九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

藤原助清の子である助道(通)の弟であった? → 藤原(山内)義通 (武家時代之研究 第三巻)

2023-06-19 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

 

武家時代之研究 第三巻の上の系図は二ページに分断されていて、わかりにくいのだが、註に「助清の子助道の弟(山内)義通」とある。助道(通?)=資道(通?)

 

首藤資清が源頼義の郎党となり・・・

源頼義の郎党藤原資通・・・(wikipedia)ともある。

首藤資通源為義(頼朝の祖父)の乳母父を務めた。

 

この【助清の息である助通】の弟」という意味だろうと思うが、助通の孫にあたり、先の註の意味がよくわからない。

その人物が義通と記載がある。(上に貼った系図)

 

俊通のときに相模国山内荘(神奈川県鎌倉市・横浜市)を支配して山内氏、また山内首藤氏を称した。(福井県史)

 

(頼信)ー頼義ー義家ー義親ー為義ー義朝

…とだいだい山内首藤氏は清和源氏(河内源氏)の乳母父の家であったようだ。

 

 

以前調べた際にも様々な系図があり、もやもやとした状態のままだったが、また同じ個所(波多野・山内・鎌田の周辺)ですっきりとしない状態である。

 

秀郷流の山内氏は義朝・頼朝の乳母父(めのとぶ)であったと言われている。

同じ秀郷流の鎌田政清は、母が義朝の乳母であり、相模国の住人鎌田権守通清の子、とwikipediaにある。

 

鎌田政清の妻が、長田忠致の娘である。

忠致の息に致将がいる=この致将は千葉常重の息だという。

 

義通の息である俊通の妻もまた乳母である。(摩々局

 

 

 

因幡国の長田氏の「資経」の系は相撲の家。

https://www.tbz.or.jp/yamabikokan/yamabiko/6622/

 

代々 山内首藤氏が乳母父の家とすると、そこに妻として入ってきた乳母の家系もあったに違いない。

 

ほとんど進展なしの記事であった…

 

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伊賀光季は佐藤朝光の長子なり、とありました。

2022-07-28 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

https://www.google.co.jp/books/edition/%E8%A8%B3%E6%96%87%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2/WVSHyWK6BgwC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%89%E5%AD%A3%E3%80%80%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%85%89%E5%AD%A3&pg=PA125&printsec=frontcover

 

 

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山内一豊の養女は「安東郷氏の娘」  安東郷氏の妻は「山内一豊の姉」 だそうだ。さらに郷氏の娘は「乾和宣の室」となる。

2021-01-29 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

山内一豊を調べ始めたところ、安東氏とのつながりが見える。
この安東氏は遡ると「伊賀氏」。
美濃国へ渡った「伊賀光資」の系であった。(途中稲葉氏と成るがまた伊賀氏に戻り、その後安藤氏、更に後に安東氏と成る。…その後また伊賀氏と成る。)

つまり、このような戦国の世に有ながらも(戦国の世だからなおさら?)藤原秀郷流とのつながりを大事にしていることがわかる。

安東郷氏を調べると「天正8年(1580年)、兄・守就らと共に信長の勘気を蒙り美濃武儀郡に幽居。はじめ親族の稲葉良通(一鉄)が扶助をしてこれを支えたが、信長の勘気が収まらず、次第に扶助しづらい状況となったため、美濃安藤氏の家臣も多く浪人となった。」とある。

安東郷氏の娘が乾和宣の室となったのも、もともと武儀郡にいた乾氏裔とのつながりがあってのことだったのではないだろうか?


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E9%83%B7%E6%B0%8F


安東郷氏の息に「山内可氏」がいる。
元亀2年(1571年)、美濃国本巣郡北方七間の城主・安東郷氏の子として誕生した。 一豊の甥である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%8F%AF%E6%B0%8F

===*===

美濃安藤氏(途中から安東氏)の系図(wikipediaより)



系図によると山内保氏は深尾氏(深尾苞実の三男)で、1600年中ごろから、深尾氏と山内氏は頻繁に婚姻関係・養子関係を結んでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%BF%9D%E6%B0%8F

http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-18860

「當家は近江源氏眞野太郞定義の嫡男刑部行信の後にして六世を經て深尾重良に至り高知藩祖山内一豐に仕へ其客臣となり土佐國佐川一萬石を食む更に十世を經て重先(鼎と稱す)に至り維新の際勳功あり其孫重孝明治三十九年特旨を以て華族に列し男爵を授けらる卒するに及び嗣子なし」

この深尾重良の妻は安東郷氏長女と…なっている。

この辺りから、私的にはすごいことがわかってきた! 長くなるので次の記事へ。


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五味政直・五味政義 と 山内一豊 そして 五味備前守前野時氏 さらに 五味豊直とつながるのだろうか。

