九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原久経と中原経久と誤記なのか、あえての反転なのか。本当は同一人物?

2024-04-05 | 九里【まとめ】
以前にも、中原久経と中原経久の混乱(反転)は眼にしていたのだが、限られた資料だけだと思っていた。
ところが、デジタルの資料に中原経久が続々と登場してくると、書き間違いではなく、そちらが正しかったのだろうか?と不安になってくる。

吾妻鑑では「中原久経」で統一されている(確認済)が、下記の大日本人名辞典では、中原経久が先に近藤国平と登場し、院庁牒を賜わり大宰府へは中原久経となっている。
親子か、はたまた兄弟か、はたまた知人程度か…それとも同一人物か…











これだけたくさん出てくると、藤原邦通とともに中原経久が居たような気分になる。

二人が同時期に鎌倉幕府にやってきて活躍していたか、一人が久経と経久を使い分けていたのか、それとも書き間違えか…悩める。

近藤国平と共に院宣を賜り活動していたのが中原久経と吾妻鑑にあったためにそれを信じてはいたのだが、、、、不安がよぎる。

この人の諱が【経久】であり、系図には【経久】と書いたという可能性もあるかもしれない。
もしくは、経久と久経は兄弟という可能性もある。

そのために久経の系図が出てこないのだろうか?
しかし、そうであるならば、経久の註に源朝長と異父兄弟…などと記載があってもよいではないか。

*****memo*****

吾妻鑑 治承四年(1180年)7月
治承四年(1180)十月小十七日丙申。爲誅波多野右馬允義常。被遣軍士之處。義常聞此事。彼討手下河邊庄司行平等未到以前。於松田郷自殺。子息有常者在景義之許。遁此殃。義常姨母者中宮大夫進〔朝長〕母儀。〔典膳大夫久經爲子〕仍父義通就妹公之好。始候左典厩〔義朝〕之處。有不和之儀。去保元三年春之比。俄辞洛陽。居住波多野郷云々。

この部分の解釈が、どうしても朝長の母が、久経の子と為る…に読めてしまうが、久経が朝長の父とするとどう考えても1100年あたりに生まれた人物となり、そうすると1185年の御使の時には85歳あたりになってしまう。

そうではなく、
 
典膳大夫久經爲子 久経子と為る(なる)…と読ませるのではないだろうか?
その方が、自然ではないだろうか?
もしくは、久経の息か甥か孫の経久が、久経となって活躍したかである。

*****

吾妻鑑は、誰かの日記や、いくつもの資料を見つつ書いたと思う。
その結果、中原久経で統一されたと思っている。
玉葉も久経である。

しかも、吾妻鑑の担当者(三善氏?)は、みな、中原久経の名やその顔をも知っていて中原久経にしたのではないか?
久経の親戚や友人も、また息や甥なども「吾妻鑑執筆者たち」の近くにいたかもしれない。

もしくは、時代も流れ…本人には会った事もなかったが、経久と久経は同一人物であろうと見当を付けて統一したとか?

この問いには、何か新たな情報が発見されない限り謎のまま…である。

近江国御家人の経久が私の想定している1175年よりも30年ほど前に生まれていたとし、1145年に孫が生まれるのが40年後と想定し、孫の時代に唐崎で合戦はあっただろうか。(孫の秀重は唐崎合戦で討死と記載がある)

1191年に佐々木定綱・息の定重が延暦寺の神鏡を壊してしまい…という事件があった。もしもそれが該当するならば、孫は6歳くらいとなってしまう。

それではあまりにも適合しないので、今度は逆算してみよう。
1191年に中原秀重20歳として、1171年に生まれた人物の祖父の年代
となると、1130年代に生まれて、、、是では源朝長・中原久経の母親の年代周辺と同様になってしまう。

この場合は冨城氏ではなく、河守荘地頭でもなく、沙弥蓮忍でもないことになる。

今までの仮想が、ガラガラガラ・・・と壊れていく。

更に和歌山の系図との整合性が危ぶまれてしまう。

…と不安材料ばかりが目についた。
が、








吾妻鑑の写本の典膳大夫久経を見て、やはり経久は印字のミスかもしれないと思い返している所である。
先ほども書いたが、あの【玉葉】にも久経となっていた。



*****

私は中原久経と中原経久の系が繋がっていると思っているが、真実はこの先何か奇跡が起こらない限りわからないような気もする。

近江国御家人井口中原系図の経久は、経行の系につながっているのだが、どうしても成行の系とどこかで婚姻関係か養子関係かあったものと思われてならない。(経行と成行は兄弟である。)

