姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
「践祚大嘗祭と古事記」坂橋隆司著 大塚書店
第五節 天語歌―― 春日の袁杼比売を通して――
春日丸邇(わに)の佐都紀臣(さつき)の娘の袁杼比売(おどひめ)は雄略天皇の妃となられた方である。
~~~*~~~
まず、この天語歌のわかりやすく訳されたページを見つけたので、ご紹介したい。http://isuzujinja.blog103.fc2.com/blog-entry-2012.html?sp
また「雄略天皇」が
丸邇の佐都紀氏の娘で
「オドヒメ(袁杼比賣…おどひめ)」を妻にしようと
春日にお出ましになったとき
その途中で「オドヒメ」に会いましたが
「オドヒメ」は恥ずかしがって岡に逃げて隠れました。
そのときに「雄略天皇」が読んだその歌は
「『オドヒメ』が隠れた岡を
金の鋤を持ってきて見つけるまで掘り返してみようか」
その歌を読んだ場所を「金鋤の岡」といいます。
また「雄略天皇」は長谷にいる頃
たくさんの枝が茂る欅の木の下で宴会をしているとき
伊勢の国の三重から仕えていた釆女(うねめ)が
「雄略天皇」に大きなお盃を差し出しました。
そのとき、たくさんの枝が茂る欅の木から葉が落ちてきて
その盃に入ってしまいましたが
釆女は葉が落ちて盃に浮いていることに気付かず
そのまま「雄略天皇」に差し出してしまったため
「雄略天皇」は「無礼者!」と怒り
釆女を突き倒しその首に持っていた刀を突きつけ斬ろうとしたとき
釆女が「雄略天皇」に言いました。
釆女「どうぞ殺さないで下さい!
申し上げたいことがございます!」といって読んだ歌は
「『天皇』の坐す宮殿は朝日が輝き夕陽が照る美しい宮殿
竹の根のようにしっかり根付き木の根が這うように揺るぎなく
赤土を突いて杵で固めたように堅い堅い宮殿
檜で造った新嘗祭の御殿の側には
たくさんの枝が茂った欅の木が立ち
その上の枝は天を覆い
中の枝は東の国を覆い
下の枝は西の国を覆い
『天皇』の御代が益々栄えていくことを表しているようで
その繁った中から落ちてきた葉が盃に浮かぶ様は
この国の初め漂う海にコオロコオロと矛でかき混ぜて
国をお造りになった様子に似ていて恐れ多く
すべては『天皇』の栄える様子を表しているのです
このように申し上げます」
釆女はこの歌を読んだので罪を免れることが出来ました。
この時に正妻の「ワカクサ」が歌ったその歌は
「大和の国の高市の小高いところに建つ新嘗祭の御殿
その側に凛と立つのは葉の広い椿の木
その椿の葉のように広い心で輝きを広く与えてくれる
『天皇』さまに豊御酒をたてまつりたい
このように申し上げます」
そこで「雄略天皇」も歌を読みました。
雄略天皇「この宮殿に仕えているすべての者たちよ
ウズラのようにヒレを取りかけて右へ左へと駆け
セキレイのように尾が長いかのように俊敏に動き
スズメのようにみんな集まり仕事して
今日も酒に食事に準備して有り難いことだ」
これら3首の歌は天語歌といいます。
~~~*~~~
歌謡の最後に
「許登能 加多理碁登母 許袁波」という「はやしことば」が付いていることから、これらが天語歌とわかるのだそう。
坂橋氏はこのように繙いている。
『これらの歌は八千矛の神を祀る神社の神事歌謡としてうたわれていた歌だという事はわかるが、ただこれだけでは、誰が語り伝えたかはわからない。そこで歌謡を見て見ると、その中に「阿麻波世豆迦比」(天馳使)という語が語られている部分があることに気がづく。…この天馳使の「アマ」は、海部の「アマ」で、海馳使とした方がいいのではないかと思う。』
『その理由に『倭名類聚抄』郷名に、伊勢の国朝明の郡杖部の郷に、鉢世都加倍、安房の国長狭の郡丈部の郷に、波世豆売という郷があるが、これらの伊勢、安房は海部に関係のある土地柄で。その郷名は、その土地の「ハセツカイベ」の部民の名から出たと考えられるからである。…海民の一族で、古伝説を語り伝える職掌を持った家柄があったのではないかと思う。』
この「ハセツカイベ(ハセツカベ)」が気になったので、調べてみると宝賀寿男先生がお書きになっているページがあった。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/siogama-j/siogamaj1.htm
そして、更にその続きと言っても過言ではないページも見つかった。
https://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/32223518.html
塩竃神社史というものも見つかった。藤原実方につながっている。この人の妹は鈴木重実の室となっており、鈴木氏と、そして熊野と関係が深い。 (疑問もあると書かれているが。)
実方の男子:泰救 母は鈴木重豊の娘
男子:長快 熊野別当
女子:少将内侍- 母は大中臣輔親の娘、白河院女房
https://books.google.co.jp/books?id=Ph8RuwuwLTkC&pg=PP1066&dq=%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%9C%9D%E8%87%A3%E6%9C%89%E5%AD%A3&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjbq4OBt7feAhUKE4gKHbswD3IQ6AEIKTAA#v=onepage&q=%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%9C%9D%E8%87%A3%E6%9C%89%E5%AD%A3&f=false
この海部と伝承、塩竃神社、熊野との関り・・・・を深めていくと、和邇・小野、とつながり、九里ともどこかで繋がっていると思うと、面白い。
壱岐・隠岐・対馬などに遺されている伝承・舞踏もこの海部のものなのではないだろうか?
