九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

松尾社 神主相頼 その周辺

2019-04-10 | 飯田氏
コトバンクより
松尾社 雀部庄
《和名抄》にみえる雀部郷の一部である。松尾社前神主相頼父頼親が流失田25町を開発し,さらに便宜の田畠を相博して加え松尾社領荘園として立荘したことが,1197年(建久8)の相頼譲状と翌年の後鳥羽院庁下文にみえる。本家は松尾社で年貢を神用にあてていたが,領主職は頼親の譲をうけた相頼の子孫(秦(はた)氏)が相伝したようである。…


〈ささいべのしょう〉〈ささべのしょう〉ともいう。丹波国天田郡雀部(ささいべ)郷(《和名抄》)に成立した山城松尾社(松尾大社)領の荘園で,現京都府福知山市の前田・土・戸田・石原(いさ)・川北一帯に比定される。

天田川(由良川)が流れ,雀部荘堺より下流は松尾社の供菜所であった。当地が松尾社領となったのは1091年のことで,天田郡前貫首(かんじゅ)丹波兼定の寄進による。

のち松尾社神主頼親が松尾社を本家として立荘し,領主職はその子相頼以下子孫(東氏)に伝領された。

当荘は御厨(みくりや)的性格が強く,荘内に鵜飼いがいて鮭・鮎などの鮮魚を松尾社に備進するのが重要な課役であった。また宿直(とのい)役・夫役などを務めており,そのための12の番(番頭)制が形成されていた。