その謎の糸口が大江久兼と近江国御家人の系図の中原景康ではないか?思うのだ。。

なぜ、沙弥蓮忍の寄進の文書に「久兼」の文字があったのか。

その中原景康は中原有安の養子でもあり、有安は清原頼業の弟と言われている。(有安は中原師元の養子となり中原姓を、その跡は出納の平田家となっていく。)
景康は大江久兼の孫久康を養子として迎える。

つまり、中原有安=中原景康=大江久兼の孫久康

中原師元=中原有安(実・清原氏)=景康
大江久兼ー久家ー久康
中原景真ー中原景康=大江久康

領主久兼の河守荘の山林を観音寺に寄進…地頭沙弥蓮忍が事務処理?をしている。

では、なぜ沙弥蓮忍が河守荘の地頭となったのか…大江久兼の周辺に居た沙弥蓮忍に白羽の矢が立ったのは、久兼の相続者が此の者がよいと藤原頼経の近臣に奏上したのではないだろうか。久兼はすでに他界していたと思う。

因みに私は、河守荘の蓮忍と冨城中太蓮忍(息か甥か孫の常忍同行)も同一人物とする。
その常忍の母は頼経の乳母であったこともある女性と言われている。
沙弥蓮忍の妻ヵ妹ヵ娘が乳母であった可能性もあるかもしれない、と思う。

その辺りも、今まで調べた限りでは曖昧模糊のままである。

なかなかはっきりとしないままだが、どなたか興味を持った方が、この先を進めてくれるだろう!と期待している。

*****

この春から「先祖の歴史の世界」から少しずつ「音楽の世界」にシフトしていきたいと思い、ピアノを防音の効いた部屋に移し、楽器の状態もかなり悪いためメンテナンスをし、・・・と思っております。

本当なら好きな古い音色の輸入ピアノにしたいのです。
しかしそれは高価のため「上手になった時の目標」に定め(要はニンジン)
とりあえず初心に帰ってやさしい曲から総復習!!としたいです。

三日坊主に終わらないように!
上手くなった際には、動画にもアップしたいなぁと夢見ています。


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昨日の記事の訂正。清兼は永江頼隆よりも2世代くらい過去の人物である。

2024-03-21 | 九里【まとめ】
昨日の記事の訂正があります。

清兼は永江頼隆よりも2世代くらい過去の人物でした。スミマセン!

やはり【武蔵少掾】から考えなくてはいけないと、襟を正して出発。



武蔵少掾 中原清兼 久安三年 1147年




永江蔵人大中臣頼隆


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久経の母方の祖父であったと思われる【中河辺清兼】 佐藤氏・後藤氏を俯瞰的に見てみるー九里太郎のはじまり

2024-03-20 | 九里【まとめ】




しっかりと【清兼】が載っている奥羽御館系図があった。
こちらの佐藤清兼が「中河辺清兼」であった可能性もあると思う。
が、中原清兼と同一人物となるのだろうか?

佐藤氏の系図は(この上に貼った2つの系図もそうだが)、皆同じではなく違いがある為、どれを信じればよいかはわからないが、奥羽御館系図によって仮説を立ててみようと思う。

この清兼が中河辺を称したとすると、どこの河辺であろうか。
武蔵少掾であった清兼。河越荘内の河辺(川辺)庄かもしれないのだが、、、此処に新しい情報が入ってきた。

松田となった波多野義常の配下に大中臣頼隆がいたことを知った。
コトバンクによると
【永江頼隆 ?-? 平安後期-鎌倉時代の神職。
「吾妻鏡」によれば,伊勢神宮神職の子孫で大中臣を名のる波多野義常からはなれ,治承(じしょう)4年(1180)挙兵した源頼朝にしたがい山木兼隆攻め,石橋山の戦いで戦勝祈願などをおこなったという。 】

大中臣頼隆の息か娘聟が「惟重」・「由利八郎惟平」であり、惟平は由利庄を賜わっている。




下記の地図によると20番が由利庄 そのすぐ北隣 25番に川辺庄がある。
佐藤清兼が大中臣氏の関係者として【川辺庄】を領していたとすると「中清兼」となり、中・河辺・清兼となっていた可能性もあるかもしれない。