…と思って調べたら、折口信夫氏が壱岐に調査で渡った際のことが書かれていて、失望したことを述べられている。
「雪の島」https://books.google.co.jp/books?id=7q_V02LpjhsC&pg=PT14&lpg=PT14&dq=%E5%A3%B1%E5%B2%90%E3%80%80%E6%B5%B7%E9%83%A8&source=bl&ots=I9vwhTcT9y&sig=wJMg8bBlrmd6dnGxfs4Qq0Zk2Ps&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjh2b_0wbfeAhUPdXAKHSqXAwAQ6AEwAnoECAgQAQ#v=onepage&q=%E5%A3%B1%E5%B2%90%E3%80%80%E6%B5%B7%E9%83%A8&f=false
折口氏の時代には、もうすでに残されていない海部の伝承(占い)だったようである。(占いをしてから船を出していた。)
熊野と房総との「食文化」につながりがあって、海で行き来していたか?と思ったのだが、
熊野と奥州とのつながりも思っていた以上にあることから、より北へと移動していたのかもしれない。
海で考えると、距離感がまた違っていて面白い!
「船」での移動なので、海の状態にもよるだろうが、時間も歩くよりはずっと速かったであろう。
https://www.cruiseplanet.co.jp/jap/jp_ps_170617.html
「践祚大嘗祭と古事記」坂橋隆司著を読みつつ、進めています。
第三節の後半は難しかったので、読むだけにして、
第四節 に入ります。
「『古事記』と『日本書紀』との性格の相違については、…『古事記』が物語を中心において語ろうとしているのに対して、『日本書紀』は、歴史を語ろうとしているというところから、それらの相違がうまれてきているのであるが、・・・」
「だいたい、歌謡にしろ物語にしろ、それらのものは、「神の真言」や「神々の起源」を伝えるところに最初の使命があったわけだから、たとい振興に変化が生じ、歌謡や物語が徐々に変化して行ったとしても、「神の真言」「神々の起源」を伝える部分は、歌謡の中に、物語の中に、かりに、その部分を簡単な効力のある詞章で代用することがあったとしても、それらを何等かの形で保持し続けて行ったのである。
また、それとは別に,『古事記』の中に、『日本書紀』の中に、異なった事実を語る物語に、異なった事実をうたった歌謡に、全く同じ型の物語、同じ型の歌謡が語られたり、歌われたりしているのは、「神の真言」を伝える型「神々の起源」を語る物語の型が厳として存在しており、その方を踏襲して語ることによって、その方を踏襲して歌うことによって、それらの物語、それらの歌謡の本来の使命を発揮すると考えられていたからである。」
~~~*~~~
なるほど。
むやみに今風~と変化させることなく、昔本来の型を踏襲することで、物語や歌謡の持っているパワーをそのままに、充分発揮できるようにする、それが使命。
神の真言、神々の起源 とあるように、神の力をそのまま注ぎ入れ、それを目で見えるようにしたものが「古事記」「日本書紀」の中にある物語と歌謡であるようだ。
では、その言葉にはどのようなものがあるのだろうか。
~~~*~~~
坂橋氏の本によると、
古事記では「アメ・・・」と書くときには「天」をあてている。(後述する)
日本書紀では「比佐箇多能」が枕詞であり、「ひさかたの」という詞は、天、日等の枕詞として知られている有名な言葉であるが、この枕詞には、…その用途から見て、神を祭る詞から出発した古い枕詞であって、天、日に対する賛辞であったようである。このような古い枕詞が『紀』の歌謡に使用されていることは、この歌自体の古さを物語っている一つの微表であるが、さらにこの歌謡の古さを裏付けるものとして、「阿梅箇難麼多」という詞が使用されている事である。「アメカナバタ」の「アメ」という字は、かな書きの例が非常に少なく、『万葉集』に安来日登(天人)とかいた仮名書の例があるにはあるが、其の外の仮名書きの用例を探すには非常に苦心がいるほどである。
