九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

建武2年8月2日(1335年)の出来事 西園寺・日野・三善 誅される

2018-02-07 | 日野氏

建武2年8月2日(1335年)
関東申次の役目を預かっていた西園寺家は鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された(ただし、大叔母禧子との関係から間もなく権大納言に復帰している)。
建武元年(1334年)に公宗は地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、北条高時の弟である泰家を匿っていた。
2人は後醍醐天皇を西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させることで新政を覆そうと謀略した。

だが、異母弟の公重の密告で計画が発覚し、日野氏光(資名の子で、公宗の義兄弟にあたる)らとともに逮捕され、出雲国へ配流される途中に名和長年に処刑された

西園寺と日野は義理の兄弟〔妻が日野名子(日野資名の娘)〕で、三善は西園寺家の家司だったのではないだろうか?


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柳原資綱 量光 (メモ)

2018-02-06 | 日野氏
日野俊光の息
日野資名、日野資朝、資明、賢俊

この資明が柳原氏の祖である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/柳原資明

その息 忠光
1334-1379 南北朝時代の公卿(くぎょう)。
建武(けんむ)元年生まれ。柳原資明(すけあき)の子。蔵人頭(くろうどのとう)などをつとめ,康安元=正平(しょうへい)16年参議兼左大弁となる。北朝につかえ,後光厳(ごこうごん)院の執権,評定衆をつとめた。権(ごんの)大納言,従一位。永和5=天授5年1月19日死去。46歳。法名は道寂。

その息 資衡
1363-1405 南北朝-室町時代の公卿(くぎょう)。
貞治(じょうじ)2=正平(しょうへい)18年生まれ。柳原忠光の子。左小弁,蔵人頭(くろうどのとう)などをへて,嘉慶(かきょう)2=元中5年参議となる。応永10年権(ごんの)大納言にすすみ,11年出家した。正二位。応永12年12月死去。43歳。

その息 行光
(正三位権中納言) 明徳4(1393)年 ~ 嘉吉3年3月12日(ユリウス暦:1443年4月12日)
応永27年壬1月10日(ユリウス暦:1420年2月23日)任参議。
正二位・権大納言。

その息 資綱
[ 応永24(1417)年 ~ 明応10(文亀元)年後6月27日(ユリウス暦:1501年8月10日) ]
忠秀男。母日野西資国女。
文安6年3月28日(ユリウス暦:1449年4月20日)任参議。
従一位・権大納言。
※系図纂要によれば、本名資重。
※生年は、没年齢を83歳として逆算。系図纂要此同。
※公卿補任の最終年条の年齢は84歳だが、「去年七月廿八日以後下向丹州家領。於彼所薨。(八十三才云々)」とある。 系図纂要の没年齢は83歳。

その息 量光(本名尚光)
[ 文安5(1448)年 ~ 永正7年8月18日(ユリウス暦:1510年9月21日) ]
資綱男。法名・明寂。 室町後期の公卿。初名は量尚・尚光、法名を明寂。権大納言従三位に至る。永正7年(1510)歿、63才。
文明7年正月28日(ユリウス暦:1475年3月5日)任参議。

※生年は、公卿補任の没年齢63歳から逆算。系図纂要此同。


その息 資定
[ 明応4年11月6日(ユリウス暦:1495年11月22日) ~ 天正6年3月30日(ユリウス暦:1578年5月6日) ]
量光男。法名・紹寂。
大永8年4月13日(ユリウス暦:1528年5月1日)任参議。
天正6年3月27日(ユリウス暦:1578年5月3日)出家。
従一位・権大納言。


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西園寺家と一条家、そして日野家、中原家

2018-01-18 | 日野氏

日野流藤原兼光女が一条高能(能保の息子)の妻となっている事を以前述べたが、一条全子(能保の娘)が西園寺公経に嫁いでいる。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/能保

その公経の孫公相(左大臣)の妻は中原師朝の娘(八十前)で、

https://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺公相

そして、八十前の息子西園寺実兼のwikipediaには「実兼の生母は大外記中原師朝の娘・八十前であるが、八十前の生母は琵琶西流の藤原孝道の娘・讃岐局である。実兼は母親とその実家を通して琵琶の手ほどきを受けたと考えられる。また、実兼の息男・兼季の生母は同じく琵琶西流の藤原孝泰の娘・従三位孝子であるが、孝泰の父は藤原孝道の息男・孝時である。兼季は琵琶の達人として後年活躍することになるが、父実兼同様に琵琶西流の女性達から琵琶の伝授を受けたことの影響が大きかったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺実兼

つまり、中原師朝の妻は藤原孝道の娘(=讃岐局)であったということである。




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日野家と法界寺

2018-01-13 | 日野氏
藤原有国橘仲遠の娘である徳子の息子が資業(すけなり)である。
その資業が出家した。法名素舜。日野山庄に隠居し、延久2年(1070年)8月24日[1]薨去。享年83。日野法界寺薬師堂を建立した。(wikipedia)

法界寺(ほうかいじ)は、京都市伏見区日野にある真言宗醍醐派別格本山の寺院。山号を東光山と称する。本尊は薬師如来(秘仏)、開基は伝教大師最澄とされている。藤原氏の一族である日野家の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる薬師信仰の寺であるとともに、国宝の阿弥陀堂と阿弥陀如来像を有することでも知られる。(wikipedia)

その資業の次男実綱。実綱の三男有信、四男有定(有房)。
有信の長男が実行で、資業の曾孫となる。
実行の次男が資長で、母親は高階重仲の娘である。

資長から4代目が資宣で、その息俊光となる。俊光の母は「賀茂能継の娘」である。
この賀茂能継は見たことのある名前である。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/04fb4b8e4243192c72e25baca2991d0b

上記の系図は崩れかけているのでメモを書いておこう。
仕実ー忠頼ー成真ー成助ー成繼ー成久ー保久ー資保ー能久ー能継…娘が日野に嫁ぐ。

能久~氏久‐久世―五男経久

この能久のコトバンク

1171-1223 鎌倉時代の神職。
承安(じょうあん)元年生まれ。賀茂資保の子。上賀茂神社の権禰宜(ごんのねぎ)から建保(けんぽ)2年(1214)神主職となる。後鳥羽(ごとば)上皇の近臣で,承久(じょうきゅう)の乱では幕府軍とたたかった。このため六波羅(ろくはら)に捕らえられ,太宰府に流罪となった。貞応(じょうおう)2年6月10日死去。53歳。

○承久の乱後神主賀茂能久の所領没収せらる(史料纂集古文書編 第22回配本 賀茂別雷神社文書1)

「足利義澄」の正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)であり、下記の資料を見ると日野高光の名前が書かれている。



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