1186年梶原景時が関東下文によって当荘代官に補任され,景時失脚後は地頭が置かれた。以後鎌倉時代を通じて地頭・地頭代との相論が続いたが,幕府の安堵をうけ,室町時代も社領として命脈を保った。

~~~*~~~

つまりこの雀部庄の場合だけかもしれないが、秦氏=東氏 となる。
この荘園の周辺事情もよくわからないので、下記のページに助けてもらおう。関係のありそうな部分をピックアップしてみた。

https://tangonotimei.com/amata/sasaibeg.html

雀部は仁徳(大鷦鷯尊)のサザキを冠した御名代部とされる。『書紀』継体即位前記条によれば、丹波国桑田郡にいた仲哀五世孫の倭彦王を天皇にしようと迎えにきたのが物部麁鹿火大連と巨勢男人大臣であったという。

その後の異議申し立てでは、「巨勢と雀部はもともと祖先が同じで、氏姓が分れた後で大臣に任じられました。その結果、雀部氏がかつて大臣に任じられたのに、今では、巨勢氏がかつて大臣に任じられたことにされている」と述べ、認められている(『続日本紀』)。巨勢男人大臣とは実は雀部男人大臣であった。

神武記には子・神八井耳命は雀部臣、雀部造の祖。
また孝元記には、建内宿禰の子・許勢小柄宿禰は許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。とある。
「天孫本紀」では、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の八世孫が倭得玉彦命で、
九世孫が弟彦命。妹は日女命。
次に玉勝山代根古命(山代の水主の雀部連・軽部連・蘇宜部首等の祖。とある。

葛城氏系の巨勢氏系で西隣の宗部郷の蘇我氏などとは近い氏族と思われる。大和国高市郡巨勢郷(奈良県御所市古瀬)が巨勢氏の本貫のようで、御所市のゴセという市名もまた巨勢にちなむとか。
古代、5世紀頃までの大豪族、紀氏とも古くは同族、葛城氏・紀氏の大一族の一氏族が雀部氏である。


応神から武烈までの「河内王朝」「ワケ王朝」期の天皇の后はたいていが葛城氏で、なじみの市辺押磐皇子や弘計(顕宗)・億計(仁賢)・飯豊青皇女も葛城氏が母である。:
雀部氏の本貫ははっきりしたものがないが、だいたいこのあたりであろう。遺跡から見てもこのあたりの一帯が葛城氏の本拠地と見られ、雀部も葛城氏の本体部分の氏族かも知れない。

なお、六人部については尾張氏と同族。また和泉国諸蕃に「六人部連。百済公同祖。酒王之後也」、百済国酒王は河内国錦部郡あたりにいたようで、どちらにしても古くは大きくは葛城の一族ということになるかも知れない。律令時代の後の世では宗部とか笹部とか六人部などになっているが、それ以前は彼らの母体の葛城氏が押さえていた地であったと思われる。葛城氏は雄略時代に滅び、その後裔氏族、雀部氏などに引き継がれたのであろうか。

大和国葛上郡日置郷や朝妻や鴨も尾張(高尾張)も当地にあるので、こうしたなじみの氏族も当地あたりが本貫かも知れない。「高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の人為り、身短くして手足長し。侏儒と相類たり。皇軍、葛の網を結きて、掩襲ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号けて葛城と曰ふ」と紀にある高尾張も当市内にある。本当かどうか知らぬが葛城の元の名が高尾張だという、「天孫本紀」には天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の四世孫の瀛津世襲命は亦は云ふ葛木彦命、尾張連等の祖、とあり、どうも尾張氏は葛城とは関係が深そうに見える。用明紀に、葛城直磐村の娘の広子は一男一女を生んだ。男は麻呂子皇子という、当麻公の祖。とあり、鬼退治伝説の麻呂子親王もまたそうである。
丹後の竹野神社の祭神の一人の建豊波豆羅和気命もまた葛城之垂水宿祢の娘と開化の子である。

コセは天津の是社神社のコソであろうと思われ、新羅の始祖王は赫居世(かくこせ)という、カクコセハンと正式には読むのかも知れないが、そのコセだから巨勢氏は渡来氏と思われる、その同族雀部氏もまた本来は渡来氏かと思われる。
紀には、彼ら氏族の祖・英雄葛城襲津彦が朝鮮で活躍し四邑(桑原・佐糜・高宮・忍海)の漢人の始祖らを連れ帰ったの伝が載せられているが、何のこともない彼ら自身もより古い渡来人であったからそうしたことができたものと思われる
各地に雀部が置かれたが、その一つに沙沙貴神社(近江八幡市安土町)があり、のちの佐々木源氏(近江源氏)の拠点となった、京極氏や朽木氏などなじみの江戸期の藩主家もこの一族になる。

中世は雀部荘で、平安後期~戦国期の荘園。当荘は松尾大社領で松尾社の神菜を支えるため天田河(由良川)での魚釣の停止が命じられている。今も音無川と呼び、音無瀬橋があるのはこの慣例のためである。
松尾社領というが、もとは丹波兼定の先祖相伝の私領で、ずいぶんと広い所だが、以前から在地では丹波氏の支配を受けているようである。

寛治5年(1091)11月15日付の丹波国天田郡前貫首丹波兼定寄進状(松尾大社東家文書)に、
 丹波国天田郡前貫首丹波兼定謹辞
    奉寄 松尾御社御領私領田畠等事
   合壱処者
    在丹波国天田郡管[
    四至(割注・東限高津郷 南限□□□庄 西限土師郷并奄我 北限大山峯)
     副進田畠坪付壱通
  右、件田畠、兼定先祖相伝私領也、而寛治三年二
  月五日受病悩沈寝席、前後不覚之刻、可寄進松尾
  御社御領之由、令申祈□之処、以同八日夜、依有
  夢想之告、任祈請之□、忽得平癒、随件私領永寄
  進既畢、但於本公験者、以去応徳二年二月廿一日
  夜、不慮之外、従国衙依被追捕失了、而向後件公
  験等雖取出他人、敢不可有後日之沙汰、仍所寄進
  如右、謹解、
   寛治五年十一月十五日   前貫首丹波(花押)
                  (裏書)「兼定」

丹波氏は丹後国丹波郡丹波郷を本貫としたと考えらている、丹後王朝は葛城氏に対抗した三輪王朝系(のちの天皇氏系)氏族と同盟関係(開化妃の竹野媛・垂仁妃の日葉酢媛。天理市に丹波市という所があるが、こちら側に関係が深い)だが、但馬は葛城と結んで神功皇后を生んでいるし、葛城系の弘計・億計が丹後に逃れているからまったく葛城と関係がなかったわけでもない。
「続日本紀」延暦4年(785)正月17日条に天田郡大領丹波直広麻呂の名がみえ、天田郡でも支配的勢力となっていたと思われる。
南北朝以降は、秦(東)相憲-相衡-相季-相勝-相継-相言-相行-相郷と松尾社家東氏が代々伝領。
康安元年7月10日に荻野三河入道父子3人・杉本八郎父子5人などが荘内に乱入,当荘代官中務丞父子4人・上方公文父子4人・池辺四郎兵衛尉父子4人・林入道子3人・石原村孫三郎下人2人など41人が討たれるという事件が起こっている。
荘内の地名として「石原村」「富(戸カ)田村」「前田」「提村」「野中村」などが「松尾大社文書」「東家文書」に見える。

近代は雀部村で、明治22年~昭和11年の自治体。土師・前田・川北の3か村が合併して成立し、旧村名を継承した3大字を編成。昭和11年福知山町の一部となり、村制時の3大字は福知山町の大字に継承された。