『古事記』では、「アメ・・・」と書く場合には、「天」という字をあてて、「天日登都柱訓天如点」「天一根天如天」というように註をつけて「アメ」というように読ませている。
…
「伊莵岐」(いつき)ということについて考えて見よう。
この「伊莵岐」は「齊槻」とも書く神聖な樹木のことである。神聖な樹木には、この槻のほかに、桂・樟・棟・こぶし・末・杉・銀杏・◆?・梅等々、数えればきりがないが、これらの木々が神聖なる樹木と言われる所以は、それらの木々が神々の依代であったからである。
~~~*~~~
依代って、どのようなものなのだろう。
何だか怖そうな気がするが、そうでもなかった。
この注連縄?、見たことがありますね。
https://kotobank.jp/word/%E4%BE%9D%E4%BB%A3-146522
神道・古神道
古神道である神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)信仰は、神の依り代であるとともに、その鎮守の森や森林や山や海や川や岩や木などは、禁足地である場所も多く、神域や常世と現世の端境を示し、結界としての役割も果たしている。
古神道や神道において、一定範囲の空間に設定されたタブー(禁足)を視覚化したものとも言え、それは聖なる領域(常世)と俗なる領域(現世)という二つの世「界」を「結」びつける役割をも持つ。
昭和59年に出版された「践祚大嘗祭と古事記」 坂橋隆司著を繙きながら、書いている。
この方は大正15年生まれだそうで、あとがきに古代、特に「古事記」との出逢いについて書かれている。
一部をご紹介したい。
『 古代ほどロマンに満ちた時代はない。古代の作品を読み、考古学による出土品などを見ていると、古代への夢は果てしなくふくらんで行く。
ところで、私と古代、特に「古事記」との出逢いは遠く四十数年前の中学時代に遡るが、本格的なつきあいは終戦後である。私は当時の学生が誰も彼もがそうであったように、学業の途中で軍隊に行った。この軍隊生活も一年有余で敗戦、みじめな思いで帰郷し、やがて復学という事になった。
戦争で焼き払われた東京は、ごみとシラミと闇屋と、打ちひしがれて魂の抜けたような人間の住むカラカラにかわいた砂漠のような街であった。学校に出て行っても学生はほとんどいないし、授業も休講が多かった。私はそれでも毎日のように、戦争の傷を背負って重い足をひきずりながら、学校に出掛けて行って、授業を聴いてはこれからどうしようかと思案する毎日であった。こんな或る日、一年先輩の吉田義孝さんと出逢った。吉田さんは高崎正秀先生の寵を受け、予科生の頃から国文学の民族学的な研究をする学究として、そのひらめきがすばらしいと、評判の高かった人である。その頃吉田さんが、高崎先生の所属していた折口研究室からわかれて、新しく出来た武田祐吉先生の研究室に移り、そこで勉強していた。その吉田さんが「研究室に記て武田先生、佐藤先生の輪読会に出ないか」と誘ってくれた。
ちょうどその頃思案にくれていた私だから、そのさそいにのって研究室の輪読会に出席した。これが大学だという実感を得たのもこの輪読会であった。一旦こうときめると、なにごとにものめりこんで行く私だったから、この研究室の中の生活にも、ぐんぐんのめり込んで行った。
翌年から学部の授業も本格化し、武田先生が古代学(「古事記」)を講ずるようになった。…』
その古事記の研究の続きを読ませていただいている訳である。
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第三節 仁徳天皇物語の構成
まず、関係性を把握してから本の内容に入りたい。
仁徳天皇:父は応神天皇。母は仲姫。
陵は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)大阪府堺市大仙町にある。
仲姫とは…景行天皇ー五百城入彦皇子(母は八坂入媛命)― 品陀真若王 ― 仲姫
となる。
備考:
