【藤原定能】は、またいつの日かにして、気になっている【親光】を書こうと思う。
中原親厳の父親は【親光】である。
中原親光であり、大江親光であり、藤原親光である…かもしれない??
中原親光=大江親光 という処までは、周知されている事と思うのだが、親光という名前は、流行していたのか年代を問わず見ると、古文書に残っている人は多々いるので、注意が必要と思う。同じ時代に何名も…
東京大学史料編纂所の方の論文を拝見させていただくと、対馬に赴き、高麗へ逃避し、後に帰国した人は【藤原親光】である。
大江・中原親光とは、別人かもしれない。しかし、近いところにいた人物ではある。
中世(wikipediaより)
治承・寿永の乱の際、当時の対馬国司藤原親光は源頼朝の外戚であったため、源氏軍に心を寄せて、1183年(寿永2年)京都へ赴こうとしたが、平氏が九州全土を制圧していたため対馬を出発できなかった。平知盛は、大宰少弐原田種直を通して西海道の武士に屋島への参陣をうながしたが、親光が拒否したので平氏より3度追討をうけた。親光主従は高麗国に逃亡したのち、1185年(文治元年)6月に対馬に戻った[23]。
~~~*~~~
以前にもブログに登場した二人。
顕厳 僧都 【中原広忠の息】(※諸門跡譜による。随心院。牛車。東大寺別当。東寺長者。護持僧)(親光の弟)
親厳 法務,大僧正 【中原親光の息】
(広季猶子。随心院。東寺長者。東大寺別当。牛車。法務。大僧正。嘉禎2年12月2日(ユリウス暦:1236年12月31日)入滅〔諸門跡譜作10月2日〕。
号唐橋僧正〔諸門跡譜作広橋僧正〕)
親光は広忠の息であるので、親厳は広忠の孫となる。
大江維光の系図に、親光が養子となって記載がある~~と言うことは、親厳は大江維光の孫にもなるのではないだろうか。
ところで、鎌倉時代とこの親光のことが、web上にあり、【源雅頼】という人物が出てくる。家人が中原親能であるという。(家司の事と思う。)
支障のない範囲でご紹介したい。
~~~*~~~
頼朝の上洛の野望が王権中枢における本格的な政治問題となったことを示す史料は『九条兼実日記』寿永三年二月一六日条であろう。それによれば、兼実のところにやってきた源雅頼は、その家人の中原親能が「院御使」として頼朝の上洛を促すために東国に下向したと語り、さらに「頼朝四月に上洛すべし」という観測をも伝えている。そこには親能に対して後白河院の「頼朝もし上洛せざれば、東国に臨幸あるべきの由」という意向が伝えられたとも記されている。本論との関係で注目されるのは、同じ日記の二月二八日条に近衛基通が「外記大夫信成を使として頼朝の許に通はさる云々、人、何事なるかを知らず、今旦首途了云々」という記事がみえることである。この意味ありげな記事は、後白河による頼朝上洛の催促が最初から摂政基通と気脈を通じて企てられたものであることを示している。
…
円雅は、それに対して、まず親光という人物に依頼して、四日に使者を派遣することについて了解をえたということを報告し、さらに今朝ほどには、土肥のところにも下文を取りにやりましたと報告した。まず、この「親光」は、大江=中原親光、つまり大江系図(『尊卑分脈』)では、大江維光の子供で大江広元の兄として登場し、中原系図(『続群書類従』)では親能・広元の父の広季の弟、つまり親能・広元の叔父にあたる人物として登場する人物であろう。
この中原氏の一統は村上源氏の雅頼の家系と深い関係をもっていたに相違ない。そして、「土肥」は中原親能とともに義経軍についてきた「頼朝代官」土肥実平であることはいうまでもない。
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/reimei2.html
~~~*~~~
もう一つ、この中に登場する「近衛基通」とは、前回の記事にある「粟田口忠良」の兄のことである。
【源雅頼】という、私の見知らぬ人物がまた増えてしまった。
中原親厳の父親は【親光】である。
中原親光であり、大江親光であり、藤原親光である…かもしれない??
