九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

丹波国(丹後国)河守郷  大和弥九郎 段銭(支払う側か? 貰う側か?)

2024-02-16 | 宇都宮氏




此の本(各務原市史)を見つけたので、大和氏…を調べてみる。





『鎮西宇都宮氏の歴史』著者:則松弘明 出版社:翠峰堂
によると大和氏は遡ると宇都宮氏(含む中原)と大友(中原親能の猶子)氏なのだ。
宇都宮信房が大和守となり、豊前宇都宮氏となっている。
一方、大友氏は能直の時代に豊後・筑後守護職鎮西奉行職に輔任された。

大和氏は大友能直の息が宇都宮景房に養子になり、また大友氏に戻っているようだが、宇都宮庶流…という事になっている。


尾藤氏も大友氏も秀郷流でもあり、秀郷流は宇都宮氏と婚姻関係等でつながっている。大友氏は特に中原親能の猶子でもある。

「能直は、幼児の頃は古庄能直と名のり、次いで父の苗字から近藤能直と名のり、その後、伯母婿で源頼朝の側近だった中原親能の猶子となり中原能直と名のったとする説が有力である。・・・苗字については転々とさせていたが、母(利根局)方の生家の波多野経家が相模国足柄上郡大友荘(現在の神奈川県小田原市西大友・東大友の辺り)を支配していたことから大友能直と称した。 」(wikipedia)



中原久経(九里太郎であった中原経久の父か叔父と思われる)とごく近い立ち位置である。
経久が沙弥蓮忍であり河守御荘の地頭であったこと、とその後、尾藤氏・大和氏と領主・地頭職が伝わっていったことと、つながりがあったと思われる。

沙弥蓮忍はその後、因幡国国衙官人となり、冨城郷の領主・地頭職にも就いていたと思われる。
其の冨城郷はその後矢部氏ともかかわりを持つ。

「矢部氏は元々、駿河国安倍郡矢部村の地頭であった。正治2年(1200年) 、梶原景時一族を討ち取った功績で矢部十郎暉種が因幡国八東郡20か村を与えられて入部した。・・・
建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇側に対して背くと、矢部氏は波多野氏などと尊氏側にくみした。その後、尊氏方の山名時氏が守護に任じられると他の国人と共にこれに従った。
この他にも、暦応3年(1340年)には矢部綸綱による因幡国千土師郷の押領が確認されるほか、法美郡富木郷にも所領があったことがわかっている。」
(wikipedia)

******

上記の宇都宮氏の本に出ていた一萬田氏(いちまだ・し)

一萬田氏の祖でもある大友氏
建久7年(1196年)正月11日、豊前・豊後両国に守護兼鎮西奉行として入った大友能直六男の兵衛尉時景は、大野郡一萬田村を領して一萬田の俗姓を名のり、一萬田氏の家祖となった。一萬田氏の居城である小牟礼城を築いたとされている。(Wikipedia)

「常忍は九州の事情に詳しかった」というのはこの辺りとつながっていたからかもしれない。(どこの記事であったか?。。。)

******

大和弥九郎について見ると、

 



アチラコチラの地頭を務めている人物である。
康正二年(1456年)周辺に活躍している。


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中河辺清兼(波多野義通の妻の父)は 【下河辺清親】であったのだろうか?

2024-01-29 | 宇都宮氏

保立道久氏による論述より 関係部分のみ借りる。(略あり・太字は私による)

『吾妻鏡』は「義常の姨母は中宮大夫進<朝長>の母儀、よって父の義通、妹公の好に就き、始め、左典厩((義朝))に候ずるの処、不和の儀ありて、去る保元三年春の比(ころ)、俄に洛陽を辞し、波多野郷に居住」(治承四年十月一七日条)