五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ、『日本書紀』に因る)[1]は、古墳時代の皇族。景行天皇の子で、母は八坂入媛命。同母兄に成務天皇などがいるほか同母弟が5人、同母妹が5人、異母兄弟に日本武尊など68人いるといわれる(うち名が伝わっているのは46人)。父景行天皇は、それらの皇子たちをそれぞれの国や郡に封じたが、彼と成務・日本武尊の3人だけは封じなかったと、日本書紀に書かれている。
そのうち日本武尊は熊襲征討に行かせたことから、彼は万一成務天皇に何かあった場合の予備だったと考えられる。
子に品陀真若王(応神天皇の皇后・仲姫命の父)がいる。
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仁徳天皇の物語 あらすじはこちらより
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1006099328.html
「異母兄の大山守命とともに、父の応神天皇から、「兄弟の中で、長じた者と、幼き者、どちらを愛すべきか」と問われ、大山守命は「兄」と回答する。
しかし、大雀命は天皇の御心を察して「兄はすでに長じており心配はないが、弟は幼く、愛すべき」と回答。
これによって、大山守命は若干遠ざけられ、大雀命が重用され、同時に二人にとっては異母弟に当たる和紀郎子が皇太子に指名される。
応神天皇が崩御した後、大山守命が皇太子の和紀郎子の殺害計画を策定。実際、軍を起こす。大雀命がその動きを察知し、和紀郎子に知らせ、和紀郎子も策を練り、結果は和紀郎子の勝利、大山守命は死す。
異母弟で皇太子の和紀郎子から皇位を譲られるが、固辞。お互い譲り合って皇位が空位となったため、海人が困るなど、若干の混乱が見られたが、和紀郎子が早世したため、即位。」
坂橋氏の本からだが、
「神田秀夫氏はこうした『古事記』と『日本書紀』との筆録の相違から、このことを、若し『古事記』が記すように、太子が夭逝されたのであるならば、『日本書紀』のように「自死(自殺)」と筆録するはずもないし、譲りあっていたほど仲のよいものの一方が、自殺するという必要もないはずだとされて、自殺も夭逝の潤色ではなく、対立して年を越した太子が、仁徳に攻め滅ぼされたと見るべきであると説かれ、この対立の背景には、奈良の春日の丸邇氏と、葛城氏との争いがあったと思うと述べられておられる。」
「即位に関する美談の主である仁徳天皇の説話も、『古事記』と『日本書紀』との記載の矛盾を通して考えて見て行くと、皇位の譲り合いという美談も、実は互いに皇位の継承をめぐっての抗争があって、しばらくの間即位されないでいた事であり、夭逝ということは、攻め滅ぼされて自殺したということになるのである。
ではどうして、『日本書紀』のような別の事実があるのに、『古事記』ではそれを、太子が夭逝したと表現したのだろうか。神田氏はそれについて、これは仁徳以下十代が、仁徳の出現を合理化するために加えた、伝説の変容であるとみるほかはないというように説かれておられる。」
略 (仁徳天皇と仁賢天皇のパターンと似ていることを示唆)
以下は、本の文章そのままではなく、少々短くなるよう手を加えた。
「古事記としては、応神天皇は『宇遅和紀郎子』に王位を次がせたかった、その気持ちをおもんばかっていた仁徳天皇の答えや、大山命に殺されそうになった際の仁徳天皇の助言も無にせずという物語にしたい。
しかし「宇遅和紀郎子」が自死に至ってしまった事実は前後矛盾となってしまう、「自死」に至る過程に、何かあるということを明らかに示していることになると、大山命と同列かそれ以下に評価されてしまう可能性もあることから仁徳天皇の業績をそのままにして、しかも何の矛盾もなく、合理的に仁徳の即位を語る為には、自死ではなく夭逝と表現する必要があって、長い年月の間に作りかえられていったのではないかと思う。…」