中原親光=大江親光 という処までは、周知されている事と思うのだが、親光という名前は、流行していたのか年代を問わず見ると、古文書に残っている人は多々いるので、注意が必要と思う。同じ時代に何名も…
東京大学史料編纂所の方の論文を拝見させていただくと、対馬に赴き、高麗へ逃避し、後に帰国した人は【藤原親光】である。
大江・中原親光とは、別人かもしれない。しかし、近いところにいた人物ではある。
中世(wikipediaより)
治承・寿永の乱の際、当時の対馬国司藤原親光は源頼朝の外戚であったため、源氏軍に心を寄せて、1183年(寿永2年)京都へ赴こうとしたが、平氏が九州全土を制圧していたため対馬を出発できなかった。平知盛は、大宰少弐原田種直を通して西海道の武士に屋島への参陣をうながしたが、親光が拒否したので平氏より3度追討をうけた。親光主従は高麗国に逃亡したのち、1185年(文治元年)6月に対馬に戻った[23]。
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以前にもブログに登場した二人。
顕厳 僧都 【中原広忠の息】(※諸門跡譜による。随心院。牛車。東大寺別当。東寺長者。護持僧)(親光の弟)
親厳 法務,大僧正 【中原親光の息】
(広季猶子。随心院。東寺長者。東大寺別当。牛車。法務。大僧正。嘉禎2年12月2日(ユリウス暦:1236年12月31日)入滅〔諸門跡譜作10月2日〕。
号唐橋僧正〔諸門跡譜作広橋僧正〕)
親光は広忠の息であるので、親厳は広忠の孫となる。
大江維光の系図に、親光が養子となって記載がある~~と言うことは、親厳は大江維光の孫にもなるのではないだろうか。
ところで、鎌倉時代とこの親光のことが、web上にあり、【源雅頼】という人物が出てくる。家人が中原親能であるという。(家司の事と思う。)
支障のない範囲でご紹介したい。
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頼朝の上洛の野望が王権中枢における本格的な政治問題となったことを示す史料は『九条兼実日記』寿永三年二月一六日条であろう。それによれば、兼実のところにやってきた源雅頼は、その家人の中原親能が「院御使」として頼朝の上洛を促すために東国に下向したと語り、さらに「頼朝四月に上洛すべし」という観測をも伝えている。そこには親能に対して後白河院の「頼朝もし上洛せざれば、東国に臨幸あるべきの由」という意向が伝えられたとも記されている。本論との関係で注目されるのは、同じ日記の二月二八日条に近衛基通が「外記大夫信成を使として頼朝の許に通はさる云々、人、何事なるかを知らず、今旦首途了云々」という記事がみえることである。この意味ありげな記事は、後白河による頼朝上洛の催促が最初から摂政基通と気脈を通じて企てられたものであることを示している。
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円雅は、それに対して、まず親光という人物に依頼して、四日に使者を派遣することについて了解をえたということを報告し、さらに今朝ほどには、土肥のところにも下文を取りにやりましたと報告した。まず、この「親光」は、大江=中原親光、つまり大江系図(『尊卑分脈』)では、大江維光の子供で大江広元の兄として登場し、中原系図(『続群書類従』)では親能・広元の父の広季の弟、つまり親能・広元の叔父にあたる人物として登場する人物であろう。
この中原氏の一統は村上源氏の雅頼の家系と深い関係をもっていたに相違ない。そして、「土肥」は中原親能とともに義経軍についてきた「頼朝代官」土肥実平であることはいうまでもない。
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/reimei2.html
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もう一つ、この中に登場する「近衛基通」とは、前回の記事にある「粟田口忠良」の兄のことである。
【源雅頼】という、私の見知らぬ人物がまた増えてしまった。