九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

藤原清兼息・実清ー賢清  清兼・娘ー源朝長・中原久経

2024-07-01 | 二階堂氏
近江国御家人井口中原系図の中の「賢清」は、久経と義兄弟になっていたのではないだろうか?
清兼の娘であった人は、源義朝の妻であり、波多野義通の妻の姉妹でもあったとする。
この義通の妻は松田義常の母である。
そこに、義朝と離縁して戻ってきた母と朝長は松田に寄宿したために、朝長は松田殿と呼ばれたのではないだろうか?

その母は中原に嫁ぎ、今度は兄か弟であった実清が保元の乱で配流となったために(?)その息を預かったのではないだろうか?(実清ー長清の系とは別人と思う。)

そう考えると、その中原は東国に居た中原氏であり、且つ近江国との縁もあった中原のはずであると、想像する。(とも限らない…ヵ)


話は少々戻るが、此の「清兼」は、藤原秀郷流の佐藤氏であり、その佐藤氏は伊賀氏の系も含まれるようなのである。
姓氏家系大辞典のサトウのページの37には清兼の息に実清と記載がある。

そこで、前回の「二階堂氏」へと話はつながっていく。



伊賀光宗の父である佐藤・伊賀朝光の妻は、二階堂行政の娘である。
光宗の母が二階堂行政の娘かどうかはわからなかった。

そして、伊賀朝光の娘は結城朝光(母は寒河尼)に嫁いでいる。

さて、この佐藤実清の息が賢清なのであろうか?
そこが系図が存在する公季孫(閑院流) であるとするならば、 今回の仮説は当たらない。


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若狭国国守 藤原実清 進士太夫清兼男 と記載あり。

2024-06-29 | 二階堂氏

藤原行清の註には「宮大蔵少輔実清六世」とある。





二階堂行清ともなっているので、良く調べないと…
六世とあるので、清兼ー実清からどのように二階堂氏につながるのだろうか?


上記の「隠岐流常陸家の二階堂行久の子 」がヒントになるのかもしれない。


隠岐流二階堂氏(wikipedia より)
鎌倉時代の二階堂行政の子・行村の流れで鎌倉時代中期から建武政権、室町幕府にかけて執事、評定衆、検非違使、高家として活躍した。細かく分けると、行村の子である元行を祖とする「隠岐家」、同じく行村の子である行義を祖とする「出羽家」、同じく行村の子である行久を祖とする「常陸家」、同じく行村の子である行方を祖とする「和泉家」、行義の子である行有から分かれた「備中家」(広義の「出羽家」に含まれる)に分けられる。

二階堂行久:元久2年(1205年)、二階堂行村の子として誕生。寛元元年(1243年)、出家し行日を名乗る。
建長元年(1249年)、評定衆となる。『吾妻鏡』には寛喜2年(1230年)12月9日から弘長3年(1263年)正月18日まで記載がある。文永3年(1267年)、死去。 

そして、其の二階堂行村の姉か妹に
伊賀朝光室(北条義時継室伊賀の方の母 )がいて、この伊賀朝光の娘が結城朝光の室となっている!
つまり、二階堂行村の姪が結城に嫁いだこととなる。
結城朝光の母は寒河尼であり、また宇都宮・中原氏が見えてくる。

しかも、此の伊賀氏は藤原秀郷流伊賀氏である。
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二階堂行政と岐阜城、そして伊賀光宗・稲葉光資・斎藤利永

2018-06-15 | 二階堂氏

最近、何が後で役に立つのかがわからないため、メモと称してここに留めている。
これもメモである。

http://www.takakurashoten.sakura.ne.jp/castle/toukai/gifu/gifu.htm


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二階堂行政 (メモ)

2018-04-12 | 二階堂氏
二階堂行政 https://ja.wikipedia.org/wiki/二階堂行政
この人は、
父:工藤行遠、
母:藤原季兼娘(藤原季範妹)

秦氏の娘

とあるように、尾張氏と秦氏と藤原氏と婚姻関係があり、仕事上では政所執事として代々世襲しており、鎌倉時代は大江氏・三善氏と共に働いていた。


二階堂行政の息である二階堂行光の系は、のちに須賀川城主となり、家臣に「矢部氏」がいる。
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