仁賢天皇の場合は、仁徳天皇の場合と異なって、兄である天皇が、弟の顕宗天皇に位を譲られ、弟が先に位に即きしかる後に、弟の崩御によって、皇位を継承しているといった違いがあるが、『古事記』に記載されている説話の類似といい、また、自分達兄弟の皇位継承を正当化し、合理化して語らなければならないような境遇にあったということから推せば、この類似は、単なる類推とばかりだけでは片づけられないのである。」
・・・とある。
~~~*~~~
つまり、隠された事実は美談ではなく、何か悪しきことがあったという証拠であろうと思う。
それは、古事記を作成した者たちにとって、古事記は単なる物語ではなく、不都合な真実を含んでいると認識し、後に残ることを考えて都合の悪い部分を改変したと考えて間違いなさそうである。
この第三節では、丸邇氏と、葛城氏との争いのことをもう少し詳しく調べてみたいと思った。後日、記事にしようと思う。
~~~*~~~
私は長年に渡り残っている書というものに興味があるらしい。
「古事記」もそうだが、「聖書」もそうである。
聖書の場合は、翻訳の問題も大きい。
新約聖書の場合だが…
キリストはアラム語をしゃべっていたという。
新約が本になったのは、ギリシャ語からと思われる。(諸説ある)
アラム語⇒ヘブライ語⇒ギリシャ語⇒ラテン語⇒英語・ドイツ語他に訳されて、やっと日本語なのである。
この煩雑な翻訳を経ているうちに変容してしまうのは、致し方ないかもしれない。
それを一度そぎ落として読んでみよう!と言うのが「田川建三の新約聖書 訳と註」である。これは、ギリシャ語から直に日本語となっている。だいぶショートカットである。
『マルコによる福音書』を先生と仲間で読み終わり、今、マタイの中盤であるが、キリストがやけにそっけなかったり、当時の教会の偉そうな文言が並んでいたり、と、一人では見逃してしまいそうな点も指摘され、面白い。
聖書研究なのだが、クリスチャンでもないので、色眼鏡なく読むことができているのでは、と思う。
もう一つは道元。こちらは途中でやめてしまったが、道元の話している言葉がそこにあり感動。
「正法眼蔵隋聞記」である。
鎌倉時代の人間も、やはり今の人間と何ら変わりないことがよくわかる。
道元が弟子たちに話したことは、そのまま今の私たちにも通用することなのだ。
これも一人では挫折。しかし後に朝日カルチャーで受講し、仲間がいたおかげで、3分の1ほどだが読むことができた。自国語であることで、しみ込む。
歴史としても面白い話が載っていたりする。
道元にとっても伝え聞きだ…と断りが入っている一条基家(持明院の中納言入道)の話…長くなりそうなので次の記事に。結構楽しい!
朱智神社をさらに調べると、なるほど!と思われる情報に出会った。
◆「交野市私市には、神功皇后が三韓征伐の途中、磐船から天王へと祖父の迦爾米雷王(かじめいかずち)に別れを告げるためお出でになったという、伝説が二つある。(交野市史より)」
◆「梅の木」
神功皇后が三韓征伐にお立ちになる前、祖父の迦爾米雷王に別れを告げるため、祖父の住んでいる天王にお出でになった。
http://murata35.chicappa.jp/kansaitanboki/tenno/index01.htm
このような小さな情報を集めていくことで、何かが見えてきそう!と思う。
前回ご紹介したブログで気になったのは、古代史探訪さんの記事の中にあった「和邇氏と東大寺山古墳」の中の一文だった。
「対馬では今でも、大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と言い、「ワニ・和邇氏」というのは大きな船を持って遠洋航海できる氏族という意味なのか。それに対して「カモ・鴨氏」は小さな舟で沿海や川を利用していたか。」であった。
対馬と大型の舟の「ワニ」 これはリアリティーあり!
更に今回登場する予定の【朱智神社】もとても気になる存在。
迦邇米雷王は開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父で、垂仁天皇御代にこの地を治められて、その子孫は朱智姓を名のった。
…という事は、神功皇后の祖父は大和の国にいたことになるのではないだろうか?
