近江国御家人井口中原系図の中の「賢清」は、久経と義兄弟になっていたのではないだろうか?
清兼の娘であった人は、源義朝の妻であり、波多野義通の妻の姉妹でもあったとする。
この義通の妻は松田義常の母である。
そこに、義朝と離縁して戻ってきた母と朝長は松田に寄宿したために、朝長は松田殿と呼ばれたのではないだろうか?
その母は中原に嫁ぎ、今度は兄か弟であった実清が保元の乱で配流となったために(?)その息を預かったのではないだろうか?(実清ー長清の系とは別人と思う。)
話は少々戻るが、此の「清兼」は、藤原秀郷流の佐藤氏であり、その佐藤氏は伊賀氏の系も含まれるようなのである。
姓氏家系大辞典のサトウのページの37には清兼の息に実清と記載がある。
そこで、前回の「二階堂氏」へと話はつながっていく。
伊賀光宗の父である佐藤・伊賀朝光の妻は、二階堂行政の娘である。
光宗の母が二階堂行政の娘かどうかはわからなかった。
そして、伊賀朝光の娘は結城朝光(母は寒河尼)に嫁いでいる。
さて、この佐藤実清の息が賢清なのであろうか?
そこが系図が存在する公季孫(閑院流) であるとするならば、 今回の仮説は当たらない。