2021-01-28 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

山内氏の周辺を探っていたのであるが、思わぬところに五味氏(五味政義)を見つけたのである。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%91%B3%E6%94%BF%E7%BE%A9


「家伝によると父政直は土佐藩初代山内一豊の末弟にあたり…」この父というのが五味政直である。



山内一豊: 負け組からの立身出世  著者: 小和田哲男より








ここで秀郷流山内氏と前野氏が繋がった‥‥と思えるのである。時氏は、前野又次郎時氏だったのである。
山内の娘が時氏に嫁いでいたために、山氏氏とはつながりがあったという事だったのだ。

其の時氏と、五味政直の関係はまだ見つかっていないのだが、以前武功夜話を読んでいた際に「五味主備前守前野時氏」が出てきて、五味を称していたので関係はあると思う。

良峯姓前野氏と藤原秀郷流とのつながり。

長田氏と鎌田氏(秀郷流)の関係。

浅小井氏・深尾氏と山内氏・乾氏との関係









佐藤氏から首藤氏、そして山内氏となる。



私の探している【岡田元次の弟「五味元保」】とつながる糸は見いだせるだろうか。

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西行の父 秀清説は間違っている?

2021-01-27 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

「兵の家各流    京武者藤原公光とその各流 」さんのページでは、この説は間違っているらしい。

http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html


西行もいくつも名前を持っていたように(佐藤義朗。憲清、則清、範清)
西行の父もいくつもの名前を持っていたのかもしれない。

確かに、「季」と「秀」は崩し字が似ているので、間違えやすいかもしれない。

それとも、西行に対しての註「秀清」だったのだろうか?
それとも漢字を読み間違えて「季清」だったのだろうか?

どんどん、自信がなくなってくる…


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西行の父 佐藤秀清という説  正宗寺

2021-01-27 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

諸家系図纂要の正宗寺とは【久慈郡増井村正宗寺】のことのようである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%B0%8F


常陸佐藤氏は久慈郡増井村正宗寺に佐藤系図が所蔵されるという。常陸太田城主の家系に藤原千常を祖とする、佐藤氏があった。佐藤氏郷の代に、常陸源氏の佐竹昌義の侵攻を受け、太田城を追われた。ただし、子孫は族滅を免れ、久慈郡下野宮をはじめ郡内に土着する。また、東鑑によれば建暦年間、佐藤光季という者が常陸国に所領を得たとある。さらに、新編国史には多珂郡宮田村に、永禄(1558年から1570年)、天正(1573年から1592年)の頃、佐藤壱岐という武将がおり、藤原氏の流れで佐竹氏の重臣小野崎義昌に仕えて武功があったとされる。家紋は丸に上がり藤、丸に梅鉢、源氏車、扇に源氏車、六桁源氏車、丸に三つ柏、丸に釘抜き、丸に剣花菱、丸に州浜、丸に橘、丸に蔦、丸に八桁水車、丸に三つ引、丸に抱き茗荷、丸に木瓜、丸に四つ目。

http://www.sato3.jp/kamon/name.html

正宗寺(しょうじゅうじ)
萬秀山正法院と号する寺院で,延長元(923)年に平将門の父良将が創建。
創建当初は勝楽寺と号し,律宗で奉仕されていました。その後,貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を,暦応4(1341)年に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き,同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。
勝楽寺と正法寺は後の争乱によって衰えたが,正宗寺は佐竹氏の菩提所として,関東十刹の一つに挙げられるまでに繁栄。徳川の時代にも朱印100石を受け,12の末寺を有するまでになりました。境内は約5,300平方メートル,堂宇は本堂,庫裏,総門などを備えていたが,天保9(1838)年に総門の一部を残して焼失。現在の庫裏と本堂は,それぞれ天保10(1839)年と明治3(1870)年に再建されたものです。
寺伝では慈覚大師の作とあるが,様式から鎌倉時代に建造されたものとみられます。本尊の木造十一面観音菩薩坐像をはじめ,多くの寺宝が茨城県や常陸太田市の文化財に指定されており,境内には佐竹氏代々の墓と伝えられる宝篋印塔や,「助さん」のモデルとされる佐々宗淳の墓があります。


…太字の部分は、九里氏と関係がある。

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西行の父 佐藤秀清という説

2021-01-26 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城







藤原秀郷流伊賀氏に片岡氏がいる…という情報を得て探していたら、見つけた。
「秀清」が範清の父であったという説。

祖父もこの系図のように公澄ならば、公澄の裔として尾張国に尾藤氏が居る。

諸説ある様で、他の系図もあった。

http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku8.html

http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku6.html

===*===

もう一つ、比企氏と関係のある佐藤忠信




比企朝宗と共に糟屋有季・堀景光が出てくる。
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memo 伊賀光宗

2021-01-24 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

memo
伊賀光宗 文官 信濃国に流罪 息朝行以下も信濃へ

宇都宮朝業 善光寺詣の際に光宗に会いに行き、和歌を詠み交わす。

この伊賀光宗は、伊賀光季とは異母兄弟。
母は、遠江守行遠女とある。
二階堂行遠のことだろうか?
もしそうだとするならば、兄光季の母がその息行政の娘で、弟光宗の母がその二階堂行遠の娘??

だから、伊賀光季は二階堂行政の息ではないか、といわれているのだと合点。
そうすると二階堂の行政とその姉か妹となる。

伊賀朝光が二階堂行政の息を養子にもらったという事になるのかもしれない。
(そうなると、土岐光基の息を養子にもらった線は消えるのだが…)

===*===

伊賀光宗の娘は北条朝直の正室となっている。
という事は、もしかすると宣時の母なのかもしれない。

そして宣時の娘が「浅小井師方=北条師時猶子」なので、やはり浅小井氏と近いところに伊賀氏がいる。



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北条政子、女の勘か? 伊賀の方、義時毒殺の説。

2021-01-23 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

伊賀の方、が義時に毒を持ったのだろうか?
その説はどこから来たのかというと、藤原定家の日記だそうである。

藤原定家の日記に聞き書きとして、書かれているようである。
尊長のことが基長と出ているそうなのだが、何か意味があってそのままの名を書かなかったのかもしれない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E9%95%B7

捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたといい、探題の時氏・時盛らを驚愕させたという(『明月記』6月11日条)。

但し、批判をしている学者さんもいらっしゃるので、鵜呑みはよくないが、北条政子は、何かを感じ取っていたに違いない。
伊賀の方は「政子の命によって伊豆北条へ配流となり、幽閉の身となった。4ヶ月後の12月24日、危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後死去したものと推測される。」

伊賀光宗は政子が亡くなった後に泰時に許され、幕府に戻っている。

尊長が一条実雅の兄弟であったことが重要なポイントではあるが、実雅よりも30歳年上の尊長である。

この下のgooglebooksは、かなり長く読める。明月記研究 5号: 記録と文学  明月記研究会 編集
p. 165前後に詳しい当時の状況が書かれている。
読めないかな?と思ったページも上の-マイナスボタンを押すとカチカチ押すと出てきて、また大きくすればよい。(秘策)

https://books.google.co.jp/books?id=Xn10zgu5ycUC&pg=PA165&dq=%E5%AE%9A%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%B0%8A%E9%95%B7&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj17LPYkbHuAhWpw4sBHeNABOMQ6AEwA3oECAAQAg#v=onepage&q=%E5%AE%9A%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%B0%8A%E9%95%B7&f=false

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伊賀朝光の周辺の系図と年齢に関する疑問点 

2021-01-23 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城



伊賀朝光は建保三年に九十四歳で没していることになっている。
1215年である。

娘の伊賀の方が後妻となっているという事はその前の室「姫の前」と別れた後であったと理解すると、1203年比企能員の変の前後に別れたと考えられ、其の後に入室という事になる。

1205年に「北条政村」が生まれる。

そこで伊賀朝光の年齢と比較する。
1205年、孫が生まれた時は84歳。
しかも、伊賀の方は二十歳ほどであったと仮定すると六十四歳あたりに生まれたとなる。
ちょっと違和感が残る。

さらに、系図纂要によると光季のあと、光宗・北条義時の室・結城朝光の室・光資(宗賢)・朝行(寂阿・鎮西配流)・光重(光心・鎮西配流)と続く。

末っ子の光重は貞応三年に兄の朝行と共に鎮西に配流され、文応二年1261年に四十六歳で没していることになっている。
光重1261年に46歳、ここに疑問符が付く。

伊賀朝光の息光重(光季の兄弟)が1215年に生まれていることになるのである。
これは、伊賀朝光が九十四歳で、歿した年である。

すべて養子と養女なのかまたは朝光の後に、もうひと世代間に入っているのか。。



伊賀朝光は1199年七十八歳で「左衛門少尉」、
     1206年八十五歳で「従五位下」
     1210年八十歳で「伊賀守」
     1211年九十歳で「従五位上」
と、長寿であったためだろうか、官位がどんどん上がっている。一体どうしたことなのだろうか。


そこで、一家繁栄のために、これぞと思った人物を養子として入れたのかもしれない。
光重の場合はまだ赤子であったのだが…

===*===

さらに、伊賀の方の事、土岐氏との関係等、次の記事にしたい。
         

コメント (3)
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