九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

丹後国か丹波国か? 河守荘 鎌倉時代

2016-04-11 | 丹後国 室尾谷観音寺
丹波国と丹後国の国境にあると思われる【河守荘】そして【室尾谷観音寺】

一度今まで調べてきたことを整理・掘り下げをしてみようと思う。

東京大学史料編纂所のデータ

「丹波 河守庄」で検索してみる。

丹波河守庄 < 当国河守郷与河守庄  が出てくる。


 鎌倉遺文(既収) 45巻 6頁
 室谷観音寺文書
 延応元年11月6日(12390110060)
 地頭蓮忍寄進状

観音寺文書(寺領寄進状・安堵状)(市指定 古文書12)

福知山市大江町南山 観音寺蔵


 蓮忍寄進状       延応元年(1239)

観音寺は『略年代記』によれば、貞永年間(1239)に僧蓮乗によって再興され、十一坊が建立されたとあるが、この文書は、その直後に、当地方の地頭、沙弥蓮忍が観音寺に寺領を寄進した際の寄進状である。観音寺が、河守御荘観音と表記されていることが注目される。また、中世の当地方で地頭と称する人物が確認できる唯一の例が、この沙弥蓮忍である。



一方、同じデータベースで「丹後 河守庄」と検索すると以下が出てくる。


か わ も り の し や う ( 丹 後 国 河 守 庄 ) 元亨元年(1312年)九月三日 平賀文書 

~~~*~~~

鎌倉時代の史料は観音寺文書 蓮忍寄進状のみである。

~~~*~~~

では、歴博のデータベースはどうだろうか。

丹波・丹後・または国名なしで、それぞれ検索してみた。

二件ヒットしてくる。

一件目は、丹波 河守庄 室町院領・皇室領 嘉元4年(1306年)に何か相論があったらしい。

二件目は 丹後 加佐 河守庄 加佐郡大江町 元享元年 1312年 平賀兼宗宛譲状に「かわもりのしやう」
                      康永2年 1342年 河守郷代官職 久下頼直

…となっている。


因みに「川守庄」では、一件参河で出てきたが、関係はないと思う。


~~~*~~~

ココからは、私の勝手な推論だが、

始めは大きな院・皇室の領地であり、其の後、鎌倉時代または、室町時代に二つに分かれ、丹後加佐は平賀氏の物となり、
丹波は室町院領・皇室領のままであった。・・というのはどうだろうか。

調べてみると、あたっていた。


室町院とは、後堀河天皇の第1女であり、叔母にあたる後高倉院第1女の式乾門院から膨大な荘園群を譲与された女性のことである。
のちにこの御領は大覚寺(だいかくじ)、持明院(じみょういん)両統で争われ、折半された。・・・とある。(コトバンクより)
(1228生-1300年没)
歴博で検索すると、室町院領はなんと116か所もあった。

『中世公家領研究』 金井静香著 によると(約半数は室町院が自身で処分できる「御永領」であった)とある。

そこで、前出の【平賀文書】につながるのであるが、かわもりのしようの部分である。
・・・「尼きやうかん養子兼宗ニ高屋保油田條、櫻屋郷、河守庄幷ニ夏間村ノ所領ヲ譲ル」
とある。
御永領とした可能性のある、丹後 河守庄は平賀兼宗の所領となったのである。

そこで、今度は【平賀兼宗】を調べてみると、敗走した足利尊氏に従軍し、軍忠ニヨリ恩賞、足利尊氏袖判感状 なるものを賜っている。建武3年6月25日(1336年)平賀三郎兼宗・藤原兼宗ともいう。



おまけの情報
室町院領だった所に伊香庄付近も入っていた。ただし、富永庄は入っていなかった。既に山門領になった後だったのだろうか。

伊香庄 黒田郷・古橋郷・石作郷・田井郷・椙野郷


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丹後国 室尾谷観音寺

2016-03-19 | 丹後国 室尾谷観音寺

古代のクノリは鉱物(鉄・銀・銅他)と関係があったのでは…と思われるため、今までの情報を「鉱山・鉱物・丹生」等のキーワードでくくりなおしている。

九里の祖である蓮忍は、丹波国河守御荘の地頭だったが、山林を室尾谷観音寺に寄進している。

沙弥蓮忍、そして観音寺を再興した蓮乗上人。

そして、その河守が鉱山に関係があったことが分かった。

ある方のブログに↓の一文が、そして、他にも見つけたのである。

『丹波・丹後の境界には金谷、山野口、室尾谷の三ケ所に、鉱山が有り…』


【日本の鬼の交流博物館】のweb情報である。(中ほどにある。)

http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/ooeyama/index.html

これは、沙弥蓮忍がやはり九里の祖である九里太郎蓮忍入道と同一人物となる可能性が高いことになるのではないだろうか。

【河守鉱山】

http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/kouzan/kozan.html

歴史は比較的新しい…と書かれ大正六年とあるが、江戸時代にも掘っていたようである。

それ以前にも、手掘りでおこなっていたのではないかと推察。

…と思って日本の鉱山を調べてみたら、あまりに多くの鉱山があるので驚いている。

地下資源が豊富な日本だった事をはじめて知った。


沙弥蓮忍の頃は、手掘りをしていた人たちが鬼のような異形をしており、また、大事な鉱山を守り入山できぬようにするための鬼の話であったともいえると思う。





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