九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

源光行の娘は、1244年にまだ生きていた。

2025-02-16 | 九里バラバラ情報
源氏物語の研究者の源光行は、息 親行が1185-1187年あたりに生まれたという仮定により、建礼門院美濃局もそのあたりに生まれたかと思う。



1214年迄生きていた建礼門院に仕える女房という事になるが、年齢的にも壇ノ浦の戦い の時に生まれていたかどうか‥‥という事になる。

つまり、建礼門院徳子の栄華の時代ではなく、ひっそりと暮らしていた時代の女房となるのではないだろうか?
もしくは以前書いたように、母親も建礼門院の女房として出仕し、そこに幼い時分より連れて行かれていた、なども考えられる。(1185年以前に生まれていたとすると可能か・・・)

他の方の本に光行には他にも娘がいたのではないかという事であったが(下の資料)、私が調べた範囲では見つからなかった。

1185、1186年あたりの生まれと言えば、常忍の母の年代と同じである。
建治二年(1276年)に90歳で歿しているそうである。





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源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(2)

2025-02-11 | 九里バラバラ情報

池田利夫著の『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷 ―源光行一統年譜を中心にー』
30頁-31頁
光行の妻への疑問があるようなので、確かめてみようと思う。

藤原明衡ー敦光ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)
1099年に有光生まれる
1125年?三男有季生まれる
1150年?次男敦倫生まれる
1170年あたりに敦倫の娘が生まれる。
1187年に親行が生まれる。

あり得る範囲だと思う。



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源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(1)

2025-02-10 | 九里バラバラ情報
藤原敦倫の周辺
敦倫の娘が、源光行の妻となって親行の母となった。

藤原明衡ー茂明ー敦経ー敦倫ー源光行妻(敦倫の養父が敦経)

藤原明衡ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)


では、藤原敦倫の周辺を調べてみよう。以下の系図も参考に進めようと思う。


藤原敦倫の養父であった敦経は藤原茂明と中原広俊の娘を父母としている。
藤原茂明は藤原敦基中原季成の娘を父母としている。
つまり、茂明の母も妻も中原氏となる。

敦経の養子に敦倫がいる。
藤原敦倫は、実は藤原有季の息である。敦倫の母はわからない。
有季の両親は、藤原有光三善為倫の娘である。(倫の文字はここからきていると思う。)

三善為倫



藤原有光の父は藤原敦光、母が源親光であり、祖父が藤原明衡となる。
敦光の妻にはもう一人、大中臣輔清の娘もいた。

敦光の祖父でもあった藤原明衡の母は、良峯英材の娘。
養子明業を迎えるが、明業は実は菅原明任の息である。
菅原明任の父は為職である。高祖父が菅原道真となる。

敦光の兄弟であった藤原敦基の息に茂明がいて、敦倫の養父であった。


コメント (2)
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源氏物語研究者の源光行 再登場 (3) 建礼門院女房 美濃局の時代はいつか?

2025-02-09 | 九里バラバラ情報


親行と同年代であったすると、1185年-1189年に生まれたとあり、その前後に建礼門院女房美濃局とすると、出仕したのはいつなのか?と言う疑問が生じる。
源光行が1163年生まれなので、光行が18歳の時に美濃局が生まれたとして、4歳の時までに出仕したことになると思う。
という事は、母親も建礼門院の女房であった可能性も思う。(幼い子を連れて出仕)
または、時代が違い後の鎌倉時代に入ってからのことでもあるのだろうか?


1188年に徳子が歿したという説もある。上のページより




文治2年(1186)
4月下旬後白河法皇、お忍びで建礼門院を訪問する。

28日建礼門院、法性寺に隠棲する(『平家物語 延慶本』)。
文治三年(1187)2月1日源頼朝が平家から没収した領地のうちから、摂津国真井、鳥屋の両荘園を建礼門院に与えた(『吾妻鏡』)。



文治四年(1188)2月15日頃
 建礼門院、往生する(仮説)


光行の娘は京在住の人物もいたそうなので、建礼門院美濃がそうであったのかもしれないと思う。

また、上にあげた系図の光行の兄にあたる『能廣』が気になっている。大江能廣・中原能廣が存在する。

など、考えているうちに池田利夫著の『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷 ―源光行一統年譜を中心にー』が届いた!