(本貫が近江の坂田付近となるのはいつからなのだろう。)
~~~*~~~
調べてみると、
場所は…
当社はもと此地より西方三町余りの所にあり、仁徳天皇の六十九年に、社殿を建てて、朱智天王と号しました。
迦爾米雷王は、開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父に当られ、崇仁天皇の御代にこの地を治められて、その朱智姓を名乗られました。
綴喜郡(つづき・ぐん)にあり、この地は古代息長氏一族に関連深い地である。
この辺は息長氏の本拠地
そして、神功皇后の陵 朱智神社とは遠くない場所にある。
息長氏は近江国坂田郡が本拠地ではなく、もしかするとこの辺りだったのかもしれない。
~~~*~~~
和邇氏に戻ろう。
坂橋隆司氏の「丸邇氏の伝承」第二節 宇遅和紀郎子物語考 ――末子相続譚を通して―― を底本として今度は宮主矢河枝比売の息「宇遅和紀郎子」についてである。
この末子相続譚は、宇遅和紀郎子だけではなく初代神武天皇から三十三代の推古天皇までの表があり、長子相続が12人・次子相続が4人・末子相続が16人・女帝が推古…となっていた。
つまり三十三代までの天皇のうち16人は末っ子を天皇としたことになる。理由は、天皇である父の指示で、抗争をしたのちに、兄が戦死したために、弟に手柄があったために、抗争の後譲り合って、などさまざまである。
海幸山幸神話(抗争のあと)・神武天皇説話(兄の戦死)・綏靖天皇前紀(弟の手柄)・宇遅和紀郎子物語(抗争の後譲り合い)・顕宗天皇前紀(譲り合い)となっており、最後の顕宗天皇(山部)以外は伝承者はすべて「海部」となるのだそうである。
反対に、長子相続をしている天皇は偶然かもしれないが…と断りが入っているのだが、いずれも【師木系】なのだそうだ。
(例外:綏靖天皇:『古事記』の綏靖天皇の大后の名前は「師木県主の祖(おや)、河俣毘売(かわまたびめ)」となっているが末子相続である。)
ここでは比較で第二節は終わり、
この末子相続譚にも隠れた部分があり、どうも丸邇氏と葛城氏の争いがあったのではないか…ということで、第三節に突入していく。
コメントにもご示唆いただいていた「葛城氏」の登場である!
昨日の記事の、ココから↓考えてみたい。私は神功皇后は実在したと思っているので、その仮定の下で進めている。
「神功皇后と血のつながっている丹波氏や葛城氏は、今更説明をするまでもなく、海部であり山部である。」
ここに何かしら引っ掛かりを感じている。
もう少し詳しく調べてみると、
神功皇后の母親は「葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)」アメノヒボコの子孫とされている。
また葛城高顙媛の両親は「多遅摩比多訶」と「菅竈由良度美」である。
ここで葛城氏と関係している。
神功皇后の父親は「息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)」
息長宿禰王の両親は「迦邇米雷王」「高材比売」
迦邇米雷王は「かにめいかずちのみこ」と発音する。
蟹と米なのである。
この辺りも何かしら「蟹の歌」に暗喩的に入っているのではないだろうか?
さらに、彦坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう)は第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子であるそうだ。(山代之大筒木真若王は彦坐王の息で、迦邇米雷王は孫である。)
彦坐王の妃に息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと) = 天之御影神の女であり、その息に丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのみこ、丹波道主命)がいる。
ここで、やっと丹波氏とのつながりが見える。
以下のブログも大変興味深く読ませていただいた。
https://enkieden.exblog.jp/17489744/
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/ikizingukougou.html
http://kodai.sakura.ne.jp/yamato/602-gisaku.htm
今、私の手許に「践祚大嘗祭と古事記」という本がある。(坂橋隆司 著書 大塚書店)
この本に「丸邇氏の伝承」があり、それを中心に丸邇=和邇について考えたいと思っている。
まず、第一節に「蟹の歌」が登場する。坂橋氏によると「右にあげた歌謡は、『日本書紀』には記載されていない『古事記』だけの独自歌謡なのである。」ということである。
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀野能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遅志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遅袁 須久須久登 和雅伊麻勢婆夜 許波能美知邇 阿波志斯袁登売 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 浪那美波 志比比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫袁久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐田禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 加久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁加母(『記』43)
