九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

比企朝宗

2020-11-21 | 下河辺氏

比企朝宗に注目したい。
この方はwikipediaによると、越前に関係がある。
しかも11月17日に書いた記事の【河越重頼・河越尼(比企尼の次女)から下河辺政義の室となった女性と源義経の室となった郷御前という女性が生まれ、その下河辺政義の息が時員。時員は野本基員の養子となった。】の部分とも関係してくるかもしれない。
野本基員の息が下河辺時員で、祖母が河越尼であり比企尼の次女であり、その野本氏が斎藤氏の氏族であったとすると、この比企氏も関係してくるのではないだろうか。斎藤氏との接点であった可能性もあるのではないだろうか?

比企氏の家督は比企尼の猶子となった比企能員が継承し、その兄弟にあたる朝宗は能員と共に頼朝に臣従して治承・寿永の乱に参加。何度か頼朝の使いとして上洛している。木曾義仲滅亡後、北陸道に守護の前身である勧農使として派遣され、若狭国、越前国、越中国、越後国の庄を沙汰している記録が見られる。(勧農使は建久2年(1191年)以前に免じられている)元暦元年(1184年)8月、源範頼の平氏追討軍に従軍。文治2年(1186年)頼朝と対立した源義経の郎党を探索、文治5年(1189年)奥州合戦に従軍。

建久3年(1192年)、美貌であった娘の姫の前が北条義時に見初められて妻となり、義時の次男朝時、三男重時を産んでいる。のちに孫の朝時が越中・越後国の守護となり、母が比企一族とされる島津忠久が越前国の守護となっている。建久5年(1194年)2月、北条泰時の元服式に出席。同年12月、越前国での領地横領の訴えを起こされている記述を最後に、朝宗は『吾妻鏡』の記録から消えている。

建仁3年(1203年)9月、比企能員の変が起こり、比企一族は朝宗の聟である北条義時率いる大軍に攻められて滅亡するが、殺害された一族の中に朝宗の名は見られない。

===*===

更にこの北条重時、政恒法師への使者を送っている。

この部分、以前のものよりも少しだけ長い文章が見つかったので、ココに留めておこう。
ここでは、藤原定嗣という人物が重時の使いと政恒法師の間にいたことがわかる。



この定嗣という人物は葉室定嗣であり、娘が勧修寺流の吉田大納言経長に嫁いでおり、息は定房である。

そのような葉室定嗣が三八歳の時に仲介の役目をしている。 … 政恒法師、一体どのような人物だったのだろう。
葉室定嗣は、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めていた。



コメント (7)
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昨夜の記事の間違い、訂正します!! すみません!!! + 下河辺・益田行幹に関する系図

2020-11-17 | 下河辺氏

【特に義経の正室(郷御前)とは兄妹の関係と成るのではないだろうか?】の一文は間違っております。

義経の正室(郷御前)とは 叔母と甥の関係です。
そして、河越尼が野本(下河辺)時員の祖母に当たると思います。

整理すると、
河越重頼・河越尼(比企尼の次女)から下河辺政義の室となった女性源義経の室となった郷御前という女性が生まれ、
その下河辺政義の息が時員
時員は野本基員の養子となった。と成ると思います。

失礼いたしました~~♪

益田氏(下河辺・益田行幹)
藤原秀郷の系である。
https://books.google.co.jp/books?id=9_D6dNY4AlMC&pg=PP606&dq=%E7%9B%8A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E5%B9%B9&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjOkYDYqojtAhWCGKYKHXOKD9UQ6AEwAHoECAYQAg#v=onepage&q=%E7%9B%8A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E5%B9%B9&f=false











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野本氏の祖は藤原利仁 野本時員は斉藤時頼と共に瀧口であったそうだ。

2020-11-16 | 下河辺氏

野本・利仁神社 その周辺




中臣(藤原)鎌足 - 不比等 - 房前(藤原北家の始祖)- 魚名 - 鷲取 - 藤嗣 - 高房 - 時長 - 利仁 - (斎藤)叙用 - 吉信 - 伊博 - 為延 - 為頼 - (竹田)頼基 - (片田)基親 - (野本斎藤左衛門)基員 ‐ 時員・時基 ‐ 時秀・時名 ‐ 行時






wikipediaによると、

基員は御家人として源頼朝の信頼を受け、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した。

基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子の時員を養子とした。時員は『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年 - 1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、野本の隣の押垂に住して押垂を名乗り押垂氏の祖となった。

野本氏は13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし五味文彦は、『吾妻鏡』における基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂(へんさん)された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことと推定している。