野口実氏の論文内の地図による



此の大中臣は中原と称している者もいた。
現に「中惟重」は「中原惟重」として吾妻鑑に登場しているのである。




一番遠く、あり得ないかな?と思っていた出羽国の河辺郷であったかも…と思い、もう一度大中臣の系図を観た。

大中臣の略系図には所領の註があり、細かに描かれている。
大雑把にわかる部分だけを書いてみた。

相州 六浦庄 保元二年 実経〇之
武州 方屋木郡  実久 ○○四郎○○
常陸國 那珂西郷 一門面々
周東郡 〇〇
摂津國 葦屋庄 地頭公文〇職(兼職?)
丹波國 佐々岐庄下方号金山 那珂弥三郎五郎 等 令(?)知行之
同國  庵我庄 実久知行
播州  穂積庄 但し○○彦五郎○○
周防國 冨海保
尾張国 門間庄 飯高妻知行之
志摩國 和貝庄 那珂又太郎入道 子息 〇知行
依八条女院〇 山城國 称八開~~~?
       阿智庄 大河原庄 小称八間 南称八間 山田南庄 菅谷草畠
       駒寺 笠置寺
河内國 法禅寺
    幷国分寺 那珂七郎経久○○知行之
筑後國 阿地坂庄内 稲吉郷 ~~?
奥州会津郡内 塚原 中三郎○○ 知行之
安芸國 奴田庄内 新羅郷 那珂藤井六郎 七郎 等知行之
同國 日高嶋 
上野國 吾妻郡内 今里村 那珂彦五郎妻 知行之
越後國 三条庄 大槻庄 小河山
出羽國 雄勝郡西 アウナイ郷内 アサイ○○
阿波國 多〇保 新居郷
美濃國 〇飼庄(猪飼?)一分







この系図には頼隆も由利郷他も見当たらなかった。



渡辺滋 著 ↓  紀氏と大中臣氏のつながりを示す系図もこちらより


様々な本では 那珂 金山経久(五郎三郎)がこの大中臣略系図を書いた主で、1309年に書かれた…とあるが、経久の曽祖父である実久が頼朝と重なる年代で、経久は曾孫の代となるため、1300年代までには至らないと思う。
頼朝と関わり始めてから没後の1199年~1207年までが活躍期である。

JLOGOSの那珂東郡

【 那珂東郡(中世)
「右大将家御代ニ常州那珂東西両郡此外数ケ所給之」と見え,那珂実久に与えられている(桐山文書)実久は源頼朝側近の有力御家人で頼朝死没直後正治元年正月上旬から承元3年まで京都守護職で,丹波・摂津・山城国の守護人でもあったという(同前)しかし,実久は北条氏と円滑な関係になく,同系図に「一 同(那珂)東郡〈今闕所〉」と見えるように,13世紀初頭当郡の地頭職は没収され,北条氏領となったと思われる一方,文治3年10月29日には奥郡に対して源頼朝家政所下文が発給され,「鹿嶋毎月御上日䉼籾」として当郡が13石9斗を負担することが定められている(吾妻鏡)】

1207年迄は生きていた人物と考えると、1309年に書かれた系図は102年後なのである。
実久が1199年に50歳で守護職を賜ったとしても1149年生まれとなり、1309年に系図を書いた時は160年後となるのである。
実久から三代経て経久で、一代25年としても75年。

1149年+75=1224年に経久が生まれるあたりとなる。
しかし、河守御荘の地頭となっていたのが1239年。
15歳で地頭はありえないのでは?と思うので、1209年位に生まれたかもしれない、と仮定する。

河守御荘の蓮忍入道(1239年)
因幡国富城郷の中太入道法名蓮忍(1250年前後)
金山保の大中臣那珂経久(1280年くらいか?)


1257年に83歳で歿した三崎庄の片岡氏の系図にある経久1174年生は大中臣氏の経久ではないことになる。別人!

因幡国の冨城中太入道蓮忍も片岡氏の可能性がある。
なぜならば1253年にはすでに高齢になっていると思われ、
その因幡冨城郷の相伝を富木常忍にしている書状が残されているからである。

丹波国 河守御荘は沙弥蓮忍である。
その後地頭識は尾藤氏となる。
やや、大中臣氏よりの立場だが、どちらかというと略系図の大中臣ではなく、伊勢神宮と関係する方ではないか?と思われる。(大中臣永江頼隆との関係)
大江(中原)久兼の所領が沙弥蓮忍に依り観音寺へ寄進されている。
此の久兼との関係は、沙弥蓮忍(経久)が近江国御家人の中原氏であることを思わせる。

金山保は河守御荘のすぐ近くである。
大中臣那珂経久である。
大中臣略系図には、経久の註に「蓮忍」の文字はない。
経久が系図を書いた主とすると、1280-90年位に系図を書いたと思われる。

整理しよう。
母の父 中河辺清兼
中原清兼は1147年に武蔵少掾となっている。
中原清兼は佐藤・後藤の系に存在し、その後その一族より尾藤氏がでてくる。

大江山城介久兼
主なる大江氏の系図には見られない名前だが、吾妻鑑人名総覧によると、大江久俊ー久兼となる。
その久兼の息は久家 孫は久康 となり、久康は中原景康(中原有安の養子)となった。
上記の中原景康は近江国御家人の系図内にいる景康ではないかと思う。
そこで、近江国の中原氏と大江久兼の一族とご縁ができる。

領主が久兼である丹波国河守御荘。その地頭職として中原経久を赴任させ、管理を託す。(相伝であった可能性もある)

