九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

親厳の父、親光

2017-02-27 | 隋心院
【藤原定能】は、またいつの日かにして、気になっている【親光】を書こうと思う。


中原親厳の父親は【親光】である。

中原親光であり、大江親光であり、藤原親光である…かもしれない??

中原親光=大江親光 という処までは、周知されている事と思うのだが、親光という名前は、流行していたのか年代を問わず見ると、古文書に残っている人は多々いるので、注意が必要と思う。同じ時代に何名も…
東京大学史料編纂所の方の論文を拝見させていただくと、対馬に赴き、高麗へ逃避し、後に帰国した人は【藤原親光】である。
大江・中原親光とは、別人かもしれない。しかし、近いところにいた人物ではある。

中世(wikipediaより)
治承・寿永の乱の際、当時の対馬国司藤原親光は源頼朝の外戚であったため、源氏軍に心を寄せて、1183年(寿永2年)京都へ赴こうとしたが、平氏が九州全土を制圧していたため対馬を出発できなかった。平知盛は、大宰少弐原田種直を通して西海道の武士に屋島への参陣をうながしたが、親光が拒否したので平氏より3度追討をうけた。親光主従は高麗国に逃亡したのち、1185年(文治元年)6月に対馬に戻った[23]。


~~~*~~~
以前にもブログに登場した二人。

顕厳   僧都 【中原広忠の息】(※諸門跡譜による。随心院。牛車。東大寺別当。東寺長者。護持僧)(親光の弟

親厳   法務,大僧正 【中原親光の息】
(広季猶子。随心院。東寺長者。東大寺別当。牛車。法務。大僧正。嘉禎2年12月2日(ユリウス暦:1236年12月31日)入滅〔諸門跡譜作10月2日〕。
号唐橋僧正〔諸門跡譜作広橋僧正〕)

親光は広忠の息であるので、親厳は広忠の孫となる。

大江維光の系図に、親光が養子となって記載がある~~と言うことは、親厳は大江維光の孫にもなるのではないだろうか。

ところで、鎌倉時代とこの親光のことが、web上にあり、【源雅頼】という人物が出てくる。家人が中原親能であるという。(家司の事と思う。)

支障のない範囲でご紹介したい。

~~~*~~~

頼朝の上洛の野望が王権中枢における本格的な政治問題となったことを示す史料は『九条兼実日記』寿永三年二月一六日条であろう。それによれば、兼実のところにやってきた源雅頼は、その家人の中原親能が「院御使」として頼朝の上洛を促すために東国に下向したと語り、さらに「頼朝四月に上洛すべし」という観測をも伝えている。そこには親能に対して後白河院の「頼朝もし上洛せざれば、東国に臨幸あるべきの由」という意向が伝えられたとも記されている。本論との関係で注目されるのは、同じ日記の二月二八日条に近衛基通が「外記大夫信成を使として頼朝の許に通はさる云々、人、何事なるかを知らず、今旦首途了云々」という記事がみえることである。この意味ありげな記事は、後白河による頼朝上洛の催促が最初から摂政基通と気脈を通じて企てられたものであることを示している。



円雅は、それに対して、まず親光という人物に依頼して、四日に使者を派遣することについて了解をえたということを報告し、さらに今朝ほどには、土肥のところにも下文を取りにやりましたと報告した。まず、この「親光」は、大江=中原親光、つまり大江系図(『尊卑分脈』)では、大江維光の子供で大江広元の兄として登場し、中原系図(『続群書類従』)では親能・広元の父の広季の弟、つまり親能・広元の叔父にあたる人物として登場する人物であろう。

この中原氏の一統は村上源氏の雅頼の家系と深い関係をもっていたに相違ない。そして、「土肥」は中原親能とともに義経軍についてきた「頼朝代官」土肥実平であることはいうまでもない。


http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/reimei2.html

~~~*~~~

もう一つ、この中に登場する「近衛基通」とは、前回の記事にある「粟田口忠良」の兄のことである。

【源雅頼】という、私の見知らぬ人物がまた増えてしまった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大納言法印とは?

2017-02-26 | 隋心院

前回の続き。
気になった「大納言法印」とは、どなたのことなのかを調べてみた。
確証はないが、時代と大納言・法印と関連のある人物である。



【静厳】

靜嚴(じょうごん、寛元元年(1243年) - 永仁7年正月7日(1299年2月8日)[1])は、鎌倉時代の真言宗の僧。摂政関白従一位左大臣の一条実経の子。母は大納言・粟田口忠良の子、良性法印の娘[1]。殿大僧正と号す。

厳舜について出家し、勝尊、親杲に灌頂を受ける。醍醐寺[1]座主や随心院門跡[1]、東寺長者[1]となる。法務大僧正[1]。永仁7年(1299年)に57歳で入滅。