義通は、本来は、義朝の父の為義に親しい郎等であったが、妹が義朝の妻となって朝長を産んだ縁で義朝に仕えるようになった。

ところがそのために、義通は保元の乱の直後、義朝の親殺し、兄弟殺しの片棒を担がされ、ここに義通と義朝の間での「保元三年」の「不和の儀」がきざしたということであろう。

こういう経験が波多野氏の歴代当主、義通ー義常を頼政に近づけたのであろうが、あるいはその記憶が頼朝との齟齬の根底にも存在したのかもしれない。



*****
 コトバンクによると…「姨母」は、
母の姉妹。おば。いぼ。
※観智院本三宝絵(984)下「昔仏の御姨母(イも)(〈注〉ヲハ)の橋頓彌仏の御もとにきたりてかみをそりて御弟子にならむと」 〔説文解字段注‐女部・姨〕
一族の目上の女性をいう語。〔吾妻鏡‐貞応元年(1222)四月二七日〕

…とあり、義通の妹である可能性も残されているのではないかと思うが、中河辺清兼の娘の説もあると思う。

この中河辺清兼が、此の論述の中で【下河辺清親】(行吉・行義)の事、と示唆されている。


更に源義朝の許を去った波多野義通が波多野に戻ってきていることがわかる。保元三年(1158年)の春。

地図は『川村家の歴史』川村章一著



松田殿と呼ばれていた源朝長とその母はどうしたのであろうか?
《松田》とあるからには、何等か松田郷と関係があったと思われるが、義常の母と実の姉妹とすると、朝長と義常は幼き頃は共に育った可能性もあるかもしれない。

そして、義朝の息同志であった朝長と頼朝。

wikipediaより
朝長:保元4年(1159年)2月、鳥羽天皇皇女姝子内親王(後の高松院)が二条天皇の中宮として立后した際、その中宮少進に任じられている。また、この頃には従五位下の位階を得ていた(『山槐記』)。

頼朝:女院号を得た上西門院の蔵人に任じられている(『山槐記』)。

平治元年(1159年)12月、父の義朝は反信西派の中心にあった藤原信頼と結んで京でクーデターを起こして三条殿を襲撃、その後同じく信頼と結んだ源光保によって信西は討ち取られた(平治の乱)。

朝長は兄の義平、弟の頼朝とともに内裏の守りについた。
朝長は17歳・頼朝13歳。

義朝は少人数となった子や一族郎党とともに京を落ちていく。

近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬し、その後逃亡を続ける。
その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。
一行は美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)に着いた。
一行はここでもてなされて休息した。

ここで義朝は義平と別れ義平は東山道へ向かった。
義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否。父の義朝に頼んで殺害してもらったという。

*****


中原久経が義朝の右筆となる15年以上は前に朝長の母であった人物が中原に再嫁している必要がある。(15歳で右筆という事が可能であるならば‥‥だが。)

1143年生まれの朝長、
1145年前後生まれの久経、という事でないと、右筆にはなれないのではと思う。

とすると、義通が波多野に戻ってくる十年以上も前に、義通の妹か義理の妹は中原氏に再嫁した…と思う。

朝長が松田冠者・松田殿と呼ばれていたことからも、姉妹の居る松田郷で朝長を産み育てていて、朝長を連れての再嫁と思われてならない。
とすると、忠綱の母が宇都宮宗綱の娘であったことからも考えられるのが、宇都宮宗綱自身か、その息が相手であったのではないだろうか?という事だ。

宇都宮朝綱(1122年生ー1204年歿)か知家、もしくは中原宗綱の兄弟宗房か、宗綱の実父宗家の方を遡る系と繋がる中原広季も東国とのつながりが密で可能性があると思われる。(わかりにくく、スミマセン。また後の記事で書き直します。)

其の広季の方とすると、親能と久経は異母兄弟になるか?
親能もまた、母親が波多野(大友)経家の娘である。

ともかく、この辺りに久経がいるであろうと思うのだが。

そして、もしも前述のように久経の母の実家が下河辺氏であるならば、頼政の郎党である。
しかも兄小山政光の妻が寒川尼であり、中原・宇都宮宗綱の娘である。

義通の妻に 下河辺清親娘(松田義常の母)・中原宇都宮宗綱娘(波多野忠綱の母)がおり、下河辺の娘の姉妹が相模に帰ってきた(住んでいた)とすれば、宇都宮宗綱か、その周辺の中原氏とつながるのが自然ではないだろうか?

京都にいた場合は、また別なこととなろうと思う。


今回分った事は、近藤国平も源頼政の郎党であった事。

「鎌倉殿御使」の国平と久経のコンビは、お互いに秀郷流と言うばかりではなく、共に源頼政とつながりがあった…と云う事であった。

しかし何故、久経が系図からこぼれているかのように記述が無いのか。悲しい。まだ文書が残っているだけでもありがたいが…

何処かに潜んでいると思いたい。
中原久経の系図にお心当たりのある方には、ご一報いただけますとありがたいです。

中原経任の兄弟か?



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【宇都宮頼綱】妻に稲毛重成娘・ 北条時政娘・梶原景時娘 佐々木氏との接点

2024-01-28 | 宇都宮氏
宇都宮頼綱(1178-1259年)は小山政光養子となる。(政光妻は寒川尼である。)結城朝光よりも10歳年下となる。
頼綱の実父は宇都宮業綱である。

宇都宮宗円か宗綱の娘は佐々木経高の母となっている。
秀義の妻であったことになる。
大庭景親の娘は佐々木義清の室となっている。

大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。

この寒川…寒川尼を連想させる。

実は寒川尼となった女性は小山結城朝光を産んだのが30歳。
小山政光より前に嫁いでいた人がいたのではないだろうか?

それが、波多野義通ではないか?と思うのだ。
波多野忠綱の母は宇都宮宗綱の娘となっているではないか。

波多野義通は1167年に歿しており、結城朝光が生まれているのは1168年。

波多野の勢力が及んでいると思われる場所に近いと思う。
ここには梶原景時がいたようだが、相模国一宮があった場所である。

「寒川」と称した背景に、この近辺に居た…という事も考えられないだろうか?
下野国にも寒川郡がある。現在の小山(おやま)市南西部一帯 という事で、こちらは小山氏に嫁いだ後についたのかもしれない。

宇都宮頼綱の妻に梶原景時の娘がいた事とも関連しているのではないだろうか?と思うのである。

かなり前に見た宇都宮氏の系図では、宗綱に3人の娘がいたので、其の一人が忠綱の母であった可能性もある!





右の青い丸に寒川町がある。

下の地図は栃木県の方の寒川
      


文治三年(1187年)のことである。
コメント (2)
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中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点 (4) 宇都宮宗綱の時代 坂戸源氏(文徳源氏)とのつながり

2024-01-27 | 宇都宮氏
【宇都宮(八田)宗綱】

宇都宮氏一族の群像  川村一彦著

下記に朝綱の母が【八田局】とあるが、彼女は朝綱の娘であったという説もある。






中原大和守忠順の娘か…と思われるのである。
註によると、忠順は初め親盛を名のっていたようである。









久寿二年 1155年 山塊記 中務丞であったのか?


この辺りで、一つ情報が入ってきた。
wikipediaに「中原宗房には坂戸源氏源季範の養子となった源季長、源季範の子である源季国に嫁いだ女子、下野宇都宮氏の宇都宮朝綱とほぼ同世代で宇都宮信房の父である名前不詳の男子といった三人の子がいた。 」このようにあるが、其の「坂戸」は河内国とあるが、

其の「坂戸」が現在の神奈川県の「中原」のすぐ近くに、さらに源季実(坂戸源氏と同じか重なる文徳源氏)の母が下野毛敦俊の娘とある。
つまり季実の父である源季範の妻である。

地図で確認すると面白いことがわかったのである。


上が下野毛(中原区も見える) 下が坂戸  ごく近くなのである。


しかも、鎌倉時代は橘樹郡であった場所である。
この中原と橘樹と文徳源氏が、宇都宮・中原・八田氏のつながりを示唆しているような気がするのである。

さらに、この辺り(橘樹)は稲毛重成がいた場所に近いのではないだろうか?
稲毛重成とは、中原(八田)宗綱の娘が嫁いでいた小山田別当有重の息である!
つまり重成の母は中原宗綱の娘である!

小山田有重の父は秩父重弘であり、有重の兄に畠山重能、姉妹に千葉常胤室がいる。









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中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点 (3) 中原広宗・宗政・宗家 の時代

2024-01-25 | 宇都宮氏
中原氏と宇都宮氏との接点であった「中原宗綱」の周辺を一人ずつ見ていこうと思う。

貞親ー広宗ー(広忠)・広政ー広家-広綱

【中原貞親】 尾張氏 尾張宿禰秋時の息




【中原広宗】 大学助教  石見守にもなっていたことがわかる。









【中原宗政】 広忠の弟 宗政 伊豆守









【中原宗家】
國史摘要寶祚大典 義之巻の表より
 


【中原宗綱】は【宇都宮宗綱】として、次の記事にする予定である。



memo
波多野義通


波多野忠綱

佐々木経高


長田実任

中原清業

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中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点 (2)

2024-01-23 | 宇都宮氏
昨夜間違えて、まだ書きかけの記事を出してしまったので、、、、書き足します。

以下の系図は論文
「平家物語」の成立と成長の環境  佐々木紀一 著 からである。
 
宗家の息宗綱となり、伊豆守であった宗政の系となる。
兄広忠は、大江氏の系図にいる人物である。

↓の系図 の 広宗の父が尾張貞親で、
貞親ー広宗ー広忠・宗政―宗家ー宗綱 となるのではないかと思う。
尾張氏の血をひいている。

寒河尼も、尾張氏の系につながることになる。

さらに、広季の息に親光もいる。
其の親光の息に『「親厳」東寺長者,京都小野の随心院の初代門跡(もんぜき)をへて,嘉禎(かてい)元年東大寺別当となる。大僧正。』がいる。

近江八幡の九里(九里村)は隋心院門跡領である。
九里の祖である「中原」はそのあたりと思っていたが、
宇都宮氏の中に入った中原であった可能性もあることになるか?
まだわからないが、この辺りと秀郷流のはざまに九里氏は位置すると思う。




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中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点

2024-01-22 | 宇都宮氏
父親が尾張貞親が広忠の祖父であり、其の広忠が大江広元の祖父である。













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波多野忠綱の母が宇都宮宗綱の娘=義通の妻に宇都宮氏だったことになる。か、養子か。

2024-01-22 | 宇都宮氏
義通の妻に宇都宮宗綱の娘がいた…ということは、妹も母親が宇都宮であった可能性がある。

随分前に調べた際の記憶では、寒河尼以外に姉妹がいたはずである。





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光る君へ~  藤原道兼が先祖になる宇都宮氏

2024-01-21 | 宇都宮氏
2024年の大河ドラマに、乱暴者として登場する道兼。











藤原兼房 母は佐々木氏とも繋がる 源扶義の娘
しかも妻は 大江匡子(江侍従) - 大江匡衡の娘 










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横道にそれる…四条通周辺へ

2024-01-15 | 宇都宮氏
昨日、四条家を調べていたが、この周辺を地図上で探索することとした。





地図 右上 藤原光隆邸(家隆の父)
   その下の左側 藤原為兼
   (祖父藤原為家・祖母宇都宮頼綱娘 / 父京極為教・母三善雅衡の娘)

なぜか四条隆房邸は見つけられなかった。
藤原隆親は四条家に存在するが、親隆はいないもよう。
其の親隆邸は中ほどにある。



蓮生




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