その後、中原経久は因幡国在庁官人として赴き、冨城郷の地頭となる。(すぐ近くに岡益の碑がある。)

大江氏と中原氏はそれ以前よりかなり近い関係でもある。
大江広元が京よりやってきたのも、中原親能がいたからであろうと思うし、其の親能は秀郷流の中で育ってきた人物である。

近江の中原経久の父か祖父または叔父の久経もまた秀郷流の中で育っていたと思われる。
その関係から、鎌倉幕府とも大江氏とも近い。
さらに、松田義常の配下にいた伊勢神宮の大中臣氏。
義常の母は、清兼の娘であり、久経の母と姉妹である

また、伊勢神宮の大中臣氏という事は、後に秀郷流の中から荒木田氏が輩出されるが、そことも密であろうと思われる。

久経の息か孫、または甥と思われる経久は鹿島神宮の片岡氏に入っていたかもしれず、そこに片岡常春がいたために、冷遇されていたようである。
1224年に執権北条泰時の時代となり、尾藤景綱(浄心)らも活躍しはじめる。片岡経久への冷遇も改善され、急に活躍しはじめる。

1239年沙弥蓮忍が丹波国河守御荘の地頭となり、その後因幡国の在庁官人・冨城郷地頭となり1500年代初頭に関東に戻ってくるのである。
1253年二月に経久は歿する。83歳

この人物が、九里太郎であった中原太郎経久、入道蓮忍 であろうと思う。

*****

佐藤中原清兼の秀郷流(佐藤・後藤・尾藤)(中原氏の河辺郷地頭=中河辺)
片岡常春の大中臣(鹿島神宮)…(ここが唐突だが、中原経任が養子となっていたか?)

山城介大江久兼
久兼孫の大江久康が近江国の中原景康の養子となる 
景康は経久は同じ時代に活躍期。同じ系図内。

*****

九里氏は日野氏の被官としての活躍も見えるのだが、日野俊基の家司?後藤助光もまた、九里の和歌山系図の中の人物なのではないか?と思うことに出会った。次回へ














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清原祐隆の息祐安→中原祐安(有安)→中原景康→多景康→多忠久 多景康→大江久康(久兼の実息) 

2024-03-01 | 九里【まとめ】
参考文献・論文



↓ 今まで書いてきた当ブログの中より気にかかる部分を繋げてみる。

中原有安の養子と云われている【中原景安】は多氏の養子となり楽統を継いだ。景康に養子として入った多忠久もいる。

 【大中臣景康】が元は中原景康で、多氏に養子に入ったことで大中臣になったのではなかろうか?と思っている。(想像)

大江久兼の息(または孫)の久康は中原景康の養子となる。

この部分こそが久兼と蓮忍入道とを繋げている!

景康は近江国の系図にいる人物である。

つまり、清原頼業の弟でもあった中原有安
有安に養子として入った中原景康(景安)
多氏となった景康
多景康に養子として入った大江久兼の息久康

大江久兼の所領を相伝した中原中太蓮忍(九里の祖・九里太郎経久)…丹波国河守御荘

清原・中原・大江・多氏が交錯しているのである。

さらに、蓮忍の祖父と思われる久経は源朝長の異父兄弟であったため源氏とも近く、母親は藤原秀郷流・宇都宮中原氏ともごく近い

さらに、千葉氏との婚姻関係もあったと思われ、桓武平氏ともつながりを持つ。そのため経久の甥か息であった常忍が千葉頼胤の執事的存在となる

さらに大中臣氏(多氏)であったためか、三崎荘の片岡氏に経久の父経任(経政)が入っている(ここは想像)

近江国系図の中にいた中原景康
系図にはその名がみえず、賢清という法名か僧名ではないか?と思われる中原久経
大江久兼
多氏系である大中臣
…を繋ぐ糸は、真ん中に「経久」が存在することでつながる。

河守御荘の「久兼」がそれを繋げてくれたのではないか?と思う。

こだわっていた部分が過不足なく繋がった感があるが、また疑問が生まれてくるかもしれない。

今日のところは、初めて手ごたえがあり、満足!である。


 
コメント (2)
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九里経久の時代から経重・経季・常忍の時代へ (1)

2022-03-12 | 九里【まとめ】

経久(=蓮忍)は、1250年前後に因幡国から冨城蓮忍と冨城常忍が下総の千葉氏の文官として帰国したところで幕を閉じる。

蓮忍は1180年以降の生まれと思われるので70歳前後である。

 

次の時代は長男経重である。

経重が冨城を名乗っていた形跡も何も残されていない。九里左衛門経重!である。

同時代の「経重」という名前は1240年に「源経重」が文書に出てくる。

また「平経重」も若狭国太良庄のことで文書が出てくる。

文書が残るほどの活躍をしていた人物かどうかはわからないが、可能性は残される。

個人的には太良庄の経重であったなら、面白いなぁ…と思うのだが、、、不明である。

「渋谷経重」も同時代あたりにいるが、系図には記載はない人物だそうである。

 

二男の経季に関しては下記に添付したが、寛喜三年(1232年)に登場する「参川前司経季朝臣」だったら、面白い!

右馬允経季 と系図にある。この経季は、近衛兼経の付き人?側近?

岡屋関白)岡屋関白記 ↓

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/23/pub_kokiroku-okaya/ 

 

 

 

常忍の親戚とおもわれる中原能兼(藤能兼・橘朝臣能兼?)の文書の裏が広橋氏の文書となっており、広橋家の家司であったと思われるのだ。(1275年)本当は広橋氏の文書が正しい面で、能兼の文書が紙背となる。(広橋兼仲)

 

同じように、中原にも近衛家の家司がいたのではないだろうか?

室町時代・戦国時代にも、九里氏は近衛氏の家臣であったように。

 

経久の息は、長男経重・二男経季・五男常忍 以外はわかっていない。

そもそも、五男の常忍も息なのか、はたまた甥なのか、もわかっていない。

が、蓮忍と共に因幡国にいたのは五男の常忍なのだ。

常忍は「冨城」から「富木」となり、千葉氏の許にきてから日蓮の庇護者となっている。

それはだいたい1250年前後のことである。

 

 

…以上のようにアイマイモコの九里氏の歴史、なんせ今のところ系図は二つで、一つは九里の祖から五代分しかない。

和歌山の方の系図も一部分しかコピーをさせてもらえなかったそうで、本系図を探している。

そちらは、熊野に住している家で、熊野本宮の前坊の僧、または、御師、であったようである。

熊野とのご縁の前に、六角佐々木氏の家臣となった系があり、近江八幡の九里氏となり、また京極佐々木氏に残った方の九里は、彦根付近の九里、多賀大社付近の久徳氏なったのであろうと思う。

また、この和歌山の九里の兄の系が小堀氏となっており、やはり湖北の小堀氏とつながっているのではないかと思うのだ。

 

江戸時代初期に加賀藩の家臣となった九里氏に小堀政一は遊びに来て、家に長逗留している。寄付の依頼もされていたようである。

以下の武家家伝小堀氏の記事に「藤原氏秀郷流」と伝える…とあり、やはり近い祖のように思う。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kobori_k.html

 

…という事は、和歌山の系図は、秀郷から始まっているものであるかもしれない。

それ以前は藤原北家魚名流である。

因みに近衛家も広橋家(日野)も藤原北家である。

 

義朝・秀郷流の妻、秀郷流の妻の再嫁先の中原‥‥では、私の直系の九里は何故「平姓」なのだろう。

何処かに平姓との接点があるはずと思う。

それが、因幡国の長田氏とのつながりではないかと思っているのだが‥‥

その接点が、鎌倉時代に在ったのではないだろうか?と。

 

《memo》

長田氏は桓武平氏の高望流であり、

日本通信百科によると、

長田氏の実質的な祖は、致兼の子の長田致頼であり、尾張国および三河国に多くの庶家を輩出した(三河平氏)。

致頼は長徳4年(998年)に、義理の又従兄弟[5]平維衡伊勢国神郡[6]において、戦いを繰り広げたため、のちに両者とも朝廷に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際に維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出して、位階は剥奪されずに淡路国へ移郷とされたのに対して、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったため、位階を剥奪の上に隠岐国へ配流となった。3年後の長保3年(1001年)に致頼は赦免されて、従五位下に復された。

しかし、寛弘4年(1007年)の8月に藤原北家藤原伊周隆家兄弟が叔父の道長暗殺を致頼に命じていたという噂が流れていた[7]。また、『長徳の変』の際に致頼の弟の致光[8](右兵衛尉)らが伊周の郎党として、検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡していた[9][10]経緯があった。また、致頼の姉妹がすでに薨去していた伊周・隆家兄弟の父の道隆の家司である有道維広の室であり、その子で致頼の外甥でもある維能が伊周の家司であった事から、伊周らはそのつながりで、有道氏の姻戚関係である致頼らと通じていた可能性もある[11]

前述の致頼の弟の致光[8]は、勅命でおなじく前述の大宰権帥・隆家に従軍して、渡海したツングース系女真を相手に奮戦して、戦功を挙げた(『刀伊の入寇』)。

忠致の代である平治元年(1159年)の『平治の乱』でにおいて、平清盛(維衡の6世の孫)に敗れた女婿の鎌田政清の主君である源義朝義頼)の首級を、清盛からの恩賞目当ての欲にからんだ忠致は、子の景致とともに義朝を弑した(『野間の変』)。

歳月は流れて、義朝の子の頼朝が坂東地方で勢力を拡大すると、 建久元年(1190年)に亡父の仇を討つべく配下の御家人に忠致父子の討伐を命じた。しかし、忠致は頼朝に恭順の意向を示したが、かつて忠致によって亡父を騙し討ちにされた怨みを忘れない頼朝はかえって激怒して、これを許さずに忠致は子の景致と孫の清致とともに処刑されて、晒し首となり[12]、ここで長田氏嫡流は断絶した。

しかし、忠致の異母兄の親致(右衛門尉)・政致(宮内丞)父子は頼朝に許されて、土師姓大江氏一門の永井氏の婿養子となり、改姓した。『承久の乱』で戦功を挙げて、地頭・御家人に列した。戦国時代の致勝(永井直勝)の代になると、徳川家康信康父子に仕えて、三河永井氏・大浜氏の祖となった。

  1. 平致兼(公雅/垂木主膳)
  2. 長田致頼 : 致兼の子、致利・致成[13]の弟、致光[8]・致遠・入禅(僧侶)の兄。
  3. 長田重致(公仕) : 致頼の子、致行[8]・致親[14]浦野致経(葦敷致経)[15]の兄
  4. 長田致房 : 重致の子、経致・致家の弟、致通の兄。
  5. 長田行致 : 致房の子、貞致・長致の弟。
  6. 長田致俊 : 行致の子、宗致(もとむね)の兄。
  7. 長田忠致 : 致俊の子、親致・致直の弟。
  8. 長田景致 : 忠致の子、致将の弟、致宗(むねもと)・致範(致教)の兄。
  9. 長田清致

親致系(永井氏)

  1. 永井親致 : 致俊の子、致直・忠致の兄。三河永井氏・大浜氏の祖。
  2. 永井政致 : 親致の子、秀致[16]の弟。
  3. 永井致重 : 政致の子、定致[17]の兄。
  4. 永井俊致 : 致重の子、致政の弟。
  5. 永井致広 : 俊致の子、致直の兄。
  6. 永井致道 : 致広の子、 : 致政・致慶[18]の弟。
  7. 永井直致(致継) : 致道の子、致国[19]の兄。
  8. 永井道致(公臼) : 直致の子、道致[20]の兄。
  9. 永井致常(広致) : 道致の子、信致[21]
  10. 永井致正
  11. 永井吉致(重元/直吉) : 致正の子、重致の弟、致吉の兄。
  12. 永井致勝直勝) : 吉致の子、大浜直元(長田致元)[22]の弟。

脚注

 

現在の愛知県南セントレア市美浜町

尾張国春日井郡安食(葦敷)郷(現在の愛知県春日井市葦敷大字)を拠点とした。

庶家に尾張水野氏(庶家に毛受氏)など。

この系統は大浜氏・三河永井氏をのぞいて、陽成源氏満政流八島氏羽島氏)の系統と自称(仮冒)した(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年))。

致頼の祖父の良兼の異母弟の良将良文の生母が高望王の妹で、それぞれの妻が高望王の娘であり、維衡の祖父の国香王平貞盛の父)の大叔母で同時に叔母でもあった親族関係による。

現在の三重県松阪市全域

『小右記』寛弘4年8月9日条

『刀伊の入寇』で、太宰権帥の藤原隆家(藤原北家)に従った長田致頼の子の致行と同人物という(『清盛以前 - 伊勢平氏の興隆』(髙橋昌明/文理閣(改訂版)/2004年)19頁より)。

『小右記』長徳2年2月5日条

『百錬抄』長徳2年2月5日条

このときの道長は金峰山に向けて、8月2日に出立しており、13日には連絡をとるための勅使として源頼定村上源氏)が派遣されたが、その翌日の14日に道長は無事に戻ってきており、結局は致頼による暗殺計画は実行されていなかった

忠致父子は、治承4年10月14日(1180年11月3日)に駿河国の『鉢田の戦い』で、橘遠茂とともに武田信義甲斐源氏)によって、討ち取られたとする説もある(『清盛以前』(高橋昌明/平凡社ライブラリー版/2011年)。

『尊卑分脈』では、公雅の父とする良正を高望王の末子・良茂の子として、兄弟に公義致成致頼がおり、公雅は三浦氏鎌倉氏相模長尾氏大庭氏梶原氏)・土肥氏(中村氏)らの祖とする。他の説では、良兼の子に公雅を置き、致成・致頼を公雅の子とするなど系譜の混乱が見られ、系譜上の仮冒の疑いが濃い見方がある。

 

 

 

 

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近江国九里氏の鎌倉時代のまとめ

2022-03-10 | 九里【まとめ】

鎌倉時代の中原から中原氏・冨城氏・九里氏と三つの流になったのかもしれない。

其の3つの流れの基である【中原久経】自身は 藤原秀郷流・中原姓であり、源義朝の元妻が母親であったために源氏ともかなり近い。

久経の息と思われる中原政経は、一条能保の家司的存在であった。

 

一条能保は、妻が義朝の娘の坊門姫であったために、鎌倉幕府には近かった。

義朝の元妻の息久経、義朝の娘坊門姫のつながりがあって一条家の家司となったのかもしれない【中原政経】

 

そして、三左衛門事件の後、人生の最後ともいえる時期に先祖伝来の近江国【伊香郡】の案主となることができるよう、鎌倉幕府からの申し出が「葉室定嗣」を通して後嵯峨天皇になされている。(関東家人政恒法師、となっているが、私は中原政経のことと思う。)

葉室定嗣は当時38歳。

父であった葉室光親は、承久の乱後に殺されるがwikipediaによると「北条泰時は光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだ」とある。息の定嗣は、後嵯峨上皇のそばに仕えていたそうである。

 

坊門姫を育てたのは後藤実基で、京で秘かに育てられたとある。

その後藤実基もまた藤原秀郷流である。

更に坊門姫と一条能保の娘は 九條良経正室、西園寺公経室、花山院忠経室(後鳥羽天皇乳母)となったそうである。

その花山院忠経の室には、葉室宗行の娘もおり、その娘には業資王と資宗王に嫁いでいる姉妹がいた。

その業資王と資宗王の家は「白川伯王家」であり、母親は卜部基仲の娘である。

 

西園寺公経に嫁いだ坊門姫の娘。公経の父実宗の弟が藤原実明で閑院流である。

このつながりの輪の中に、中原経久がいたのではないだろうか?

その為に丹波国(丹後国とも)の河守御荘の地頭となることができたのではないだろうか?(蓮忍入道)

しかも、蓮乗が中興の祖といわれている室尾谷観音寺に寄進している。

其の蓮乗とは、実明の息であり、卜部基仲の孫ともいわれているようなのだ。醍醐寺の文書では基仲帥となってはいたが…

卜部のことなのではないか?と思っている。

 

何も証拠は見つからなかったが、周辺の事情の解明は少し進展し、政経が政恒法師であった可能性、其の政恒法師が江州中原氏であった可能性が出てきた事、一条能保の室となった坊門姫周辺とも関連している中原経久であったことがわかってきた。

 

本日からは、少し鎌倉後期から室町時代に進んでいければ…と思う。

 

 

      ほんの小さな穂先から花が咲いた!! 菜の花大好き!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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佐伯経範ー経秀ー秀遠ー遠義ー義通妹ー久経ー経任ー経久(=九里太郎 蓮忍入道)(2)

2022-01-28 | 九里【まとめ】

経範が源頼義の家臣であったとすると、その父源頼信には、経範の父佐伯経資が仕えていたのかもしれない。

源頼信の父は源満仲、母は藤原巨勢麻呂の系菅根の息元方の娘である。

という事は、佐伯波多野氏は、満仲か菅根の家臣であった可能性がある。

源頼信は石見国国司であったことがあり、其のときの目代には清原氏であったのではないだろうか?

清原頼隆の時代である。

清原の系をたどると

頼隆(979-1053)ー 石見守定隆(?ー1072)ー 定俊・定慈(1003-1054)・(養子)浄命(父:能登守 清原頼佐)

 

定慈 ー 定康(1042-1113)ー 祐隆 1080-1143 ー 頼業(1122-1189)・祐安(1123年以降ー?)

 

石見国の久利氏(記載があった年)

1063年 清原

1084年 清原則、清原正、清原近、入道学源

1126年 清原長

1169年 清原行

 

源頼信の時代に石見国とのつながりで、頼信・頼義・義家・義朝…と近いところにいた清原氏もいたであろうと思う。

佐伯・波多野氏も同じように、近くにいたのではないだろうか?

そのあたりがわかれば嬉しいのだが、どのように調べていけばよいだろうか。

頼信の母藤原元方の方の家臣が其の娘についてきた場合もあると思う。

 

源頼信の時代が藤原巨勢麻呂流・佐伯波多野・清原・中原のはじめの接点であった可能性がある様に思う。

 

以前書いた記事だが…

1028年 中原成行は平直方、次いで源頼信に従って出陣・・・江州中原氏 成行の兄弟が経行(経憲)で九里に続く系

 

多賀氏の時に調べ、書いた対応表

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ad03d58a8e1412a3b58252ae998c2d38

 

平直方にはじめは付いていたとすると、その頃東国にいた可能性が高いと思う。

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佐伯経範ー経秀ー秀遠ー遠義ー義通妹ー久経ー経任ー経久(=九里太郎 蓮忍入道)(1)

