比企朝宗に注目したい。
この方はwikipediaによると、越前に関係がある。
しかも11月17日に書いた記事の【河越重頼・河越尼(比企尼の次女)から下河辺政義の室となった女性と源義経の室となった郷御前という女性が生まれ、その下河辺政義の息が時員。時員は野本基員の養子となった。】の部分とも関係してくるかもしれない。
野本基員の息が下河辺時員で、祖母が河越尼であり比企尼の次女であり、その野本氏が斎藤氏の氏族であったとすると、この比企氏も関係してくるのではないだろうか。斎藤氏との接点であった可能性もあるのではないだろうか?
比企氏の家督は比企尼の猶子となった比企能員が継承し、その兄弟にあたる朝宗は能員と共に頼朝に臣従して治承・寿永の乱に参加。何度か頼朝の使いとして上洛している。木曾義仲滅亡後、北陸道に守護の前身である勧農使として派遣され、若狭国、越前国、越中国、越後国の庄を沙汰している記録が見られる。(勧農使は建久2年(1191年)以前に免じられている)元暦元年(1184年)8月、源範頼の平氏追討軍に従軍。文治2年(1186年)頼朝と対立した源義経の郎党を探索、文治5年(1189年)奥州合戦に従軍。
建久3年(1192年)、美貌であった娘の姫の前が北条義時に見初められて妻となり、義時の次男朝時、三男重時を産んでいる。のちに孫の朝時が越中・越後国の守護となり、母が比企一族とされる島津忠久が越前国の守護となっている。建久5年(1194年)2月、北条泰時の元服式に出席。同年12月、越前国での領地横領の訴えを起こされている記述を最後に、朝宗は『吾妻鏡』の記録から消えている。
建仁3年(1203年)9月、比企能員の変が起こり、比企一族は朝宗の聟である北条義時率いる大軍に攻められて滅亡するが、殺害された一族の中に朝宗の名は見られない。
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更にこの北条重時、政恒法師への使者を送っている。
この部分、以前のものよりも少しだけ長い文章が見つかったので、ココに留めておこう。
ここでは、藤原定嗣という人物が重時の使いと政恒法師の間にいたことがわかる。
この定嗣という人物は葉室定嗣であり、娘が勧修寺流の吉田大納言経長に嫁いでおり、息は定房である。
そのような葉室定嗣が三八歳の時に仲介の役目をしている。 … 政恒法師、一体どのような人物だったのだろう。
葉室定嗣は、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めていた。