九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

治田氏 と 大江山城介久兼 (3) ぐちゃぐちゃだが、そのカオスこそが光!となれ。

2024-03-30 | 大江氏
治田(ハツタ)氏と八田氏
平安時代「ハッタ」と呼んでいたそうである。

八田時家(八田知家の息)が「伊賀守」だそうだが、他の情報は見いだせなかった。








【私の想像上の系図】

大江山城介久俊 ー 大江山城介久兼(脇坂氏説)

大江久俊の養子?として中原俊兼(山城権介)・久経が入るカ?
…つまり久兼と義兄弟となるか?

中原久経 ー 中原経久(蓮忍・河守庄)

大江久俊(1146年山城介)
長男・中原俊兼
二男・中原久経 
三男・山城介三久兼 「三」を三男とみる。



中原俊兼(1157年 山城権介) 官史補任より

天永2年は1111年
保元元年は1156年
建久5年は1194年
此の一覧の俊兼は、3人なのか、2人なのか。
1156-1194年の俊兼は一人なのかもしれない。

鎌倉殿と13人の合議制(本郷和人著)より ↓
 頼朝が官僚筑後権守俊兼の(生没年不詳)を叱った際のこと。筑後権守俊兼はやはり京下りの官僚で、大江広元の部下か、同僚にあたる人物でした。仕事もできて力を持っていたのですが、非常にお洒落さんで、十二単のように着物を重ね着して色柄を楽しんだり …(1194年の俊兼)

この小袖の件は藤原俊兼とあったので別人かもしれない。
が、私のなかでは、どうも中原俊兼のような気がするのである。
中原久経の母は藤原氏なので、藤原久経ともいえるし。

吾妻鑑入門さんよりお借りします。

元暦二年(1185)六月大十六日丁卯。典膳大夫中原久経と近藤七国平は、関東の頼朝様の使いとして、院宣を持って、関西とその周辺を検査して歩き、生産者からの納税に関する訴えを処理しています。今までの間に、苦情を聞きません。頼朝様は内心感心しておりましたが、尾張国に玉井四郎助重と言う者がおります。元々乱暴者なので、周りの者達はその横暴に嘆いていると噂されています。最近になって特に朝廷から出ている命令に従わない罪があります。それなので、例の二人が取り調べるために、呼出状を出しましたが、全く云うことを聞かないばかりか、かえって罵る有様です。そこで典膳大夫中原久経が頼朝様に詳しいことを手紙で申し上げたので、筑後権守俊兼を処理担当として、今日助重に命令を出させました。「朝廷からの命令を聞かない奴は、日本に住むべきではない。関東をないがしろにするなら、鎌倉の御家人とは認めない。さっさと何処かへ行ってしまえ。」なんだとさ。 


中原俊兼(1156年 山城権介-1194年)筑後権守も?
中原久経(1160年 義朝右筆・1185年 鎌倉殿御使) 
大江久兼(1167年 山城介ー1194年)


久兼は一時期中原を称していたこともあったのかもしれない。
とすれば、後で復姓した可能性もある。


大江久兼は婚姻関係によるものか養子縁組によるものか、
中原久経の息経久に河守荘の所領を譲り、山林を観音寺へ寄進。

久経の妻が大江久兼の姉妹?娘? もしくは久俊の娘が久兼の妻?
いろいろな可能性があって纏まらない。

空想だが、
大江久俊と中原某が兄弟で、
どちらかが亡くなり、その息らを預かり育てた…という事もありそうである。

俊兼と久経が兄弟であるならば、嬉しいなぁ=と希望。

大江久俊のが入っている二人である。
中原から大江に養子として入ったのだろう。

久経が長男、俊兼が二男、久兼が三男。もあり得るかもしれない。
なぜなら、久・俊・久…


もうひとつ、久経と俊兼

元暦二年(1185)八月大十三日癸亥。典膳大夫中原久経と近藤七国平が京都から到着しました。後白河院の庁からの命令書を持っています。もうすでに九州へは行き終わったんだとさ。持ってきた例の命令書の写しは、直ぐに筑後権守俊兼に預けられました。



