(明応五年)八月廿二日付朽木宛後藤高恒書状(史料纂集『朽木状案( ※『今堀日吉神社文書集成』一五五、以下『今堀』と略)。( 8 )網野前掲註( A )論文。( 8 )『蒲生』巻二、九○五頁。( 8 )文値二(一五〇二)年九月二日付高島郡南市庭商人中宛九里員秀に ...
(明応五年)八月廿二日付朽木宛後藤高恒書状(史料纂集『朽木状案( ※『今堀日吉神社文書集成』一五五、以下『今堀』と略)。( 8 )網野前掲註( A )論文。( 8 )『蒲生』巻二、九○五頁。( 8 )文値二(一五〇二)年九月二日付高島郡南市庭商人中宛九里員秀に ...
朽木氏はweb情報に「朽木氏は朽木谷城を拠点に「室町幕府奉公衆」を務め、戦国時代の当主「朽木元綱」も足利義輝・義昭に仕えた。」とあるが、足利義澄も足利義晴も一時避難していた場所でもあった。
義澄は、朽木谷より九里の居城していた『水茎岡山城』へ船でやってきたという説があるが、
「永正5年(1508年)4月、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。」
しかし、下記の稿によると、甲賀を走ったのが義澄のようにも見える。
甲賀から水茎の岡山城だったのだろうか?
そこで、もう少しココを調べてみようと思う。
『甲賀に走り』とは細川澄元と三好之長が甲賀の山中氏を頼った時のことなのだろうか?
しかも、この稿は表紙を見る限りでは永正五年(1508年)とある。
件の細川政元の家督争い(永正の錯乱)は永正四年(1507年)である。
永正四年八月に細川澄元は正式に政元を継ぐこととなって、足利義澄に会っている。
これらの手稿を見る限りでは
文亀三年(1503年)に、足利義澄より一字賜り、細川六郎から澄元と名乗り、
永正四年(1507年)に家督争い(永正の錯乱)があって、
永正五年1508年に足利義澄が水茎岡山城にやってきた、が、正しいように思う。
したがって、甲賀に逃げて山中為俊に匿われた中に足利義澄がいたかどうかまではわからないが、それは細川澄元と三好之長の可能性が大きい。
その次の年に足利義澄は朽木谷より水茎岡山城の九里氏のもとに依ってきたというのが、正しいようである。
この山中為俊は、山中長俊の父である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E9%95%B7%E4%BF%8A
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/o_ymnaka.html
『江州の住人 九里備前守・山中新左衛門等 先年ヨリ三好と一味シ』と書かれていたのも、九里とつながりがあった証拠となろうと思う。
☆朽木谷の場所を地図で調べたので、貼っておこうと思う。
足利義昭を調べていると、細川藤孝とともに兄の三淵藤英が登場する。
この二人の父は【三淵晴員】で、其の晴員の父は細川氏、母が三淵氏である。
藤英は『鹿苑日録』のなかに清光院の使者として名が出てくる。
其の清光院は足利義晴の養育係であったそうだ。が、下記の本では、清光院から後に佐子局となったとある。
足利義晴の側室となる佐子局。大舘常興の娘とも云われ、また細川晴員の姉とも云われている。
細川藤孝の母は清原宣賢の娘(智慶院)である。
藤孝の実父は、足利義晴という説もある。
前出の佐子局も、三淵藤英も、朽木氏とつながりがある。
佐子局は朽木荘の代官であった朽木氏の許に義晴と共に居たことがあったのかもしれない。
三淵藤英は息を【朽木 稙綱】に三人も出している。朽木昭貞・昭知・昭長である。
朽木 稙綱は、足利義晴・義輝父子が朽木谷へ逃亡した際の朽木氏当主である。
藤英と息秋豪は自害し、残った光家は細川藤孝の許に預けられ、やがて細川家臣となる。
以前書いた久多庄の歴博DBよりの部分
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/35aa34a63240a02a909fbe22260e005c
「 永仁7朽木文書=久多庄地頭代貞能と朽木庄地頭出羽義綱代祐聖が堺相論和与=正安1幕府和与裁許・文安6醍醐寺文書=三宝院領門跡領・大見庄と堺相論あり」
の出羽義綱代祐聖とは?一人の名前ではなかった。
出羽五郎義綱という人物と地頭代の祐聖 という事になる。
出羽五郎義綱?…朽木の?