この蟹(かに)や 何處(いづく)の蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去(よこさ)らふ 何處(いづく)に到る 伊知遲島(いちぢしま) 美島に著(と)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息(いき)づき しなだゆふ 佐佐那美路(ささなみぢ)を すくすくと 我が行(い)ませばや 木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし 嬢子(をとめ) 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも並(はなみ)は 椎菱(しいひし)如(な)す 櫟(いちひ)井(ゐ)の 丸邇坂(わにさ)の土(に)を 初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ 底土(しはに)は 丹(にぐろ)き故(ゆゑ) 三(み)つ栗(ぐり)の その中つ土(に)を かぶつく 眞火(まひ)には當(あ)てず 眉畫(まよが)き 濃(こ)に畫(か)き垂(た)れ 遇はしし女(をみな) かもがと 我(わ)が見し子ら かくもがと 我(あ)が見し子に うただけだに 對(むか)ひ居(を)るかも い添(そ)ひ居(を)るかも (歌番号四十三)
http://panna.mydns.jp/kodaisi/kodaisi_04.html
読み下し文を「古代史を考える」さんのページよりコピーさせていただいた。
この「古代史を考える」の方の「和邇氏の遠い祖先が隠岐・因幡に住む航海技術を持った一族であった。」という論は、近江の和邇氏や九里氏・永田氏周辺の水運に関係してきた氏族に当てはめても納得がいき、うれしい知らせ!であった。
上記の本の著者である坂橋氏も蟹の歌の中にある都奴賀=角鹿が「神功皇后」とは特別に関係の深い土地柄である。と述べている。(神功皇后に関しては後にまとめて書こうと思う。)
「…神功皇后と血のつながっている丹波氏や葛城氏は、今更説明をするまでもなく、海部であり山部である。折口先生によれば、海部も山部も同一ものの異称なのだから、海部の一つの拠点である角鹿(つぬが)の地が、神功皇后と関係が深いのも当然である。それを証拠づけるものが『風土記』に載っている。」とあり、
この「海部であり山部である」の部分が私の気になった箇所であるのだが、このことは天皇の食卓とも関係がありそうである。
同じ本より書き出してみよう。
『古代においては、蟹は鹿と共に、食膳に常用されていた山海の珍味であった。…ここに採録されている「蟹の歌」も、酒宴の関で天皇が詠んだものだとされているのを見れば、宴席の食膳に蟹が供されており、それを見ていつも、こうした宴席で歌われたり、舞われたりする「蟹の歌」や舞が想起され、自然に口をついて出てきたとして想定し、構成されたものかもしれない。だからさしたる技巧もなく、…古事記の詠歌の型を踏みながら、スムーズに歌いはじめられ、歌いすすめられて、やがてはその場に相応しい丸邇氏の乙女の求婚の歌となっていったのであろう。』とある。
以下は、私の単なる想像なのだが…
まず私が思うに、天皇は周囲の緊張を取るために、このように乞食の歌(こちらも古事記と音が同じ)でくだけた調子で場の雰囲気を和ませ、やがて求婚する話へと持って行ったのではないだろうか。
更にこの蟹は丸邇氏である比布礼能意富美がで角賀(敦賀のことか。)からの直送で(途中から湖上を舟で)、蟹は鮮度よく供されたのだと思う。
このことから繙くと、丸邇氏が「御厨」の担当であったのではないか?と思われること、歌の中にも「三つ栗」という言葉があることも、その意味をちらりと込めたのではないだろうか?
本当に3つ「厨」があって、その真ん中に「日牟礼の厨」があったのかもしれない。
つまり、この山部・海部の丸邇氏一族は、其々に「御厨」があり、その場に担当となった「丸邇氏」たちが、守り、捧げ、祈ることを仕事としていた人々だったのではないだろうか、と思うのだ。
蛇足だが、食材をのせる器もつくっていただろうと思う。
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さて、この歌の中の登場人物に注目して見たい。
この歌は女性に向けて天皇が詠んだ歌とされている。
女性の名は「宮主矢河枝比売」 天皇の名は「応神天皇」となる。
コトバンクによると宮主矢河枝比売(みやぬしやかわひめ)は
和珥(わに)氏の祖,日触使主(ひふれのおみ)の娘。応神天皇2年妃となり,菟道稚郎子(うじのわきいらつこ),矢田皇女,雌鳥(めとりの)皇女を生んだという。
ここで重要なのが「日触使主」(ひふれのおみ)である。
この人物は古事記では「丸邇比布礼能意富美」、日本書紀では「和珥日触使主」と書かれているそうである。
この人物は、tokyoblogさんの情報では
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%97%A5%E8%A7%A6%E4%BD%BF%E4%B8%BB%E3%80%81%E7%B1%B3%E9%A4%85%E6%90%97%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E4%B8%BB%E3%80%81%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%B0%8F/