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銅と大江氏

2024-03-30 | 大江氏
銅山と大江氏
右馬助平信忠は壬生家文書によれば、摂津採銅所預(奉行)大江氏の実子あるいは養子であり、検非違使補任のときには大江氏を名乗っている。その摂津には目賀田氏と同様、平姓で信の字を通字とする芥河氏があった。右馬寮の官職に補任され、家紋が杏葉紋であることも目賀田氏と共通している。摂津採銅所の権益を有した平信忠(大江信忠)の直系の可能性がある。(佐々木哲学校 三井・目賀田氏の略系譜より)




大江山も銅山 
治田も銀銅山

大江信忠 採銅所 をキーワードにしてみよう。

野間氏は能勢採銅所の預職(奉行職)であった大江氏であったと考えられており(『能勢町史』第一巻)、大江氏が野間を本拠に野間氏となった可能性が高いので、多田高頼の後裔というのは能勢地方で活動するにあたっての名乗りのようなものである可能性がある。 

そう言えば、大江広元の妻は多田氏である。
多田銀銅山もある。


永仁三年(1295)摂 津 国採銅所 の紺青 を巡 る事件 が発 生 してい る。少々長いが 「豊能町史18)」か ら引用 させ て 頂 くと次 の通 りで ある。「永仁三年 四月二 日,朝 廷 の細 工所沙汰人基能 らが,採 銅所奉行大江益資の旅宿 であ る 京都四条油小路の小屋 にお いて,銅,紺 青な どの隠 し売 りが行われて いるとの理 由で襲 い,銭 貨 ・紺青等の財物 を争奪 し,そ の屋舎を封鎖す る事件がお こった。 これ に 対 して大江益資 は,採 銅所 の建立以来,大 江家が代 々奉 行 を世襲 して きたが,そ の 間,採 銅所か ら所定分の銅 ・ 紺青 ・緑青 を三種 の土貢 と して上納 した残 りの分 は,奉 行 の 自由裁量 であ り,必 要 に応 じて人 に与え たり売却 し た りして きたのが先例で ある。 また採銅所の所司 は細工 所 の管轄下 に属す る もので もない。 これ らの事情を無視 して,細 工所 の沙汰人 らが強制捜査や屋舎 の封鎖 を敢行 したのは未曾有 の狼籍 であるか ら,は や く狼籍 を停止 し 封鎖を解 除す る措置を とってほ しい と訴 えた(採 銅所奉 行益資書状 案)」 


銅と聞くと銅貨を思い出すが、実はを作る顔料であったようなのだ。
上記の論文資料には、紺青 ・緑青の製法が図解されている。

大江信忠




平信兼…この人は頼朝に討たれた伊豆国目代山木判官兼隆の父 だそうだ。(日本歴史 262)

(上から二番目の資料)平信忠と連なって書かれているが、関係のある二人なのだとすると、大江信忠も桓武平氏大掾氏流であり、山木氏ともつながりがあったかもしれない。







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治田氏 と 大江山城介久兼 (2) 

2024-03-29 | 大江氏
治田と大江氏がどのようにつながるのかが知りたく思う。

山城介久兼が【治田の】と言う事は、古くからの治田連とは関係が無く、治田御厨と関係するのではないか。「はった」と呼ぶのではないだろうか?

下記の地図は員弁郡治田郷(治田御厨)である。


員弁郡治田(ハルタ・ハツタ)

【丹波氏族】とある。
近江国浅井郡・栗本郡治田郷・
大和国高市郡の治田神社





この大きな大江氏と私の探している大江久俊・久兼が関係するかどうかはわからない。

【山城介】と言うキーワードで探すと、

中右記のなかに
「山城介兼俊」(大治二年1127年)
「山城介俊弘」(大治五年1130年)
の二名を見つけた。


また、山城権介の「中原俊兼」も(保元二年1157年)に存在する。
(この俊兼という名前は多く、中原氏の中でも3名はいる。確か吾妻鑑のなかで、源頼朝が派手な装いをたしなめていたのも中原俊兼だったような気が…小袖切り取られ事件・要確認)


大江久俊(久安二年1146年)
大江久兼(仁安元年1166年)


坂上兼俊(1165・1168年周辺)もいるが、山城介兼俊(1130年)とは別人なのかどうか、判断が難しい。

1130年 山城介兼


永萬元年1165年 明法博士坂上兼俊


仁安三年1168年 坂上兼俊 (紀伊介)


また、以下の惟宗と中原の俊弘も同様に、難しい。

惟宗俊弘(1156年周辺・大隅守)山城介俊弘とは別人かどうか迷うところである。(中原俊弘も木工允になっている。)

