http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai14.html
上記のHPを一部割愛しつつご紹介です。是非HPを訪れてみてください。
九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。
宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。
その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。
頼朝は貞能を捜索した。
貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。
一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。
この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。
貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。
貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。
その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。
長享二年戌申九月十八日
天文二年癸巳三月五日写之了不可及他見者也
正徳三年癸巳九月中旬写之者也
平成十年戊寅四月十一日訳之了可及他見者也
~~~*~~~
佐々木三郎西念というのは、盛綱のことで「加地」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%9B%9B%E7%B6%B1
大友氏・加地氏・真野氏・羽山氏が大橋肥後守平貞能の孫たちということになると思う。
平貞能のwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD
大友と加地が近いだけではなく、真野氏まで。
羽山氏はこれから調べてみようと思う。
上記のHPを一部割愛しつつご紹介です。是非HPを訪れてみてください。
九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。
宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。
その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。
頼朝は貞能を捜索した。
貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。
一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。
この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。
貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。
貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。
その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。
長享二年戌申九月十八日
天文二年癸巳三月五日写之了不可及他見者也
正徳三年癸巳九月中旬写之者也
平成十年戊寅四月十一日訳之了可及他見者也
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佐々木三郎西念というのは、盛綱のことで「加地」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%9B%9B%E7%B6%B1
大友氏・加地氏・真野氏・羽山氏が大橋肥後守平貞能の孫たちということになると思う。
平貞能のwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD
大友と加地が近いだけではなく、真野氏まで。
羽山氏はこれから調べてみようと思う。