コトバンクより
松尾社 雀部庄
《和名抄》にみえる雀部郷の一部である。松尾社前神主相頼の父頼親が流失田25町を開発し,さらに便宜の田畠を相博して加え松尾社領荘園として立荘したことが,1197年(建久8)の相頼譲状と翌年の後鳥羽院庁下文にみえる。本家は松尾社で年貢を神用にあてていたが,領主職は頼親の譲をうけた相頼の子孫(秦(はた)氏)が相伝したようである。…
〈ささいべのしょう〉〈ささべのしょう〉ともいう。丹波国天田郡雀部(ささいべ)郷(《和名抄》)に成立した山城松尾社(松尾大社)領の荘園で,現京都府福知山市の前田・土・戸田・石原(いさ)・川北一帯に比定される。
天田川(由良川)が流れ,雀部荘堺より下流は松尾社の供菜所であった。当地が松尾社領となったのは1091年のことで,天田郡前貫首(かんじゅ)丹波兼定の寄進による。
のち松尾社神主頼親が松尾社を本家として立荘し,領主職はその子相頼以下子孫(東氏)に伝領された。
当荘は御厨(みくりや)的性格が強く,荘内に鵜飼いがいて鮭・鮎などの鮮魚を松尾社に備進するのが重要な課役であった。また宿直(とのい)役・夫役などを務めており,そのための12の番(番頭)制が形成されていた。
1186年梶原景時が関東下文によって当荘代官に補任され,景時失脚後は地頭が置かれた。以後鎌倉時代を通じて地頭・地頭代との相論が続いたが,幕府の安堵をうけ,室町時代も社領として命脈を保った。
~~~*~~~
つまりこの雀部庄の場合だけかもしれないが、秦氏=東氏 となる。
この荘園の周辺事情もよくわからないので、下記のページに助けてもらおう。関係のありそうな部分をピックアップしてみた。
https://tangonotimei.com/amata/sasaibeg.html
雀部は仁徳(大鷦鷯尊)のサザキを冠した御名代部とされる。『書紀』継体即位前記条によれば、丹波国桑田郡にいた仲哀五世孫の倭彦王を天皇にしようと迎えにきたのが物部麁鹿火大連と巨勢男人大臣であったという。
その後の異議申し立てでは、「巨勢と雀部はもともと祖先が同じで、氏姓が分れた後で大臣に任じられました。その結果、雀部氏がかつて大臣に任じられたのに、今では、巨勢氏がかつて大臣に任じられたことにされている」と述べ、認められている(『続日本紀』)。巨勢男人大臣とは実は雀部男人大臣であった。
神武記には子・神八井耳命は雀部臣、雀部造の祖。
また孝元記には、建内宿禰の子・許勢小柄宿禰は許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。とある。
「天孫本紀」では、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の八世孫が倭得玉彦命で、
九世孫が弟彦命。妹は日女命。
次に玉勝山代根古命(山代の水主の雀部連・軽部連・蘇宜部首等の祖。とある。
葛城氏系の巨勢氏系で西隣の宗部郷の蘇我氏などとは近い氏族と思われる。大和国高市郡巨勢郷(奈良県御所市古瀬)が巨勢氏の本貫のようで、御所市のゴセという市名もまた巨勢にちなむとか。
古代、5世紀頃までの大豪族、紀氏とも古くは同族、葛城氏・紀氏の大一族の一氏族が雀部氏である。
応神から武烈までの「河内王朝」「ワケ王朝」期の天皇の后はたいていが葛城氏で、なじみの市辺押磐皇子や弘計(顕宗)・億計(仁賢)・飯豊青皇女も葛城氏が母である。:
雀部氏の本貫ははっきりしたものがないが、だいたいこのあたりであろう。遺跡から見てもこのあたりの一帯が葛城氏の本拠地と見られ、雀部も葛城氏の本体部分の氏族かも知れない。
なお、六人部については尾張氏と同族。また和泉国諸蕃に「六人部連。百済公同祖。酒王之後也」、百済国酒王は河内国錦部郡あたりにいたようで、どちらにしても古くは大きくは葛城の一族ということになるかも知れない。律令時代の後の世では宗部とか笹部とか六人部などになっているが、それ以前は彼らの母体の葛城氏が押さえていた地であったと思われる。葛城氏は雄略時代に滅び、その後裔氏族、雀部氏などに引き継がれたのであろうか。
大和国葛上郡日置郷や朝妻や鴨も尾張(高尾張)も当地にあるので、こうしたなじみの氏族も当地あたりが本貫かも知れない。「高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の人為り、身短くして手足長し。侏儒と相類たり。皇軍、葛の網を結きて、掩襲ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号けて葛城と曰ふ」と紀にある高尾張も当市内にある。本当かどうか知らぬが葛城の元の名が高尾張だという、「天孫本紀」には天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の四世孫の瀛津世襲命は亦は云ふ葛木彦命、尾張連等の祖、とあり、どうも尾張氏は葛城とは関係が深そうに見える。用明紀に、葛城直磐村の娘の広子は一男一女を生んだ。男は麻呂子皇子という、当麻公の祖。とあり、鬼退治伝説の麻呂子親王もまたそうである。
丹後の竹野神社の祭神の一人の建豊波豆羅和気命もまた葛城之垂水宿祢の娘と開化の子である。
コセは天津の是社神社のコソであろうと思われ、新羅の始祖王は赫居世(かくこせ)という、カクコセハンと正式には読むのかも知れないが、そのコセだから巨勢氏は渡来氏と思われる、その同族雀部氏もまた本来は渡来氏かと思われる。
紀には、彼ら氏族の祖・英雄葛城襲津彦が朝鮮で活躍し四邑(桑原・佐糜・高宮・忍海)の漢人の始祖らを連れ帰ったの伝が載せられているが、何のこともない彼ら自身もより古い渡来人であったからそうしたことができたものと思われる
各地に雀部が置かれたが、その一つに沙沙貴神社(近江八幡市安土町)があり、のちの佐々木源氏(近江源氏)の拠点となった、京極氏や朽木氏などなじみの江戸期の藩主家もこの一族になる。
中世は雀部荘で、平安後期~戦国期の荘園。当荘は松尾大社領で松尾社の神菜を支えるため天田河(由良川)での魚釣の停止が命じられている。今も音無川と呼び、音無瀬橋があるのはこの慣例のためである。
松尾社領というが、もとは丹波兼定の先祖相伝の私領で、ずいぶんと広い所だが、以前から在地では丹波氏の支配を受けているようである。
寛治5年(1091)11月15日付の丹波国天田郡前貫首丹波兼定寄進状(松尾大社東家文書)に、
丹波国天田郡前貫首丹波兼定謹辞
奉寄 松尾御社御領私領田畠等事
合壱処者
在丹波国天田郡管[
四至(割注・東限高津郷 南限□□□庄 西限土師郷并奄我 北限大山峯)
副進田畠坪付壱通
右、件田畠、兼定先祖相伝私領也、而寛治三年二
月五日受病悩沈寝席、前後不覚之刻、可寄進松尾
御社御領之由、令申祈□之処、以同八日夜、依有
夢想之告、任祈請之□、忽得平癒、随件私領永寄
進既畢、但於本公験者、以去応徳二年二月廿一日
夜、不慮之外、従国衙依被追捕失了、而向後件公
験等雖取出他人、敢不可有後日之沙汰、仍所寄進
如右、謹解、
寛治五年十一月十五日 前貫首丹波(花押)
(裏書)「兼定」
丹波氏は丹後国丹波郡丹波郷を本貫としたと考えらている、丹後王朝は葛城氏に対抗した三輪王朝系(のちの天皇氏系)氏族と同盟関係(開化妃の竹野媛・垂仁妃の日葉酢媛。天理市に丹波市という所があるが、こちら側に関係が深い)だが、但馬は葛城と結んで神功皇后を生んでいるし、葛城系の弘計・億計が丹後に逃れているからまったく葛城と関係がなかったわけでもない。
「続日本紀」延暦4年(785)正月17日条に天田郡大領丹波直広麻呂の名がみえ、天田郡でも支配的勢力となっていたと思われる。
南北朝以降は、秦(東)相憲-相衡-相季-相勝-相継-相言-相行-相郷と松尾社家東氏が代々伝領。
康安元年7月10日に荻野三河入道父子3人・杉本八郎父子5人などが荘内に乱入,当荘代官中務丞父子4人・上方公文父子4人・池辺四郎兵衛尉父子4人・林入道子3人・石原村孫三郎下人2人など41人が討たれるという事件が起こっている。
荘内の地名として「石原村」「富(戸カ)田村」「前田」「提村」「野中村」などが「松尾大社文書」「東家文書」に見える。
近代は雀部村で、明治22年~昭和11年の自治体。土師・前田・川北の3か村が合併して成立し、旧村名を継承した3大字を編成。昭和11年福知山町の一部となり、村制時の3大字は福知山町の大字に継承された。
~~~*~~~
《姓氏》
『丹波志』
雀部鍛冶 子孫 前田村 桜野ニ
雀部道明ト云鍛冶屋敷跡 今字ニ雀部屋教ト云 本ハ野道具ノ鍛冶也 天正年中明智光秀鎗矢ノ根ノ鍛タリ 細工ハ荒ケレトモ物ヲ能通ス故 雀部道明ト云四字ヲ付玉へリ 子孫ハ福智山下紺屋町鍛冶半兵衛ト云 前田村ニ雀部田地ト云所少有之トモ 今ハナシト云へり
ここに言う「桜野」は、現在の前田の小字桜(さくら)だそうで、古来原野であったという。現在では誰も知る者もないが、「毛吹草」丹波の章に「雀部矢根、鑓」とあって、世に知られていたことがわかるという。福知山市字鍛冶に、先代まで屋号を鉄屋といい、もと下紺屋町に住み、刀鍛冶をしていたという家があるそう。また御霊神社の宝物に「丹波住雀部道明」の銘のある大きな鏃があるそう。
雀部郷の主な歴史記録
『福知山市史』
雀部郷
雀部郷は佐々伊倍とよみ、上野・三河にもある。「ささいべ」及び「ささべ」というのは佐々岐倍の転訛といわれる。近世雀部荘といいまた福知山市に合併するまで雀部村と称していた区域は、和名抄の雀部郷である。山口氏の天田郡志資料上巻々頭の中世十郷図は、和名抄の郷名を地図化したものと思われ、それには土師の北に雀部郷が広く占めている。
『福知山・綾部の歴史』
雀部荘の成り立ち
雀部荘は、現在の雀部学区から土師を除き、戸田・石原・土を加えた地域である。平安後期から室町中期に至る間、京都の松尾大社の荘園であった。昔、雀部郷と呼ばれたこの地域は天田郡の豪族丹波氏の私領であったが、寛治五年(一〇九一)、丹波兼定が病気の快復を祈願して松尾大社に寄進したものである。
雀部荘の経営組織
松尾大社は雀部荘の領主となって後、荘内の名田を七反ずつに均等化して五か名(三五反)で一つの番を構成し、一二か番を編成した。番には番頭が置かれ、番頭の所有する名を番の名称とした。この他、これも七反均一の庄屋名と呼ばれる二四か名があり、有力名主が所有していた。
荘園の荘務は、下司と呼ばれる役人が公文・案主らの下級荘官を指揮して、年貢・公事・夫役などの徴収にあたった。案主は政所(役所)で文書記録の保管作成にあたり、公文は年貢などの徴収を分担した。
雀部荘のムラ
荘園時代の雀部郷には、富田(戸田)・石原・菅内・河与木・土・野中・堤の七か所の「ムラ」があり、このうち戸田・石原・土については現在の行政区に継承されている。
(笠原彰)
~~~*~~~
上記に登場する「丹波兼定」「摂津国左近衛将曹中臣近友」に関しても調べていく必要があると思われる。
又、相頼は長野の今溝荘にも登場している。
鎌倉期に見える荘園名水内【みのち】郡のうち郷名でも見える文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「〈松尾社領〉 今溝庄」と見え,当荘は山城松尾社領となっていた(吾妻鏡同年3月12日条/信史3)
仁治元年10月日の松尾社前神主秦相久陳状に「一,信濃国今溝庄事 副進……件庄者,相頼去永万年中募御供用途内,申下庄号 宣旨以来,代々付社務知行之,敢無相交他輩」と見え,当荘は平安末期の永万年間に荘号宣旨を得て立荘され,松尾社神主秦相頼-同頼康-同相能-同相久と伝領された(漂到流球国記裏文書/同前補遺上)
「沙石集」説話拾遺6の「説教師の施主分聞き悪きの事」には,更級【さらしな】の地頭の嫡女は当地の地頭の妻とあり,この地は「さい河の辺なれば,常に魚ある所にて」と記されている(信史4)
嘉暦4年3月日には「今溝・瀬黒郷地頭」が諏訪社上社五月会御射山の頭役を勤め(守矢文書/同前5),同年奥郡の「五町・栗田・今溝」が玉垣5間の造営所役を勤めている(諏訪大宮造営目録/信叢2)
また元徳元年12月10日の重阿譲状によると,「今溝庄北条内田弐段」は以前に重阿からその子長知に譲与されたが,長知が重阿に先立って死去したため,改めて息女大萱小太郎入道後家尼に一期分として譲与し,同2年2月25日幕府の安堵を得た(弥彦神社文書/信史5)なお今溝とは「新しくできた用水」という意味らしく,現在の北八幡堰がそれにあたるらしい現在の長野市高田・北条町などの一帯に比定される
1329年のことだが、「水内郡今溝荘北条の地頭沙弥歡阿の娘は、「大萱小太郎入道後家尼」(信史 5 一〇九)といわれ伊那郡大萱郷の大萱氏と結婚していた。…」とある。
松尾社 雀部庄
《和名抄》にみえる雀部郷の一部である。松尾社前神主相頼の父頼親が流失田25町を開発し,さらに便宜の田畠を相博して加え松尾社領荘園として立荘したことが,1197年(建久8)の相頼譲状と翌年の後鳥羽院庁下文にみえる。本家は松尾社で年貢を神用にあてていたが,領主職は頼親の譲をうけた相頼の子孫(秦(はた)氏)が相伝したようである。…
〈ささいべのしょう〉〈ささべのしょう〉ともいう。丹波国天田郡雀部(ささいべ)郷(《和名抄》)に成立した山城松尾社(松尾大社)領の荘園で,現京都府福知山市の前田・土・戸田・石原(いさ)・川北一帯に比定される。
天田川(由良川)が流れ,雀部荘堺より下流は松尾社の供菜所であった。当地が松尾社領となったのは1091年のことで,天田郡前貫首(かんじゅ)丹波兼定の寄進による。
のち松尾社神主頼親が松尾社を本家として立荘し,領主職はその子相頼以下子孫(東氏)に伝領された。
当荘は御厨(みくりや)的性格が強く,荘内に鵜飼いがいて鮭・鮎などの鮮魚を松尾社に備進するのが重要な課役であった。また宿直(とのい)役・夫役などを務めており,そのための12の番(番頭)制が形成されていた。
1186年梶原景時が関東下文によって当荘代官に補任され,景時失脚後は地頭が置かれた。以後鎌倉時代を通じて地頭・地頭代との相論が続いたが,幕府の安堵をうけ,室町時代も社領として命脈を保った。
~~~*~~~
つまりこの雀部庄の場合だけかもしれないが、秦氏=東氏 となる。
この荘園の周辺事情もよくわからないので、下記のページに助けてもらおう。関係のありそうな部分をピックアップしてみた。
https://tangonotimei.com/amata/sasaibeg.html
雀部は仁徳(大鷦鷯尊)のサザキを冠した御名代部とされる。『書紀』継体即位前記条によれば、丹波国桑田郡にいた仲哀五世孫の倭彦王を天皇にしようと迎えにきたのが物部麁鹿火大連と巨勢男人大臣であったという。
その後の異議申し立てでは、「巨勢と雀部はもともと祖先が同じで、氏姓が分れた後で大臣に任じられました。その結果、雀部氏がかつて大臣に任じられたのに、今では、巨勢氏がかつて大臣に任じられたことにされている」と述べ、認められている(『続日本紀』)。巨勢男人大臣とは実は雀部男人大臣であった。
神武記には子・神八井耳命は雀部臣、雀部造の祖。
また孝元記には、建内宿禰の子・許勢小柄宿禰は許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。とある。
「天孫本紀」では、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の八世孫が倭得玉彦命で、
九世孫が弟彦命。妹は日女命。
次に玉勝山代根古命(山代の水主の雀部連・軽部連・蘇宜部首等の祖。とある。
葛城氏系の巨勢氏系で西隣の宗部郷の蘇我氏などとは近い氏族と思われる。大和国高市郡巨勢郷(奈良県御所市古瀬)が巨勢氏の本貫のようで、御所市のゴセという市名もまた巨勢にちなむとか。
古代、5世紀頃までの大豪族、紀氏とも古くは同族、葛城氏・紀氏の大一族の一氏族が雀部氏である。
応神から武烈までの「河内王朝」「ワケ王朝」期の天皇の后はたいていが葛城氏で、なじみの市辺押磐皇子や弘計(顕宗)・億計(仁賢)・飯豊青皇女も葛城氏が母である。:
雀部氏の本貫ははっきりしたものがないが、だいたいこのあたりであろう。遺跡から見てもこのあたりの一帯が葛城氏の本拠地と見られ、雀部も葛城氏の本体部分の氏族かも知れない。
なお、六人部については尾張氏と同族。また和泉国諸蕃に「六人部連。百済公同祖。酒王之後也」、百済国酒王は河内国錦部郡あたりにいたようで、どちらにしても古くは大きくは葛城の一族ということになるかも知れない。律令時代の後の世では宗部とか笹部とか六人部などになっているが、それ以前は彼らの母体の葛城氏が押さえていた地であったと思われる。葛城氏は雄略時代に滅び、その後裔氏族、雀部氏などに引き継がれたのであろうか。
大和国葛上郡日置郷や朝妻や鴨も尾張(高尾張)も当地にあるので、こうしたなじみの氏族も当地あたりが本貫かも知れない。「高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の人為り、身短くして手足長し。侏儒と相類たり。皇軍、葛の網を結きて、掩襲ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号けて葛城と曰ふ」と紀にある高尾張も当市内にある。本当かどうか知らぬが葛城の元の名が高尾張だという、「天孫本紀」には天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の四世孫の瀛津世襲命は亦は云ふ葛木彦命、尾張連等の祖、とあり、どうも尾張氏は葛城とは関係が深そうに見える。用明紀に、葛城直磐村の娘の広子は一男一女を生んだ。男は麻呂子皇子という、当麻公の祖。とあり、鬼退治伝説の麻呂子親王もまたそうである。
丹後の竹野神社の祭神の一人の建豊波豆羅和気命もまた葛城之垂水宿祢の娘と開化の子である。
コセは天津の是社神社のコソであろうと思われ、新羅の始祖王は赫居世(かくこせ)という、カクコセハンと正式には読むのかも知れないが、そのコセだから巨勢氏は渡来氏と思われる、その同族雀部氏もまた本来は渡来氏かと思われる。
紀には、彼ら氏族の祖・英雄葛城襲津彦が朝鮮で活躍し四邑(桑原・佐糜・高宮・忍海)の漢人の始祖らを連れ帰ったの伝が載せられているが、何のこともない彼ら自身もより古い渡来人であったからそうしたことができたものと思われる
各地に雀部が置かれたが、その一つに沙沙貴神社(近江八幡市安土町)があり、のちの佐々木源氏(近江源氏)の拠点となった、京極氏や朽木氏などなじみの江戸期の藩主家もこの一族になる。
中世は雀部荘で、平安後期~戦国期の荘園。当荘は松尾大社領で松尾社の神菜を支えるため天田河(由良川)での魚釣の停止が命じられている。今も音無川と呼び、音無瀬橋があるのはこの慣例のためである。
松尾社領というが、もとは丹波兼定の先祖相伝の私領で、ずいぶんと広い所だが、以前から在地では丹波氏の支配を受けているようである。
寛治5年(1091)11月15日付の丹波国天田郡前貫首丹波兼定寄進状(松尾大社東家文書)に、
丹波国天田郡前貫首丹波兼定謹辞
奉寄 松尾御社御領私領田畠等事
合壱処者
在丹波国天田郡管[
四至(割注・東限高津郷 南限□□□庄 西限土師郷并奄我 北限大山峯)
副進田畠坪付壱通
右、件田畠、兼定先祖相伝私領也、而寛治三年二
月五日受病悩沈寝席、前後不覚之刻、可寄進松尾
御社御領之由、令申祈□之処、以同八日夜、依有
夢想之告、任祈請之□、忽得平癒、随件私領永寄
進既畢、但於本公験者、以去応徳二年二月廿一日
夜、不慮之外、従国衙依被追捕失了、而向後件公
験等雖取出他人、敢不可有後日之沙汰、仍所寄進
如右、謹解、
寛治五年十一月十五日 前貫首丹波(花押)
(裏書)「兼定」
丹波氏は丹後国丹波郡丹波郷を本貫としたと考えらている、丹後王朝は葛城氏に対抗した三輪王朝系(のちの天皇氏系)氏族と同盟関係(開化妃の竹野媛・垂仁妃の日葉酢媛。天理市に丹波市という所があるが、こちら側に関係が深い)だが、但馬は葛城と結んで神功皇后を生んでいるし、葛城系の弘計・億計が丹後に逃れているからまったく葛城と関係がなかったわけでもない。
「続日本紀」延暦4年(785)正月17日条に天田郡大領丹波直広麻呂の名がみえ、天田郡でも支配的勢力となっていたと思われる。
南北朝以降は、秦(東)相憲-相衡-相季-相勝-相継-相言-相行-相郷と松尾社家東氏が代々伝領。
康安元年7月10日に荻野三河入道父子3人・杉本八郎父子5人などが荘内に乱入,当荘代官中務丞父子4人・上方公文父子4人・池辺四郎兵衛尉父子4人・林入道子3人・石原村孫三郎下人2人など41人が討たれるという事件が起こっている。
荘内の地名として「石原村」「富(戸カ)田村」「前田」「提村」「野中村」などが「松尾大社文書」「東家文書」に見える。
近代は雀部村で、明治22年~昭和11年の自治体。土師・前田・川北の3か村が合併して成立し、旧村名を継承した3大字を編成。昭和11年福知山町の一部となり、村制時の3大字は福知山町の大字に継承された。
~~~*~~~
《姓氏》
『丹波志』
雀部鍛冶 子孫 前田村 桜野ニ
雀部道明ト云鍛冶屋敷跡 今字ニ雀部屋教ト云 本ハ野道具ノ鍛冶也 天正年中明智光秀鎗矢ノ根ノ鍛タリ 細工ハ荒ケレトモ物ヲ能通ス故 雀部道明ト云四字ヲ付玉へリ 子孫ハ福智山下紺屋町鍛冶半兵衛ト云 前田村ニ雀部田地ト云所少有之トモ 今ハナシト云へり
ここに言う「桜野」は、現在の前田の小字桜(さくら)だそうで、古来原野であったという。現在では誰も知る者もないが、「毛吹草」丹波の章に「雀部矢根、鑓」とあって、世に知られていたことがわかるという。福知山市字鍛冶に、先代まで屋号を鉄屋といい、もと下紺屋町に住み、刀鍛冶をしていたという家があるそう。また御霊神社の宝物に「丹波住雀部道明」の銘のある大きな鏃があるそう。
雀部郷の主な歴史記録
『福知山市史』
雀部郷
雀部郷は佐々伊倍とよみ、上野・三河にもある。「ささいべ」及び「ささべ」というのは佐々岐倍の転訛といわれる。近世雀部荘といいまた福知山市に合併するまで雀部村と称していた区域は、和名抄の雀部郷である。山口氏の天田郡志資料上巻々頭の中世十郷図は、和名抄の郷名を地図化したものと思われ、それには土師の北に雀部郷が広く占めている。
『福知山・綾部の歴史』
雀部荘の成り立ち
雀部荘は、現在の雀部学区から土師を除き、戸田・石原・土を加えた地域である。平安後期から室町中期に至る間、京都の松尾大社の荘園であった。昔、雀部郷と呼ばれたこの地域は天田郡の豪族丹波氏の私領であったが、寛治五年(一〇九一)、丹波兼定が病気の快復を祈願して松尾大社に寄進したものである。
雀部荘の経営組織
松尾大社は雀部荘の領主となって後、荘内の名田を七反ずつに均等化して五か名(三五反)で一つの番を構成し、一二か番を編成した。番には番頭が置かれ、番頭の所有する名を番の名称とした。この他、これも七反均一の庄屋名と呼ばれる二四か名があり、有力名主が所有していた。
荘園の荘務は、下司と呼ばれる役人が公文・案主らの下級荘官を指揮して、年貢・公事・夫役などの徴収にあたった。案主は政所(役所)で文書記録の保管作成にあたり、公文は年貢などの徴収を分担した。
雀部荘のムラ
荘園時代の雀部郷には、富田(戸田)・石原・菅内・河与木・土・野中・堤の七か所の「ムラ」があり、このうち戸田・石原・土については現在の行政区に継承されている。
(笠原彰)
~~~*~~~
上記に登場する「丹波兼定」「摂津国左近衛将曹中臣近友」に関しても調べていく必要があると思われる。
又、相頼は長野の今溝荘にも登場している。
鎌倉期に見える荘園名水内【みのち】郡のうち郷名でも見える文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「〈松尾社領〉 今溝庄」と見え,当荘は山城松尾社領となっていた(吾妻鏡同年3月12日条/信史3)
仁治元年10月日の松尾社前神主秦相久陳状に「一,信濃国今溝庄事 副進……件庄者,相頼去永万年中募御供用途内,申下庄号 宣旨以来,代々付社務知行之,敢無相交他輩」と見え,当荘は平安末期の永万年間に荘号宣旨を得て立荘され,松尾社神主秦相頼-同頼康-同相能-同相久と伝領された(漂到流球国記裏文書/同前補遺上)
「沙石集」説話拾遺6の「説教師の施主分聞き悪きの事」には,更級【さらしな】の地頭の嫡女は当地の地頭の妻とあり,この地は「さい河の辺なれば,常に魚ある所にて」と記されている(信史4)
嘉暦4年3月日には「今溝・瀬黒郷地頭」が諏訪社上社五月会御射山の頭役を勤め(守矢文書/同前5),同年奥郡の「五町・栗田・今溝」が玉垣5間の造営所役を勤めている(諏訪大宮造営目録/信叢2)
また元徳元年12月10日の重阿譲状によると,「今溝庄北条内田弐段」は以前に重阿からその子長知に譲与されたが,長知が重阿に先立って死去したため,改めて息女大萱小太郎入道後家尼に一期分として譲与し,同2年2月25日幕府の安堵を得た(弥彦神社文書/信史5)なお今溝とは「新しくできた用水」という意味らしく,現在の北八幡堰がそれにあたるらしい現在の長野市高田・北条町などの一帯に比定される
1329年のことだが、「水内郡今溝荘北条の地頭沙弥歡阿の娘は、「大萱小太郎入道後家尼」(信史 5 一〇九)といわれ伊那郡大萱郷の大萱氏と結婚していた。…」とある。