 ↓大治五年(1130年)二月権少外記 惟宗俊弘 院主典代 木工允


↓ 大治五年 四月 木工允 中原俊弘 



 ↓ 大治五年 四月 山城介俊弘 新頭 使


↓ 保元二年 三月(1157年) 大隅守 惟宗俊弘 外記 



惟宗氏は仕事的には中原氏と同業でもあり、養子縁組もあったと思う。

場合によって、惟宗と中原を使い分けていたのだろうか?
この辺り、インプットが必要である。(中原俊章氏の本を読んでみたい)

惟宗氏と大江氏との関係も知りたいところである。

坂上から中原、そして大江氏へもこれから本・論文を読んでみたい。

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治田氏 と 大江山城介久兼 (1) 三善氏?

2024-03-27 | 大江氏
国立国会図書館よりコピーが届き、読んでいる。(公事奉行人山城介久兼とその系譜 脇坂省吾著)

4ページしか許可されなかったので、中間部を飛ばし、頭と最後の部分である。
そこに【関東開闢皇代幷年代記事】のなかに「治田祖 山城介三善久兼」とある旨が書かれている。

そこで、国立国会図書館のデジタルで調べてみた。
すると、山城介久兼 とある。
さて、此のは、三善氏とも思えるが三郎という意味でもあるのではないだろうか?

なぜなら、息の久家の表記は、全てではないが「山城江次久家」とあるため、
先の「山城介久兼」も「山城介江三久兼」であった可能性もあるのではないか?と思ったのである。
もちろん、大江氏・中原氏、そして大中臣氏も三善氏と同じく文官が多く、婚姻関係や養子縁組もあったであろうと思うのだが、一つの可能性として三郎の意味もありそうであると思ったのだ。

そして、今回初めて知ったのが、【治田氏の祖】=山城介久兼 という部分であった。

ハリタ氏

姓は連。開田にも作る。氏名は土地を開墾して墾田としたことに基づくか、あるいは近江国浅井郡(滋賀県東浅井郡と伊香郡の一部)内の墾田(治田)の地名によるものか未詳。新撰姓氏録では治田連氏を左京皇別下に載せ、開化天皇の皇子の彦坐命の後裔とし、その四世孫の彦命が北方の蝦夷を討って近江国浅井郡を与えられて墾田として、大海・真持らが、その地を開いて住み着き、大海の六世孫の後にあたる熊田・宮平らが治田連の氏姓を賜ったという氏族伝承を載せている。【出典】 




彦坐王は、神功皇后・応神天皇に続く。

【彦坐王】

第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子である。


依知秦氏に続きそうな気がする。
愛智中原氏も開拓領主を名乗っていたと思う。

治田神社(滋賀県草津市南笠町925 )






面白い!
いろいろと調べることがありそうである。




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(大江)俊泰  九里館へ  近衛家と北小路家(大江氏)

2024-03-25 | 大江氏
永正元年(1504年)
近衛政家 後法興院記 下巻 10月16日 【俊泰差下江州 九里館】とある。
義澄が水茎岡山城に来るのは1508年であるため、それ以前にも近衛氏とはつながりがあったと思われる一行である。
 
この大江俊泰の養女となった女性が北小路俊子で、近衛政家に嫁ぎ、尚通を産んでいる。
この大江俊泰は北小路俊泰ともいう。(近衛家の家司である大江姓北小路家 )

何かしら用事を受けて九里館に来たような気がする。

政家は1505年迄しか生きていなかったので、足利義澄のその後(水茎岡山城の件)には関りはない。

政家の息である尚通の時代となって、足利義澄の件で深く九里と関わるようになるのである。
                        


蔵人・上北面や近衛家諸大夫を務めた北小路家である。




俊子は北小路俊泰の養女で、実は越前国の武士加治能登入道の娘。という事である。

*****

前記事では、日野家のことを取り上げたが、日野家と近衛家との関係はどのような物であったのだろう。

中世文人貴族の家と職—名家日野家を中心として—(申 美那)によると、

【兼光は長男資実と長親を九条家に入れ、日野家の将来を九条家に託する選択をした。兼光がこのような選択をしたのは、日野家が代々領家職を知行する若山庄など皇嘉門院領が九条良通に譲られたことに起因するところが多い。】

