九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

大中臣・真板・片岡・新堀… 佐竹本 大中臣頼基

2022-08-04 | 大中臣氏

大中臣朝臣公利、鹿島宮司となる(類聚符宣抄)…1007年(寛弘4年)

公利以下鹿島片岡に土着すとあり。

 

「萩原・片岡・荒原等の地区の人々が使った井戸です。今も水が湧き出ています。」とあり、だいたいの場所がわかる。

https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50206.html

 

各地の片岡氏 http://www.myouji.org/MFDocuments2/kataoka.htm

 

http://yaminabe36.tuzigiri.com/ibarakikenou/hokota1.htm

『新縞常陸国誌』は下記のように記載している。
(1) 城主(新堀権守利氏)について…「大中臣民ナリ、鹿島大宮司公利ノ後ナリ、元弘ノ比ノ人、鹿島尾張権守利氏卜云、鹿島南篠ノ内、宮本郷ノ内、岡野、葺前、益田等ノ村ヲ領ス、又、元行ノ勲功ニテ、南郡吉景村地頭トナリ、彼地二移り住ス」

 

真板 マイタ 前田(まえた)の転訛なり。真名板の俎は洪水で洗い流された田畑を云う。全く違う意味である。新座、鳩ヶ谷、春日部、越谷、本庄等に存す。千葉県君津市三十五戸、市原市七戸あり。

一 大中臣姓真板氏 苗字にて上総国住人なり。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「真板、大中臣姓」。吾妻鑑巻三十五に「真板五郎次郎経朝」。巻四十二に「建長四年十一月二十一日、真板五郎次郎大中臣経朝」。上総国山辺郡小西村(大網白里町)の日蓮宗信徒なり。本土寺過去帳(松戸市)に「妙言善尼・小西真板神五郎母・永正七年二月三日。妙円尼・小西真板二郎右衛門息女・九月四日」あり。小西村に日蓮宗正法寺あり、真板氏は現存無し。市原市潤井戸に七戸存し、日蓮宗泰行寺・光福寺あれば此地の出身にて、小西城主原氏に仕える。君津市内の真板氏居住地には日蓮宗寺院は無し。尚、武蔵国埼玉郡真名板村(行田市)の廃寺新義真言宗花蔵院は吾妻鑑の真板氏館跡と伝え、薬師堂門前に真板氏館跡の碑あり。全くの無関係で附会なり。

 

紙本著色三十六歌仙
切(頼基) 1 幅
佐竹家伝来。現存する最古の歌仙絵。

大正 8 年、絵巻から歌仙ごとの掛幅装となった。

大中臣頼基の肖像に略伝と詠歌を添える。36.6 × 59.9cm。
比 企 郡 川 島町白井沼 675
公益財団法人遠山記念館
https://www.tobunken.go.jp/materials/glass/23518.html

 

佐竹本【三十六歌仙絵巻】より

…中でも佐竹家旧蔵の上下2巻が最古最優の遺品であったが,1919年各歌仙ごとに切り離され,諸家に分蔵されるに至った。これを〈佐竹本〉と呼んでいる。男は束帯姿を中心とし,女は正装の女房装束姿で,その装束,姿態の変化に富んだ装飾美,細墨線で的確に描き出した顔貌表現が有機的に結びつき,生動感豊かな画面となっている。…

 

美しい  ↓

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/19333

http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/yamatoe/03.php

 

なぜ佐竹本がバラバラになってしまったのか…の記事

http://www.arthajime.com/writers/?p=13430

 

 

コメント (2)
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大中臣常道 意布伎神社(近江国伊富伎神社)に鏡・鈴を奉納 

2020-07-28 | 大中臣氏

この方と、経方が関係してくるのかもしれない。あくまでも「想像」である。

コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%A3%E5%B8%B8%E9%81%93-1061025

?-? 平安時代前期の神職。
神祇(じんぎ)官に勤務。貞観(じょうがん)9年(867)近江(おうみ)(滋賀県)の伊福伎(いぶき)社に鏡などを,
12年山城(京都府)の稲荷社にこの年発行された銅銭貞観永宝を奉納。
伊勢神宮にたびたび派遣され,元慶(がんぎょう)2年大和(奈良県)の春日社の神主をかねた。

滋賀県の神社 「志那神社」 滋賀県草津市志那町727
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=365

御祭神
志那津彦命 志那津姫命 伊吹戸主命
御神紋
竹に雀

御由緒
創祀年代不詳であるが、社記に当社は徃古延喜式式内意布伎神社であったが何故神号が改称されたか不詳、しかし清和天皇御宇貞観九年御奉納の鏡、鈴二品今以て現存する、この古鏡銘に「奉近江国伊富伎神」、古鈴銘に「貞観九年四月」とあり

国史神祗八巻に「貞観九年四月二日辛未遣神祗大祐正三位上大中臣朝臣常道近江国伊富伎神社奉弓箭鈴鏡云々」とある。又旧神官春日家にもこれを表す文書があり、その神名帳考証に志那ノ意布伎神是也と記されている。

但式内意布伎神社については確証がなく所在不詳とされている。
尚特殊神事として豊年万作を祈願し団扇二つでその風景を示す「さんやれ踊り」があり、また古老の言に徃古は参道に於て志那三郷(志那・吉田・志那中)より馬を出し豊作の吉凶を占う競馬があった由である。明治九年村社に加列。

風神踊り(さんやれ踊り)


志那神社
https://genbu.net/data/oumi/sina_title.htm

https://genbu.net/saijin/sinatu.htm
級長津彦命
しなつひこのみこと

別名
級長戸辺命:しなとべのみこと
志那都比古神:しなつひこのかみ
科津彦大神/科津姫大神:しなつひこのおおかみ/しなつひめのおおかみ
……

『古事記』では、伊邪那岐命・伊邪那美命が家に関連する神々を生み、 海神、水戸神を生んだ後に、風の神・志那都比古神を生んだ。

志那は息が長いの意味で、 『日本書紀』の一書には、大八州国を生みだした後、伊弉諾尊が霧を吹き払った、その息から、風の神の級長戸辺命(またの名を級長津彦命)が生れたとある。

記紀には男女神として記されていないが、 『日本書紀』に「級長戸辺命」と女性神名のように記され、「またの名を級長津彦命」と男性神名を補足されているためか、 「級長津彦神、級長津姫神」や「級長津彦命、級長戸辺命」と、男女の神として祀られることが多い。

===*===

息が長い=息長氏を連想させる。

伊吹山、伊福伎神社、志那、息が長い、風神

息長氏と伊福部氏に通じる。



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源義朝の甥 頼朝の従兄弟 大中臣朝経(中郡二郎)「東海道領主也」母熱田大宮司季範女

2020-06-07 | 大中臣氏

熱田大宮司季範の娘が大中臣経高(中郡上総三郎)に嫁いでいた。
経高の註には「実ニハ足利ノ久我ノ子息也、而継父頼経ノ跡ヲ知行之故、号中郡三郎」とある。
「保元ノ乱之時内裏ヘ参向、又平治之時同ク参入、実ニハ経高ハ足利(但先足利)久我太郎子息也、継父頼経跡ヲ相伝◇

その息が朝経、隆元、経良、で、いずれも熱田大宮司季範娘を母としている。

この頼経(朝経の祖父に当たる)の兄弟に宗経(在京人也、母少納言冨家殿御内女房也)がいて、その息に「実経」がいる。
年代的には、系図から見るに義朝の歳とおなじくらいか?と言う感じである。義朝は1123年生まれ
その実経が相州六浦庄を義朝に賜わってるようである。(義朝ではなく…という説もあるかもしれない)
「保元二年賜相州六浦庄云々」となっている。

ここに大中臣氏と長田氏が重なっていて、大中臣実経と長田実経が同一人物ならば…実経が広経と改めたのではなく、広経が息としていたのならば…と空想してしまうのである。

しかも、平氏に加担して…というのは片岡経春と佐竹氏の事だったのではないだろうか?
長田氏が大中臣の片岡広経(弘経)として、いたならば・・・と。

この部分は、いつかわかるかもしれない。今は保留にしておこう。

足利久我氏を調べなくては!
一説では足利俊綱あたりというが、ならば、なぜ「久我?」
調べてみると「久賀氏」であった。

高経という名前があり、それではないかと思う。藤原秀郷流の足利有綱の三男となっている。



つまり、この大中臣氏は熱田大宮司家とも繋がり、又藤原秀郷流の足利久賀氏とも繋がっているという事になる。

同じ大中臣略系図の中には「経久」という名前が二名いる。(九里氏の祖は経久である)
とても怪しい。でも、わからないままになっている。。。。








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大中臣氏・片岡氏・宇都宮氏・平氏・小山氏・千葉氏・土岐・佐々木氏 みんな繋がっている。

2020-04-28 | 大中臣氏



無量寿寺(鳥栖)
https://shin.gr.jp/shinran/24/t_004.html



社家の姓氏 大中臣氏
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/north/huta_nik.html


宇都宮神社初代宮司は「大中臣清麿」であった。
「貞観二年(860)、勝道上人の従弟にあたる大中臣清真が、二荒山神社の神主となり、清真が日光山神主職の初代とされている。」

下総の片岡氏も大中臣の一族であり、近江国伊香郡の片岡氏も大中臣氏と同祖であった。

宇都宮氏の娘は平家貞に嫁いでいる。
平家貞・貞能(貞能の母が宇都宮氏) 以下はwikipediaからだが、
その家貞・貞能は、「伊賀国を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人である。平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」(『愚管抄』)といわれた。」

貞能は「貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。」
「貞能は出家して九州に留まり平氏本隊から離脱した(『玉葉』閏10月2日条)。また『玉葉』の寿永3年(1184年)2月19日条に資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。

平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである。 」

そして、浪合記の中の話に続く。http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai14.html
「大橋家伝

 九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。

 頼朝は貞能を捜索した。尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。

 貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、父のことを祈ること数カ月に及んだ。その容色は、とてもただ人とは思われなかった。

 世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。

 この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

 貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。

 その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。」

今回はその盛綱と息盛季が気になった。
平貞能が佐々木盛綱の舅という事になる。盛綱の息盛季を調べてみよう。以下は佐々木哲学校のコメント欄より

盛綱の次男盛季(小三郎左兵衛尉・左衛門尉)が近江国野村郷を領したことから、野村氏が始まりました。

盛季が嫡男として在京御家人として京都に出仕していました。しかし承久の乱で、盛季は佐々木広綱・経高らとともに京方であったため、盛季の子盛蓮は出家し、さらに日向国諸縣郡に四ヶ所の所領があったことから日向に下向しました。盛蓮の長男頼親は踏切郷・村角郷を領し、六男光盛は伊東祐光の養子になりましたが後に帰家し中村を領し、七男光秀は佐土原を領しました。
このうち光盛の孫信盛は肥後国楠郷を所領を得たと伝えられます。

===*===

小山氏
宇都宮頼綱 小山政光の養子になる


小山氏
千葉胤政の娘が小山氏の妻に(たぶん、小山朝政)

小山朝政は、wikipediaによると
久寿2年(1155年)頃、小山政光の子として誕生。父は武蔵国の太田氏の出であり、下野小山に移住して小山氏を名乗り、後室に八田宗綱の娘で源頼朝の乳母である寒河尼を娶っていた

というのだが、兄弟の結城朝光の母も寒河尼なので、これは父政光の妻に寒河尼を娶って…という事なのだろうと思う。

寒河尼の父は「八田宗綱」で、宇都宮宗綱、中原宗綱ともいわれている。
つまり、この女性は宇都宮・中原・八田と小山氏をつないでいる人である。

そして、千葉胤政(正)の娘(成胤の妹)は千葉氏と小山氏をつないでいる人である。
胤政の孫胤綱の妹が土岐七郎に嫁いでいる。これは、土岐光家のことではないだろうか?
千葉頼胤の娘も土岐光定光行に嫁いでいる。
(光定の母が頼胤の娘であった。間違っていた!)スミマセン!

かなり、親しい関係のようだ。

===*===

 googlebooksより

 googlebooksより

(諸家系図纂)

===*===

土岐氏が出てくると九里種信の「起」は「隠岐氏」であったかな?とも思う。

土岐光家とは、どのような人物だったのだろうか?


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片岡信親(藤原尾張権守片岡信親)は大中臣宣親のことではないだろうか?

2019-08-07 | 大中臣氏

藤原尾張権守片岡信親 
神祇権少副大中臣宣親 (寛喜二年 1230年)

安貞3(1229)年2月20日条には以下のようにある。

今月二十日,遂行すべきの由,造営所御文到来す。然らば正文出来の間,十九日,これを勤行す。当日午時,造営使殿宣親,里亭・岩淵より直に参宮す

片岡信親と同時代である。鹿島神宮大宮司という事からしても、大中臣である可能性は大きいと思う。

大中臣為◇という名前は多く、もしかするとその中に「片岡為春」も存在しているのかもしれない。


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大中臣宗親

2019-06-13 | 大中臣氏

大中臣氏の系図はいくつもあるので、どれが正しいのかはわからないが、
wikipediaは「大中臣親仲」の息「宗親」のようである。



この人、アヤシイ。三善氏が祖母である。しかも橘氏が母である。
牧氏は橘氏とも関係があるのか、家紋が橘であったはず。





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牧宗親 大中臣氏系図

2019-06-13 | 大中臣氏

1191年まで生きていた「大中臣宗親」註には
大舎人権助 
九条院 
判官代 
建久二年卒 
造内宮使 
父代(譜代の事?)

とある。



この人、やはり牧宗親なのではないだろうか???



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比企氏を巡る雑感。

2019-01-24 | 大中臣氏

ここ、何日間か比企氏のことを調べ考えている。

① 比企局に関して

web情報を総合してみると、比企局は三善康信の伯母にあたることとなる。

三善康信の母親は大中臣倫兼の娘であり、長女は源頼朝の乳母であった。
その長女が「比企局」にあたると思われるのである。
つまり、比企掃部允の妻は、大中臣氏であったこととなる。

京から三善康信が近々の様子を送り届けていた際には、直接ではなく、この比企局を経由して手紙と武蔵国で採れた食料を共に頼朝に届けていたのではないだろうか。

そして、この比企という土地の近くに毛呂があり、藤原季仲の子孫が住んでおり、お米の足りないときには、毛呂氏のお米を譲り分けてもらい頼朝に送り届けていたそうである。

比企掃部允という比企局の夫となる人物も、京にいた人物となり、頼朝を支えるために比企に、戻ってきたようである。
「戻ってきた」という事は、もともとはこの土地の人であったのではないだろうか。

比企の周辺地図と歴博の荘園の情報を見ると
『和名抄』比企郡都家郷の地が「トキ 都畿庄」とある。(トキという名も気にかかるが。)
すぐ近くには、吉見庄(源範朝の領地)、亀井庄(亀井六郎重清の亀井か?)、大河原庄(坂戸)、がある。



比企氏は江戸時代には斎藤を名乗ったそうだが、それも土岐氏が斎藤氏とつながっていたことや、大中臣氏(清原氏)が斎藤氏と関係があったこととも関係があるのではないかと想像できるのである。鎌倉幕府の評定衆の斎藤浄円も清原の系図の中にいる。その清原氏は大中臣氏と系図が重なっていたりもする。


上記の三善康信の母は大中臣であり、同じ系かどうかは分からないが、越後の三善氏は親鸞の妻となる恵信の出身地である。

つまり、藤原日野氏と三善氏は、その関係から繋がっている。



~~~*~~~

②比企能員のことである。

能員は、比企局の実の息ではない。

東京大学史料編纂所のデータベースの大日本史料総合データベースの102件の中には、能員は三浦義澄の家子とある。(家子=武士団の構成員のこと)
本にもそのように書かれていた。






また、比企能員の息である能本の創った妙本寺にある墓の?記載に「能員の妻 三浦氏 妙本」とあるのだ。
という事は、妻を三浦氏からもらい、比企氏となる前は三浦氏の婿養子であった可能性があるのではないだろうか。そして比企氏の乱後に能員の妻とその息を預かった和田義盛も三浦氏である。








比企家に残る『系図』らしきものによれば、若狭局の実弟(圓顕…当時2歳)が比企能員の妻(圓顕の母)と共に『和田家』お預けになり、許されて、京都の『東寺』に帰依したとあります。(真言宗の学匠とある)…と
また、
比企能員の嫡男(比企四郎時員)が『比企の乱』で自害した時に、その妻が既に妊娠しており、無事生誕し『比企次郎員茂』を名乗り、『圓顕』の保護のもと、京都の順徳院の北面武士として仕えたとあります。…と、

以下のページに詳しく載っていたので、一部を紹介させていただいた。↑
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100220.html

もう一つ能員で気になったことは、愚管抄の記載である。
「阿波の出」と愚管抄にはある。その「阿波」は「安房」ではないか、とwebにもあったので、これも参考としたい。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hiki1.htm


三浦一族の主な人物・系図 https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/culture_info/miura_ichizoku/keizu.html

三浦義明(1092一1180)『衣笠城で討死。源氏の再興に忠誠を尽くした老将』
義明は三浦庄司義継の嫡男。世襲の官である相模介に任じ、三浦大介を称しました。三浦介の称号は武家の名誉称号として、こののち三浦氏宗家に世襲されました。
義明は一族団結のもとに、周辺豪族との姻戚関係を築き、房総の各地にもその勢力を拡大し、三浦一族発展の基盤をかためました。治承4年(1180)源頼朝の挙兵で、衣笠城は河越重頼・畠山重忠ほか平氏勢に囲まれました。ときに三浦大介義明89歳「老命を武衛(頼朝のこと)に投げうって子孫の勲功に募らん」と、義澄ら一族を頼朝のもとに赴かせ、ひとり源家再興に殉じました。
この義明の決断で三浦一族はその勢力を保ち、頼朝の安房(千葉県)再起の原動力となったのです。

三浦義澄(1127一1200)『源頼朝の信任厚く、幕府を支えた智将』
義澄は三浦義明の次男。通称荒次郎。三浦介・相模守護。三浦郡矢部郷に在住しました。義澄は頼朝挙兵で衣笠城に囲まれましたが、義明の指示で一族とともに安房(千葉県)に渡り、頼朝軍に合流しました。敗残の頼朝軍は、三浦勢に歓喜したのです。
鎌倉入りをはたした頼朝は、累代に亘る三浦一族の忠誠に篤く報いました。義澄は幕府御家人の長老の一人として重きをなし、和田義盛・佐原義連ら庶流の興隆もめざましいものがありました。建久3年(1192)義澄は、鶴岡八幡宮において、頼朝の征夷大将軍叙任・除書請取りの大役をはたし、その面目絶妙なりと称えられました。

三浦義村(?一1239)『三浦一族の最盛期を築いた謀将』
義村は三浦義澄の嫡男。通称平六。その生年は不詳。駿河守・幕府評定衆。頼朝挙兵に父義澄とともに転戦しました。義澄は重厚篤実な武士として知られましたが、義村は北条氏と連帯し、そのしたたかな政治手腕を発揮して、北条氏に次ぐ実力者として繁栄をきわめました。
正治元年(1199)頼朝の没後、北条氏は執権体制強化のために、有力御家人を相ついで誅殺していきました。この間義村は北条氏に加担して、その連帯は変わることがありませんでした。
こうして北条氏の勢力はゆるぎないものとなり、皮肉にも三浦氏は北条による執権体制確立に、最後の障害となったのです。義村の死を待つようにして起こった宝治合戦で、嫡男泰村はあえなく敗れ、ここに鎌倉幕府創業の豪族三浦氏宗家は滅亡しました。

佐原義連(生没年不詳)『「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた勇将』
義連は三浦義明の子。通称十郎。三浦郡佐原郷に在住。左衛門尉。平氏追討一ノ谷・鵯越の合戦では、先陣を駆けて勇名をはせました。養和元年(1181)義連は三浦の地で、頼朝に対し「下馬の礼」をとらぬ、上総介広常をとがめました。また頼朝臨席の宴で広常と岡崎義実の論争を、「老狂のなせるわざか」と制した義連の器量は、頼朝の意にかない、側近に近侍してその栄達は目覚しいものがありました。
ついで北条時政の三男時房の元服に、加冠の役をつとめるなど、北条氏との調協にもぬかりはなかったのです。佐原氏は三浦氏宗家・和田氏にならぶ豪族として発展していきました。
そして、宝治元年(1247)宝治合戦で三浦氏宗家が滅亡したとき、佐原氏の主流は北条氏を支援して、義連の孫「盛時」が三浦介を継承しました。
こうして、「佐原流三浦氏」は、盛時からさらに270年、戦国時代の初頭、永正13年(1516)三浦道寸義同(よしあつ)が新井城に滅亡するまで、動乱の時代を相模の雄族として活躍しました。

和田義盛(1147一1213)『鎌倉幕府創業の功臣初代侍所別当』
義盛は三浦義明の嫡孫。父は椙本義宗。通称小太郎。三浦郡和田郷に在住。左衛門尉・侍所別当。頼朝の安房再起に義盛は、「平氏を討って我を日本国の侍別当になし賜え」と頼朝に願い出ました。「世にあらば左右にや及ぶべき、約定ぞ」と頼朝は応じ、この場違いな応酬に笑声もあがり、士気は高揚したといいます。
この剛直な義盛の言動から、「三浦大介義明の嫡孫は我なり」の気魂を見ることができる。しかしそこには三浦宗家との対立の萌芽もあったのです。のちに和田氏はその官職・所領でも、三浦氏の宗家を凌ぎました。
正治元年(1199)頼朝の急逝で、北条氏は幕府執権体制確立を急ぎ、御家人粛清に動きだしました。和田氏はその最大の標的となったのです。
執拗な北条氏の挑発に、義盛は兵を挙げ勇戦しましたが、起請文を交わした宗家三浦義村に背かれて敗れました。この和田氏の滅亡により、三浦一族の勢力は大きく後退し、北条氏による覇権の成立は確かなものとなったのです。


~~~*~~~

大中臣氏と比企氏
大中臣氏と清原氏
大中臣氏と野本氏(三浦氏からの妻あり)
大中臣氏と三善氏
大中臣氏と…

ここには、中原能兼はいないので、この迷路は、これにて終了とします。
和田宗実とも近いところにいて、秀能など「能」の字も付いているので、つながりはどうかな?と調べてみたのでした。

比企氏、こんなにも働き者であったのに、悲しい結果になってしまって。
梶原氏も、比企氏も、和田氏も、三浦氏も、毛利氏も、…「昨日の敵は今日の友」の反対のようなことになってしまう鎌倉時代。

よく生き延びたなぁ、ご先祖様方。



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春日社 中臣氏と大中臣氏 

2019-01-03 | 大中臣氏

突然であるが、「能兼」を探している間に見つかった論文である。鹿島と奈良をつなぐ中臣氏など今まで知らぬことばかり。興味深く読めた。

https://core.ac.uk/download/pdf/96979151.pdf 国立公文書館所蔵『春日社行幸記』石附敏幸 著

春日行幸の開始と春日社神主職の成立

神主・正預・若宮神主を春日社の三惣官といい、彼らに従う社司・神人もそれぞれ三方に別れている。若宮神主は院政期に正預方から分立したものであるから、それ以前は神主と正預の二系統に分かれていたことになる。
両系統とも中臣系氏族により占められているので、両者は一見親密な系譜関係にあるかのように錯覚するが、実は全く異なる氏族である。すなわち、正預は中臣姓(正確には中臣殖栗氏)で、奈良時代の神護景雲二年(七六八)に鹿島の祭神を春日に鎮斎した神宮預時風・造宮預秀行の兄弟の子孫である。春日社を創始して以来、その地に居住して奉斎してきたのは、この正預の系統の中臣氏であった。一方、十世紀後半以降、中央貴族の大中臣姓(正確には大中臣氏「一門」)の神祇官僚が春日の地に下向し、やがて現地に居住するようになったのが、春日社の神主の系統なのである。正預方=中臣氏、神主方=大中臣氏という別は絶対であり、人事面で中臣氏と大中臣氏が混交することは決してなかったのである。

春日大社は、奈良朝の神護景雲二年(768)鹿島の武甕槌神を奈良の御蓋山に迎え、次いで香取の経津主命、枚岡の天児屋根命と比売神を併せて、同年十一月九日、麓の現在地に南面する四所の神殿を造営したのにはじまる。と、同社に伝わる『古社記(鎌倉初期に成立)』に記されている。

平安ごく初期には官祭となていた『春日祭』が、三勅祭(加茂・石清水・春日)のなかでも氏神祭の典型といわれることからも理解されるが、この氏神信仰は藤原氏が最も栄えた摂関制の十一、二世紀代その頂点に達する。行幸啓や春日詣とそれに伴う神宝の奉献、社領荘園の増大、社頭の整備、そして長承四年(1135)には若宮の創建と、例祭の『おん祭』がその翌年から始まり、信仰層は貴族からしだいに武士、庶民へと広がっていった。

春日大社の神主は中臣氏で、鹿島の神が御蓋山に迎えられたとき、お供をしてきた中臣時風・秀行の子孫という。兄弟は鹿島からの長い旅路の途中、名張の薦生山に御休みの際、神様からいただいた焼栗を植えて芽が出たという芽出たい故事によって、殖連という称号を賜った。
そして、奈良の御蓋山に無事鎮座された神様に、二人は自分たちの住む所を伺ったところ、この榊の枝の落ちた所に住むがよい、と投げられた榊の落ちた場所は、近世の「添上郡辰市郷」で、春日社からは約五キロの所であった。平安末期の社家の日記には「市預」とか、「三橋預」「椎木預」などの文字が見える。これは名字の生まれる以前の時代、春日の預職が管理していた各神領(荘園)の地名を冠して呼ばれていたもので『市預」とは辰市に住む預、という意味であった。したがってこの時代は、平素は神領の在地荘官を兼ね、お祭などの日には春日の神前へ参勤していたものと考えられる。

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別なweb情報より。http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/nakatomig.htm

栗原勝、中臣栗原連(録・右京未定雑姓。栗原-美濃から甲斐に分る)、栗原宿祢、宮勝、宮宿祢、均田勝、中臣美濃連(中臣美乃連)。なお、美濃国不破郡の岩手、竹中(半兵衛家)、栗原、四宮等は栗原連の族裔か。

栗原勝関係諸氏は居住地(美濃国不破・各務郡など)や勝姓などから、百済国人淳武止等の後という不破勝・不破宿祢(不破郡南宮神社祠官の不破は後裔か)と同族であった可能性がある。そうすると、雷大臣命の子の日本大臣命の後裔と称する栗原勝の系譜に疑問が出てくる。中臣美濃連を含めて、中臣連とは別系(例えば、和邇氏族ないし物部氏族)の流れか。
美濃国安八郡大井庄の大中臣氏はこの族裔か、その苗字に大井があり、江戸初期の大名で後に断絶した美濃出身の西尾も一族か

下記とも関係があるように思う。
 
http://hidemichitanaka.net/?page_id=244「高天原は関東にあったーー鹿島神宮とタケミカズチの神の研究」



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甲賀郡「牛飼」と 杣(そま)

2018-04-25 | 大中臣氏

牛飼という土地の名前から何がわかるのだろうか? と探した結果、「杣」というお寺に使う用材の産地だったのではないだろうか?(私の記憶では東大寺再建の際に杣出しとして、佐々木高綱が周防にまで行っている。その「杣」)

行ったことのない土地なので、違っていたらスミマセン。



確かに、甲賀郡杣という場所の中に「牛飼」の名前が見える。

古くは、大中臣諸魚が、近江国司であったこと、また次の代には近江国司紀梶長が東大寺の造営に関わっている事、も何等か関係があるだろうか?

ともかく、大中臣氏は牛飼に住んでいたのだと思う。
その地の近くに九里乗如が「飯童寺」の(昔は「般童寺」)僧としていたはずである。



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