九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

押立神社が愛智新宮なのか?

2016-08-16 | 新宮氏バラバラ情報
平成13年の記事に▽5月30日「愛智新宮押立神社祭礼の謎を解く」湖東町歴史文化資料館・森容子学芸員~というのが載っており、押立神社を探してみた。
住所は東近江市北菩提寺町356である。

百済寺にほど近く、湖東歴史民俗資料館のすぐそばである。

ここが、愛智新宮と何らかの関係があるのだろうか~と前回の記事の古地図を見てみた。
ありました! 日吉領 黒い点になっております。角井村 百済寺領・延暦寺領と共に。

ここですか! 


神社の説明がありましたので、ここに転載します。

田園の中にある押立郷(おしたてごう)の総氏神(そううじがみ)で、「大宮さん」の名で親しまれています。
開基は奈良時代後期といわれ、火産霊神(ほうぶすながみ)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っています。
木々がうっそうと茂る静かな境内には、南北朝時代に建立された大門と本殿が落ち着いた構えを見せ、どちらも国指定の重要文化財になっています。
普通、本殿は拝殿より高い位置にあるとされていますが、この押立神社は、本殿と拝殿が同じ高さにあることが珍しいです。
 
60年に一度行われる大祭のドケ祭は、鬼の面を被り、太鼓を持った踊り手が囃しに合わせて踊り狂う奇祭です。
祭神である2神を祭ったお渡りの儀式がそのまま残ったもので、ドケという名前は、道化がなまったものといわれています。
最近では、昭和46年に行われ、次回祭が行われるのは平成43年です。また、祭りで使われる装束などが境内右手にある宝物殿に展示され、見ることができます。

<重文>本殿、大門

~~~*~~~60年に一度~~~*~~~ 今までよく伝わってきたものだと、感心します。

この神社がなぜ愛智新宮と関係があるのか、知りたいです。



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愛智郡の古地図

2016-08-16 | 新宮氏バラバラ情報
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新宮社をめぐる謎~古くの愛智郡の範囲に豊浦も入るのだろうか?

2016-08-16 | 新宮氏バラバラ情報
『尊卑分脈』によれば、源経方は近江国初代佐々木荘下司である。

佐々木荘の一部の領家だった大宮齋院悰子内親王(堀河天皇皇女(1099-1162) - 賀茂斎院)が、佐々木荘一部を伊勢神宮の【佐々木御厨】にしている。

佐々木御厨(下豊浦)には新宮神社の摂社大神宮があるそうである。これと、今まで記事に書いていた愛智新宮領と関係はあるのだろうか?
愛智新宮の方は日吉社の関係だったと思うが、その後に変わった…とも考えられるだろうか?


永治二年(一一四二)当時の佐々木荘の領家は白河院の養子左大臣源有仁であった。(源行真申詞記)。

経方は近江佐々木荘をその白河院に寄進して、自らは管理の立場である下司となっている。(佐々木哲学校より)

養子であった源有仁とは、どのような人物であろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%9C%89%E4%BB%81

永久3年(1115年)元服。始め白河院の養子となり皇嗣となるはずであったが、院の孫鳥羽天皇に顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれたことから元永2年(1119年)源姓を賜り臣籍降下し、直ちに従三位・権右中将に任ぜられる。

妻に藤原公実の女がおり、その公実の三男が西園寺通季である。つまり、有仁の妻であった女と待賢門院=藤原璋子は、姉妹である。

その西園寺通季の孫にあたるのが、藤原実明である。

こちらの下豊浦、古くは愛智郡でもあったのだろうか?

ここの、新宮神社 摂社大神宮のことは、以前にも記事で書いたものだろうか?↓

~~~*~~~

安土に安土新宮大社がある。(web情報)

当神社は往古より早玉神社として速玉之男神・事解之男神二柱の御神霊を祀り朝野の崇敬篤く社領千町田に及んだとされる。

社伝に寄れば、75代崇徳天皇の御代天承元年(1131)近家十二代豊浦冠者行実(ゆきざね)なる人が紀伊熊野本宮より伊弉冊の大神を勧請したとされるが確証はないとのこと。

又同年、白河法王の皇女仁子女王外宮が豊受大神に水田二十町三反を御寄進遊ばれ、伊勢より天照皇大神を勧請併祀し社名を新宮大社と改め祭礼を三月五日と定められた。

豊浦冠者…1131年。。。また源行真申詞記に近くなってきてしまった。。。



~~~*~~~

本当に、源行真申詞記に関係があったのだ。ここで、新宮に関してはおしまいにして、次へ進もう!


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三浦為俊と佐々木為俊

2016-08-16 | 新宮氏バラバラ情報

新宮氏と佐々木氏との間に、三浦佐原氏や中原氏、亀井氏、などが見え隠れしている。

そして昨夜『相模三浦一族とその周辺史』 鈴木かほる (新人物往来社)のなかに、佐々木氏の中にいる初名為俊で、後の季定を見つけてしまった。

千寿丸(中右記)河内守。 使。白河院の御寵愛…院の切れ者・三浦為俊となっている。

さらにこの本から該当の部分を抜き出してみたい。

『平家物語延慶本』第一本巻一に、平安時代の三浦氏の動きを知る一節がある。
(北面)は上古はなかりけり。白河院の御時、初めて置かれて、衛府どもあまた候けり。中にも為俊、盛重、童より千寿丸、今犬丸などとて切れ者にて有けり。千寿丸はもとは三浦の者也。後には駿河守になさる、今犬丸は周防国住人、あとは肥後守とぞ申しける。…

確かに三浦の者とある。

そして、佐々木為俊に関するweb記事にも、同じように童から活躍している為俊がいる。(佐々木学校)
http://blog.sasakitoru.com/200507/article_15.html

もしも、どちらも正しいと考えると、

為俊(=季定)~秀義~定綱~信綱~重綱のラインの始まりが三浦為俊ということにもなってしまう。

三浦氏のほうでは、為俊の父は章俊、祖父は為資、曽祖父は善里である。
佐々木氏もさかのぼってみると、父は経方、祖父は義経(初名章経)、曽祖父は佐々木成頼である。

さらに善理を調べてみると、訂正増補百家系譜に「 桓武天皇–葛原親王「時忠—時實時發 _ — —有親時繼親顯| -國王惟範「購- - —伊望—善理—僧正覺慶-行親—定家–時範—實親—範家—親範—基親西潤院- (實弟) (實弟)行時- -時當時慶 T 時直時真時成時國時光範篇時容-時義信庸信順・・・」とある。Google booksでは、よくわからない。。。

この中の、善理という人が気になり、調べてみると以下の系図となる。
章俊の下に続くのが為俊である。


佐々木経方の妻は新羅三郎源義光の女となっている。このあたりから何か見えてこないだろうか。
新羅三郎義光~~~義光の子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展した。とwikipediaにある。

経方は源経方(平氏の時もある)であり、1115年62歳で没とあるので、だいたい中原成行とほぼ同時代を生きていた人となる。1053年生まれ
ということは、孫である佐々木秀義と中原季仲が同時代ということになる。

そして、新宮行範が実綱・家仲であるとすれば、年代的にはあっていることになりそうである。
秀義の妹聟である熊野別当行範も年代はあっていると思われる。

秀義娘が鳥居禅尼であった場合は、年齢の離れた夫であった場合、年代可能である。

~~~*~~~

ここにこだわっていたら、中原の九里の系である【経行】の方が進まない心配が出てきてしまった。

もう少しで何かがつかめそうな気もするが、深追い禁物である。

しかし、成行と経行、経行の息子で成行の方についた人物もいるのではないか・・・・と思うほど、九里と関係がありそうなのである。

新宮氏は、また何かの機会があるまで寝かせておこう~と思う。






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藤白鈴木氏 穂積氏から鈴木氏へ

2016-08-15 | 新宮氏バラバラ情報

865年生~926年 穂積基行 → 鈴木基行となる。藤白鈴木氏の始祖

子:良氏・良勝

良氏→従5位下 検非違使 妻:橘広方(熊野国造)の娘…熊野国造には楠木正遠(正成の父)・和田氏・真砂氏などがいる

良氏の子:重氏 984没 押領使・美濃権介

重氏の子:重豊・重実

重豊→従5位下左近将監 娘が藤原実方に嫁ぎ、熊野別当泰救を産む
重実(庄司)(940‐998年)→従七位上 出羽大掾 妻:侍従藤原定時の娘
                 定時の妻が左大臣【源雅信】の娘
                 定時の息が「実方」・・・重豊の娘の嫁ぎ先

この【源雅信】(920‐993年)の息子【成頼】が近江国佐々貴郷(蒲生郡)に住むことになる。

このあたりで、近江国佐々木氏と藤白鈴木氏と関係ができたのではないかと思う。



 



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熊野別当行範=鳥居法眼

2016-08-14 | 新宮氏バラバラ情報

今回は鳥居法眼の「鳥居氏」に関してweb情報をピックアップしてみた。

鳥居氏

出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄である。鳥居氏の祖である熊野新宮第19代別当行範は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。

そして、鳥居氏→渡里(利)氏→鳥居氏

鳥居氏の祖・熊野新宮別富19代行範は平氏の姓を拝領し、鳥居法眼と呼ばれた。
承久の乱後、行忠の代に三河国矢作庄に移り、名を渡里傳内忠氏と改めた。8代忠景は新田義貞に仕えたが、新田氏衰運の後、渡利村に戻り、鳥居藤左衛門と名を改めた。
鳥居氏は松平氏の古くからの譜代とされるが、その後、忠氏から17代目忠吉の代まではその事積はよくわからない。





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新宮氏とその周辺(4) 

2016-08-14 | 新宮氏バラバラ情報

いろいろな本やwebの細切れの情報を集めているため、私が記事に書いている系図もまちまちである。

今日は、まとめてみたい。

中原成行の孫、季仲から始まっていたので、そこから想像をたくましくして書いてみようと思う。

中原季仲=佐々木・愛智源二大夫家仲

家仲=井上六郎筑後守行範・実綱

行範=熊野別当長範の息・行範

佐々木源三秀義(母出雲守義親女)の妹と言われているが、娘かもしれない?女性=鳥居禅尼(源為義女か孫娘)

亀井六郎重清=「亀井」で育てられていた佐々木六郎=父親は佐々木秀義と言われている。が、婿養子の可能性もあるのではないだろうか。


なぜ亀井にいたのだろうか。比企尼と関係があるのだろうか。

亀井庄ではなく、三河の亀井なのだろうか?

そしてもしかすると、行範が二人、いたのかもしれない。

鳥居法眼行範は、熊野別当は1172-1173と二年しか熊野別当職についていない。その後亡くなっているので、それ以前はどのように過ごしていたのかが知りたい。

まとめになっていないデス。スミマセン!



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新宮氏とその周辺(3) 西尾重定 (行範の曾孫に重定あり!)

2016-08-14 | 新宮氏バラバラ情報

今日、佐々木系の系図の中の「西尾氏」の中に 行範~定時~定平~重定と発見。

深尾祖西尾とある。

日牟礼庄

【国名】 近江
【郡名】 蒲生
【荘園名】 比牟礼庄
【フリガナ】 ヒムレ
【参考市町村】 近江八幡市
【領家・本家】 皇室領・歓喜光院領・八条院領・二品尊性法親王家領
【初見年和暦】 安元二年
【初見年西暦】 1176
【出典】 内閣文庫蔵山科家古文書・門葉記・竹内文平氏所蔵文書・比牟礼八幡神社文書・大報恩寺文書
【地名辞典】  角川地名=嘉元4歓喜光院領=承久3源重定を代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か
【備考】  比牟礼神社あり・カ22661嘉元4昭慶門院領目録=歓喜光院領=近江国比牟禮庄=洞院前右府、大納言局(藤原為世女)

系図はいろいろあって、様々なので、どれが正しいかは私にはわからないが、ひとつのヒントとして検討してみたい。


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新宮氏とその周辺(2) 隠岐義清の孫頼清が亀井新十郎茲矩の祖であった。

2016-08-14 | 新宮氏バラバラ情報

紀州 鈴木氏の一族である『亀井氏』亀井六郎重清(源義経に仕えていた)が、近江国または、出雲国の吉田庄の佐々木(吉田)巖秀ではないか…という仮定のもとで、より進めてみたい。


さて、今日の新しい情報としては、巖秀の同母兄である【隠岐義清】の孫が、出雲の亀井氏である亀井新十郎茲矩の祖となるということである。

この義清・巖秀兄弟のほかに、姉か妹の女子がおり私の見ている古代氏族系譜集成では【井上六郎実綱妻 頼応母】と書かれている。
実に重要なことだと思う。

なぜなら、井上六郎筑後守(初名行範、又実範)愛智源二大夫家仲佐々木行範(初名行中)熊野別当をして新宮にいた行範と、同一人物になる~という説があるからである。

…ということは、女子が熊野別当の行範と関係ということから、鳥居禅尼であろうと思われる。
この行範は、実は熊野別当長範の息子である。

そして、佐々木行範は古川・真野(新村・丸田)・深尾(西尾)・舟木(間宮)の祖である。

もしも、熊野別当の行範と佐々木行範とが同一人物ならば~~~



亀井六郎重清という名が、もしも亀井庄から来ているのなら、(もとは、義清・重清兄弟で、義清も亀井庄にいた可能性もあるのではないだろうか)

    武蔵国
【郡名】 比企
【荘園名】 亀井庄
【フリガナ】 カメイ
【重複コード】
【参考市町村】 東松山市

【明治村字名】 早又・正代・宮鼻・高坂・元宿・下青鳥・石橋・岩殿・毛塚・田木・石坂・神戸・根岸・竹本・松山町・入間郡=島田

【初見年西暦】
【出典】 新編武蔵風土記稿

【地名辞典】  荘園志料=記事なし・角川地名=新編武蔵風土記稿=島田、下青鳥、早又、正代、以下16ヵ村=坂戸市、東松山市、鳩山村、嵐山町の辺

ここだと思う。愛知にもゆかりのある場所がありそうだが、私はこちらかな・・・と思った。

比企というのが、その理由で、比企氏は藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族であり、比企尼が源頼朝の乳母を務めていたこと、しかも孫娘が義経に嫁いでいる郷御前なのである。


佐々木氏系図が大きく変更されるようなことなので、好古類纂にヒントを得ての、あくまでも私の想像です。




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新宮十郎義盛=源為義の子、名を行家と改める!

2016-08-14 | 新宮氏バラバラ情報

令旨の使者に選ばれた熊野の新宮十郎義盛(源為義の子、頼朝、義経の叔父)は、名を
行家と改め、蔵人として諸国の源氏に令旨伝連のため、四月二十七日京都を発った。

人物往来社 歴史読本よりの文だが、これはうっかりしていた! もう一度源行家を読んでみよう。

新宮十郎義盛に新宮義連(佐原)…関係がありそうだ。

佐原義連は三浦義明の子で、現在の横須賀市あたりの佐原に住んでいた。
文治5年(1189年)奥州合戦に従事し、その功により陸奥国会津4郡を与えられた。
義連の妻は武田信光の女であり、妻の兄弟に武田信政・一条信長がおり、その兄弟の母親は新田義重の女となる。

その佐原義連の長男が盛連である。

そして藤原実明の曾孫公名(正三位 権中納言)の母親が佐原盛連の女になっている。

また、新宮氏の説明を見ると「陸奥国(後の岩代国)耶麻郡新宮荘(福島県喜多方市)を支配し、佐原義連の子・盛連の六男・時連を祖としている。」とある。

新宮荘を任されたのが佐原氏ということである。



続く…




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