~~~*~~~

まず前回の記事の中に「前摂政一条実経に譲られた所領中に「家領 女院方……紀伊国井上本庄〈被寄 月輪殿(九条兼実)高野護摩用途〉」と,年月日未詳の一条実経所領目録案断簡(同前)にも同様に見え…」とある。

次いで、母親が大納言粟田口忠良の子である良性法印の娘である。

では【粟田口忠良】は、どのような人物なのであろうか。

粟田口 忠良(あわたぐち ただよし、長寛2年(1164年) - 嘉禄元年5月16日(1225年6月23日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。摂政近衛基実の次男。母は左京大夫藤原顕輔の娘。異母兄に近衛基通がある。正二位、大納言。鳴滝大納言と号す。粟田口を家号とし、粟田口家の祖となる。
経歴

治承4年(1180年)、元服して正五位下に叙爵。以後、寿永2年(1183年)に従三位・非参議、文治5年(1189年)中納言、建久2年(1191年)権大納言、建仁2年(1202年)に大納言と進み、同4年(1204年)辞職。承久3年(1221年)出家し、その4年後の嘉禄元年に死去した。

体格は痩せていて性質は温和であったといい、政治の表舞台に立つより歌人としての活動が主であった。勅撰集に69首が入集しており、『新百人一首』の一人にも選ばれている。『古今著聞集』には、長期間ろくに出仕しなかったため危うく大納言の地位を剥奪されそうになり、その心境を和歌を通じて兄の基通と語り合う逸話が収録されている。

系譜

父:近衛基実
母:藤原顕輔の娘
妻:権大納言藤原実国の娘
長男:基良(1187-1277)
妻:藤原定能の娘
二男:衣笠家良(1192-1264)
生母不明
良全
良覚
忠源
忠豪
良性
良勝


【近衛基実】は16歳で二条天皇の関白となったが、24歳で亡くなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%AE%9F

妻となった藤原実国の娘。
その【藤原実国】は、滋野井実国のことで、過去へ遡っていくと、藤原公実の次男実行・三男西園寺通季に行き当たる。

【藤原定能】他は、明日にしようと思う。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隋心院と紀伊国粉河寺領  

