丹波国と丹後国の国境にあると思われる【河守荘】そして【室尾谷観音寺】
一度今まで調べてきたことを整理・掘り下げをしてみようと思う。
東京大学史料編纂所のデータ
「丹波 河守庄」で検索してみる。
丹波河守庄 < 当国河守郷与河守庄 が出てくる。
鎌倉遺文(既収) 45巻 6頁
室谷観音寺文書
延応元年11月6日(12390110060)
地頭蓮忍寄進状
観音寺文書(寺領寄進状・安堵状)(市指定 古文書12)
福知山市大江町南山 観音寺蔵
蓮忍寄進状 延応元年(1239)
観音寺は『略年代記』によれば、貞永年間(1239)に僧蓮乗によって再興され、十一坊が建立されたとあるが、この文書は、その直後に、当地方の地頭、沙弥蓮忍が観音寺に寺領を寄進した際の寄進状である。観音寺が、河守御荘観音と表記されていることが注目される。また、中世の当地方で地頭と称する人物が確認できる唯一の例が、この沙弥蓮忍である。
一方、同じデータベースで「丹後 河守庄」と検索すると以下が出てくる。
か わ も り の し や う ( 丹 後 国 河 守 庄 ) 元亨元年(1312年)九月三日 平賀文書
~~~*~~~
鎌倉時代の史料は観音寺文書 蓮忍寄進状のみである。
~~~*~~~
では、歴博のデータベースはどうだろうか。
丹波・丹後・または国名なしで、それぞれ検索してみた。
二件ヒットしてくる。
一件目は、丹波 河守庄 室町院領・皇室領 嘉元4年(1306年)に何か相論があったらしい。
二件目は 丹後 加佐 河守庄 加佐郡大江町 元享元年 1312年 平賀兼宗宛譲状に「かわもりのしやう」
康永2年 1342年 河守郷代官職 久下頼直
…となっている。
因みに「川守庄」では、一件参河で出てきたが、関係はないと思う。
~~~*~~~
ココからは、私の勝手な推論だが、
始めは大きな院・皇室の領地であり、其の後、鎌倉時代または、室町時代に二つに分かれ、丹後加佐は平賀氏の物となり、
丹波は室町院領・皇室領のままであった。・・というのはどうだろうか。
調べてみると、あたっていた。
室町院とは、後堀河天皇の第1女であり、叔母にあたる後高倉院第1女の式乾門院から膨大な荘園群を譲与された女性のことである。
のちにこの御領は大覚寺(だいかくじ)、持明院(じみょういん)両統で争われ、折半された。・・・とある。(コトバンクより)
(1228生-1300年没)
歴博で検索すると、室町院領はなんと116か所もあった。
『中世公家領研究』 金井静香著 によると(約半数は室町院が自身で処分できる「御永領」であった)とある。
そこで、前出の【平賀文書】につながるのであるが、かわもりのしようの部分である。
・・・「尼きやうかん養子兼宗ニ高屋保油田條、櫻屋郷、河守庄幷ニ夏間村ノ所領ヲ譲ル」
とある。
御永領とした可能性のある、丹後 河守庄は平賀兼宗の所領となったのである。
そこで、今度は【平賀兼宗】を調べてみると、敗走した足利尊氏に従軍し、軍忠ニヨリ恩賞、足利尊氏袖判感状 なるものを賜っている。建武3年6月25日(1336年)平賀三郎兼宗・藤原兼宗ともいう。
おまけの情報
室町院領だった所に伊香庄付近も入っていた。ただし、富永庄は入っていなかった。既に山門領になった後だったのだろうか。
伊香庄 黒田郷・古橋郷・石作郷・田井郷・椙野郷
一度今まで調べてきたことを整理・掘り下げをしてみようと思う。
東京大学史料編纂所のデータ
「丹波 河守庄」で検索してみる。
丹波河守庄 < 当国河守郷与河守庄 が出てくる。
鎌倉遺文(既収) 45巻 6頁
室谷観音寺文書
延応元年11月6日(12390110060)
地頭蓮忍寄進状
観音寺文書(寺領寄進状・安堵状)(市指定 古文書12)
福知山市大江町南山 観音寺蔵
蓮忍寄進状 延応元年(1239)
観音寺は『略年代記』によれば、貞永年間(1239)に僧蓮乗によって再興され、十一坊が建立されたとあるが、この文書は、その直後に、当地方の地頭、沙弥蓮忍が観音寺に寺領を寄進した際の寄進状である。観音寺が、河守御荘観音と表記されていることが注目される。また、中世の当地方で地頭と称する人物が確認できる唯一の例が、この沙弥蓮忍である。
一方、同じデータベースで「丹後 河守庄」と検索すると以下が出てくる。
か わ も り の し や う ( 丹 後 国 河 守 庄 ) 元亨元年(1312年)九月三日 平賀文書
~~~*~~~
鎌倉時代の史料は観音寺文書 蓮忍寄進状のみである。
~~~*~~~
では、歴博のデータベースはどうだろうか。
丹波・丹後・または国名なしで、それぞれ検索してみた。
二件ヒットしてくる。
一件目は、丹波 河守庄 室町院領・皇室領 嘉元4年(1306年)に何か相論があったらしい。
二件目は 丹後 加佐 河守庄 加佐郡大江町 元享元年 1312年 平賀兼宗宛譲状に「かわもりのしやう」
康永2年 1342年 河守郷代官職 久下頼直
…となっている。
因みに「川守庄」では、一件参河で出てきたが、関係はないと思う。
~~~*~~~
ココからは、私の勝手な推論だが、
始めは大きな院・皇室の領地であり、其の後、鎌倉時代または、室町時代に二つに分かれ、丹後加佐は平賀氏の物となり、
丹波は室町院領・皇室領のままであった。・・というのはどうだろうか。
調べてみると、あたっていた。
室町院とは、後堀河天皇の第1女であり、叔母にあたる後高倉院第1女の式乾門院から膨大な荘園群を譲与された女性のことである。
のちにこの御領は大覚寺(だいかくじ)、持明院(じみょういん)両統で争われ、折半された。・・・とある。(コトバンクより)
(1228生-1300年没)
歴博で検索すると、室町院領はなんと116か所もあった。
『中世公家領研究』 金井静香著 によると(約半数は室町院が自身で処分できる「御永領」であった)とある。
そこで、前出の【平賀文書】につながるのであるが、かわもりのしようの部分である。
・・・「尼きやうかん養子兼宗ニ高屋保油田條、櫻屋郷、河守庄幷ニ夏間村ノ所領ヲ譲ル」
とある。
御永領とした可能性のある、丹後 河守庄は平賀兼宗の所領となったのである。
そこで、今度は【平賀兼宗】を調べてみると、敗走した足利尊氏に従軍し、軍忠ニヨリ恩賞、足利尊氏袖判感状 なるものを賜っている。建武3年6月25日(1336年)平賀三郎兼宗・藤原兼宗ともいう。
おまけの情報
室町院領だった所に伊香庄付近も入っていた。ただし、富永庄は入っていなかった。既に山門領になった後だったのだろうか。
伊香庄 黒田郷・古橋郷・石作郷・田井郷・椙野郷