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源氏物語研究者の源光行 再登場 (2)

2025-02-07 | 九里バラバラ情報
新古今和歌集の部屋さんより、記事の一部をお借りする。(感謝)

吉書始

建久九年(一一九八)戊午 この年、光行、鎌倉へ移住か。
正治元年(一一九九)己未 一月源頼朝病歿す。
二月光行は、源頼家征夷大将軍就任の吉書始に鎌倉幕府重臣らと列座し、その政所にある。
正治二年(一二〇〇)庚申 十二月光行は石清水社歌合(前大和守従五位上源朝臣光行)に列座。関東より上洛した折の出座か。

以下の論文から、系図と飯富庄の飯富季貞と源光行の周辺の記載のある一部を貼って参考にしていきたいと思う。






この部分の「文治」は多分間違いと思われる。
文治元年は1185年で、
寿永と文治は重なっていることから、源義仲の征夷大将軍就任の際となってしまう。(義仲が征夷大将軍は今初めて調べていて知ったのであるが‥‥)

この記事の上に池田利夫著の論文からひいた、新古今和歌集の部屋さんの記事の【正治元年】(1199年)が正しいのではないだろうか?
また、頼朝が歿した直ぐ後のことで、まだ頼家も正式には征夷大将軍には就任してはいないが、第二代鎌倉殿に就任したという事になるのかもしれない。

源光行、36歳の頃である。




源光行は長生きで、81、82歳まで生きていた。
光行(寂因)ー親行(覚因・弟が素寂)ー義行(聖覚)ー知行(行阿)ー 経行(大和守)

その源氏物語研究は脈々と続き、曾孫の行阿も源氏学の権威となっている。

此の親行は、文治年間(1185年 - 1189年)頃の生まれと推察され、文永年間(1264年 - 1274年) まで史料上で見えているそうだ。(wikipedia情報)

父の光行と交代で政所に出仕していたそうなので、気を付けていれば吾妻鑑に記載があるかもしれない。
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源氏物語研究者の源光行 再登場

2025-02-06 | 九里バラバラ情報
源光行の娘は建礼門院美濃であり、美濃は建礼門院=平徳子のすぐそばに居た人物である。
平徳子は安徳天皇の母親であり、壇ノ浦の戦いで生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔いながら生きるという 激動の人生を送る。

さて、ここで思い起こすことがある。
九里太郎=蓮忍入道が冨城蓮忍として居たのが因幡国の冨城郷であり、岡益の石堂のすぐ近くなのである。(もしかすると冨城郷内にあったのかもしれない)

岡益の石堂は安徳天皇陵墓参考地、ともなっている。



つまり、そこを守る役目も負っていたのではないか?という事を考えてしまう。
もしもそうならば、この源氏物語の研究者であった源光行の近くに存在していた冨城蓮忍であっても、なんら不自然ではないと思うのだ。

但し、近頃の私の想定では、蓮忍は1200年ジャストあたりに生まれたとしており、安徳天皇が歿してからやや間が空いている。
蓮忍が因幡国の在庁官人となっていたのは、たぶん1245年前後か?と想定している。

1250年(もしくは1249年?)には、東国下総国にいて(帰ってきて?)千葉氏の執事的な役目を弟カ甥の常忍が負っている。

常忍の母は千葉氏という。夫は源光行という説があり、そこを調べているのである。同じ時代に、目立つ源氏の光行が三人は存在するため、その見極めが難しく、また、本当に源光行が父であったという証拠もない

土岐光行、南部光行(=信濃三郎光行)など、【光行】は人気の名前であったようなのだ。

富木常忍と共に同じ千葉氏の執事的な人物に【長専】がいたが、此の周辺を調べてみると、意外と源氏物語研究者のの源光行との接点があるかもしれない…と云う気になった。






これから、この辺りを煮詰めていきたいと思う。





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養和元年二月 1181年 散位久経 奉行 (新情報)

2025-02-05 | 九里バラバラ情報
今まで、1185年以前の久経の情報が見つかっていなかったのだが、新たに吾妻鑑(吉川本 第1-3 第1)のなかに情報を見つけることができた。




災厄を払う神拝を…の部分である。
志田三郎先生義広が、鹿島社領、鹿島新宮領を荒らしたようである。

1181年、鎌倉にいたのだと思う。
そして、中原氏らしい働きをしていた!
鹿島神宮の関係者でもあるのだろうか…

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但馬国 菅荘は八幡宮の領地であった。(3) 高辻姫とは菅原家の姫であるようだ。

2025-01-24 | 九里バラバラ情報
丹波国 加佐郡河守荘地頭は、1239年(沙弥蓮忍)
肥前国 高来郡深江の地頭となったのが1247年 (深江入道蓮忍)
因幡国 法美郡冨城郷地頭は1250年以前 (蓮忍入道)

藤肥前前司経久は1285年の文書にその名が上がるが、1285年以前に菅荘にいた人物とみても良いだろうか? 三人の息子が、跡を継いだという事が書かれている。

大田文に書かれてはいるが、それ以前の文書を参考に作っていることはないだろうか?

高辻姫宮の高辻は、高辻に邸を構えていた家の御姫様という事のようであるので、もしかすると‥‥(後述)




高辻姫宮 ⇒ 皇室領(出石郷・神戸郷が蓮華王院領) ⇒ 近衛家領(南北朝時代) と変遷しているようである。

案主は、藤肥前々司の子三人の記載が残っている。
左衛門入道蓮阿
四郎左衛門入道妙心
五郎左衛門入道定智



高辻姫宮の高辻姫の家は、前回の『①高辻家という菅原氏の流れに乗る家がある。』が、正しかったかもしれない。

平安京オーバーレイマップによると                 






・・・と高辻通よりも上になるが、菅原邸があった。
白上殿・紅梅殿の間である。
高辻邸のあたりは【天満宮降誕の地】のあたりとなると思う。





菅原道真の時代から住んでいたのが、高辻であるようだ。


是綱ー宣忠ー長守ー為長ー長成・高成ー清長
           ー長貞・公良(母は中原師茂の娘)


                      (つづく)
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但馬国 菅荘は八幡宮の領地であった。(2) 高辻姫宮が領主

2025-01-23 | 九里バラバラ情報
但馬国 出石郡 菅荘 北部にあると思われる【出石神社】は、高辻宮姫の領地だという。その総地積はダントツ一位であり、広いようだ。

荘官・肥前前司とあり、藤肥前前司経久のことと思われる。
彼は私的役人であった との見解も述べられている。(神美村誌)



という事は、藤肥前前司経久は高辻宮姫や、その家の関係者であった、知り合いであった可能性が高く、その周辺を探ってみることにしたい。

①まず、高辻家という菅原氏の流れに乗る家がある。

②高辻には、亀山天皇の典侍局が産んだ【高辻宮】がいるようだが、それは藤肥前前司の時代よりも後の時代となり、当てはまらないようにも思える。

③もう一つ【高辻斎宮】という女性がいる。粛子内親王の事だそうである。
1196年生まれというので、出石神社の高辻宮には当てはまりそうな年代となる。
『建暦元年(1211年)4月19日帰京、その後の消息は不明。』とwikipediaにはあり、15歳当時以降の消息が不明となっている。その当時はまだ姫でもあり、可能性は高いかもしれない。
しかし、1201年という事はまだ5歳の時に新宮群行とある。そのように小さなころから?と疑問が残る。

wikipediaによると、
『群行(ぐんこう)は、伊勢神宮の斎宮(斎王)の京都から伊勢国の斎宮御所への下向、またはその発遣の儀式、群行の儀(ぐんこうのぎ)のことである。』





 

後鳥羽天皇の後宮:源氏(兵衛督局・加賀内侍) - 源信康女
第二皇女:粛子内親王(高辻斎宮、1196年 - ?) - 伊勢斎宮

上記の中世文学研究の中に登場する斎宮頭の源顕兼。
源顕兼の母親は石清水別当光清の女 である。



【『今鏡』では、「光清姫」として御所勤めを始めた美濃局の衣裳が華麗に描かれていて、娘の出仕に万全を期して臨んだ光清の意気ごみが感じられ、その財力は、当時の宮中を凌駕しました。】(八幡の歴史を探究する会・石清水八幡宮 唯一の宮寺への道 大田 友紀子 著)

顕兼の祖父となる石清水別当光清。
その娘 美濃局 には、聞き覚えがある。

そこから今度は菅原氏との関係が出てくるのである。
「菅原在良の娘」が石清水別当光清の妻であったのだ。

しかも、在良の母親は「藤原実方の娘」であり、熊野別当家とのつながりが見えてくるのである。確実ではないとはいえ、泰救や長快の父であったかもしれない藤原実方....と言われている。