朽木の祖は?…高島隠岐守高信から始まっているようである。
高信 ー 次男出羽守頼綱 ー 出羽守義綱…経氏
佐々木哲氏のブログ「佐々木哲学校」によると
「
http://blog.sasakitoru.com/201011/article_1.html
「『尊卑分脈』によると、頼綱(入道道頼)には出羽三郎頼信・五郎義綱・四郎氏綱・五郎有信があった。このうち五郎義綱が勲功の所領近江国朽木庄(承久勲功、祖父近江守信綱拝領所也)と常陸真壁郡本木郷(弘安勲功、頼綱拝領所也)を譲渡されて(朽木147佐々木左衛門尉頼綱譲状案)、朽木氏を立てた。三郎頼信は横山庄、四郎氏綱が田中庄と相伝の所領を相続しており、朽木氏は佐々木出羽家の惣領ではなかったようである。朽木氏が大きく飛躍するのは、朽木庄を相続した五郎義綱が、陸奥国栗原庄一迫板崎郷を母覚意から譲与され、嘉元の乱で活躍して出羽守に補任されるとともに越中国岡成名を得たことによるだろう。」
「元享二年(1322)十一月二十八日付平宗度置文によれば、池宗度は嫡子増一丸(顕盛)に所領を譲る旨を記している(朽木123)。池家は池大納言頼盛の子孫で、頼盛実母で平清盛継母であった池禅尼が、平治の乱で源頼朝の命を救ったことから、頼盛は平氏の都落ちに同行せず、鎌倉殿伺候の公卿となっていた。この置文が朽木家に伝わるのは、頼盛の子池河内守保業の子孫である池河内家の所領が、朽木氏に譲渡されたからである。」
中世久我家と久我家領荘園より
「吾妻鏡』元暦元年二一八四)六月二十日条にも「権大納言平頼盛、侍従同光盛、一三五号)にも、頼盛から保業.光度.為度.維度.宗度.顕盛,そして経氏へという流れが記され、・・・」
「義綱の子孫【朽木経氏】は、桓武平氏の嫡流池氏の池顕盛の猶子となり池氏の所領も相続した。」
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/7ca2760aca88c99ca727642bd674523b
2017年の記事なので、間違いも多々あると思うが、その時に調べた結果である。
つまり、朽木氏は池氏の所領も一部付加されて、より大きくなったという事になる。
===*===
今日の「麒麟が来る」にも朽木荘がでていた!!
しかも足利義輝!!!
九里が匿った「足利義澄」の孫に当たります~~♪
ひょっとするとこのようになるのでは?という仮想。
朽木氏の系図と同じサイト内に「本堂氏」という系図があった。
この系図の中に「小堀政徳妻」「朽木綱泰妻」とあった。
この本堂氏の系図に和賀氏が、和賀氏を調べていくと碓井氏が出てくる。
碓井氏は臼井氏とつながっているとかそうすると、原氏につながる。
その和賀氏は横山党でもあり、系図では刈田義季は和田義盛の養子となっているとある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/4e/19e4f1db34fa875434bccf5d5bb40d94.jpg)
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/usui1.htm
以下のアドレスのページに朽木氏の系図と概要が出ていた。
この系図を見つつ、wikipediaと違いがあることに気が付いた。
信綱~泰綱~頼綱となっているのがwikipedia
信綱~高信~頼綱となっているのが朽木氏系図
他にも差異があるが、嬉しかったのが定綱の息たちのこと。
広綱、定重、定高、信綱、宏定、定厳、時綱、行綱、頼定、定雅 10名の名前が!
http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/koutai/kukki.htm
九里氏と関係する大事な部分は↓
朽木荘は山間の荘園でしたが、京都に比較的近く、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたこともあって早くから開け交通上の要衝としても重視されていました。
そうしたことから朽木氏は近江の守護であり同じ佐々木一族である六角家に属しながらも、足利将軍家とも深い関係があり、将軍義晴・義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがありました。
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義晴は足利義澄の息であり、「亀王丸」のことである。
水茎岡山城で生まれていて、赤松氏に預けられていた人物である。
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さらに、久多庄との争い(相論?)があったのも、この朽木氏との間だったのではないだろうか。
その朽木氏のなかに飯田氏がいたようなのである。
佐々木信綱と荘園の関係を見てみると、(歴博DB)
角川地名=輿地史略に佐々木庄の北=安土町北部一帯=天平感宝1聖武が薬師寺に施入した100町の水田が荘園化、薬師寺領=建仁1賀茂社と日吉社の相論
【備考】
読みは中世、現在ともにトイラ、『荘園志料』の読みトヨウラを改む・東鑑=安貞1佐々木信綱に佐々木豊浦羽爾堅田両庄等の地頭職を給与、承久合戦の恩賞=嘉禎1佐々木信綱宇治河勧賞豊浦庄の替として尾張長岡庄地頭職に補任
wikipediaでは、
承久3年(1221年)6月14日、承久の乱に鎌倉幕府軍として加わり、宇治川を挟んで対する官軍を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、官軍からの矢と急流により渡れず、中州において長男の重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、泰時の長男である時氏と共に川を渡り官軍を破る。
これにより乱の大勢は決し、7月2日に官軍に属した長兄の広綱は斬首となり、翌年の9月22日に信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江佐々木豊浦庄、羽爾堅田庄、栗本北郡の地頭職を得る。
嘉禄2年(1226年)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得るための朝廷への使者を務め、寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられる。文暦2年(1235年)、承久の乱で得た佐々木豊浦庄に代わり、尾張長岡庄の地頭職を得る。
~~*~~
信綱は、長兄の息であった「勢多伽丸(せたかまる)」を処刑にすることを主張する。
【勢多伽丸】
承元2年(1208年)、佐々木広綱の子として誕生。
承久3年(1221年)、父・広綱は承久の乱において後鳥羽上皇方に荷担し、鎌倉幕府将軍の恩恵を受ける立場にありながら背信行為をしたことに強い非難と憎悪が向けられ、後藤基清らと共に処刑された。この時、勢多伽丸は出家して仁和寺に在住し、道助入道親王に育てられていたが、父の謀叛に連座して捕らえられ、処刑されることとなった。
これに対し道助と勢多伽丸の母親は勢多伽丸を救うために必死の助命懇願を行い、人道を尊重する執権北条泰時にとっても、勢多伽丸を処刑することは耐えがたきことであった。
しかし、広綱の弟で承久の乱における宇治川の戦いで抜群の武功を挙げた佐々木信綱が、自分の武功を帳消しにしてでも勢多伽丸を処刑することを強く主張した。信綱は泰時の妹婿にあたり鎌倉幕府において枢要な人物であったため、泰時はこれを退けることが出来ず、断腸の思いで勢多伽丸の処刑を指示し、勢多伽丸は処刑された。
なお、勢多伽丸の母は、息子を失った悲しみに耐え切れず、桂川に入水自殺を図ったが死に切れなかった。後に出家して夫・広綱と子を弔ったという。
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気になっている豊浦庄は
1227年に「幕府、佐々木信綱承久の戦功を賞して、近江佐々木豊浦等の地頭職となす」
1235年に「幕府、佐々木信綱を、尾張長岡荘地頭職に補す」 と文書に残っている。
尾張長岡荘(歴博DB)
角川地名=永岡とも書く=木曽川左岸=祖父江町神明津辺から岐阜県羽島市南部、海津郡北部に比定=本家職は頼通→通子→忠通→高陽院→→近衛家
【備考】
河東に4郷、河西に6郷・鎌倉期に隣接の堀尾庄と堺相論あり・地頭職=長瀬次郎、佐々木信網、宮太郎左衛門尉盛氏、佐々木信貞、島津殿、下野殿河津氏明、河内観心寺・康正段銭引付=雅楽備中入道殿・『遺文番号』
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虚仮になってからのことだが、
「和泉横山荘地頭の得分を、政子追善の為めに、高野山金剛三昧院念仏用途に寄進することを聴す」とある。(東京大学史料編纂所DB)
歴博DBには、この和泉横山荘の記載に「佐々木信綱・虚仮」の記載は見られない。
高野山領(金剛三昧院領、地頭得分) の記載はあった。
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昨日の草津市史の中にあった「熊野神社」のことだが、追記がある。神道及び神道史, 第 34~38 号 國學院大學神道史學會, 1979 より
「建保六年(ニニ八)二月佐々木信綱が神託を蒙って平貞長入道常善が願主となって紀伊国熊野より勧請したとしているが、その典拠となるものはない。
寛政六年(一七九四)三月に平井清左衛門綱要が社殿を改修したときの棟札には「当社之濫觴遠而不可祥 ...
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伊勢路と東山道の分岐する滋賀県草津市の平井町に熊野神社がある。この神社の本殿に向って左方に小堂があり、その堂内に熊野本地仏像九躯が安置されている。この熊野
神社は社伝によると、建保六年(ニニ八)二月佐々木信綱が神託を蒙って平貞長入道 ...
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平井町の熊野本地仏こそ、園城寺が熊野神を勧請して、つづいて鎌倉初頭にその本地仏を造立し、伊勢路から熊野へ詣でる第一歩を踏みだすこの草津の地に、熊野権現を勧請したその歴史意義は誠に注目に価いする。紀路が摂津の窪津王子にはじまり、途中 ...
googlebooksに検索ワードを入れてのことなので、正確ではないかもしれないし、もう少し知りたい!という処で切れてしまうが、熊野詣…の一文には納得である。
平貞長(貞能の息)
ココに神社があればという信綱の神託と貞長の願いがあって、草津の熊野神社はできたらしい。そこに熊野別当湛政(時代的に見てこの人かと思う。)が関わったらしい。
湛快では1174年に亡くなっている。
建保6年は1218年であり、信綱37歳の時である。
ついでに
嘉禎 3年(1237年):朽木村の領主佐々木信綱が、承久の乱で戦死した一族の供養を願い、道元を招く。(memo)
道元と信綱、つながっていたんだ。
そして、朽木氏となっていく信綱の系 義綱。以前書いた記事よりピックアップすると、
義綱の子孫【朽木経氏】は、桓武平氏の嫡流池氏の池顕盛の猶子となり池氏の所領も相続した。
朽木家文書(東京大学史料編纂所のデータベース)では、この池顕盛はまた【河内次郎顕盛】とも記載有。