九里 【九里】を探して三千里

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山田重満 

2019-03-21 | 山田氏

山田 重満(やまだ しげみつ、? - 治承5年3月10日(1181年4月25日))は、平安時代末期の武将。浦野重直の長男。弟に彦坂重親、高田重宗(高田重家?)、白川重義、小島重平、足助重長らがあり、

子に重義(泉太郎)、重忠がある。治部丞。号は山田太郎、和泉冠者など。諱は重光とも記される。

父より尾張国山田郡の所領を継承したほか「和泉」の地なども併せて領していたが、
治承5年(1181年)の墨俣川の戦いで一族と共に源行家の軍勢に加勢し敗北、
重満は高橋盛綱の弟・盛久に討ち取られた(『吾妻鏡』同年3月10日条)。

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この上記はwikipediaからだが、これによると父は浦野重直であり、
重満の兄弟は
彦坂 「彦坂」の地は美濃国彦坂(岐阜県岐阜市彦坂)とも推測される。
高田
白川 「白川」の地は飛騨国白川(岐阜県大野郡白川村)とも推測される。
小島 「小島」の地は美濃国池田郡小島郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町小島)とも推測される。
足助 





重満の子は
泉太郎
重忠

源行家に味方

もっと詳しく見て行くと、(wikipedia)

浦野 重直(うらの しげなお、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。信濃守源重遠の長男。兄弟に葦敷重頼、小河重房、山田重弘らがあり、子に山田重満、彦坂重親、高田重宗(高田重家?)、白川重義、小島重平、足助重長らがある。
浦野太郎、山田先生、河辺冠者などと号した。

『尊卑分脈』には父より尾張国春日井郡浦野の所領を継承する一方で同山田郡山田庄や同海部郡河辺庄などをも知行したことを示唆する記述がある。

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この満政流の山田氏と有道氏から始まる児玉党の山田氏とが繋がっているのだろうか?
あまりピンとこなかった。

以下は蛇足だが、

白川氏は、公暁の事件の後に自害したものがいて、乳父母の息で、公暁と共に育った者ではないだろうか?という説もあった。

そうなると、足助氏の娘が公暁の母という説も、もしかすると乳母であった可能性も感じる。

近いところに公暁がいた…そんな感じである。

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そして「岡田氏」だが、この山田氏から出ている。

九里に関わっている岡田氏は二名である。

奈良県宇陀藩史によると、
戦国時代後期(江戸時代初期)に宇陀松山藩にいた岡田氏は「十右衛門」「重矩」(用人)の名前の記載がある。

岡田の下で育った?と思われる九里政直。

そして、江戸中期の「九里政敬」も岡田氏出身である。(宇陀藩から柏原藩へ移封後)

岡村氏(牧氏)が「近江国中原氏族」だそうだが、その岡村氏に春日部郡川村城主岡田時常の娘が嫁いでいる。






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以下はmemo いつか役に立ちそう?…

岡田三郎助は1869年(明治2年)1月12日佐賀市八幡小路の旧鍋島藩士石尾家(孝基)に生まれた。
明治8年6歳の時から旧藩主鍋島直大侯爵の元に寄寓している。
鍋島邸には同じ佐賀県出身の百武兼行が描いた油絵が壁に掛けられており、このころからその絵に感動していたようだ。
37歳の時森鴎外の世話で小説家岡田八千代(23歳)と結婚。 
黒田清輝と久米桂一郎」が開いた画塾「天真道場」に入り二人の影響を強く受けることになる。1897年文部省初の美術留学生としてフランスへ渡り、黒田、久米の師ラファエル・コランに師事した。1902年に帰国し東京美術学校の教授に任命される。藤島武二と共に第1回文化勲章を受章する。1939年(昭和14年)没






























コメント (1)
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