「糟屋荘」のことを調べている。
糟屋庄の糟屋の地名は現在も残っているが、「上粕屋」と「下糟屋」で字が違うため注意が必要である。…とwikipediaの高部屋神社の註にも書かれている。
高部屋神社
かつてはこの神社と同名の大住郡高部屋村の村社であり、またこの地区を含む糟屋庄の総鎮守としても崇敬された。
創建年代は不詳。『延喜式神名帳』に相模国13座の内の1社と記載されており、大住郡127ヶ村の惣鎮守であった。ただし、伊勢原市高森にある高森神社も、式内社「高部屋神社」の論社の一つとされており、この神社が明治の神仏分離令以前は「高部屋神社」という呼び名であったと伝えられていることに加え、棟木や鳥居脇の石碑(裏側)に「高部屋神社」という銘文が残されていることもその理由として挙げられる。
鎌倉時代に、糟屋庄の地頭であった源頼朝の家人「糟屋藤太左兵衛尉有季」が、高部屋神社を守護神として新たな社殿を造営した。
至徳3年(1386年)12月に河内守宗国によって造られ、平秀憲が寄進した銅鐘は神奈川県指定重要文化財に指定されている。
神奈川県神社庁情報
[延喜式内社 高部屋神社]
○鎮座地
神奈川県伊勢原市下糟屋2202
神奈中バス「粟窪入口」または「粕谷上宿」から徒歩5分に鎮座しております。
○御祭神
神倭伊波礼彦命(かんやまといわれひこのみこと)
誉田別命(ほむだわけのみこと)
三筒男命(みつつおのみこと)
大鷦鶺命(おほさざきのみこと)
息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
磐之姫命(いわのひめのみこと)
時代とともに主祭神が移り変わってきたと思われます。
創建から平安時代までは三筒男命(住吉三神)を主祭神とし、鎌倉時代から幕末までは誉田別命を主祭神とし、明治以降は神倭伊波礼彦命を主祭神としてお祀りしていることが記録より伺えます。
○由緒・社殿
当社の創建年代は不詳であるが、延喜式神名帳に相模13座の内の1社と記載されている古社であり、古くは相州大住郡糟谷庄127ヶ村の惣鎮守として崇敬された。
平安時代までは現在の飛び地境内である伊勢原市高部屋地区の澁田山に鎮座していたと考えられ、糟谷住吉の大神「大住大明神」として崇敬された。
また東海大学医学部付属病院近くの伊勢原市下糟屋字弥杉にも「住吉大神大住大明神」の祠がお祀りされている。
これは現代にも続く伝統として「汐汲みの神事」に受け継がれている。
「汐汲みの神事」は住吉大神(大住大明神)が大昔、現在の大磯町照ヶ崎海岸に上陸し、創建時に鎮座したという伝承に基づき、海水・浜砂・ホンダワラ(海馬藻)を採取し、海水は鎮火水とし、浜砂はお清めのために参道に撒き、ホンダワラは拝殿と鳥居の注連縄に吊るす。
時代が下り鎌倉時代になると糟屋庄地頭で「吾妻鏡」「源平盛衰記」等に功名を記された源頼朝家臣「糟屋藤太左兵衛尉有季」が八幡信仰により自らの館に誉田別命を主祭神とし新たな社殿を造営した。
そのため、また発掘調査では室町時代の遺構異物も発見されたため、当社が扇谷上杉氏の守護所である「糟屋館」だった可能性もある。
室町時代に入ると足利将軍家の家人団、関東管領上杉一族の関与があったと思われ、至徳3年(1386)12月「平秀憲」なる人物が銅鐘を寄進した。この銅鐘は県重要文化財に指定され今でも時を刻んでいる。
社前にあった応永28年(1421年)9月下旬につくられた石燈籠には「相州糟屋惣社。正一位八幡大菩薩御廟前。」と刻まれていた
また経巻や大般若経写経が残片を含め80数巻現存している。永享6年(1434年)12月に愛甲新熊野宮に「沙弥應遠・沙弥聖鼎」より施入された経巻も伝わり、これには「大旦那源朝臣頼重 願主 沙弥應遠・沙弥聖鼎」の銘が残されている。「源朝臣頼重」とは室町幕府を開いた「足利尊氏」の外祖父「上杉頼重」であるためこの経巻は施入された永享6年より100年以上古い可能性がある。大般若経写経は経函とともに文明15年(1483年)4月19日に扇谷上杉家当主「上杉定正」が寄進した。平成15年にこれらの修復工事が行われた。
その後、糟屋氏や上杉氏と関わった武士たちの興亡をのせてきた高部屋神社も後北条氏を迎え「新編相模国風土記稿」によると天文20年(1551年)9月28日に地頭渡邊石見守が社殿を再建し、天正9年(1581年)5月10日には北条家臣松山城主「上田能登守長則」による境内3ヶ条の法度が定められた。後北条氏が滅びると天正19年(1591年)11月に徳川家康より社領10石の御朱印を賜り、江戸時代中期頃までは「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社を謳われた。