「和邇日触・・応神紀に応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美。系図・伝承では米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)の弟、または同一人物。」とある。
ではその米餅搗大使主はというと、孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命=建振熊(和邇の祖)。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖である。
この「武振熊命」とは、wikipediaによると https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%8C%AF%E7%86%8A
武振熊(たけふるくま)または和珥 武振熊(わに の たけふるくま)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)」や「武振熊」、『古事記』では「難波根子建振熊命」や「建振熊命」と表記される。武内宿禰とともに忍熊皇子の反乱の際に遣わされたとする。
和珥臣(和珥氏)の遠祖。神功皇后摂政時における忍熊皇子の反乱の際、討伐に遣わされた人物である。
「しとぎ餅」とは…米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。毎年「しとぎ祭」には藁包(わらつと)に入れたしとぎが神饌とされる。)とある。
このしとぎは、以前記事に書いたが、アイヌの人々もつくっていてシト(団子)ともよばれ、現在でもその名を使っている。お祭りの際に私もいただいたが、丸く平たい円盤のようなものであった。
頂いた際の説明文では、イオマンテ、シンヌラッパ(先祖供養祭)といった重要な儀式のときに神々への供物、土産として供されるもので、白老地方ではシトキ・シトギとよばれている…とある。
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この古事記の「蟹の歌」も坂橋氏が述べていたように、「神功皇后」につながってきたのである。
神功皇后は応神天皇の母か養母である。
そして息長の出身(近江国坂田郡)である。
さらに先ほど書いた「和爾氏の祖である建振熊命」の上司でもあったということになる。
さらに「久里双水古墳」の近く「鏡神社」で鏡を鎮めて祈ったという言い伝えも残っている。
ちなみに神功皇后の出身である息長氏の名義発祥の由来は、上古から持つ製鉄・鍛治に関する技術からこの氏が生じたとみられる・・・とあり、鏡と矛とも関係がありそうである。(九里氏もこの中から生まれたか?)
未だ疑問もある。和邇氏と応神天皇とのつながりは分かったのだが、では、その養母の出身である息長氏と和邇氏の関係はどうだったのだろうか。
実は、蟹を敦賀の海から琵琶湖の海(湖だが)に運び込む際に通る「塩津」という場所は息長氏の土地であったようである。
ということは、和邇氏と息長氏の関係もこの「蟹」が、この二つの氏族の関係が上手くいっている証拠となって示しているのかもしれない。
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近江国の日牟礼神社に祀られている祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱である。誉田別尊は応神天皇であり、息長足姫尊は神功皇后のことである。
この比賣神は宗像三女神の事であるかもしれない、と言われている。
なお、古事記には「胸形君」という漢字でも書かれている。
日牟礼神:・創建:伝131年 ・成務天皇が高穴穂の宮に即位の時に武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。・鎮座地:近江八幡宮内町257
wikipediaによると「宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。 」とある。
また「『古事記』神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。」
神功皇后の征伐に力を貸してくれたという女神である、という言い伝えもある。
更に日牟礼神社の社伝では「275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。 」ということであったが、この行幸の際に出会ったのが「宮主矢河枝比売(みやぬしやかわひめ)」ではなかったのだろうか?(そこの神社の宮司の娘さんだったのでは?⇒あくまで想像)
この二人のなれそめに関しては、以下の論文の中に有り、↓を紹介させていただこうと思う。(7頁後半)
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1496/1/0030_071_001.pdf
そして、「姓氏と家系」第16巻に古代の近江国のことに言及されている「ササキ氏を考える」があるのだが、その中に『九州の熊襲征伐に赴いた際、船の舵取りを務めた「倭国兎田人」の「伊賀彦」(仲哀紀)』とある。これもずっと気にかかっている部分である。
この人の孫「稚守山」がやがて「近江山君」となったそうで、イコール「佐々貴山君」とみなしてよかろう~と書かれているのである。
神功皇后の息子(養子かもしれない):応神天皇
比布礼能意富美の娘:宮主矢河枝比売
この二人から後に仁徳天皇の妻となる「矢田皇女」が生まれるのである。
昨日、仁徳天皇陵のことが話題になっていた。発掘で、また新たな展開があるかもしれず、楽しみでもある。
https://mainichi.jp/articles/20181015/k00/00e/040/220000c