~~~*~~~


《姓氏》
『丹波志』

雀部鍛冶 子孫 前田村 桜野ニ
雀部道明ト云鍛冶屋敷跡 今字ニ雀部屋教ト云 本ハ野道具ノ鍛冶也 天正年中明智光秀鎗矢ノ根ノ鍛タリ 細工ハ荒ケレトモ物ヲ能通ス故 雀部道明ト云四字ヲ付玉へリ 子孫ハ福智山下紺屋町鍛冶半兵衛ト云 前田村ニ雀部田地ト云所少有之トモ 今ハナシト云へり

ここに言う「桜野」は、現在の前田の小字桜(さくら)だそうで、古来原野であったという。現在では誰も知る者もないが、「毛吹草」丹波の章に「雀部矢根、鑓」とあって、世に知られていたことがわかるという。福知山市字鍛冶に、先代まで屋号を鉄屋といい、もと下紺屋町に住み、刀鍛冶をしていたという家があるそう。また御霊神社の宝物に「丹波住雀部道明」の銘のある大きな鏃があるそう。


雀部郷の主な歴史記録

『福知山市史』

雀部郷
雀部郷は佐々伊倍とよみ、上野・三河にもある。「ささいべ」及び「ささべ」というのは佐々岐倍の転訛といわれる。近世雀部荘といいまた福知山市に合併するまで雀部村と称していた区域は、和名抄の雀部郷である。山口氏の天田郡志資料上巻々頭の中世十郷図は、和名抄の郷名を地図化したものと思われ、それには土師の北に雀部郷が広く占めている。



『福知山・綾部の歴史』

雀部荘の成り立ち
雀部荘は、現在の雀部学区から土師を除き、戸田・石原・土を加えた地域である。平安後期から室町中期に至る間、京都の松尾大社の荘園であった。昔、雀部郷と呼ばれたこの地域は天田郡の豪族丹波氏の私領であったが、寛治五年(一〇九一)、丹波兼定が病気の快復を祈願して松尾大社に寄進したものである。

  雀部荘の経営組織
松尾大社は雀部荘の領主となって後、荘内の名田を七反ずつに均等化して五か名(三五反)で一つの番を構成し、一二か番を編成した。番には番頭が置かれ、番頭の所有する名を番の名称とした。この他、これも七反均一の庄屋名と呼ばれる二四か名があり、有力名主が所有していた。

荘園の荘務は、下司と呼ばれる役人が公文・案主らの下級荘官を指揮して、年貢・公事・夫役などの徴収にあたった。案主は政所(役所)で文書記録の保管作成にあたり、公文は年貢などの徴収を分担した。

  雀部荘のムラ
荘園時代の雀部郷には、富田(戸田)・石原・菅内・河与木・土・野中・堤の七か所の「ムラ」があり、このうち戸田・石原・土については現在の行政区に継承されている。