また正保4年(1647年)に本殿を再建、慶応元年(1865年)には拝殿を再建。本殿は関東大震災で倒壊したが昭和4年に柱・彫刻・正面扉・擬宝珠などをそのまま使い再建され、拝殿と幣殿は往時のまま現在に至り、後藤楢之助正義の彫刻師により浦島太郎が亀に誘われている情景と竜宮城で待つ乙姫が刻まれ見事である。拝殿正面頭上には、勝海舟らと並び「幕末の三舟」と称される「山岡鉄舟」の筆による「髙部屋神社」の社号額が掲げられている。
明治6年村社に大正6年7月郷社となる。
銅鐘や写経以外にも古くから雨乞いの神事に用いられる鎌倉時代以降の「古楽面」3面や江戸時代の元禄初期と思われる、京都宇治にある黄檗山万福寺7世で、中国福建省泉州府晋江県からの渡来僧「悦山道宗」筆による「八幡宮」の扁額が現存している。
本殿は五間流造銅葺5.25坪。拝殿幣殿は総欅造茅葺20坪。
○境内神社
八坂神社・金毘羅神社・水神社・稲荷神社・庚申・愛染明王を境内にお祀りしております。
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ここの出てくる「平秀憲」だが、いせはら文化財サイトによると以下のようになる。
http://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/docs/2012100400152/
鐘の最下端にあり外側に張り出す部分を駒爪(こまづめ)といい、ここが斜めに出る形は物部姓鋳物師の特徴の一つです。
銘文は鐘ができた後に刻む陰刻により「糟屋庄惣社の八幡宮の釣鐘」で願主が平秀憲(たいらのひでのり)、制作者は河内守國宗(かわちのかみくにむね)であることが力強く刻まれています。
平秀憲については現在のところ不明ですが、河内守を名乗る工人については清原氏であることが最近の研究でわかってきています。この清原氏は中世の相模国・武蔵国を中心に活躍した相模鋳物師の物部氏の後継者的存在にあたります。
製作年代は銘文により室町時代前半の至徳3年(1386)であることが分かります。
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清原氏で(河内守宗国)「相模鋳物師」!
以前、中原氏で「刀鍛冶師」のことを記事にしていたが、清原氏は鋳物師であった!
共に物部氏の技術を継承している人々でもあったのだ。
何だか働いている姿が思い浮かび、リアルである。
そして【鏡】とも通じてくるので、うれしい!
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もう一つ、高森神社が近くにある。
http://takamori.php.xdomain.jp/htdocs/?page_id=113
(こちら、とても糟屋氏に近い気がする。)
高森神社境内から西の方角の小高きお山に祀られている御祭神は弟橘媛命と云う女神であります この媛命は日本武尊の妃であって日本武尊が走水(横須賀市)から浦賀水道を経て上総(千葉県君津市)に渡り東征に行かれるとき暴風雨に襲われ船が進めなくなります この暴風を海神の怒りと思い鎮めるために日本武尊に代わって弟橘媛命が海に身を投じ龍神の生贄になったというのです 間もなく海は静まり上総に着くことができましたが、弟橘媛命を偲ぶ思いがなかなか消えず[君不去(キミサラズ)]と言葉を何度も繰り返します その言葉の変化が今の木更津と云う地名になったとか? 更に七日を経ると妃の亡骸が海岸に漂い着き武尊は悼惜の思いを持って亡骸を収め「我妻よ」と繰り返します この言葉も変化して「吾が妻(アガツマ)」となり「吾妻」となったと言われます 又流れ着いた櫛も亡骸と一緒に本納(橘樹神社・茂原市)と云う地に葬られた様です。
上総国君津郡吾妻(木更津市)にある吾妻神社は媛の櫛を祀った社であると云われています 高森の小高きお山の頂に祀られているのは海を覗くためと云われています 又東(あずま)国にからみ吾妻山と称したとも思われます 創建時期は不詳でありますが恐らく高森神社と同年あたりと考えられます 吾妻入りと云う谷戸の呼び方もこの吾妻神社に因むと言われています 長年の風雨の影響から老朽化も進み傷みも酷いため止む無く建て替えを考え、役員の話し合いにより56年6月28日に基礎工事をし同年7月4日上棟式19日に改築完成となりました 工事に対し山の頂でもありましたので水 砂利 砂 木材など氏子の皆様の御協力と御理解を頂き完成となりました 当時は樹木も生い茂り石の祠を側面と背面を黒く塗られたトタンで囲み又四隅を番線で張った一坪くらいの建物で有りました。 昭和55年の下草刈り時に大風によって枝木が押し倒すようになっていた為に新築を考え、前と同じく石の祠を納める様に築きました。
高森神社 宮司 吉田道光
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比比多神社 (ひひたじんじゃ)
[比比多神社 (子易明神) 由緒]
鎮座地 伊勢原市上粕屋 (子易) 一七六三番地
御祭神 神吾田鹿葦津姫命 又の御名 木花咲耶姫命
例大祭 七月十五日
御神徳 「天平の頃、当国守護の任にありし染谷太郎時忠が当国安土・子宝を願い勧請す。後、その内室懐胎に及び信仰益々篤く、ひたすら安産の祈祷奉るに忽ち霊験現る。依って、社頭以下設備怠りなく造営す。」と伝う。後に、醍醐天皇の勅願所となり、神階・御告文その他旧記等宝殿に蔵せられしが、天正十八年小田原落城の折り、惜しくも亡失す。爾来、神号を『易産大明神』又は『子易大明神』と称え、朝野の別なく尊信極めて篤く、安産守護神として崇敬さる。
御社殿 創立年月不詳、ただ天平年中とのみ。以後、寛文二年修築 神官鵜川権太夫直積代。享保二年再建 (現在の社殿 工匠は荻野の宮大工) 神官従五位下行鵜川大隅守藤原朝臣直賢 代
神木 二株 但し、一株は大正十二年関東大震災の折り倒木。一株は現存、欅の老樹。
向拝柱 往年より参拝せる者安産の符とし少量ずつ持帰りしたるため細りしもの、現在の柱は三代目なり。
底抜柄杓 妊婦が安産を祈願し納めしもの。
美人図 歌川国経筆 享和二年十二月吉日 荻野住人神崎氏等三名納
絵馬 昭和三十五年十一月四日付 県指定重要文化財。
梛 (なぎ) 市指定保存木・当神社の肌守には梛の葉を一枚入れている。その由緒は別紙参照。
解除の次第及び祝詞 伏見稲荷神官荷田宿祢信満 (国学の四大人の一人) が宝永四年、門人鵜川直積に与えしもの [現在、宮司・鵜川氏宅に所蔵]
梛 (なぎ)
暖地に自生するマキ科の常緑喬木で、我が国では、古くから熊野の速玉神社や伊豆の白浜神社・伊豆山神社などで、神木として崇められてきました。奈良の春日神社には、この木の群生林があります。
梛の葉には、竹のように、不思議な平行脈が走っていますが、古よりこれを鏡の裏や守り袋に秘めて、招福厄除としたのも、葉のひとひらひとひらに神霊が宿るとされてきたからです。
梛の木には、女梛と男梛があり、当神社の梛は、球形の種子を結ぶ女梛のほうです。この葉を肌身につけていると、素敵な異性にめぐりあい、夫婦仲も円満に、そして、女性には愛くるしい子宝をもたらすといわれています。
安産守護・子宝・子育ての神として鎮ります当子易明神に、この暖地の喬木がこれほど太く、大きく育っていることも、御神徳のたまものと拝察されます。
尚、梛は寒さや霜に弱いので、この地方の気候では、ある程度大きくなるまで霜よけをしないと育ちません。現在、市指定保存木になっています。
以上
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[上粕屋神社由緒]
本神は勧請年月日不詳であるが、大同・弘仁の頃
近江の国の日吉神を当所に移し勧請したと申し伝へる。又、風土記稿によれば、天平年中僧良弁の勧請なりという。元禄四年辛未十月十五日、社殿を再建し、山王権現と称した。当時徳川幕府朱印高壱石五斗であった。明治二年六月、日枝神社と改称し、当時の例大祭は三月三日で、競馬神事、神楽を奉納し、六月二十二日と十二月二日には年の市を執行した。明治六年発酉七月、字和田内鎮座の熊野神社 (朱印高二石)と、字石倉上鎮座の白山社を合祀し上粕屋神社と改称した。更に、昭和三十九年四月、字峯岸鎮座の御嶽神社を、昭和四十一年十月、字秋山鎮座の五霊神社を合祀して現在に至っている。
例大祭 四月三日
御祭神 大山咋神・大穴牟遲命・若山咋命
合祀御祭神 伊弉諾命・速玉男命・事解男命・伊弉冊命・菊理姫命・泉道守命・天穂日命・大己貴命・少彦名命・事代主命・三穂津姫命・日本武尊
以上