このことを裏付ける事実として、『吾妻鏡』の原本や後の写本(北条本)が存在した金沢文庫(現在の神奈川県横浜市金沢区)から、北に3キロメートルほど離れた神奈川県横浜市金沢区富岡には野本氏所有の土地が今も多数残っており、古くからこの地域の大地主であった。野本氏の菩提寺である持明院には、持明院開祖の墓地の近くに野本氏の先祖代々の墓石が多数存在し、中には非常に古い年号の墓石が残っており、この地域に古くから野本氏がいたことは間違いない。また、富岡にある波除八幡と呼ばれる富岡八幡宮 (横浜市)(東京都江東区富岡にある富岡八幡宮(深川八幡)の元になった神社)などには、「応長元年(1311年)5月18日、突如大津波に襲われて長浜千軒は一夜にして海中へ呑込まれ、助かった者が長浜から富岡や氷取沢などに住み着いた。」という伝承が残っており、長浜は金沢文庫と富岡の中間に位置し、応長元年の大津波があった年代からも『吾妻鏡』編纂時期(1300年ごろ)に野本氏が金沢文庫の近くで生活していた可能性が高く、そうであれば五味文彦が推定した『吾妻鏡』の編纂者との関わりがあったことと矛盾しない。

ーーー☆ーーー
…とある。

斎藤氏の中に野本氏がいた事がわかる。
基員に子がいなかったので、一人は笠原親景の子を、一人は下河辺政義の子を養子とした。
時員は斎藤時頼とともに安徳帝即位時に中宮徳子を給所として貢進された瀧口である

という事は、平氏の配下にいたのであろう。

その中宮徳子こそは、建礼門院(けんれいもんいん)であり、安徳天皇の母(国母)であった。
徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。
(父は平清盛、母は平時子。)母の時子は二位尼(にいのあま)である。

因幡国の冨城郷のあった場所の近くに安徳天皇陵ともいわれている場所がある。
そこが岡益の碑でもあるわけなのだが、まさにそこを守るかのように冨城氏はそこに住んでいたのである。
なぜか地図では冨来郷となっている。 冨城ではなく冨来。




不思議な事と思う。
中原太郎左衛門尉経久、安徳天皇の近くにいたのであろうか?
まだ10歳くらいの時のことになるので、活躍していたのはその父、中原橘次経任の時代と思う。

二位尼は平時信の娘であった。時信とは「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」の時信ではないのだろうか?






横道にそれるが、其の斎藤時頼には哀しい物語がある。「成人した後に父と同じく重盛に仕えた。」 とある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%99%82%E9%A0%BC



追記 
下河辺政義「平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。名は政能とも。後に益田氏を称す。」


野本時員
父:下河辺政義
母:河越重頼の娘
養父:野本基員(1140-1232)
室:不詳
男子:野本時秀
男子:野本行時
男子:野本時成
男子:野本貞頼
兄弟に押垂時基

込み入ってくるが、野本時員の母が河越重頼の娘であることにより、(娘の母親である河越尼は比企尼の次女)比企氏とも関係ができる。
特に義経の正室(郷御前)とは兄妹の関係と成るのではないだろうか?訂正、次の記事に有。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%B6%8A%E5%B0%BC

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小川氏  江州中原氏の出であり、且つ下河辺氏であった! 

2020-05-14 | 下河辺氏


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ty_ogawa.html

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%B0%8F


今日は小川氏・小河氏を調べていた。
すると、小河氏は水野氏につながっていく。
水野氏は大和宇陀松山藩・丹後柏原藩の九里(つまり私の曽祖父の系)に二度ほど養子に入ってくれている氏である。

===*===
太田亮 国立国会図書館デジタルコレクション 『姓氏家系大辞典』 1巻 姓氏家系大辞典刊行会、1936年、862-863頁。
同書では下河辺氏を桓武平氏としているが、これは誤りで、藤原秀郷流。

…とあるが、誤りではなく、どこかに接点があったのではないだろうか?



江州中原の成行の系の「小川氏」。九里氏のすぐお隣。近い処にいる。
下河辺氏が江州中原氏でもあり、小川氏へとなっていくのならば、
太田氏・小山氏も江州中原氏が入っている可能性がある。
そこに「紀氏」が関係しているのだと思う。

秀郷流だから、足利氏(藤原姓)も含まれている。
将軍家足利氏ではなく、藤原姓足利氏のほうが九里の出自に近いようであるが…

===*===
memo

今気になっている人物

佐渡源太重実
中江与右衞門惟命=中江藤樹

近江国神崎郡小川村
近江国高島郡小川村
九里宇右左衛門
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下河辺政義 益戸四郎左衛門尉政義

2020-05-13 | 下河辺氏

「益戸」は「益子」だとすると、下河辺氏も紀氏なのかもしれない。
とすると、小山氏にも宇都宮氏にも、更に太田氏にも、源頼政にも近い。
紀氏であり、義経にも通じている。

益戸氏(益子・増子・猿子氏)

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