(笠原彰)

~~~*~~~

上記に登場する「丹波兼定」「摂津国左近衛将曹中臣近友」に関しても調べていく必要があると思われる。

又、相頼は長野の今溝荘にも登場している。

鎌倉期に見える荘園名水内【みのち】郡のうち郷名でも見える文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「〈松尾社領〉 今溝庄」と見え,当荘は山城松尾社領となっていた(吾妻鏡同年3月12日条/信史3)

仁治元年10月日の松尾社前神主秦相久陳状に「一,信濃国今溝庄事 副進……件庄者,相頼去永万年中募御供用途内,申下庄号 宣旨以来,代々付社務知行之,敢無相交他輩」と見え,当荘は平安末期の永万年間に荘号宣旨を得て立荘され,松尾社神主秦相頼-同頼康-同相能-同相久と伝領された(漂到流球国記裏文書/同前補遺上)

「沙石集」説話拾遺6の「説教師の施主分聞き悪きの事」には,更級【さらしな】の地頭の嫡女は当地の地頭の妻とあり,この地は「さい河の辺なれば,常に魚ある所にて」と記されている(信史4)

嘉暦4年3月日には「今溝・瀬黒郷地頭」が諏訪社上社五月会御射山の頭役を勤め(守矢文書/同前5),同年奥郡の「五町・栗田・今溝」が玉垣5間の造営所役を勤めている(諏訪大宮造営目録/信叢2)

また元徳元年12月10日の重阿譲状によると,「今溝庄北条内田弐段」は以前に重阿からその子長知に譲与されたが,長知が重阿に先立って死去したため,改めて息女大萱小太郎入道後家尼に一期分として譲与し,同2年2月25日幕府の安堵を得た(弥彦神社文書/信史5)なお今溝とは「新しくできた用水」という意味らしく,現在の北八幡堰がそれにあたるらしい現在の長野市高田・北条町などの一帯に比定される

1329年のことだが、「水内郡今溝荘北条の地頭沙弥歡阿の娘は、「大萱小太郎入道後家尼」(信史 5 一〇九)といわれ伊那郡大萱郷の大萱氏と結婚していた。…」とある。




コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯田家義  

2019-04-08 | 飯田氏

この方、関係がありそうです。
鎌倉時代の飯田氏 登場です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%AE%B6%E7%BE%A9

飯田 家義(いいだいえよし、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
桓武平氏秩父氏流渋谷重国の子
兄弟に光重、高重、時国、重助、重近、佐々木秀義室。

相模国高座郡長後(藤沢市)で誕生した。
大庭御厨の管理を行っていた大庭景親との所領争いの末、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)を治める。その後、景親と和睦しその娘を娶った。 

1180年(治承4年)、源頼朝が起こした石橋山の戦いでは、源氏方に加勢する計画であったが境川の前を平家方の総大将・景親に、後方を弟の俣野景久に挟まれ、その場は平家方として参戦した。しかし戦いの末少数となった頼朝勢を土肥の椙山(すぎやま)へと逃避させた。
なお椙山で頼朝は大庭軍の梶原景時に居所を知られるが、未発見を装うことで景時も頼朝の窮状を救った。

しかし後の富士川の戦いにて、家義は源氏方に参戦して武勲を挙げ、また石橋山での救援の件により頼朝から厚く信任され、論功行賞において平氏側だった者では家義だけが飯田郷を安堵され、地頭に任ぜられた。

1200年(正治2年)北条義時の命を受け、かつて石橋山の戦いで頼朝を救った仲である梶原景時を倒し駿河国大岡(沼津市)の地頭職を得た(梶原景時の変)。

晩年を過ごした飯田郷には、現在富士塚城址公園があり、空堀の跡も僅かだが残されている。

~~~*~~~
以下は歴博DBより 気になる一部なのだがコピーしておく。飯田(いいだ・はんだ)と関係する一部


蒲御厨と飯田氏:
角川地名=馬込川と天竜川の間に位置、範頼所生伝説あり=東大寺文書に見える地名によると、庄域は浜松市東部=正治1頼家、地頭職を停めて神宮に寄進
【備考】  神鳳鈔=550町、上分30石・在地領主=(開発)蒲神明社神官蒲氏(源氏)→内宮禰宜大中臣氏を通じ寄進→内宮領、給主;大中臣、検校職;源氏→地頭職→(鎌倉中期以後)得宗被官→(元弘3)泰家跡→岩松経家→(一時)高師泰→(明徳以後)東大寺→守護有力被官の代官請負・カ21307=室町院所領目録=「武家所進地頭職」・建久3神領注文=蒲御厨、内=給主内宮一禰宜成長等・明徳3義満=東大寺塔婆料所として寄進・『出典』追加:由良文書・東南院文書・妙照寺所蔵大般若経奥書・鎌倉大草紙