2022-01-28 | 九里【まとめ】

経範から義通に至る系図にも、いろいろな系図があるのでとりあえず「タイトル」にあげたように仮定してみようと思う。

 

webを調べてみると、義通は存在しないのでは、という説もあり、エエッである。

でも下記の系図にも顔を出しているので、いたという事にして進めようと思う。

 

下記のようなweb情報もある。

【首藤氏に山内と出てくるのは、『尊卑分脈』において、首藤資通の孫の首藤義通に、山内刑部丞と傍注されているのが最初である。】

 

公行の没年が1033年5月1日 

公光は1047年まで働いている記録があり、1057年に歿している。

経範は、1063年没である。

遠義は1082年生-1155年

義通は1107年生‐1167年没

義通妹が1110年~1120年頃生ーと思われる。(義朝の妻)

佐藤の西行は1118年生-1190年没である。

 

 

 

もっと他の系図も必要かもしれない。

 

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中原久経の祖父は?  武蔵少掾 中原清兼 ではないだろうか? 考察

2022-01-14 | 九里【まとめ】

久経の実父は菖蒲氏というのは【ちょっと飛躍しすぎ】なので、説明をしていこうと思う。

考えながら書いているので、間違いもあると思う。でも案を書いておかないと忘れてしまうので、書き留めておこうと思う。

久安三年(1147年)↓

 

波多野義通の妹が産んだ【源朝長】が1443年生まれである。

 

1147年に武蔵少掾となっているのは、中原清兼で、この人物が「中河辺清兼」なのではないだろうか?

この中河辺の「河辺」は、

1186年の初見だが、武蔵入間 河越荘内にも河辺郷がある。

下河辺の線も考えたが、武蔵少掾とあったので、河越の方ではないかと思う。(河辺郷)

 

また、1147年、頼朝が生まれた年である。

義朝の1160年(晩年)に、久経は右筆として仕えていたようである。(=京にいたのか?)


武蔵少掾の中原清兼の娘が久経の母。

久経の母は、義朝との離縁後に再嫁している。

姉がいる相模にやってきたとは考えられないだろうか?

 

久経の祖父は、中原清兼とし、実父は?

久経の実父が菖蒲氏であったのではないだろうか? 

波多野義通の弟に位置する菖蒲実経

波多野義通の妻に中河辺清兼の娘。(姉)

菖蒲実経の妻に中河辺清兼の娘(妹)

 

「中原久経の経は、その「経」かも知れない。

これは、石見国の久利との接点を考えた際に、出てきた案のだが。

大友氏とも近く、中原親能とも、旧知の間柄だったのではないだろうか。

親能は大友経家の娘を妻としている。

 

菖蒲氏は石見国美濃郡長野荘を賜っており、久利別符から近い。

菖蒲氏からは長野氏が出ている。

松田義常の母も中河辺清兼の娘(姉)

中原久経の母も中河辺清兼の娘(妹)

 石見国での近さが、清原である久利氏と中原久経を結び付けたのではないだろうか?

そこで「九里」となっていったのではないだろうか?

 

親能の妻は大友経家の娘。下記の中原経高は、大友家の経高ではないだろうか。1205年

 

 

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菖蒲実経は長田実経で、沼田七郎六郎である。息は、石見国に地頭として長野荘に

2022-01-14 | 九里【まとめ】

石見益田家文書 貞応元年 1222年

美乃  

美乃知 黒谷

 

藤原実時、菖蒲実時、
藤原実高、菖蒲三男実高、

菖蒲実
(真盛)(?1225)五郎実盛、五郎真盛、菖蒲四郎実盛、長野三郎
父:菖蒲実経
/遠義、石見美乃知・黒谷新補地頭
1221
年、宇治橋の合戦で負傷した。 (吾妻鏡)
石見美乃知・黒谷新補地頭、黒谷横山城築城
(島根県益田市柏原)
1222
年、石見国美濃地・黒谷郷地頭―島根・大田=石見松田(島根県西部)
承久の乱での勲功の賞として与えられたものである。

菖蒲五郎実盛自関東所給預也
但於未知福地地頭職者、雖被載于御下文、

先度他人給之事、可令存其旨之状如件。

貞応元年(
1222九月十八日
武蔵守 平判(北条泰時)

相模守 平判(北条時房)
(萩閥益田家文書)

菖蒲実経、(波多野実経)菖蒲実盛と兄弟? 父:遠義、

菖蒲実基、父:実盛、長野三郎、石見国長野庄に住んだ
1222
、承久の乱後、石見国長野荘内美野地・黒谷を賜った。

 

千年村プロジェクト様より拝借 久利・長田・長野

 

 

http://numada777.g2.xrea.com/numadakai/nmd_engi.html

 

 

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