兼光は五男頼資を近衛家に入れたが、頼資から勘解由小路と号する新しい家が分かれる。 】

この「入れる」は、どうも家司として務めさせる‥‥の様な意味合いなのだろうか。

広橋兼仲の例を見ると、家司・執事となって鷹司家と近衛家の家のことに携わっている。

広橋 兼仲   (1244-1308)
広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は鎌倉時代後期の公卿。 『民経記』の著者広橋経光の次男。 勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。 日記『勘仲記』の著者。 建長4年(1252年)に元服、正嘉2年(1257年)に叙爵し、紀伝道(文章道)を学ぶ。 正元元年(1259年)に民部少輔に任じられ、近衛家・鷹司家の家司となり弘安元年(1278年)より鷹司兼平・近衛家基の執事を務めた。 弘安3年(1280年)に兄兼頼が没すると嫡子として扱われ、弘安7年(1284年)に蔵人に任ぜられ、同10年に右少弁、正応元年(1288年)に左少弁、翌年には右中弁、左中弁に、その翌年には右大弁、左大弁..となる。


つまり、日野家を通じて、九里氏は近衛家にも出入りをするようになったのであろうと思う。

以前記事にしたように、その他にも「後法興院記」に九里の記載が出てくるのである。




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大江久兼の治田御厨と員弁郡のこと。(後半、間違え訂正・部分追記)

2024-03-16 | 大江氏
久兼が関わった荘園は、畠山重忠の所領であり、後に頼朝に没収された【治田御厨】
員弁家綱 が開発領主であったようだ。
しかし、畠山重忠も地頭であり領主でもあったようで、そこが騒動の根源思われる。
その騒動を止めに入ったのが大江山城介久兼と息?の久景であったようだ。
銅が採れる場所であったため、重要だったのだと思う。








この紀頼任員弁近江に関係する人物であった。
紀頼任改任とあるので、為奈部(員弁・猪名部)安永がその役目を解かれ、紀頼任となったようだ。(どちらが先だったのか、よくわからないが…)

長和4年(1015年の事)
1090年に久兼の活動期…と云う事になりそうで、山城介大江久兼ではないことになる。

という事は、そこに員弁家綱につながる人たちが居座ったという事だろうか。(?)同じ員弁一族かどうか…? 

そして、この場所(員弁)は清原氏がいた場所で深尾氏の隠れ里であったはずの近くであろうと思われる。

現在ダムの中になってしまった里である。



詳しくはわからないが、紀頼任ー久俊ー久兼とつながる糸のように感じる。

為奈部=大和朝廷の職業部の一つで木工技術をもって仕えた 一族。

畠山重忠と山城介久兼は、婚姻関係があったのでは?とも思う。
そのあたりも調べてみたい。

薄いピンクが訂正部分である。朝改めて見たら、ピンクだらけになってしまった。(頭の中の実況中継のブログなので)スミマセン!


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大江久兼(山城介)と その父 大江久俊 

2024-03-15 | 大江氏
『吾妻鑑人名総覧』という本だったと思うが、大江久兼の父は久俊、とあった。ともに「山城介」であった。
大江氏のwebで見ることの出来る系図を見ているが、久俊も久兼も出てこない。

ところが、紀氏の系図には紀久俊の父である【頼季】
『1074-4-8 紀朝臣頼季 従5位下 山城介』とあるのだ。







1074年に山城介となっているので、大江久俊の父親ではないかもしれないが、一応検証してみようと思う。

なぜなら、因幡守大江広元の目代大井実春であったから、大江氏と紀氏(大井氏含む)接点がある事。

また、源頼政の妾として紀頼季の娘のことが載っていた事。
源国政の母が紀頼季の娘であった事。

宇都宮氏とのつながりもある事。

秀郷流のなかでも紀実経=菖蒲実経=波多野実経と考えられそうな事。

佐々木定道の母は紀盛宗の娘である事。

そして、下記は京都大学の論文からで、再度アクセスしようとすると危険なページと出て遮断されてしまい、名前を確認することができなかった。
が、スクリーンショットを取ってあったので、
頼季ー久俊と続いていることが確認できる。




上記の【紀頼任】を調べてみると、、、、と続くが、次の記事にしようと思う。ここが深尾氏にも繋がるラインのように思える。

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大江能範に関すること。少し進展!

