九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

佐原氏・真野氏に関する新情報 浪合記 大橋家伝

2018-06-14 | 佐原氏バラバラ情報
http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai14.html

上記のHPを一部割愛しつつご紹介です。是非HPを訪れてみてください。

九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。
宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。
その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。

 頼朝は貞能を捜索した。

 貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。

一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。

 この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

 貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。
貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。

 その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。

長享二年戌申九月十八日           
天文二年癸巳三月五日写之了不可及他見者也  
正徳三年癸巳九月中旬写之者也        
平成十年戊寅四月十一日訳之了可及他見者也  

~~~*~~~

佐々木三郎西念というのは、盛綱のことで「加地」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%9B%9B%E7%B6%B1

大友氏・加地氏・真野氏・羽山氏が大橋肥後守平貞能の孫たちということになると思う。

平貞能のwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD

大友と加地が近いだけではなく、真野氏まで。
羽山氏はこれから調べてみようと思う。

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熊野社領 上総国 畔蒜庄(あびる‐しょう)

2016-08-21 | 佐原氏バラバラ情報

【相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで】鈴木かほる著 新人物往来社
より、気になる部分をピックアップしてみよう。
上総介広常が頼朝に対し、不遜な態度をしていた・・・と言うあたりに、その箇所はあった。

「上総介と源氏の関係を遡ってみる。頼朝の祖父為義は、熊野別当と深くかかわっていたことから、熊野社領・上総国畔蒜庄(千葉県君津市)の管理のため嫡子下野守義朝(頼朝の父)を下向させたが、この義朝を養公として迎えたのが、譜代の郎党・上総介広常の祖父常春(常時)である。義朝を上総の御曹司と称するのはそのためである。」

まず、畔蒜庄を歴博で調べると、

『文治2地頭職は熊野別当、地下は義兼と領家職は熊野社領か・寛元1畔蒜南北庄領主職=山内首藤清俊←母鶴熊=熊野関係者か・弘安6関東下知状=南庄内亀山郷=北条時頼、将軍家祈祷料所として円覚寺に寄進=和田乱没収地か・応永18』

佐々木秀義の乳父母的存在として山内首藤経俊がいる。清俊は、その経俊の曾孫にあたる。その母=鶴熊。なので孫宗俊の妻が、鶴熊なのであろうか?

東京大学史料編纂所DB


寛元元年7月28日
将 軍 家 政 所 下 散 位 藤原 清 俊 可 令 早 領 知 熊 野 山 領 相 模 国 愛甲預 所 并 下 司 両 職 事 、 右 、 任 母 堂 鶴 熊 今 日 譲 状 、

・・・とあり、1243年に将軍家政所を辞職し、母鶴熊の持っていた相模国愛甲の領主職を安堵されているらしい。

そして、1235年喜禎三年八月十五日の吾妻鑑には、愛甲三郎季隆という人物が見えるので、関係者かもしれない。



「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

畔蒜荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名上総国のうち古代畔蒜郡のほぼ全域が荘園化したものと考えられ,広大な荘域の北部は畔蒜北荘,南部は畔蒜南荘とも呼ばれた。