さらに以前ブログ記事に書いたのは、石清水八幡家と土岐氏との関係であった。

土岐光信の息光重=源仲政の養子
そう仮定し、進めていく。
光重の姉か妹に「石清水八幡宗清法印室」がいる。
つまり、土岐氏から石清水八幡に嫁いでいるひとがいる。
・・・「美濃局」が文書に見えるのである。
美濃局紀家子(光清女)  道清自幼少為美濃局猶子


前出の(八幡の歴史を探究する会・石清水八幡宮 唯一の宮寺への道 大田 友紀子 著)には、以下も記されていて、このブログの部分に当てはまると思う。

光清の嫡男である田中家祖・勝清の孫の道清(1109~1206)は美濃局の猶子となってその遺産を子孫に伝えました。その息第34代別当宗清は、建保4年(1216)、勝清・慶清・道清3代の先師の墓所脇に一堂を営み、その後、子息第39代別当行清が唐招提寺の聖守を開山として伽藍を整備して「法園寺」を創建しました。】


光清ー道清(美濃局の猶子)ー宗清-行清(石清水宮別当家・田中・善法寺家)

wikopediaの紀氏には以下のように書かれている。
『紀氏の流れをくむ末裔として、田長流の石清水八幡宮別当家(田中・善法寺家)の他、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)、長谷雄流を称する池田氏・信太氏・細見氏・大井氏・中村氏・品川氏・春日部氏・堀田氏・浦上氏・安富氏・高安氏などが挙げられる。また、紀伊国造家は天元年間に男子が途絶えたため、長谷雄の曾孫行義を嗣として以降朝臣姓を称した。なお、中世以降の紀氏には、橘朝臣姓を仮冒した者が多いと言われる。』

紀氏と深いつながりを持つ石清水八幡宮別当家である。
此処で、九里との接点がありそうなのは、宇都宮氏と関係のある益子氏や、大井氏、だろうか。
経久の父経任が橘次を名のっていた事とも関係が出てくるのかもしれない。


まだまだ分からないことだらけではあるが、調べると 丹波国河守荘・因幡国冨城郷(国衙在庁官人)・「但馬国菅荘地頭・出石神社の荘官」は、何れも九里太郎であったかもしれない。

更に深江蓮忍が肥前にいたことが藤肥前太郎経久であったならば、、、、と、気にかかっている。

因みに、九里太郎は、九里太郎左衛門経久 蓮忍入道 である。

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但馬国 菅荘は八幡宮の領地であった。

2025-01-20 | 九里バラバラ情報

上記のページに八幡宮の別宮のことが載っている。それを読んで、石清水八幡宮と九里氏につながりがあるのかどうかを私なりに検証してみた。



1158年には菅荘(すげ・しょう)は立荘されていたと思われ、さらになぜ鳥居禅尼が関わるようになったのかを探ってみた。

それには熊野別当家である湛快が関係する。
平忠度の父、平忠盛は但馬国を与えられ…とある。
忠度の妻となった一人は湛快の娘である。もう一人は良岑高光の娘 である。

Wikipediaからだが【承安2年(1172年)、湛快は別当職を甥で権別当の行範(新宮別当家当主)に譲って隠居し、承安4年(1174年)に死去した(熊野速玉神社所蔵「熊野別当代々次第」)。享年76。】とあるように、行範が跡を継ぐ形となった。行範の妻が鳥居禅尼である。

鳥居禅尼は、菅荘の南の多々良岐の地頭となったのも、このことと関係があるのだと思う。






熊野別当家
良峯氏の原高成の孫にあたるのが良峯高光であるが、
後世から想像するに両家とも関係の深い九里氏である。

特に、良峯氏の出となる前野氏は、佐々氏となり、我が家系と養子縁組が少なくとも二回はあり、系図に記載もある。

熊野別当家と高須家も結びつきがあり、和歌山の九里家とその高須家との婚姻関係と養子縁組がある。

どちらも関係するのである。

また、貞行名の地頭を務めていたと思われる源慶豪の甥は、小坂を名乗る。
そして、良峯氏にも小坂氏が存在する。







この後の時代、信長・秀吉の時代と此の但馬国と良峯姓前野氏とのつながりは続くようで、調べていても面白い!(つづく)
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