☆遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれる。
…という事で、【源範頼】と深く関係する。

さらに以下の情報もある。
周智郡森町:その地は蒲御厨飯田郷であり、飯田庄を周智郡森町に比定

山内庄の中にも「飯田」

下総 海上 橘庄 :
荘園志料=「海上庄」「東庄」ともいう・角川地名=東庄=千葉常重の私領であった国衙領立花郷の後身=正和2,4,25関東下知状に「橘庄号東庄」円福寺文
千葉胤頼子孫東氏の名字の地で、保延二年に収公された祖父常重の私領「立花郷」の後身と推察・荘園志料は汎称して海上庄ともいうとするが、海上庄は別置・『東鑑』文治2乃貢未済庄々注文=橘并木内庄=二位大納言・石井新二「東庄」=二位大納言を藤原兼房(兼実弟)と推定=三崎庄とともに摂関家領で皇嘉門院領であったと推察し千田親雅との関係を想定・香取社遷宮用途注進状=100石究済


信濃 伊那 伊賀良庄 :
平凡地名=北は飯田台地の南を流れる松川、南は阿知川に至る天竜川西岸一帯=鼎町〜飯田市松尾、伊賀良、山本地区〜阿智村会地、伍和〜阿南町
【備考】  ヘキ352=キヨ231=和歌山県那智山出土銅経筒銘文=保元1「信濃国伊那郡伊賀覧御庄中村郷光明寺」・嘉暦四年諏訪上社頭役下知状=地頭=江馬遠江前司後家、江馬越前前司など・鳩ヶ嶺八幡宮(木像神像)銘文「弘安戌子五月」・殿岡地頭四条頼基、日蓮を後援・文治4時政地頭→元徳1時見、篤時ら→跡=得宗領

丹波 天田 雀部庄(ササイベ ):
『地名辞典』追加:=建久9年貢200石=嘉禎4地頭と相論=元徳1松尾社の社家相論あり=伝領関係は松尾社家東氏相伝=秦(東)相憲→相衡→相季→相勝→相継→相言→相行→相郷・カ5315嘉禎4六波羅下知状=当庄は天承2松尾社日次供祭料所として宣下=治承に梶原景時地頭代職=正治2飯田清重景時追討の功により地頭職→嘉禎4地頭光信(大宅)新儀非法停止・康永3師守記=丹後国後三条院勅旨田内雀部郷=文殿廻・→4106021「三条院勅旨田」参照・ヘ1301寛治5天田郡前貫首丹波兼定寄進状=当庄の事か

~~~*~~~

この飯田氏、地頭を補任されていることからも、富木(富城)とも繋がってくるのでは、と思う。

丹波国の蓮忍が地頭であった「河守御荘」付近の「雀部庄」が「飯田氏」であったこと。その後は大宅へとなっているが、実はこの大宅光信は飯田清重の息のようである。

http://kougenji.la.coocan.jp/s/takahasi/0003.html


その後秦氏(東氏)と関連してくるようである。

さらに調べていくと、雀部庄は松尾社と関係が深く、
コトバンクによると以下のようである。

丹波国天田郡(現,京都府福知山市上佐々木,下佐々木)にあった荘園。
《和名抄》にみえる雀部郷の一部である。松尾社前神主相頼の父頼親が流失田25町を開発し,さらに便宜の田畠を相博して加え松尾社領荘園として立荘したことが,1197年(建久8)の相頼譲状と翌年の後鳥羽院庁下文にみえる。本家は松尾社で年貢を神用にあてていたが,領主職は頼親の譲をうけた相頼の子孫(秦(はた)氏)が相伝したようである。鎌倉時代に地頭や地頭代の狼藉があったが幕府の安堵をうけ,南北朝の争乱にさいしても濫妨狼藉がみられたが,室町幕府や朝廷によりその領有が保障されている。

この相頼周辺は明日以降に…と思う。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江国の飯田氏

2019-03-31 | 飯田氏

近江国の飯田氏に関して、である。

河上荘(近江国高島郡)の地頭職を朽木氏の家の者「飯田新兵衛」に補任することの文書が残っている。

この新兵衛は「飯田新右衛門忠経」や「貞経」と同族であるのではないかと思われる。

殿原衆という名も出てきた。
殿原衆とは、何なのか?

以下は、豊後とのかかわりのある清原系の飯田氏のことである。

また、清原氏のなかの飯田氏!
清原正高の系より出ているようだが…


http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hoashi1.htm


平安後期から戦国期まで、豊後国の山奥の玖珠郡を中心に、居住地の名に因み帆足、長野飯田などを苗字とする清原姓と称する武家が繁衍して、豊後清原氏とか豊後清原党、長野党と呼ばれ、主な家が十二氏とも二四氏(玖珠衆二四家)ともいわれます。

そのなかでは、玖珠郡帆足郷(現玖珠町帆足)に起った帆足氏が有力な家の一つであり、惣領家ともいうべき長野氏が一旦滅んだ後は、中心的な存在といえます。

江戸後期の儒学者帆足万里(1778~1852)などを出して有名です。豊後清原氏といわれるように、その初祖を平安後期の清原正高として異伝がなく、以下連綿として血脈を伝えます。

 この清原一族としては、長野、古後、山田、大隈、太田、志津利、原口(一に原田)、綾垣、今村、平井、須恵、粟野、小田、引地、横尾、魚返、飯田、帆足、大窪、森、岩室、片平田、松木、薗田、小野、美良津、恵良、下恵良、武宮、野上、右田などの苗字があげられ、これら苗字のもととなった地名が玖珠郡の玖珠町・九重町の玖珠川上流沿岸に連なって存在します。