「吾妻鏡」文治2年6月11日条に,「熊野別当(所脱カ)知行上総国畔蒜庄也,而地頭職者,二品令避付于彼人給,於其地下者,上総介・和田太郎義盛引募云処」と見える熊野別当の知行する熊野山領で,地頭職も源頼朝から熊野別当に安堵されたが,「地下」は上総介足利義兼と和田義盛の両名が引き募っていたと伝えるついで,寛元元年7月28日の将軍藤原頼経家政所下文では,「熊野山領相模国愛甲庄・上総国畔蒜南北庄領主職・備中国穂太庄預所并下司職」が,藤原(山内首藤)清俊に譲与されている(毛利文書/県史料県外)当荘領主職を含むこれらの所領は,清俊が母鶴熊から譲られた所領であるが,3か所とも熊野山領であるから,鶴熊は熊野別当の縁につながる者とも考えられる。

前掲「吾妻鏡」では地頭職は熊野別当の知行とするが,「吾妻鏡」の地の文は必ずしも一級史料とはいいがたい点を考慮すれば,熊野別当が知行したのは当荘領主職で,「地下」を引き募ったとされる足利義兼・和田義盛両名が,当荘地頭職を知行していたのではなかろうか。
この史料は当荘が南北に分かれていたことを示しているが,足利義兼・和田義盛が南北を分掌していたとも考えられる。

その後,弘安6年7月日付北条時宗申文・同年7月16日付関東下知状により,「上総国畔蒜南庄内亀山郷」が将軍家御祈祷所として,北条時宗から鎌倉円覚寺に寄進されていたことが知られる(円覚寺文書/県史料県外)なお応安3年2月27日の円覚寺文書目録により,弘安6年6月8日付北条時宗寄進状の存在も確認される(円覚寺文書/相州古文書2)。

これらの史料から畔蒜南荘内亀山郷が,弘安6年以前に北条氏領となっていたことがわかる。」

愛甲庄の方の情報としては、以下のとおりである。


【国名】 相模
【郡名】 愛甲
【荘園名】 愛甲庄
【フリガナ】 アイコウ
【重複コード】
【参考市町村】 厚木市
【市町村コード】 142123
【明治村字名】 愛甲・船子
【史料村郷名】 船子郷・岡田郷・土器作田・愛甲・船子・東野・愛名村
【領家・本家】 熊野山領・室町幕府御料所・鎌倉府料所
【初見年和暦】 寛元元年
【初見年西暦】 1243
【出典】 長府毛利家文書・新編相模風土記・松浦文書・松雲公採集遺編類簒・得田文書・内閣文庫所蔵諸国文書・金沢文庫文書
【遺文番号】 カ6207
【記録類】
【関係文献】 有
【地名辞典】  平凡地名=厚木市愛甲、船子、岡田、愛名などを含む=愛甲熊野社、厚木熊野堂あり、熊野社領=愛甲季隆名字の地、荘園成立期は不明=「愛甲保」との関係も不
【備考】  『地名辞典』追加:=愛甲保との関係も不明、玉川流域・カ6207藤原山内首藤清俊を預所并下司職に補任・領主職=地頭職=愛甲季隆?→清俊母鶴熊→山内首藤清俊→→(鎌倉期)足利氏→(室町期)山内上杉氏・荘園志料=「アユカハ」・平凡地名=「アイキョウ」・金沢文庫文書=「あいきゃうのしやう」・→1505005「愛甲保」参照・貞和2事書=年貢1/3は京進、2/3は御免=鎌倉府管理・『出典』追加:神田孝平氏旧蔵文書(鎌倉市教育委員会)・本郷文書


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三浦佐原氏と紀伊守護

2016-08-19 | 佐原氏バラバラ情報
【紀伊国守護】

鎌倉幕府
代 氏名             在職期間        出身家

1 豊島有経 としま ありつね 治承8年 - 不詳1184年 - 不詳 豊島家

2 佐原義連 さはら よしつら 不詳 - 建仁3年 不詳 - 1203年 三浦家

3 後鳥羽上皇御          建永2年 - 承久3年 1207年 - 1221年

4 三浦義村 みうら よしむら 承久3年 - 不詳  1221年 - 不詳 三浦家

5 佐原家連 さはら いえつら 貞応2年 - 嘉禎3年1223年 - 1237年 佐原家

6 北条久時 ほうじょう ひさとき 弘安3年 - 不詳 1280年 - 不詳 赤橋流北条家

7 北条時兼 ほうじょう ときかね 正応4年 - 不詳 1291年 - 不詳 普恩寺流北条家

8 北条氏  不詳 - 元弘3年    不詳 - 1333年        北条家

紀伊国と関係が深かった三浦佐原氏であった。

しかも、義連! 盛連は、会津だが、盛連の六男時連(矢部禅尼の三男目)が新宮を名乗る理由は、ココだったのではないだろうか。
つまり、六男が紀伊国守護であった時代もあったのではないだろうか。家連の後にくるのでは?

家連に関して(コトバンク)さはら-いえつら
?-? 鎌倉時代の武将。
三浦義連の子。承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方の紀伊(きい)南部(みなべ)荘(和歌山県)の熊野法印快実が打ち首にされたあと,同荘の地頭職(しき)をあたえられる。貞応(じょうおう)2年(1223)紀伊守護。通称は三郎左衛門尉

いつの間にか、また新宮氏関係に戻ってきている。きっとここに何かがあるのだと思う。

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