2021-07-14 | 大江氏

https://core.ac.uk/download/pdf/145768475.pdf

中川博夫 【後藤基綱・基政父子(一)その系譜と略伝について】

この論文の4ページ目に系図がある。

 

この系図によると 後藤基政の母は大江能範女だそうで、つまり基綱の妻が大江氏であったことになる。

基政の祖父は後藤基清となる。

後藤基清は、中原政経・小野義成とともに一条家に仕え、「三左衛門事件」のことで捕らえられてしまった人物である。

 

息の基綱の妻が「大江能範の娘」

 

能範とは、と以前にも記事にしたがその続きである。

今回は藤原能範として調べてみた。さて、同一人物だろうか?

 

藤原能範は藤原範光の息である。

更に範光は…藤原範兼の息であり、範兼は、弟「範季」が10歳の頃父が歿したために、父の代わりとして範季を育てている。

範季は、平治元年(1159年)の平治の乱で没落した源義朝の六男・範頼を引き取って自らの子・範資と一緒に養育している。

義経の応援隊でもあったようである。

 

範季と季範(熱田神宮の…由良御前の父)を間違えそうになるが、別人である!!

 

範兼の実弟であり、後に養子となる範季。(コトバンクには高倉範季ともある)

ところが、其の範兼も息を残して歿してしまったために今度は

長寛3年(1165年)4月に範兼が死没すると、残された子の範子兼子範光らを引き取った(範光には実の娘である季子を嫁がせて婿にしている)。 」

 

藤原能範の母親は不明であるが、父の範光は、確かに範季に育てられていた。

範季に養育された範光、そしてその息が能範である。

 

さて、この人物が、大江能範と名乗り、その娘が後藤基綱の妻となり、基政を産んだのだろうか?

 

進展したような、していないような‥‥で、この線でもう少し調べてみようと思う。

 

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大江広元の娘が源義朝に嫁ぐことはあり得るのかどうかの考察

2021-06-12 | 大江氏

大江広元 1148年生まれ である。 つまり15歳で娘が生まれたとしても1163年生まれとなる。

一方

源義朝 1123年生~1160年没

 

つまりこの年の差から見て、娘が義朝嫁ぐ…という事はありえないと思う。

一方、それが何かを表わしているとすると、義朝に嫁いだ『中原氏』『大江氏』がいたのかもしれないという可能性である。

 

古い系図に「中原」「大江」など一言書かれていて、中原・大江ならば「広元」であろう‥‥と誰か早合点したのではないだろうか?

 

そして、源義朝に嫁いでいた朝長の母が、もしかすると中原であったかもしれない可能性を思うのである。

波多野義通の妹と云われているが、もしかすると以前ご紹介していたこちらにも義通に嫁いだ女性の妹のことではないか?とあったように思う。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%AF%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E3%81%AE%E7%94%A5-%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E6%B7%B1%E8%8D%89/dp/4938651793

 

中原の女性が波多野に嫁ぐ。その女性の妹が源義朝に嫁ぐ。

 

そして、義朝に嫁ぎ朝長を産んだ女性は離婚し、中原に再嫁する。充分にあり得ると思う。

その朝長の弟となる息が久経であったろうと思う。

更にその朝長には姉か妹がいて、その息が親鸞であったという説であったと思う。

親鸞1173年生であり、こちらも充分にあり得ると思う。

久経の異父姉となる女性が親鸞を産んだという事になる。

 

波多野義通の妻は「中河辺清兼」とwikipediaにある。

一人ではなかったかもしれないが、いちおう中河辺氏を調べてみる。

秦野氏市史によると

「『秀郷流系図』(松田)には(経)馬允義常の母は中河辺清兼の女とある。清兼の女姉妹は、姉は義通の妻となり、妹は義朝の妾となって朝長を生…」とある。」

「波多野義通の妹坊門姫あるいは中河辺清兼の女ともいう。範兼.則兼は「範」,「則」の違いはあってもあるいは「ノリカネ」と名乗る同一人物の可能性もある。・・・」

 

今のところ、この程度だが、気にかけておけば、判るかもしれない。

因みに「中原清兼」は存在する。

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大江広元の娘源義朝に嫁ぐ

2021-06-10 | 大江氏

https://www.seijo-law.jp/pdf_slr/SLR-055-137.pdf

こちらの12頁にあった。

このために東国との縁が強かったのか==と今更驚いている。

 

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