~~~*~~~

以上のことで、清原氏から出てきた「飯田氏」が豊後にいることがわかった。
が、清原正高より出たことは疑わしいかもしれない、が、「玖珠郡に初めて来住したという清原正高は、天智天皇後裔の皇孫ではなく、肥後の阿蘇国造一族の出で阿蘇神官の笠氏の系譜を引くものであり、阿蘇郡小国からやってきたとみるのが自然である。」とある。

最後に不思議なことが書かれている。
「 最後に、正高がなぜ清原真人姓を称したかの事情は、相変わらず不明のままである。ただ、遠く離れた遠江国山名郡に奇妙な暗合があるので、参考のため付記しておく。

それは、遠江国一宮とされる小国神社の神主は清原真人氏であったことである。『朝野群載』巻六に所載の「神祇官移」には、永保二年(1082)十月に小国社の神主に清原則房を補任したと見える。
 遠江国の式内社である小国神社が鎮座するのは現・周智郡森町であり、同社末社に塩井神社があり、近隣の森町天宮には天宮神社があって、欽明天皇の時に、九州筑紫国の宗像神社の祭神を遷し祭ったのが創祀とされる。近くの太田川流域には飯田の地名も見えるが、ここであげた「小国、森、塩井、天宮、太田、飯田」は、玖珠郡及び阿蘇郡で見える地名と神社である。

遠江国一宮では十二段舞楽が伝統的に伝えられ、大祢宜の鈴木左近家は代々舞楽師範家であったというが、肥後の神楽歌に上記一目神社が読み込まれ(宣長の『玉勝間』)、豊後の玖珠郡では上記嵐山滝神社などで神楽が盛んに行われてきたという事情がある。

遠江国造が天孫族の物部氏族の流れを汲んでいたことと、阿蘇氏族も天孫族から出たという事情は共通するが、それだけで類似現象が起きるのであろうか。いずれにせよ、阿蘇と遠江とのつながりは興味深い。

~~~*~~~

一目神社のことは、上記のアドレスの文章の中にある。
「豊後清原氏の先祖の系図を考える第一の視点として、国学者帆足長秋(1757~1822)の系統がある。帆足長秋は、肥後国山鹿郡久原村の天目一神社(現社名は薄野一目神社。熊本県山鹿市久原字薄野に鎮座)の神主で、国学者であった。」




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする