九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

信太庄(しだの庄)は東寺関係者

2023-06-25 | 紀氏

http://jlogos.com/sbsp/word.html?id=7274013

千年プロジェクトさんより(地図)オレンジ=信太庄

Jlogos 

平安末期~戦国期に見える荘園名常陸国のうち古代に信太郡とよばれた地域のうち,小野川を境に,右岸の地域が信太東条(東条荘)と称されるようになり,左岸の地域が信太荘として立荘される霞ケ浦と小野川・桜川とに囲まれた地域を指し,東は東条荘,南西は河内郡,北は霞ケ浦および桜川を境に南野荘と接していたと推定される

貞応2年5月3日の安嘉門院庁資忠注進抄写に「常陸国信太庄事……藤原宗子〈宗兼女,忠盛室,頼盛母〉寄〈仁平元十二〉国八丈絹三百疋,仕丁六人〈十一月〉」と見える(東寺文書2/大日古)仁平元年に,藤原宗兼の娘で,平忠盛の室となり,平頼盛の母となった藤原宗子が,美福門院得子に国八丈絹300疋と11月分の仕丁6人を年貢公事として納めることを条件として寄進し,信太荘が成立したこの藤原宗子の寄進には,一郡にも及ぶ信太荘の広大さから考えて,息頼盛が久安5年~保元元年まで常陸介であったことと深いつながりがあるものと思われ,領家職は平頼盛に伝領される一方,本家職は,永暦元年美福門院得子の没後娘の八条院暲子に譲られ,信太荘もこの時から八条院領荘園の1つとなり,安元2年2月の八条院領目録に「庁分御庄」の1つとして「常陸国信太」と見える(山科家古文書/県史料古代)領家職は平頼盛からその子光盛に伝えられるが,文治元年と推定される6月7日の平頼盛充源頼朝書状案に「したのさう(信太荘)の事,さうをまいらせかへ候て,みなみのゝさう(南野荘)は,御さた候はんこと,なにかはくるしく候へき,地ぬしはかりこそ,人にたふ事にて候へ,世中をちゐ候はむのち,さまたけ,いまは候へからす」とあり,光盛は当荘と南野荘とを某と交換している(久我家文書)

年未詳3月20日の氏名未詳奉書に「八条院庁分御領内常陸国信太庄,為御祈祷料所,御寄付金剛寺候」と見え,八条院暲子が没する建暦元年以前に,信太荘の領家職は河内国金剛寺に祈祷料所として寄付された(金剛寺文書/大日古)「吾妻鏡」によると,平安末期源頼朝の叔父志太義広が信太郡内に本拠を有し,鹿島社領を掠め領し,やがては数万騎の逆党を率いて鎌倉を攻めようとする動きをみせるが,信太荘とのかかわりの詳細は不明

ただこの様な在地の混乱の中で,京都への年貢公事は途絶えたようで,文治4年,源頼朝は京都に東国荘園の処置を問いあわせている「所々地頭沙汰之間事」に関する勅答の中に,八条院領荘園として「常陸国志太庄」も見える(吾妻鏡)八条院領荘園の多くは,その後春華門院昇子に,次いで順徳天皇に,やがて後鳥羽上皇の管領下に入る承久の乱の結果,一時鎌倉幕府に没収されるが,まもなく後高倉院守貞親王に渡され,貞応2年には娘の安嘉門院邦子に譲渡される建治2年4月の資忠注進には,「庁分御領内也,御年貢国絹三百卅疋」と見え,この頃までに年貢は国絹のみに統一されている「当庄六十六郷之地也,此内十一郷⊏⊐方,惣公田八百廿六丁」とも見え(東寺百合文書),当時信太荘は66郷からなり,公田は826町であった一方,旧八条院領は,その後亀山上皇を経て後宇多上皇の管領下に入り,嘉元4年には妹の昭慶門院憙子に伝領された同年6月12日の永嘉門院御使申状并昭慶門院御領目録案に庁分の一荘として,「常陸国信太庄」と見え(竹内文平氏所蔵文書/栃木県史),皇室領荘園として伝領されている弘安田文には「信太東二百七十丁二段大,信太庄六百二十丁内」とあり(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文には「一,信田東 二百七丁二反大,一,信田庄 六百二十丁内,本庄四百十丁,加納二百十丁」と見える(所三男氏所蔵文書)嘉元田文によれば,本荘410町と加納210町とからなり,惣公田は620町であったことになるが,建治2年段階における惣公田800町余とする資忠注進と公田数を異にしている後宇多法皇は東寺に供僧・学衆を設置し,その供料所を寄進するが,信太荘もその1つとなったようで,文保2年正月24日の院宣に「常陸国信太庄,所被寄付教王護国寺也,早令知行当寺供僧学衆等,供料無懈怠,可被致其沙汰」と見え,さらに6月19日の院宣にも「東寺領常陸国信太庄被興行候」と見える

正中3年2月18日の太政官牒によれば,後醍醐天皇が,父後宇多法皇の遺志を継ぎ東寺の興隆を図るために,父の寄進した諸荘の東寺知行を確認している

嘉暦3年10月20日には執権北条守時も諸荘の東寺寄進を追認しているこうして東寺領荘園となった信太荘に対し,東寺は雑掌としてはじめ勝慶を任じ,そののち嘉暦3年2月21日に請文を提出した定祐が雑掌に任ぜられている特に定祐は荘内各郷の地頭の年貢未進を追及し,嘉暦4年~元徳3年にかけて,関東御教書や関東下知状等により年貢京進の催促が行われたので一定の成果をあげたようである

この時の一連の文書群によって,鎌倉末期頃の信太荘内の郷名や地頭名等を知ることができる正中元年~嘉暦3年に年貢未進をしていた郷地頭は,若栗・弘岡・御安戸の近江式部大夫政平,塙の越後左衛門大夫将監伊時,飯岡の近江兵庫助政親,本郷の遠江式部大夫守政および遠江幸寿丸,大岩田・安見の駿河式部大夫高長,初崎の遠江修理亮,土佐前司跡と総称される上茂呂・竹来・青谷(以上,三郎分)・高井(殊鶴分)・矢作(式部大夫分)・下大村(蔵人分),郷名不詳の三河式部大夫政宗のほか(東寺百合文書),地頭代官良円がかかわっていた大村・吉原(惣領分),福田・竹岡・荒川(庶子分)などであったさらに地頭名不詳の古来・烏山・弘戸・土浦・小池等の郷名も確認できる(東寺古文零聚)地頭の多くが北条氏一門であったことは注目される

元徳2年6月16日の定勝が提出した京進用途未進分支配状に「段別十六文定」と見え,北条氏一門は各郷の地頭として信太荘からの年貢銭を請負っていたが,一定の京進が行われるようになった矢先に鎌倉幕府が滅亡し,北条氏一門が地頭であった信太荘は大きな影響を受けた

貞和3年6月13日の学衆評定引付に「六十六郷郷々配分事者,寺家雑掌不及地下所務……有惣管領之仁令請取……文書等惣管領之仁令持之処,関東闘乱之刻令紛失畢」と見え,信太荘内の各郷地頭の請負った年貢を総括していた「惣管領之仁」とのつながりの中で一定の京進があったが,その手元にあった文書等も紛失し,年貢の京進も停止するという状況であった

建武3年12月8日の光厳上皇院宣により,信太荘以下の東寺知行の安堵が行われたので,貞和3年2月19日には,定祐を再び「信太庄沙汰雑掌」とし,翌年10月17日には学衆の一人である権律師弘雅が信太荘給主職を引き受けるにあたって請文を出しているこのようにして信太荘からの年貢京進を回復する準備が整えられたが,肝心の訴訟の進展はなかったようであるわずかに延文元年11月8日の後光厳天皇綸旨に「常陸国信太庄」と見えるが,実際には近国荘園の様な整備は行われず,次第に遠国にある有名無実の荘園となっていった興国元年10月10日の北畠親房書状によれば,同年(暦応3年)9月23日,南朝方の小田治久,春日顕国等が東条城・亀谷城を攻めて佐竹方から奪回し,東条一族に両城を託している(結城文書/大日料6-6)しかし康永3年2月日の別府幸実軍忠状に「同十七日,屋代彦七郎信経同道仕て馳向于信太庄之処,佐倉城凶徒等令没落候訖」と見え,暦応4年9月には高師冬の軍勢が信太荘に侵入し,屋代信経の案内を得て,9月17日には佐倉・東条・亀谷の諸城を陥落させ,23日には高井城付近を焼払うなどの動きをしている(集古文書/大日料6-8)

信太荘は元徳年間には上条と下条に分かれていたようであるが,康永2年8月3日上杉重能は悟性寺に「常陸国信太庄内長⊏⊐」を寄進している(浄智寺文書)おそらく信太荘上条に位置する永国の事と思われ,上条は上杉氏の支配下におかれたと推定される貞和3年10月の権現堂別当職安堵状の端裏書に「播州時代給主小見野六郎」と見え,応永33年12月の孝尊置文にも「高播磨守信太庄下条知行之時」とある信太荘下条は,高師冬の支配下におかれ,現地支配にあたったのが小見野六郎であり,貞和4年3月25日に宗覚御房に寄進状を発給している有道盛胤と同一人物と思われる(円密院文書/県史料中世Ⅰ)しかし足利尊氏と直義兄弟の争いに関連して高師直と対立した上杉重能の養子となった上杉能憲が,観応元年11月12日,信太荘で挙兵し(醍醐寺文書/大日古),高師冬の勢力を信太荘から追い出しているこの時の能憲の基盤は信太荘上条と思われるその後,下条は佐々木道誉に勲功の賞として与えられたが,文和4年には下条の替地として近江の馬淵荘北方を与えられている(朽木文書)

応安年間頃と推定される年月日未詳の海夫注文に「ふつとの津〈した,一方小田知行分,一方吉原知行分〉……あんちうの津〈小田知行分〉」と見え(香取文書/千葉県史料),永和3年4月19日には小田孝朝が大和房頼誉を「信太庄君山郷内権現堂別当職」に補任しており(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ),下条は小田氏の支配下に入ったと思われる上条内の大岩田郷についても,応安7年9月21日に小田孝朝が若狭房道祐を「信太庄大岩田郷内西光寺別当職」に補任している(法泉寺文書/土浦市史編集資料)

ところが小山氏の乱に際し,小田孝朝が小山若犬丸を援助したため,嘉慶元年には鎌倉府の小田城攻撃を受け信太荘も没収されたと思われる(後鑑)しかし小田政治の代には,南野荘の惣社と称される桑山社の造営に関する年未詳9月12日の判物に「田中庄・信太庄可有勧進事」と見え(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ),戦国期の氏治の代にはかなり信太荘内に勢力を拡大している上条については,至徳2年10月25日の足利氏満寄進状に「常陸国信太庄内古来・矢作・中村等郷之事,右任上椙安房入道道合申請」と見える(浄智寺文書)下条についても,前記の小田氏との関連で,嘉慶元年8月7日に上杉憲定が臼田氏に下条内の布作郷を充行っている(臼田文書/県史料中世Ⅰ)

応永3年7月23日には,室町幕府から鎌倉府執事上杉朝宗に対して,「常陸国信太上条・同下条」を前年7月24日の安堵にまかせ上杉憲定の所領として打渡すことを命じる奉書が出され(上杉家文書1/大日古),これ以降上杉氏は名実ともに信太荘全域に支配権を及ぼしていく実際に信太荘に入部し,その支配にあたったのは,嘉慶元年に布作郷を充行われた臼田氏,応永16年「惣政所」として信太荘とかかわり,応永18年9月6日に信太荘下条佐倉郷古渡村の円密院に紛失状を与えている土岐原氏(円密院文書/県史料中世Ⅰ),および大越氏,近藤氏などで,「信太庄山内衆」とよばれた人々であったその動向は,結城合戦への出陣を要請した永享12年と推定される6月12日の上杉清方判物が「信太庄契約人々中」に充てられ,古河公方との対決を内容とする享徳4年と推定される5月8日,および年未詳3月10日の上杉房顕判物が「信太庄山内衆中」「信太庄契約中」に充てられている事から一端を知ることができる(臼田文書/県史料中世Ⅰ)この動きに関連して寛正元年4月28日鎌倉府方として戦った諸将に「去年十一月,於常州信太庄合戦之時」と足利義政が信太荘合戦に対する感状を与えている(御内書案/続群23下)

永享7年8月9日の常陸国冨有仁注文写には信太荘内として懸馬村・塙郷・木原郷・上室郷・土浦郷・広津村・高津郷などが見える(続常陸遺文)戦国期,江戸崎に本拠を定めた土岐氏は当荘のほぼ全域を支配下におさめたが,天正18年豊臣秀吉により所領を没収され,佐竹義重の子蘆名盛重が江戸崎に入部した当荘では文禄4年に太閤検地が実施されたようで,信太荘域は大部分が信太郡となり,北西部は新治郡,南西部は河内郡となった文禄4年3月23日の検地帳の表紙には「常州信太庄烏山村御縄打水帳」と見える現在の土浦市南部,つくば市東南部,阿見町,美浦村,牛久市東部,江戸崎町の大部分が荘域に含まれる。

******

上記に登場する『定祐』は340件も資料がある。(東京大学史料編纂所データベース)

そのうち90件が「定祐と東寺」での検索結果である。

 

 

右衛門尉 信太光久(建長六年) 1254年 

 

さて、定祐は名前を聴いたことがあるように思うが、

信太右衛門尉光久…どのような人物だったのであろうか。

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中原氏と紀氏、富来氏と紀氏(4)富来氏とは?

2020-04-11 | 紀氏

こちらを参考にしました。 国東地方の紀姓について 永松照政 著
http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=4319

中世石清水八幡宮の御師 新城 敏男 著
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/saito-bungo1.htm

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%81%A8%E7%B4%80%E6%B0%8F%E3%80%81%E5%AF%8C%E6%9D%A5%E6%B0%8F%E3%81%A8%E7%B4%80%E6%B0%8F

「中世石清水八幡宮の御師」より
石清水八幡宮は貞観元(八五九)年大安寺僧行教によって宇佐から遷座したものであるが、実は大政大臣藤原良房が清和天皇擁護のために勧請したものであるといわれる。

宇佐からの石清水八幡宮であったことがわかる。

八幡太郎義家は、この石清水八幡宮で元服したそうである。



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紀氏と和邇氏(と九里氏)の接点を探す。

2020-04-10 | 紀氏

http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=947

社伝によると、敏達天皇の勅願所で聖徳太子の創祀といわれ、鎌倉時代の頃から隆盛をきわめた敏満寺の守護神と祀られてきたといわれている。建久の昔、俊乗坊重源が東大寺再興の砌り延寿の祈願をしたともいわれている。

紀氏である重源
父:朝臣季重 瀧口左馬充(紀朝臣長谷雄の後裔)
母:大江氏の娘

木村氏が佐々木六角氏と京極氏に分かれた際に両方に分かれて付いたように、九里氏も分かれたと思われる。
その一方が和歌山系図の六角氏頼の元にいた九里である。(石寺・掃部允)
もう一方の京極氏についた方は、途中で間違われぬように「久徳氏」と名前を変えたのではないだろうか?

其れなのに…ある時京極氏から六角氏に乗り換えようと謀反を起こす。
そこで浅井氏に久徳城や敏満寺・胡宮神社も焼き払われてしまったようである。
胡宮神社(敏満寺)の神官?であった久徳氏
【近江敏満寺跡(近江胡宮明神)】
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_binmanji.htm
勝蔵坊 中之坊 久徳左近太夫祈願所

「新谷氏伝譜系図」
勝経 新谷伊豆守 敏満寺公文所
  神官職 家老 杦岡左衛門尉重元・北村三郎兵衛尉政常
永禄五年九月四日、久徳左近大輔実時叛江北京極殿御方、為江南観音寺城主六角左京太夫義実(賢カ)之味方、
依之、不移時中浅井備前守長政引卒八千余騎軍勢、押寄久徳城、数日攻戦、終突一城落去矣、仍敏満寺衆徒并神官等久徳之一味也、故浅井忽押寄敏満寺、于時衆徒等於惣大門前防禦之、及敗軍、浅井勝乗、直於院内坊合軍火、此刻味方学頭豊一坊・池之坊、
同学侶光満坊以下百弐拾之坊舎悉炎上、新谷伊豆守・同下司左衛門太夫・前公文出羽守、凡其勢八百余人皆戦死、
同九月五日、多賀大社諸伽藍倶炎上、神官坊舎悉破却、
此日新谷伊豆守負重疵、人山中自殺畢、
 法名 王台院殿公文照清禅定門
 妻 久徳左近大輔実時女 享禄元年正月十七日卒
                  智道禅定尼

勝虎 新谷越前守 
   神官 敏満寺公文所
敏満寺破却之刻、寺産宝物旧禄等散在云云、其身負重手、引退大君ケ畑村、保養疵全癒云云、浅井殿加憐愍、被召出、
如旧例神官職被申渡畢、永禄六年社頭遷宮、自浅井殿敏満寺門前・藤瀬・萱原三箇村寺領拝領、
永禄十一年九月廿日、平相公平信長公敏満寺四至封疆地除被仰渡、
天正元年九月四日、於佐和山城奉拝謁 信長公、則為社領賜旧領三箇邑、
同十七年佐和山城主堀左衛門督秀政殿之与力侍被申渡、此刻屋敷地免除、
  天正十九年正月十五日卒、法名岳照院宗観大禅定門
  妻 今村帯刀正息 法名 妙度禅定尼
  文様二年八月九日卒
(系線は省略)

※新谷氏は代々中世末期の「神官」「敏満寺公文所」であるとする。
永禄5年(1662)久徳左近大輔実時は六角氏に味方したため、淺井長政は久徳城に押し寄せ、落城させる。久徳に一味した敏満寺衆徒・神官も攻撃を受け、120の坊舎は悉く炎上、学頭以下800人が戦死、後日には多賀社も炎上、新谷勝経は自殺、子息勝虎も負傷する。
永禄6年3ヶ村の寺領受領、永禄11年信長、3ヶ村の寺領を安堵、

===*===

巨勢金岡も紀氏である。
巨勢金岡がこの地に来て写生をしようとしたが、絶景筆力のおよぶところにあらずと、筆を折ったという景勝の地である。そこが水茎の岡山である。水茎とは筆のことだそうだ。

近江国に訪れていた紀氏という事になる。この金岡の養子(甥)巨勢相覧 の子孫は大神神社社家となっているそうである。

そして、遠く離れた国東半島の富来氏も紀氏である。
この富来氏と能登の富来氏、更に因幡国の冨城氏・日蓮の支援者であった富木氏ともルーツは同じであったかもしれない。


===*===

しかし、九里氏は和邇氏にも当てはまるように思っている。
【櫟氏(市井・一井・櫟井・井氏)】【平井氏】【堀氏】【一井氏】(櫟氏)【井上氏】【相賀島氏】【浅小井氏】【深尾氏】
【山田氏】【奥島氏】【馬場氏】【新屋氏】【三上氏】【虫生氏】【田中氏】【滋野氏】もその仲間となると思う。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ff3a23675762d8f3635bcda66bb93f0c

近江国の紀氏(武内宿禰)と和邇氏(小野氏も含む)がどこかで繋がっている。
なぜならば、日牟礼神社や奥津島神社などは武内宿禰や紀氏が関与しているが、その後、和邇氏が守っている。

難しい…

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/wani1g.htm


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惟喬親王

2020-04-09 | 紀氏

惟喬親王は、
近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。

この惟喬親王の母は「紀 名虎の娘」である。
この名虎の娘の姉妹に藤原巨勢麻呂の五男真作につながる富士麻呂に嫁いでいる。
藤原真作の妻は「常陸那賀郡人、伊勢員弁郡人、紀雄治丸、御井氏」たちの娘である。

真作の息 藤原三守の母は御井氏(三井とも?)で、妻は橘清友・坂上田村麿・伴長村たちの娘である。
子には小野篁に嫁いだ娘がいる。

===*===

ここにも上総国と近江国をつなげている糸があるのでは…
永源寺高野町・・・・九里家の伝承に関係のある「広田氏」が母の姓である「九里」を名乗っていた…あの高野ではないだろうか?

愛智に養子に行ったあの中原○○(後で調べる)

http://www.blue-rivers.com/village2.html

===*===

http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=785

滋賀県東近江市君ケ畑町977

大皇器地祖神社 (オオキミキヂソ)

小椋氏に預けれられいたといわれる「浄椿」(九里高雄かといわれている)

しかも関係のあった深尾氏が隠れ住んでいた「員弁」の今はダムになっているあたりも方向的にはこちらの方か。

===*===

近江国と紀氏の関係を見ていかなくては…




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近江国 紀氏 木村氏 そして九里氏につながるか?

2020-04-05 | 紀氏

下野守
・1110 紀盛宗の娘
     ‖―――佐々木定道 従5位下 佐々木宮神主 太郎太夫
    宇多源氏源行定 佐々木宮神主 従5位下


1190頃 紀盛親の娘
       ‖―――新屋源太行景
     宇多源氏源行實 従5位下 井上三郎太夫

これが正しいとなると私が持っている系図は違っていることになる。
良く調べた結果、下に系図を貼ったが、 行実ではなく、 行方が正しいか。

しかし、行定と行実は「母が紀氏」は共通だが、母はそれぞれ違う女性であるという事を示唆しているのかもしれない。

佐々木哲氏のブログ「佐々木哲学校」によると
http://blog.sasakitoru.com/200505/article_13.html

行真の娘婿道澄の兄源七郎道正は、木村定道(権守)の子息木村道政(新大夫)である。木村定道は、東大寺領近江国愛智郡鯰江庄下司紀貞道と同一人物と考えられる。鯰江庄下司は貞道の次男貞政が継承して、さらに景政・家政と受け継がれた(春日大社文書:文永五年正月日付鯰江庄下司相論由来)。そうであれば道正は紀氏である。

 また道正の妹婿家次は仮名が愛智三郎であり、愛智家行(権守)の子息平井家次(権守)に当たる。近江国愛智郡には郡司愛智秦氏があり、仁平三年(一一五三)三月五日に秦為次が近江掾(近江国司の三等官)に補任された(『本朝世紀』)。「次」の字が兄弟間の通字と考えられることから、家次は秦為次の兄弟の可能性がある。
彼らは権守あるいは大夫を称しているように、従五位下に叙爵されていた。経済力で院に接近して、自らが開発した荘園を寄進し、位階を獲得していたのである。

☆行真=行実である。

===*===
確かに昨日の表を作る際に紀氏には鯰江荘に関する文書が多く残されていたことを知った!

さらに佐々木哲氏のメルマガよりその部分を紹介させていただこう。↓
===*===

東大寺領近江国愛智郡鯰江庄下司紀貞道は、沙沙貴神社所蔵佐々木系図に見られる木村道政(道正)の父木村定道と同一人物と考えられる。これで名字木村の由緒が分かる。紀氏の血族集団を紀氏の群(村)という意味で、木村と称したのだろう。本姓紀氏を名字として、佐々木氏と同様の源朝臣を氏姓にしたのである。また、この本姓の紀氏は、中央貴族の紀氏とは直接血縁関係があるのではなく、孝元天皇皇子大彦命の子孫佐々貴山公が、同じく孝元天皇の子孫である紀氏を名乗ったと考えられる。
鯰江庄下司は貞道から次男貞政(道政弟)に継承され、さらに景政・家政と受け継がれた。兄道政の系統は源氏を名乗ったが、貞政の系統はまだ紀氏を名乗っている。そして貞政の孫家政のとき、叔父建部入道西蓮と鯰江庄の権益をめぐり相論が起きた。叔父西蓮は建部氏を名乗っており、紀氏と建部氏が姻戚関係にあったとわかる。

建部(健部)は、ヤマトタケルノミコトの功績を後世に伝えるために置かれた名代部である。名代部は在地首長の子弟からなり、一定の期間に都に出仕して大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシワデ)にあたった。

===*===

以前、木村成俊に関し調べていたはず。
それが、ここでまた中原氏と紀氏の関係上必要になってくるのかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%88%90%E4%BF%8A


もう一度考え直してみたい。
木村氏と九里氏もとても近い!が、系図のどこかが違っている。
佐々木氏の系図と近江国御家人井口中原系図の中の九里周辺が「成俊」をキーワードに整合してみると合わない。
しかし、伊香三郎と木村三郎成俊は伊香にいた…とあったような気がするのだ。それをまず見つけなければ。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/11_20/kimura.html
https://tabi-mag.jp/kimura/
「木村氏の血筋は出雲神話から始まる「神氏」(じんし)一族ともいわれているし、木の国・紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もあるようだ。

木村さんのルーツとして重要なのは、近江国蒲生郡木村(滋賀県東近江市木村町)発祥の木村氏だろう。
『源平盛衰記』に記される湊川で平通盛を討ち取る木村成綱は、紀朝臣(きのあそん)成高の後裔。
また、同じ紀氏の流れを汲む近江源氏佐々木氏流の木村一族はつとに有名で、佐々木氏のルーツ・佐々木成頼(ささきなりより=源成頼)から6世の佐々木成俊が、近江国伊香(いか)郡木村(現・長浜市)に因んで木村と称したという。」

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/21ca1eda53cea162452dcbbb5e39f86a




===*===

紀氏とすれば、富来氏(豊前国 国東半島)も紀氏という。

===*===

紀氏と熊野memo
1200 長済 安楽寺 法印・別当
    ・1219-10-13 熊野那智大社 善長房
           ・善長房 譲 善宝房状 譲与
           ・那智山内「尊勝院」房地並諸国壇越等事
           ・尊勝院:那智山の潮崎氏が代表する
    ・先師:尊念 瀧本執行法橋を継ぐ 
    ・父:菅原朝臣(五条家)
    ・母:不詳
    ・生没:不詳
子┌宝済(善宝房)那智執行(先師:尊念とは親類)
  └俊済(円道坊)弟 長済から房地十間壇越等を譲られる

===*===

追記 ココは解決 


===*===

木村紀太蔵人…だったのかもしれない。

http://zan35441.on.coocan.jp/sub11-21.html
紀氏のルーツさんより 

近江八幡市

①木村氏(安倍氏・佐々木氏流)「佐々木神宮職」を相続したもの
     ・蒲生郡木村より起こる

  ・佐々木行定は母姓を冒して木村権守道政という
       ・佐々木宮神主 家紋:四目結または釘貫

  ・木村源三成網は佐々木庄に住し姻戚上の関係より
           佐々木とも云う、源姓を称した

  ・木村重成葉豊臣秀頼を助け活躍した青年将校、24才で戦死

宇多天皇―敦實親王―雅信―扶義―成瀬―義経
                    │
   ┌───────────────────────┘
   │  紀盛宗下野守の娘(紀朝臣成高の後裔)    
   │    ‖   ※1              ┌成経
   │    ‖―木村行定─┌定遠→成俊→資経→成経─├俊綱→宗綱
   │    ‖ 従5位下 │            │
   └──佐々木経方近江守 └定道太郎太夫 従5位下 └木村源三成綱
     近江国惣追捕使    佐々木宮神主      (佐々木姓) 
        
        ・・・・・・・・・・・

①「日牟禮八幡宮」旧:県社・別表神社
       ・祭神:応神天皇・神功皇后・比賣神(宗像女神)
       ・創建:伝131年
          ・成務天皇が高穴穂の宮に即位の時
           武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を
祀ったのが草創とされている。
       ・鎮座地:近江八幡宮内町257

②「大嶋神社奥津嶋神社」旧:県社・式内社
       ・祭神:大国主神・奥津島比売命(宗像女神)
       ・創建:伝成務天皇の時代
          ・治世に武内宿禰により勧請されたとされる
       ・鎮座地:近江八幡市北津田町529

③「長命寺」天台宗系単立
     ・山号:姨綺耶山
     ・本尊:千手観音・十一面観音・聖観音
     ・創建:伝 619年
     ・開基:伝 聖徳太子
     ・第12代景行天皇の時代に武内宿禰がこの地で柳の下に
       「寿命長遠諸願成獣」と彫り長寿を祈願した。
        このため宿禰は300才の長命を保ったと伝えられる。
     ・住所:近江八幡市長命寺町157

④「沙沙貴神社」=「佐々木神社」式内社
     ・祭神:宇多天皇・敦實親王・大昆古神
     ・創建:927年以前
     ・鎮座地:近江八幡市安土町常楽寺1

⑤「広済寺」天台宗→浄土真宗本願寺派
     ・山号:不詳
     ・本尊:阿弥陀如来
     ・開基:592-628 天台宗武佐寺
     ・改宗:1235 
     ・1354 後光巌天皇は「広済寺」に落ち延びた
     ・住所:近江八幡宮市武佐町597   

⑥「大光寺」天台真盛宗
      ・住所:近江八幡市土田町1058



蒲生郡

①「馬見岡綿向神社」旧:県社
     ・祭神:天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命
     ・創建:545年に祠を建てたのが始まり
     ・移転:796年に現在地へ
     ・境内末社:①「稲置三麿神社」
            ・祭神:蒲生稲置三麿
            ・859年 紀武人雄子とういう人、
                 大宮社地に遷し玉椿神社と共に末社と
            ②「玉影神社」
             ・祭神:小舎人紀重方・紀實方・紀實信
・代々の宮司の御霊、氏子内の英霊
             ・当神社に功績のあった人の御霊
      ・鎮座地:蒲生郡日野町村井705

②「十二社」
     ・祭神:国常立命・伊弉諾尊・天照大神
         彦火火出見尊(神武天皇の祖父)
         鵜茅葺不合命(神武天皇の父)
     ・鎮座地:蒲生郡日野大谷1

③「天満宮神社」
     ・祭神:紀貫之命・菅原道真公
     ・鎮座地:蒲生郡日野町河原504



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中原氏と紀氏、富来氏と紀氏(3)

2019-10-14 | 紀氏

宇佐周辺に思いを馳せた始めたばかりでまだ整理はついていないが、忘れてはいけないのでメモ代わりに書き記す。

  
富来


溝部


web情報には、
「鎌倉前期の左馬允俊朝の長男が溝部太郎秀俊であり、その弟が富来氏の祖・富来次郎朝忠であって、その子の「秀忠-長忠-忠虎(忠政)」と続いて、忠虎の子が延元元年(1336)時に足利尊氏を出迎えた富来雅楽助(弥五郎)忠茂となります。 」
とあった。富来氏の祖ということである。もしかすると富木氏の祖ではなく、国東半島の富来氏の祖という意味なのかもしれない。

溝部氏の記載のある文書で(東京大学史料編纂所データベースの中)一番古いもので建久にあった。詳細な名前はわからなかったが、この秀俊が建久に活躍し、宇治勢多でのことも関係するとすると、承久の乱あたりと思う。宮方で…と本にもあったので、符合する。

以下の本(大分県史)によると、大友氏を頼って…とあるので、これも符合するように思う。
とすれば、先に富来氏があって、そこから因幡国へ在庁官人として赴いたとも考えられるか。

そこで、地頭職も併せて補任されて「冨木(城)郷」とし、冨木(城)氏と名乗ったのかもしれない。
いろいろな可能性があると思う。

想像だが…↓

藤原秀郷流の小山氏か山内首藤氏の一族、あるいは宇都宮氏で宮仕えしていた誰かが、鎌倉から京へ、京で戦い敗けて、宇佐へ逃げ延びた。
紀氏の血も入っていたことから、宇佐八幡宮近くに郷の地頭職を補任されて「富来郷」の富来氏を名乗る。
宇都宮信房の祖母は益子氏で、紀氏である。この宇都宮氏は豊前宇都宮氏ともいわれ九州に勢力を持っている。
が、今の所承久の乱で宮方になった者は見つかっていない。細かに見ていくと、ひとりぐらいはいるかもしれない。

その後、経営手腕を買われ?(出納が得意であったとか。)因幡国在庁官人として赴任することとなり、地頭職も得て「冨木(城)」と名乗る。


大分県史 中世編 第1巻

宇治勢多の乱の際に戦死した俊親は、この俊通の曽孫に当たるという。
俊親の息俊孝も負傷してしまった。
乱後、あちこちを漂泊していて、大友氏を頼って下向し、のちに、大友家臣となった者に首藤氏がいる。

首藤俊親は俊通の曾孫とあった。伝承ではあるそうだが、名前の「俊」の字が通し字となっている。
この系に左馬允俊朝がいるような気がする。


富来氏と承久の乱で調べると、出てきた。富来次郎判官代!
  誰だ!この人物!!




という事は、宇佐に行く以前から「富来氏」と名乗っていたこととなる! か、または、承久の乱以前に宇佐には関係があったことになる。

実は、石州にも「富来」という地名がある。



ここでは、土岐光行と共に同じ宮方として戦っている。糟屋氏も兄弟3人が宮方として戦っている。(有久、有長、久季)

とても気になる、判官代の富来次郎。
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中原氏と紀氏、富来氏と紀氏(2)

2019-10-13 | 紀氏


他のweb情報にはこの溝部氏が藤原秀郷流とも出ており、さらに小山氏の一族であることも出ていた。
つまり、非常に今まで調べてきたこととは似ており、やはりそのあたりに富木氏、あるいは富来氏入るのである。

その他中原氏と紀氏のつながりだが、

















https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho41-37.pdf&type=G&prt=1270
宗祖生国の先住者安房に移住した阿波忌部いんべ族の動向について(日蓮宗現代宗教研究所嘱託)石川修道 著


日本中世の社会構成・階級と身分 峰岸純夫著 より
291 ページ
若尾氏・清原守貞大中臣国次藤原氏賀茂氏・若尾則助藤原忠清藤原氏(中略) (ママ)
若尾則友・藤原氏源伴清穂積氏 2 ー中原俊真「中原牛丸 2 雑. 胎内)黒書)従五位下
中原朝臣貞俊白衣弟子所生男女子子孫孫中原俊真善縁山氏所生中原牛丸中原小院丸 ...

特別展鎌倉時代の彫刻: 昭和50年10月7日 - 11月24日東京国立博物館
中原氏善縁紀宗行孫中原俊真

1170年に中原貞俊は紀宗行やその家族に関しては以下のようである。近江国金田庄にいた中原と紀氏はつながっている模様。



ここに出てくる「紀宗行」はもしかすると明珍とつながっている紀氏かもしれない。



明珍 コトバンクより

甲冑(かっちゅう)師の一流派。「明珍系図」によると、平安時代末に初代出雲守(いずものかみ)紀宗介(きのむねすけ)が京都九条に住し、近衛(このえ)天皇より明珍の号を賜ったと伝える。しかしその作品がみえるのは室町以降で、室町後期にもっとも活躍したことが推察される。このころすでに小田原、鎌倉、常陸(ひたち)(茨城県)、上野(こうずけ)(群馬県)などに分派ができ、江戸時代に入ると江戸、姫路、広島、高知、金沢、福井、仙台、弘前(ひろさき)と各地に広く分布した。鉄の鍛(きたえ)がよく、堅牢(けんろう)で実用的なのがこの派の特徴で、甲冑のほか馬の轡(くつわ)、鉄鐔(てつつば)、茶道具の鐶(かん)、火箸(ひばし)や自在に動く置物などの制作も行い、そのほか古甲冑の鑑定にも権威を示した。
 17代信家(のぶいえ)(室町後期)は名工の誉れ高く、ほかに高義(たかよし)、義通(よしみち)も知られ、江戸時代にはこの三工を三作と称して珍重した。[原田一敏]


この中原貞俊が居住していた場所は近江八幡金田(荘)である。
九里氏とごくごく近い、当時は金田庄の中に九里村のあった場所も含まれていたかもしれない。同族と思う。
その貞俊が紀氏の婿をとっていたという。
それ以前にも日牟礼神社等、近くに紀氏がいて、婚姻関係もあったのではないかと思う。

さらに、鉄に関係する九里と鉄に関係する紀氏がそこでつながった、それで、刀や甲冑が創られていたのが「金田庄」だったとなると、非常に面白く、現実味が帯びてくると思う。

さらに上記に付した阿波忌部氏だが、溝部とつながる岐部氏が「きべ」と読むが、忌部氏も「いむべ」とも「きべ」とも読める。
そして、紀氏のなかに忌部という人たちがいたので、ココに記しておこうと思う。

また、蛇足ではあるが小山氏の中に乾氏もいた事もmemoしておきたい。



下の部分、記載がないけれど【乾氏】がいることになっている。
コメント (2)
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中原氏と紀氏、富来氏と紀氏(1)

2019-10-13 | 紀氏

宇都宮宗房と関係がありそう・・・・というところから、今度は以前解明できなかった「紀長雅」、ココから始めようと思う。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/80d03746ddda6c6096778448d0f2ed1c

少し脱線…
石清水八幡宮別当頼清ー紀祐安ー紀実貞

1072 頼清(常盤)石清水八幡宮 権別當「護国寺」法橋 
    ・1076 宮寺:法眼兼清から院主法師頼清に譲度
        ・長門国美祢郡「大峰荘」
    ・1087-8-29 八幡宮第23代別當・宮寺 法印
       ・親戚の貧しい永秀に笛用の寒竹を取り寄せる
       ・金銭の援助もし、笛の名手永秀となる
    ・1103-1-3「観音寺」「大山寺」兼行 
    ・父:石清水八幡宮 兼清 法印・別当
    ・母:石清水八幡宮 元命の娘      
    ・男子:石清水八幡宮 垂井光清
    ・女子:紀朝臣頼子 皇后令子内親王の女房
    ・63歳入寂(1040-1103)


この頼清の遠戚永秀は笛の名手だったようで、後に鴨長明 『発心集』の中にも記載があるとのことです。

===*===


紀長雅

紀氏のルーツさんから
②「長安寺」天台宗
     ・山号:金剛山
     ・六郷満山の中山本寺、鎌倉時代に入ると六郷満山の
      100以上の寺院を統括する地位を占めた
     ・開基:仁聞菩薩
     ・太郎天像の胎内銘に紀季次=末次の名
     ・1141 長安寺の銅板経の作者の名に
         紀重永・紀長雅の名
     ・住所:豊後高田市加礼川635(新城)

ー 荘園 ー
   ①1057「田原別府」
      ・郡名:国崎郡 西国東郡太田村 
                桂川上流と支流石丸川流域、
                安岐川上流の谷地と分水嶺地帯            
      ・領家:宇佐八幡宮領
         ・1057-3 紀季兼の開発申請状にもとづいている
・1158-5-3 田数:59庁反30
      ・荘官職:紀氏(石清水八幡宮の出身
         ・1141 石清水八幡宮惣別当僧暹意らと共に紀重永
             紀長雅の名が見える
      ・郡司職:1287 紀氏 田原別府惣徴符に
      ・史料村郷名:田原郷・波多方名・田郷・小野一万名・利行名
      ・明治村字:小野・白木原・永松・上沓掛・背野
            上波多方・下波多方・石丸・俣見・下沓掛
        ※出典:紀氏系図・入江文書・長谷雄景信文書
            長安寺の銘の銅板経(国重文)

     ※1142 求菩提山の銅経板に御馬所検校紀重永の名
         ・同経板制作には石清水八幡宮別当僧暹の援助が
          銘文にある


石清水八幡宮の領家である宇佐宮領国東郡田原郷(田原別府)は、歴博のデータベースでは【領家・本家】後白河院領・栗田宮領・皇室領【初見年和暦】寿永三年
【初見年西暦】1184 …となっているが、それ以前にも文書はあるようである。

領家(開発領主)が紀季兼で、その後石清水八幡宮惣別当僧暹意らと共に紀重永・紀長雅が担当したとみえる。
このように、宇佐八幡宮と石清水八幡宮とは、相互に助け合っていたのだろうか。人手が足りないときには派遣するなど。

そこに出てくる紀重永・長雅は石清水からの派遣とみることができる事。
また、『建久中、大友能直に従って下向し、富来に住し姓を富来に改めている。初代実貞は紀祐安男で、永井石見守,富来左衛門尉と称し富来氏系図によると紀長雅・秦氏四子』と以前書いた記事にもあったように、大友氏に追随していった者たちもいた。

紀氏につながりのある者たちであったように思える。そのグループに富来氏も入っていたのだ。
大友能直は1173-1223年で、中原祐安は年代がわからないが、兄の頼業は1122~1189年である。
充分紀祐安の息か孫は富来左衛門尉実貞とも考えられるのである。

ここが、紀祐安=富来の先祖、ともなると、出納家の平田家や深尾家とも繋がってくる。

しかし、全く別の意見もある。
(プロのご意見はこのように…これによると富木氏と富来氏は全く別の一族となるが、富来氏も藤原秀郷の関係であるらしい。)
とても重要なことも書かれている。

「鎌倉前期の左馬允俊朝の長男が溝部太郎秀俊であり、その弟が富来氏の祖・富来次郎朝忠であって、その子の「秀忠-長忠-忠虎(忠政)」と続いて、忠虎の子が延元元年(1336)時に足利尊氏を出迎えた富来雅楽助(弥五郎)忠茂となります。 」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/saito-bungo1.htm

上記のページとは意見は違っているが、私的には充分鎌倉周辺にいた富来氏(=富木氏)で在り得ると思うのである。
「永井実継の父は永井刑部助実貞(一に実直)であり、この者は紀(?。清原?)祐安とは無関係です。上記のように、永井実貞の子孫に富来忠茂が出たわけでもありません。」

その実貞のことはどうかはわからないが、中原祐安と紀祐安は同一人物で、富木氏と富来氏も同じ一族なのではないだろうか。
そのように考えることで、近江国の日牟礼神社やその周辺に住していた一族とも「紀氏」でつながり、祐安や兄の頼業、また、源頼政、土岐氏とも繋がってくるのではないだろうか。

以下のようなweb情報もあった。大友氏とのつながりである。九里の祖も中原氏なので、当然つながりがある。

「大友泰広(やすひろ)は、京で生まれ、豊後国国東地方に地頭職を得て、宇佐宮領国東郡田原郷(田原別府とも荘とも呼ばれる)に定住するようになり、田原(たばる)氏を称することになる」

「国前臣(豊後の称紀朝臣姓諸氏は紀長谷雄の族裔と称するが、実際には国前臣の流れの仮冒とみられる。

溝部-豊後国国東郡人、紀継雄系と称。

横手、立野、富来、長木、柳迫、速見、何松、志手、岐部、櫛来、姫島、曾根崎-溝部同族。

生地、紀田-豊後国速見郡若宮四社権現神主、溝部同族。

上田-豊前の宇佐神宮御馬所別当で宇佐郡上田村住人、紀諸雄系と称。

永松-豊後国国東郡田原八幡神主

野原-同速見郡人。永井、長谷雄〔長谷王〕、足立、小野-上田同族で国東郡等に住。国東郡田原八幡祠官の是松、永吉も同族か。

宇佐神官で下毛郡住人の藍原やその同族とみられる朝来野も紀姓で、おそらく同族。宇佐の鷹居社祠官の紀姓鷹居氏も同族か)、国前直(渡辺-豊前国上毛郡の古表八幡神社大宮司家)、日子臣、日子直(日名子〔雛子、日奈古〕-豊前国築城郡人。

国前〔国崎〕-豊前宇佐宮貫首。浅田、無佐、由布、芦原田-豊後人。

武川〔竹川〕、井関、鷹尾、山嵜、森脇、桂川、鎌谷、高塚-播磨人。

柏木-江州柏木人

藤原姓を称する宇佐宮土器長職の高村〔高牟礼〕氏も国崎氏の同族か)。

また、豊前国仲津郡の高桑臣も同族か。

葦北君、刑部靱負部、刑部、刑部公、日下部、日下部公、規矩連、日奉部、日奉直、日奉宿祢(横尾-肥後国益城郡人、陸奥下野筑後に分る。

那賀、合志-横尾同族。竹崎-同国八代郡人。

その同族に野中や筑後国御井郡の三井

また、肥後国玉名郡の大津山は藤原姓を称し、公家日野氏の庶流とか菊池一族合志の初期分岐という所伝もあるが、疑問もある。

むしろ筑後国三池郡の日奉宿祢後裔とするのが妥当か。

その一族には玉名郡の小野、関、三池、津山があり、同郡の江田も同族か)、
大伴部(出水〔和泉〕、井口、上村、朝岳、知色〔知識〕、給黎、郡山、杉〔椙〕、鯖淵-薩摩国出水郡人。

高城-同国高城郡人。

武光〔武満〕、高城、寄田-同州薩摩郡人。

宮里、高江-同上族、称紀姓。

日置、河俣、北郷、息水-薩摩国日置郡人。

白坂-日向人。

肝付〔肝属〕-大隅国肝付郡人で一族多く、伴朝臣姓で見える文書あるも疑問で本来は葦北国造同族か、一族は大伴氏族を参照のこと)、桧前部(水俣、佐敷、久多羅木、上野、田浦、湯浦、二見、綱木〔津奈木〕-肥後国葦北郡人。篠原、光武、萩崎、白木、牛尾、永里、薗田、中条、岩崎、楢木、桂木、広武、松本、鵜羽、大籠-薩摩国牛屎院人、篠原は日置郡中原の大汝八幡宮大宮司家にもあり。

税所-肥後国球磨郡人、大隅国曽於郡の税所と同族と伝う)、他田部、白髪部、真髪部(真上部)、真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)。

また、肥後国葦北郡の家部、八代郡の高分部も同族か。

『大同類聚方』には葦北郡の姫島直が見えており、実在したなら葦北国造の族か。」

(2)に続く。



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紀氏と富来氏(二回目のトライ)

2019-09-08 | 紀氏

紀ルーツさんより
石清水八幡宮別当頼清ー紀祐安ー紀実貞
この実貞が富来初代となる。

武家家伝 富来氏によると

富来(とみき)氏は中世を通じて豊後国国東郷の富来城主であり、大友氏に属しその重臣として活躍した。

建久七年(1196)、豊後守護となった大友能直に従って鎌倉御家人永井石見守実貞が嫡子実継とともに下向、国東郷富来に居住したのが始まりとされる。いわゆる「下り衆」と呼ばれる武士である。富来に土着した実貞は在名にちなんで富来を称し、曾孫の実忠(忠文)のときの弘長元年(1261)富来城を築き所領支配を安泰させたのである。

富来氏の初代である永井石見守実貞は、武内宿禰の後裔永井造酒正紀祐安の子で、本姓は紀氏であった。

ところで、国東にある伊美八幡は京都の岩清水八幡から仁和二年(886)勧請されたが、勧請を奏請したのは奈良大安寺の僧行教で、行教は紀氏の出身だったことから紀氏が近畿から国東に進出することになった。岐部氏、櫛来氏などであり、富来氏も紀姓であったことから国東郷に配されたとも考えられる。

===*===

これ、実は富来氏でありながら、富木氏とも繋がっているような気がする。
紀氏もそうだが、九里の祖の江州中原氏には豊後守がいる。

さらに、大友氏の家臣。
そして、年代は富木氏が因幡国へ行くよりも前になる。

web上の本には以下のような言及があった。

中世文書にしばしば現われる岐部氏.櫛来氏.富来氏らは、ともに岐部浦,櫛来浦,富来浦などの地に、在地的に成長した一族であり、豊後の国東紀氏の一流である。

===*===
以下は網野先生の著作の中である。

富来氏については、日蓮門弟の富木胤継(常忍)とのかかわりを推測する余地
なくはないが、

ないかもしれないが、ないとははっきりは言えない。。。
という事は、あるかもしれない!!

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和邇氏の中でも、水・祈りに関することは紀氏が執り行っていたのではないだろうか?(想像)

2019-09-04 | 紀氏

ざっと、気になっていることを書き出してみよう。

和邇氏の中でも、水の祭祀・井・水の設計に関することは紀氏だったのではないだろうか。

ただの想像ではあるが、
私が今まで、賀茂氏の担当と思っていた祭祀。水の祭祀は、実は紀氏も執り行っていたのではないだろうか。

神武天皇の妃は紀氏であったそうである。
紀氏は秦氏を配下に、蘇我・平群氏とつながっている。
紀氏は近江国の木村氏となる。

日牟礼神社宮司は紀氏である。
日牟礼八幡神社神主家の紀氏は一井氏に譲り状を渡している。

櫟井氏は和邇氏の一族である。
和邇氏には、小野氏・春日氏がいる。

三尾は大事な場所であったようだが、その三尾の奥に「久多庄」がある。何か祭祀に使われるものがそこで採取出来たのではないだろうか?

河童伝説も、気になる。

和邇部臣と近江の日置神社が関係があるのだが、比企氏にも通じているのではないだろうか?
ともかく太陽信仰と、重なる。日牟礼も太陽信仰ではないだろうか。

紀氏は私が気になっている和歌山(紀伊国)の日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)共密な関係にある。
二つの鏡のうちの一つがココにある。

…という事は、鏡とも関係がある。
水・鏡・神功皇后・武内宿禰

紀氏・宇都宮・益子・池田・田中・源頼政・下河辺・深栖・浅小井・深尾・櫟井・一井・木村・・・とつながる。

浅小井源太盛実は一井三郎家職の父。
一井三郎家職は真野大輔房源定の父。

浅小井盛実~一井家職~真野源定…となる。

九里の祖のおおもとが紀氏と仮定すると、何だかすっきりするのではないだろうか。

中原でもあり、紀氏でもある。

「中原師元の養子である中原祐安=清原祐安(実・清原祐隆息)と同一人物である。
清原祐隆の息ということは、あの清原頼業の弟となるのではないだろうか。


建久中、大友能直に従って下向し、富来に住し姓を富来に改めている。初代実貞は紀祐安男で、永井
石見守,富来左衛門尉と称し富来氏系図によると1 紀長雅・秦氏四子」とある。

ということは、初代の実貞=祐安の息である。永井を称していたが、豊後の富来に住んで富来と名乗った。

ここで、中原氏・清原氏・紀氏・永井氏が祐安であり、その人物が富来氏の先祖になっていたわけである。
確か、平田氏にもなっていたように記憶する祐安。

1142-10-21 ①国宝:普賢窟(胎蔵窟)から発見された銅板法華経(豊前)
         ・33枚の銅板経と銅筥からなる
         ・頼巌が大勧進僧となって、供養したものである
         ・銅筥のの底板に・頼巌・紀朝臣重永・紀朝臣乙王
         ・多数の名がある
   
       ②国宝:長安寺(大分県豊後高田市)銅板経
         ・紀朝臣重永・紀朝臣長雅・紀朝臣乙王・大中臣の
          大宰府の官人の名
         ・天台密教の活動を明らかにする作善行の一つとして
          重要である。

豊後高田市

①古代:松津国 国造:金連(物部連祖伊香色雄命孫)饒速日命・物部系
           仁徳天皇時代

       ・・・・・・・・・・・

①国崎郡に「岐部村」あり、武内宿禰の男、都野宿禰の後裔

②「長安寺」天台宗
     ・山号:金剛山
     ・六郷満山の中山本寺、鎌倉時代に入ると六郷満山の
      100以上の寺院を統括する地位を占めた
     ・開基:仁聞菩薩
     ・太郎天像の胎内銘に紀季次=末次の名
     ・1141 長安寺の銅板経の作者の名に
         紀重永・紀長雅の名
     ・住所:豊後高田市加礼川635(新城)


また、木の国・紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もある。
 たとえば、近江国蒲生郡木村発祥は、紀朝臣成高の後裔だ。また有力な木村一族に近江源氏佐々木氏の流れがあるが、これも紀氏に関係している。佐々木氏の祖源成頼から六世の末佐々木成俊が、近江国伊香郡木村に因んで木村を称したが、祖母が紀氏の出身であったこともあって、佐々木の姓を木村に改めたとされている。のち、佐々木宗家が京極・六角と分かれたので、木村氏もこの両家に分かれて属した。






この俊成の七代後裔が九里の祖「太郎経久」である。


やっとやっと、みつけた!!  佐々木成俊=木村成俊(祖母紀氏)その八代後が「九里の祖」


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