2017-02-25 | 隋心院

東京大学史料編纂所データベースより

【書目ID】 00047887
【史料種別】 貴重書(模写)
【請求記号】 模写-以-335
【書名】 紀伊国井上本庄絵図
【著者名】
【原蔵者】 随心院(京都市山科区)
【出版事項】 東京 : 東京大学史料編纂所[模写]
【撮影・複本作成】 1951
【形態】 複製画1幅(掛幅装):彩色,紙本.+附
【大きさ】 74.4cm(65.4×53.3cm)
【注記】 14世紀末ごろ.別名:粉川寺領近方面図.附:裏面添付隋心院門跡(法遵)識文.『日本荘園絵図集成 上』(p123,237) には「紀伊国粉河寺近傍図」とあり.『荘園絵図とその世界』(国立歴史民俗博物館)p.24,80には「紀伊国井上本庄絵図」とあり.模写者:菱田忠一.

~~~*~~~

角川日本地名大辞典によると以下のようである。

井上荘(古代〜中世)

平安期~戦国期に見える荘園名那賀郡のうち井上本荘・長田荘ともいう仁平3年正月29日の高陽院百種供養料送状(京大所蔵兵範記裏文書/平遺2779)に見える「井上御庄」が当荘名の初見と考えられ,関白藤原忠通の姉高陽院の百種供養に袈裟一重・盛物2杯(こもひた餅)などを進上している当荘の西に接する池田荘・田中荘が摂関家領であったことから当荘も古くは摂関家領であったと考えられるが,平安期にはおおむね東屋荘と称されて大和の栄山寺が領家職を有していた下って鎌倉期になると九条家領として見える貞応2年11月日の高野山平等心院所領注文(高野山西南院文書/鎌遺3184)に「一,禅定殿下(九条兼実)御墓所供僧一口〈供䉼井上御庄御年貢〉」。

また鎌倉中期と推定される年未詳2月5日の平等心院賢性挙状案(西南院文書/高野山文書3)にも「禅定殿下御菩提護摩供僧一口〈当国井上庄所当内〉」と見える平等心院は九条兼実の娘宜秋門院任子の祈願所(同前)で,九条家領であった当荘の年貢の一部が九条兼実墓所の供僧料にあてられていたことが知られる。

このことは建長2年11月日の九条道家初度惣処分状(九条家文書1/図書寮叢刊)に,前摂政一条実経に譲られた所領中に「家領 女院方……紀伊国井上本庄〈被寄 月輪殿(九条兼実)高野護摩用途〉」と,年月日未詳の一条実経所領目録案断簡(同前)にも同様に見え,「護摩用途外無年貢」と注記されていることからもわかるなお前述の処分状の中に右大臣九条忠家の分として「井上新庄」が見えており,この当時までに新荘が分立していたことが知られる。

ついで永仁6年2月21日の年紀のある妙国寺鐘銘に「奉鋳直紀伊国井上本庄風森宮鐘一口」と見える。(日本古鐘銘集成)この風森宮は現在の粉河【こかわ】町嶋にある風市神社のことで,この鐘は貞和3年2月27日に井上本番頭から25貫文で粉河寺別院遍照寺に売られている。

(同前)粉河寺とのかかわりは,徳治3年8月26日の粉河寺僧法印仙実等連署状(随心院文書/東大史料影写本)に「当国井上本新両庄乱妨狼藉事,以御祈料田御寄附于当寺之上者,一寺一同可致長日御祈祷也」とあるのが初見で,当荘内の田地の一部が御祈料として粉河寺に寄進され,実祐信乗らが乱暴狼藉をはたらいていたことが知られる。また同年10月7日の粉河寺々僧実祐請文(同前)では,当荘に対し今後乱暴狼藉をしないことを誓っている。そして,元徳2年7月9日の実意請文(同前)では,実祐の弟子実意が「井上御庄あつか所しき」についての請文を作成,翌3年3月20日の坂上貞澄同明澄連署起請文(同前)には「紀伊国井上本庄預所職御契状慥拝領仕候畢」とあり,この両名が当荘の預所に補任されたついで正慶2年3月10日の後伏見上皇院宣(同前)によれば,当荘が随心院門跡と推定される大納言法印に安堵されており,摂関家と縁故の深い随心院に一条家から寄進されたものと考えられる

ついで天正13年に原型ができたと推定される「粉河寺旧記控」によれば,延元元年の後醍醐天皇綸旨によって「井上本庄」が粉河寺領となったと記し(粉河寺文書/県史中世1),同じく天正13年ごろ成立したと推定される粉河寺旧寺領注文(粉河寺御池坊文書/同前)では,「井上庄〈今者号長田〉」として延元元年7月18日の後醍醐天皇綸旨をその根拠に挙げているが,この粉河寺の主張は検討を要する。

その他南北朝期には,正平6年12月1日の秀直安堵状(野川文書/大日料6-15)で,野河氏に「紀伊国井上庄薬王名」が安堵されている。ちなみに,年未詳7月25日の定覚書下(中南区有文書/県史中世2)には「長田庄百姓等召籠間事」とあり,野河一族中にあてて百姓等を返すよう命じており,これが長田荘とある初見である下って明徳3年10月日の高野山金剛峯寺寺領注文写(高野山興山寺文書/和歌山市史4)には「長田庄下司職〈丹生社領,同新庄下司職当知行〉」は当知行となっているが,応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文(勧学院文書/高野山文書1)では「井上本庄〈西塔領〉并下司職〈丹生社領〉」は不知行となっている。

なお明徳2年の年紀を有する諸供領臈次番付書(高野山文書/大日古1-8)には「二百九十七臈 紀伊国那賀郡井上本庄内風森宮前又号桟敷前水田一反観信房寄進」とあり,粉河寺領松井村の大和房が作人であった一方明徳4年7月30日および同年11月24日の室町将軍家御教書(随心院文書/大日料7-1)によれば,随心院雑掌が「井上本新両庄」に対する粉河寺寺僧等の押妨を訴え,幕府は紀伊守護大内義弘にその糾明を命じている。

以降応永7年4月2日にも紀伊守護畠山基国が守護代遊佐助国に粉河寺寺僧を上洛させるよう命じており(同前7-4),粉河寺寺僧による当荘への押妨が長く続いたことがうかがえよう。なお応永元年9月20日の守護大内義弘奉行人連署奉書(粉河寺御池坊文書/県史中世1)には「井上本庄年貢事,半済之時拾五石支配云々,於今者寺家一円知行之上者参拾石可預配分之旨,方衆申之」とあり,半済が実施されたり,粉河寺領となったこともあったことが知られる。

京都随心院には,明徳4年の相論の際作成されたと推定される「紀伊国粉河寺近傍図」と「井上荘絵図」が所蔵されている(日本荘園絵図集成)
後者は当荘の荘域を簡単に示したものであるが,当荘東境の深田川(現在の松井川)の東に「小(粉)川寺」,南東隅に「風杜」「松井」,西境に「上田井東境」,荘域の西に「松尾池」などが記されている。
一方前者には緑・朱などの彩色があり,四至の他,在家・耕地・池・寺社などが記されている北は山(和泉山脈),南は「吉野河」(紀ノ川),東は北東隅の「柳谷」「滝谷池」(現在の柳谷池・滝ノ池)から南東隅の風森を結ぶ線でほぼ「深田川」(松井川)を境として粉河寺領に接し,西は北西隅の「北山鎮守」から南西隅の「嶋村在家」を結ぶ線で井上新荘(志野荘)と接している。
西側の井上新荘から当荘域に流入した「志野河」は当荘を横断して東側で「深田河」と名前を変え「吉野河」に合流する在家はこの「志野河」の北岸に「北村在家」(北長田),南岸に「荒間在家」(長田中),吉野河の北岸に「嶋村在家」2か所(嶋および別所)がある耕地は斜めに交錯する直線で示され「宮荒間田」「荒間田」「フケ田」「大迫畠」などがあり,北部の高地には畠・間田が多く,南部の低地は田・フケ田になっている。
また灌漑用と考えられる池が「堺池」「滝谷池」など15か所記され,「堺池」「五呂五呂池」からの井手は「コ河ノ井手」4か所,「井上ノ井手」3か所が見えるその他寺社としては「観音堂」「アミダ堂」「薬師堂」「号三百余社」「山神」「北山鎮守」「帝釈堂」「風森社」などが見える。

下って応永23年10月28日の信宗房田地譲状(五坊寂静院文書/高野山文書3)によれば,信宗房先祖相伝の地である「井上本御庄内ミヤノアラ一行正名内」の田地220歩が憲寿書記に譲与されている。
下って戦国期明応9年6月21日の諸郷納帳(方衆座文書/県史中世1)には「弐石 長田庄」と見え,前述の「粉河寺旧記控」所収の年未詳の井上本荘年貢目録によれば当荘の総田数は62町2反353歩であったなお同控には「一,井上本庄五ケ村,今ノ北長田・中村・深田・別所・嶋村也」とあり,荘域は現在の粉河町北長田・長田中・深田【ふけだ】・別所・嶋一帯に比定される 。

