すでに同族であったのかもしれない。

日野業子に関しては、コトバンクによる
没年:応永12.7.11(1405.8.5)
室町幕府3代将軍足利義満の妻。日野時光の娘。永和初年ころ,禁裏後宮の実力者であったおば二品尼日野宣子の介添えで足利義満の妻となった。持明院統と関係の深かった中流貴族日野家はこのとき以来代々将軍の妻室を出すようになり,一族は大きな権勢をふるった。永和4/天授4(1378)年,義満が権大納言に任じられると,正室業子も従三位となり,さらに永徳1/弘和1(1381)年には従二位となった。応永12(1405)年病を得て出家し,その数日後に没し,没後従一位に叙せられた。法号は定心院殿大喜性慶禅定尼。<参考文献>臼井信義『足利義満』

(西尾和美)

~~~*~~~

下記の深尾書簡のことを書かれていらっしゃる方(tatsuyaさん)のページよりヒントをたくさんいただきつつ、私が仮定していることと合わせて考えて見ようと思う。
私の書いた部分は藍色とする。


https://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/folder/1553064.html




龍雲寺が確認できる。
(深尾元祖清長公の戒名、龍雲寺殿)(安顕寺も近江源氏:深尾氏の庶流と存ぜられ候…深尾書簡の残されていたお寺)



場所も確認すると、上相場・下相場が確認できると思う。











加賀守を名乗っていた佐々木氏が吾妻鑑に記載があった。
早々に結論を平加賀守親清と出していたが、
後に(戦国時代)深尾加賀守元秀という名乗りがあるため、
こちらの可能性もあると思う。

清長と名乗っていた孫か曾孫にあたる人物 佐々木加賀守親清。1252年(仮定)という事となるだろうか。
系図には見えてこないが‥





小源太(浅小井氏第二代・浅小井小源太清家、後改めて清長。その後、深尾監物太郎清長。以後、子孫は深尾氏を名乗る)


寿永三(1184)年の頃、佐々木源三秀義と同意して、親子とも伊賀国平田城を責め、戦には利を得候へども、大将秀義老死(七十二歳没)、その後父(浅小井氏初代・四郎長家)も病死(文治三(1187)年)。

承安三(1173)年、初めて[清長は]深尾谷に居住す。
その後治承四(1180)年に関東へ下向し、頼朝公に加わり、所々の戦に月日を送り、国治まりて鎌倉に居住と相まみえ申し候。

承安三(1173)年より治承四(1180)年年迄[清長は]深尾に在城


九里氏は浅小井氏・深尾と同族なのではないかと思う。
なぜなら、富木常忍の所領であった千葉県市川市若宮が、江戸時代になってからだが、
深尾氏に宛てがわれているのである。

それがいつからなのかを探っていることになるのだが。

そこで、浅小井氏深尾が住んでいた深尾谷を見ると、藤原町であり、饗庭御厨(上相場・下相場) の近くなのである。

上記のwebページより、大事な部分をご紹介させていただこうと思う。


深尾氏の根本は佐々木より分かれ
浅小井に居て浅小井を(うじ・血縁による同族集団)とし、
またそれぞれの地に居て深尾と号し
或は頼朝公に随順し、
また足利家に属し

足利の時代本生国・浅小井に帰り、
私どもの中興の祖と申す者は深尾加賀守元秀(浅小井深尾氏第十二代・浅小井城二代目城主・天文八(1539)年没)と申し候て本家佐々木家に属し、

それより三代目に佐々木観音寺城没落(信長に攻められ1568年落城)。

これによって四代目の与喜内勝隆(寛永十一(1634)年没・八十一歳)と言う人、
二君に仕える所存無くして当初浅小井の土民に交じり、
それより以来、元禄年中(1688-1704年)迄は追々分家もいたし、
相応に一類中(同族中)繁昌仕(つかまつ)り候由。

この方出の深尾氏江戸表に四、五軒にも分かれ候御旗本衆の内、
その御本家・深尾八太夫(旗本深尾氏七代目当主・元方。1811年没。七十一歳)と申す方より系図の様子近年追々(順序を追って)御尋ね。
なおまた、信州松代・真田伊豆守御家中(ごかちゅう)深尾立朴(りゅうぼく)と申す方よりも、
段々御尋ね。

~~~*~~~

この深尾立朴のことがADEACに出ていた。

■むしくら日記 [翻刻] 3巻 利
[[翻刻]]
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ    1.震災・火災・水害等災害の記録
一棟潰矢嶋源左衛門居宅東之方半分潰、残大破、土蔵一棟潰、(改頁)12物置三棟潰浦野
勇右衛門物置一棟潰深尾立朴土蔵一棟潰松山瑞白居宅潰田中増次門口潰高田力馬土蔵一棟
潰佐藤宗弐居宅潰東条亀治居宅潰松林左金吾長屋大...

土蔵が水害か何かで壊れたようだ。

その他、深尾七郎右衛門の文書がいくつかあった。









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源季兼の息【源季広】

2019-01-08 | 日野氏

源 季広(みなもと の すえひろ)は、平安時代後期の貴族・歌人。醍醐源氏、源季兼の子。官位は正五位下・下野守。

経歴

父・季兼は藤原忠通の、子・長俊は九条兼実の近臣として知られ、子孫は九条家の諸大夫・信濃小路家として続くが、季広自身の官位は振わず、歌人としての活動が知られる。

久安5年(1149年)に六位蔵人(『本朝世紀』)、仁平元年(1151年)に左衛門尉に任ぜられて(『台記』)、同年9月4日に叙爵される(『本朝世紀』)。久寿年間に季広と改名。

保元元年(1156年)に松殿基房が元服するとその職事となり、侍所を管轄した。
後に基房の子・家房の乳父となっている。保元2年(1157年)に飛騨守となる。

基房失脚後の養和元年(1181年)に九条兼実の家司に召されて、文治元年(1185年)に下野守に任じられて一時任国に下向しており、その際に藤原頼輔と和歌のやりとりをしている(『続千載和歌集』)。
だが、この時期にはもっぱら、嫡男・長俊の活動が目立つようになる。

『明月記』正治元年9月8日条に「人云、季弘死去了、未聞其仔細」と記されている“季弘”が藤原定家と同じ兼実の家司であった季広のことであった可能性がある。

『千載和歌集』を始めとする勅撰和歌集に12首採録され、『続詞花和歌集』・『月詣集』・『今撰集』・『楢葉和歌集』といった私撰集にも多くの和歌が採録され、当時の歌合でも度々参加が記録されている。

~~~*~~~

季兼の子が、季広、藤原資長室 とあるように日野資長とは義理の兄弟である。

ちなみに中原(大江)親光も飛騨守であった。




コメント (5)
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日野経光・兼仲・

2019-01-08 | 日野氏

【藤原兼光】
1145-1196 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
久安元年生まれ。日野資長(すけなが)の子。母は源季兼(すえかね)の娘。寿永2年(1183)右大弁兼参議,文治(ぶんじ)2年権(ごんの)中納言となる。右兵衛督(うひょうえのかみ),検非違使(けびいし)別当をかね,従二位にいたる。高倉天皇,後鳥羽(ごとば)天皇2代の侍読。建久7年4月23日死去。52歳。

【広橋頼資】
(ひろはし よりすけ)は、鎌倉時代前期の公卿。藤原北家真夏流(日野家)、権中納言・藤原兼光の五男

【広橋経光】
(ひろはし つねみつ)は、鎌倉時代中期の公卿。勘解由小路 経光とも。正二位民部卿、権中納言。日記『民経記』の記者。勘解由小路と号す。勘解由小路中納言藤原頼資の長男。母は従五位下源兼資の娘。

【広橋兼仲】
正元元年(1259年)に民部少輔に任じられ、近衛家・鷹司家の家司となり、弘安元年(1278年)より鷹司兼平・近衛家基の執事を務めた。

~~~*~~~

ここまで来て、九里氏は少なくとも兼光以前の時代から、日野・広橋氏の下で地頭代や家司として働いていたことに気が付く。

兼光の母の実家である「源季兼」と父の「日野資長」はともに石州の「若山荘」を経営。

【源季兼】

源季兼
生年:生没年不詳
平安末期の官人。父は土佐守源俊兼。摂関家の藤原忠通に仕えて,石見守から木工権頭を経るなかで摂関家の政所の経営に尽くす。一方,能登国の500町におよぶ大荘園の若山荘を忠通の娘皇嘉門院に寄進したが,これはのちに九条家に伝えられ,季兼の子季長が九条家に仕えるようになり,以後,子孫は九条家に仕えるようになる。<参考文献>五味文彦『院政期社会の研究』
(五味文彦)

~~~*~~~

この日野・広橋氏と九里氏の関係は一時的ではなく、続いていたのだと思う。

そして、兼綱の時代から足利将軍家とも繋がってくる。それが九里氏にも影響していたと思う。

~~~*~~~

【広橋兼綱】
皇室と足利将軍家の縁戚となる
兼綱が養女とした広橋仲子は石清水八幡宮検校法印の善法寺通清の娘であり、足利義満の母紀良子の姉妹である。仲子は後円融天皇の生母であり、後円融天皇と足利義満は同い年である。このように、兼綱は皇室と足利将軍家の両方の外戚となったわけである。よって、四辻善成の姉か妹である智泉尼聖通が仲子と良子の母であり、この縁戚関係から善成が従一位准大臣、さらに内大臣、左大臣に至ったことと同様の処遇を受けて、兼綱は従一位准大臣となったのである。

【広橋仲光】
(ひろはし なかみつ)は南北朝時代から室町時代の公卿。従一位権大納言。勘解由小路と号す。准大臣広橋兼綱の息男。母は不詳。 子は兼宣、兼時、兼俊ら。日記『仲光卿記』が伝わる。南都伝奏として足利義満と様々な案件の折衝にあたったことで知られる。

【広橋仲子】
広橋 仲子(ひろはし ちゅうし/なかこ、藤原 仲子、紀 仲子 、延元元年(1336年)または延元4年(1339年) - 応永34年5月20日(1427年6月14日))は、室町時代の女性。女院。後光厳天皇の典侍で、後円融天皇の生母。広橋兼綱の養女で、実父は石清水八幡宮祠官善法寺通清。生母は四辻宮尊雅王の娘(法名智仙聖通)とされる。院号は崇賢門院。姉妹に紀良子(足利義詮側室、足利義満生母)、伊達政宗正室輪王寺殿がいる。比丘尼御所の大慈院(南御所)開基とされる。

【広橋兼宣】
武家伝奏として室町幕府との交渉にあたり、その様子は日記『兼宣公記』に記されている。また、娘は後花園天皇の乳母となった。没後、内大臣を贈官されている。

だが、広橋兼宣と日野資教の争いは思わぬ形で終わりを迎える形になる。日野資教の子・有光は禁闕の変によって処刑され、代わって日野家の継承を許された広橋兼宣の子・兼郷も足利義教の不興を買って所領を奪われて一時断絶に追い込まれることになったことによる。

~~~*~~~
この話はもう一つのブログ【九里一族】に出会う旅に出かけよう につながってくる。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/s/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E8%8D%98


そして九里員秀が活躍していた「九里黄金時代」を築けたのも、この日野氏・広橋氏がいてこそであったのだ。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%93%A1%E7%A7%80/1

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%93%A1%E7%A7%80

~~~*~~~

さらに、足利義澄が「九里に依って」来た理由も、そのつながりがあってのことだと思う。
更に近衛氏とのつながりもできていたようである。


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因幡国古地図

2018-02-07 | 日野氏


右上の方にも二カ所「とき郷」が記載されている。漢数字の四の下に馬と書かれている字に城である。(たぶん)

富城の「とき」である。

どうしてピンポイントで、この辺りとつながるのだろうか。

富城(富木)氏も日野氏と関係があるのだろうか?

日野氏・柳原氏の配下の者だったのだろうか?





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樂樂福神社 由緒略記

2018-02-07 | 日野氏
樂樂福神社 由緒略記

日野氏を検索していると、この神社に出会った。
https://sasafuku.jimdo.com/樂樂福神社-由緒略記/

そして、日野という地名が伯耆国日野郡にあり、近江国蒲生郡にもある。

柳原氏の話になるが、
近江の領地は「応仁の乱」で取り上げられ、因幡国の領地だけになったようだ。

「柳原氏」(室町時代の公家)が百谷に住み文明六(1478)年頃から京と百谷を行き来しながら、法美郡領の経営をしたそうである。

その柳原量光卿の墓があるのが百谷なのだそうだ。
なぜか、蒲生川もその近くにある。

そして、楽楽福神社のある日野郡に住んでいたわけではないようである。

蒲生郡から移って来たから蒲生川になったのであろうか?







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日野氏との関係がある久能利氏(くのり)能登 若山庄

2018-01-18 | 日野氏
面白いことに、久能利氏が能登で日野氏の家臣として活躍していた!
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/能登

富来氏とも、得田氏とも近くなってきたようである。

今札幌の図書館では網野善彦の貸し出しが中止されている。
札幌中心部のビルに新しい図書館ができるので、そこに引っ越す図書の中に入っているようである。

それを読めば、この辺りも何かしら解明できそうである。

札幌市民交流プラザ
https://www.city.sapporo.jp/city/mayor/interview/text/2016/20160726/documents/shiminkoryupuraza.pdf



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