~~~*~~~

仁平3年とは1153年である。ナガタと読むのか、オサダと読むのかが、不明だが、近江八幡の長田氏と関係がありそう~~と思う。



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隋心院から辿ってみる

2017-02-18 | 隋心院

随心院宮領(小野)  門跡宮領 九之里村

宮道弥益
宮道氏=蜷川氏
 
勧修寺        藤経重(近江国御家人井口中原系図には中原経重がおりますが別人でしょうか?)

藤原高藤 列子    末裔が雨森氏(湖北の雨森氏は富永庄)




昨日の親光の父親が中原弘忠(廣忠・広忠)

中原広宗 (*)大外記・貞親の息。従兄弟に師遠。息に広忠。

中原広忠 (*)広宗の息。息に忠順(親盛)、広季。

中原広季 (*)掃部頭・大外記。広忠の息。養子に大江広元、章広、藤原親能。娘婿に近藤能成。

中原忠順 (*)親盛。広忠の息。息に師茂。孫に師員。

顕厳   僧都    【中原広忠の息】(※諸門跡譜による。随心院。牛車。東大寺別当。東寺長者。護持僧)(親光の弟)

親厳   法務,大僧正 【中原親光の息
広季猶子。随心院。東寺長者。東大寺別当。牛車。法務。大僧正。嘉禎2年12月2日(ユリウス暦:1236年12月31日)入滅〔諸門跡譜作10月2日〕。
号唐橋僧正〔諸門跡譜作広橋僧正〕)

広橋と言えば…以前記事にも書きました→其の【九里の祖】一代前の兄弟。兄・中原景経は判官を広橋経光に推薦されている文書が残っており(1244年)、その後富永庄・鐘の銘に名前が残っております。(富永荘 御鎮守新日吉神社 文永五年(1268年))

やはり、何かしら関係があると思います。この中原の系と近江国御家人の系図の中原!

http://www.geocities.jp/okugesan_com/nakahara.htm#nakaharae
上の系図 E です。

最後の行に【平田】
「堂上家系譜大成」によれば、有象の裔、造酒正中原祐安の子で従五位下職国(元名長兼)を祖とする。


大江氏との関係も含めて考えてみる方がよさそうです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/mouri/html/mo_ohe.html


この中の大江の系図の中の菅家の是善の兄弟の「善主」の系に 善主~宗岳~(阿本)~嘉献~持賢~真利(久利民部)と九里・久里・久利一族の本の中にはあるので、一応記載しておきます。それは抜きにしても、以前人間叢書の大江広元を読んだ時に、どうも九里とかぶって見えたのですが、やはり、謎はこのあたりから解明できるのかもしれません。

謎って、九里の系図の載っている「中原氏」とは、時代の中でどのような場所にいたのか~です。
それが判れば、もしかすると「九里経久=久経」が立証できるかも?です。(甘いかな。。。)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする